fate/little bitch ~煉鉄の小悪魔~ 作:七草探偵事務所
ロンドンは、いつも暗い。
分厚く重たい黒い雲を見上げ、クロエ・フォン・アインツベルンは言いようもない残念な気分になっていた。もっと言えば、自分が残念に思っていること自体が、なんだか瑞々しくて、ちょっと恥ずかしい。
「ここは晴れないね」
クロの視線の意味の表層だけを理解して、隣に並ぶ少年が人の好さそうな顔をしている。そうね、と応えながら、クロはその少年が健気に恨めしそうな顔をしている様子を、じっくりと観察する。
癖のある、黒い髪。まだ幼さが残る表情。どんぐりみたいな、くりっとした瞳。それこそ、まだ少年という印象を感じる顔立ちだろう。けれど、体つきは、もう大分違う。
「ほ?」
どんぐりみたいな目が、こちらを見下ろす。手を伸ばしたクロの手は、トウマの手のひらと絡み合っていた。
「ん」
「うん」
クロに応えるように、トウマはちょっと照れた表情をして、クロの手を握り返した。いかにも顔に赤みがさして、はにかむ様子は子供っぽいけれど。触れ合わせた手の硬い感触は、言いようもなく、大人の手という直感を抱かせる。皮膚は厚く、ごつごつしていて、皮は硬い。いや、手のひらだけではない。クロが投影したネイビーのフォーマルカジュアルのジャケットのせいで分かりにくいけれど、腕も肩も胸板も、大分大きくなった。アンクルパンツから覗く踝も、どこか太い。少年の面影は、その体躯からは感じられない。身長170cm前後と決して大きいほうではない──“お兄ちゃん”よりはちょっと大きいくらいで、“パパ”よりはちょっと小さい──けれど、その佇まいは見た目以上に大きく感じる。
「公園でも行ってみようか。えぇと、マップは」
応える代わりに、握る力をちょと強くする。半歩先を歩くトウマについていくようにしながら、クロは、緩慢な思考で、少年の姿を眼底に揺蕩わせる。
端的に言って、クロエ・フォン・アインツベルンはこの少年に対して、一定以上の好意を抱いていた。わかりやすく換言するならば、クロは、マスターのことを好いていた。それは例えば友人として、とか知り合いとして、とかという曖昧で、いい意味で表層的な戯れの関係ではない。もっと深く、闘争的な関係として。
いつから、というきっかけはわからない。というより、最初から、というべきか。何故、という理由も同じだろう。全ては、最初からあったこと。この気持ちはずっと昔からあったものだ。あの日、立華藤丸のサーヴァントとして、英霊召喚システムFateによって召喚された時から。あの時はもっと、母性的というような、庇護的な感情だったのだけれど……。
知らず、クロはトウマに連れられて、近くの公園へと来ていた。相変わらず、空には分厚い灰色の雲が堆積している。
広場の草むらに行くと、トウマは足を止めた。釣られて足を止めると、青々とした草草の上には、ぽつぽつと何か物が転がっている。酷く薄汚れ、襤褸になった服を身に纏う何か。浮浪者たちだ。もう昼近いというのに、当てもなく、またとりとめもない彼ら彼女らは、文字通り世捨て人となって睡眠をとっているらしい。
2000年代以降の日本において、公園で誰かが寝ている景色自体はそう珍しいものではない。だが、かといって卑近な例というわけでもない。あくまで家のない人々というのは、日本社会の中での例外であることは論を待たない。まして、小学生だったクロなら、なおさらそういった人物など日常とは無縁の存在者だった。
トウマにとっても、どうやらそうらしい。ベンチで寝ている人物はまだマシなのだろう。草むらで眠る人々は、傍目に見ると行き倒れているようにしか見えない。そんな人々を見つめる彼の視線には、明らかに道徳的に全き正しい軽蔑の眼差しをしていた。
「もう、この時代、イギリスは世界の中心地じゃあなくなっているんだよ」
半ばうわ言のように、トウマは口にした。隠し切れない不快感の志向性が奈辺にあるのかは、クロもよくわかることだった。
言ってから、トウマは照れたように、ぎこちなく笑みを作った。「知ったような言い方」と自虐的に嘯いてから、トウマはクロの小さな手を握る力を、ちょっと緩めた。代わりにトウマの手を強く握り返すと、座ろ、と顎をしゃくった。「ちょっと疲れた」
もちろん、詭弁である。英霊の影法師たるサーヴァントが、たかが十数分歩いて疲れたという道理はない。スニーカーなのだからなおのことだ。
そして、トウマもそんなクロの言いたいことをそれとなく理解した。そうだね、と応えると、トウマはちょっと丘になっている草草の中にしゃがみ込んだ。
ごろん、と寝転がるトウマの隣に、ちょこんと座ってみる。ショートパンツなせいもあってか、ちくちくと刺さる葉っぱの感触が擽るようだ。ひやりと冷たいのは、昨日僅かに雨が降ったからだろう。衣類が汚れるのはちょっと気になるけれど、まぁ所詮は投影品、と思えば些末なことだった。一応、作って良いという許可はもらっている。
ぼーっと空を眺めるトウマの鼻先を、伺うように一瞥する。散漫に思考をしているらしい、そんな顔だ。凄まじいまでのいじらしさが胸の奥で燻り、クロはトウマの前髪を手櫛した。癖のついた毛は、見た目に反してするすると指が通った。
だいたい、5分ほどもそうしていただろうか。なされるがままに指先の愛撫を受けれいていたトウマは、とつとつ、と声を漏らした。「俺、帰れるのかな」
胸郭に、何かの感触が膨れた。肺胞の1つ1つが破裂寸前まで膨張して、気管支まで圧迫するかのよう。髪から手を離して頬をなぞると、「なぁに、急に」と平素らしく声を絞った。
この時ばかり、トウマはきっと、クロの内心を推し量ることなどできていなかった。むしろ、彼女の内心を慮れる者など、恐らくこの世界の外にもおるまい。「別に大したことじゃあないけどね」と、トウマはぼんやりしたまま続けた。
「もうすっかり慣れたけど、俺はこの世界の人間じゃあないんだよなぁって」
「帰りたくなった?」
「うーん。正直わかんない」
気難し気に、トウマは眉を寄せた。まるで両の眉同士が議論でもするみたいだ。クロの手は、頬から顎を撫で、首すじを擽った。
「うーん」ちらっとクロの顔を伺いながら、もう一度トウマは声を漏らした。
ちょっとトウマは顔を赤くした。照れたように頭をかくと、トウマは口元を情けなく緩めた。
「個人的なベストは、この世界のこの事件が全部終わったら、帰れるといいなぁ」
のそのそと身体を起こすと、トウマはどんよりした空を見上げた。見上げてから、ゆっくりと、クロの目を見返した。
「クロも来る?」ぷい、とすぐにトウマは手慰みするように、足元の草をむしり始めた。「良かったらだけど。良かったら……」
照れてる。それも、すっごく照れてる。草むしりするふりして、顔を見られないようにしている。耳まで真っ赤である。「何言ってんだ」と独り言ちながら、草を毟っている。もう土まで見えてるし。
「どーしよっかな」ころん、とわざとらしく言いながら、クロはトウマの肩に頭をのせた。「JSにそんなこと言っちゃう人だしなぁ、トーマ」
「サーヴァントなんだから」
「でも受肉したら多分違法じゃない?」
「じゃあ」拗ねたように口を曲げながら、トウマはむしった草を放り投げた。「その時がくるまで待つよ」
トウマは、なんともまぁ小学生じみた健気なことを言った。言ってから、決まり悪そうに頭をかきはじめた。なんというか、基本台詞が逆だと思う。ちいちゃい女の子が近所のお兄さんに言うから様になるのであって、お兄さんがちいちゃい女の子に言うのはなんか絵面は変ではないだろうか。
「いいわ。全部終わったら、一緒に行こうかな」
「おーマジか」相変わらず、トウマは努めて素っ気ないようなふりをしている。彼は、あんまりこういうことに慣れていない。「じゃあ──ガンバらないとだな」
また、生真面目そうに眉を寄せた。難題を前に、また眉同士が相談でもしているのだろう。
胸が、幾分か強く拍動している。体育座りのまま膝小僧に顔を埋めると、クロはぶるっと身震いした。自我の奥底から立ち上った息苦しい痙攣の、
丸めた背中に、ほとんど羽毛のようにトウマの手が触れる。首筋からじんわりと下降する手が、肩甲骨に触れて、右の腋から指の腹だけで壊れ物でも扱うように弄っていく。
滑らかに滑っていたはずの手が、不意に強張る。ちょうど肩甲骨の下あたり、薄手のパーカー越しでも僅かに浮き出た人肌と違う硬い感触に、トウマの手が微かに緊張する。クロも自分の動悸が早まるのを感じながら、つとめて平静に……あまつさえちょっと顔を挙げて、顔を赤くしているトウマに蠱惑的に視線だけを差し出した。無音のまま、口唇を単語の形に形作って。「えっち」
戸惑うように宙を彷徨った手が、硬い感触に触れる。背中を締め付けるように横切る細い下着の上から、まだ不慣れな手付きが恐々と指先だけで撫でていく。ほとんど感触すらない接触が、どうしようもなく心地よかった。
眠たさすら感じるほどの淡い感触に、クロも自分の頭が散漫になっていく。思考が断片化する、というよりとりとめもなく散らばっていく感じ。子供が遊び終えた後に散らかった遊具のように、頭の中に思考が千切れて転がっていく。深く古い、黒い森に小さく開いた陽だまりで、お昼寝でもしているような気分だった。
ぞろぞろ。陽だまりの際で古森が、ざわめいている──。
もっと、奥まで触れて欲しい、と思った。
※
ロマニ・アーキマンが管制室に入ると、ひやりと肌寒い薄暗い中、ぽつぽつと明かりのついたディスプレイの前で幾人かがモニターを継続している。今日は定時の計画停電中で、明かりも空調も最低限にしかなされていない。かく言うロマニも、分厚い防寒着にすっぽりと身を包んでいた。
当然、管制室の大型モニターも通電されていない。暗い画面を一瞥してから、ロマニは一番手近な席へと向かった。
「やあハドソン君」画面に食いつくようにしている、中東系の浅黒い肌の男に声をかけた。とは言え、彼はアメリカ人だが。「どうだい、ロンドンの様子は」
小さく声をかけたつもりだったが、男はちょっとびくっとしてから、ディスプレイから顔を挙げた。「なんだ先生ですか」と声を漏らしてから、男は肩を落とした。
「問題ありませんよ。問題があったら、お呼びしてます」
ふあ、とあくびしながら、男が言う。そろそろシフトの交代時間ということもあってか、酷く眠たげだ。
まぁ、確かに彼の言う通りではある。基本3人でモニターすることになっているが、戦闘など緊急時は管制室付のスタッフは総動員することになっている。所長代行のロマニも、その時ばかりは管制室に詰めかけることになっている。
「あれ、今日先生シフトに入ってませんよね」
「いやあちょっと気になって」ちょっと居心地悪く、ロマニは苦笑いした。「今日は医務室なんだけど」
「いいんですか? アキさん、怒ってません?」
「許可、もらってきてるよ。今日はあんまり、医者の出番はないからねぇ」
後頭部で一つに結んだ髪を弄りながら、ロマニは気の抜けた笑みを漏らした。ロマニ・アーキマンは現在、瞑目上は所長代行だが、本職はあくまで医者だ。当然、本来の配属は医務室である。所長代行としての仕事がない時は、基本的には医者としての仕事を行っている。そして、例によって、医者とは看護部長に頭が上がらない生き物である。
「特に、代り映えありませんよ」浅黒い肌の男の声色は、普段のそれと変わらない。端的に、懸念すべき事由は一切ないことを示していた。「平静そのものです」
「いつも、このくらい平和であればいいんだけどね」
ですね、と返す男の声をぼんやり聞きながら、ロマニ・アーキマンは漫然と……というよりは、雑全と、これまでのことを思い出す。
特異点“冬木”の攻略から始まり、オルレアン、ローマ、中世・近代の海と経た。ロマニとしては、一番心労が大きかったのはオルレアンだったろうか。冬木の時は、ただ遮二無二になって動いていただけに、正直その当時は疲れただのなんだの言っている場合ではなかった。ローマ以降、頼もしいオブザーバーができたのは、ロマニだけでなく、ダ・ヴィンチにとっても大きな助けとなっていた。ロマニは管制室に詰める必要が減り、ダ・ヴィンチも技術部の長として、特異点を攻略するための装備を各スタッフと整える時間を確保できるようになった。危機的状況はともかく、平時にまで責任者が現場に詰めかけているという状況は決して正常なことではない。
中でも、この特異点は、今のところもっとも変化に乏しく、よく言えば平和だった。不穏な要因がないわけではないが、迅速に拠点を確保し、味方を確保できたのは心強い。
「どうせ、いつもみたいに大変なことになりますよ」
「だろうね」
互いに目を見合わせると、呆れのような、それでいて諦観のような、そんな方の竦め方をした。これまでの経験則から、特異点の要石たるものはいつだって強力だった。なら、このロンドンとても例外ではないのだろう。さらに言うなら、今後の特異点も。
とは言え、やはり“銃後”の人間として、ロマニは切に願わざるを得ない。無事に、何事もなくみんなが帰って来られるのが、やはり一番だ。それは所長代行としての立場も当然として、一人の人間として──さらに言うなら、子どもを戦地に送り出さざるを得ない大人としての、ささやかな願いだった。そんな認識は、多分、ロマニだけのものではない。現行のカルデアを支える全てのスタッフの、共通認識だ。たとえ魔術師であっても、自分より一回り、二回りも若い子供を死地に放り出して、平気な人間などそうはいない。いるとしたら、相当に人でなしだろう。
「ところで、これはデートなんですかね」
「は?」
唐突な発言に、なんというかロマニは変な声をあげる。くい、と顎をしゃくるにしたがって男のディスプレイを覗き込んだ。「これはこれは」
「若いってのは良いですなぁ。自由主義の体現者ですよ、若者とは」
「君、覗き趣味はいいことじゃあないと思うけど」
「覗きが仕事なんだから仕方なくないですか? 殴りますよ?」
そりゃそうである。レンズシバからディスプレイへと出力された映像データをモニターするのも、管制官の重要な仕事だ。それと、腕っぷしの強い彼に殴られたら、元来インドア派のロマニには一たまりもない。袖を捲る仕草に対して「嘘嘘」と苦笑いして距離を取りながら、「絵面だけ見れば、近所のお兄さんと戯れる女の子みたいな図だけどね」
「どちらかと言えばお姉さんと男の子みたいだけどね」
映像の中、2人して木陰にしゃがみ込んで何か喋っているらしい。どうやら雨でも降っているらしく、2人並んで、ぼんやりと曇天の空を見上げていた。手を繋いで。
「先生は、ガキの頃はどんなでした?」
「僕かい? そうだなぁ、僕はそんなに、こういうことに興味はなかったからなぁ」
「こりゃ意外だ。モテたんじゃあないですか? 男の私から見ても顔が良いと思いますが」
どうかな、と口にした言葉は、果たして自分に向けた言葉だったろうか。正直、昔のことはあんまり印象にない。トートロジーじみているけれど、若いころは、若かったのだ。無感動に世界を眺めやっていたロマニにとって、恋や愛、というものに、何か重大な目的を置くことはあまりなかった。……なくはなかったかもしれないが。ロマニは管制室の設備……レンズシバを眺めながら、でもあくまで例外だな、と自答した。
「最近は、タチバナ君もしっかりしてきたんじゃあないかな」
さりげないつもり、ロマニは話題を逸らした。あまり、過去のことに思いを馳せるのは、好きなことではなかった。今こうして思い返すと、苦いことが多い。
「勉強熱心ですよ、彼」男は、素直にロマニの話題のすり替えに応じた。「戦地に赴く心構え、みたいなの質問されましたよ」
「なんだっけ、戦闘機に乗っていたんだったかな」
「まぁ、そんなところです。まぁ実戦経験も何もありませんでしたからね、大したことは言えませんでしたが」
かたかたとコンソールを操作しながら、男はやや悩まし気に眉間に皺を寄せた。「言い方はよくないですがね。多分、楽しいんだと思いますよ」
「これが?」
「というより、新しいことに熱中するのが、ですかね。がむしゃらなだけ、自覚もしていなそうですが」
ちょっとばかり思案してから、なるほど、とロマニは頷いた。特異点攻略のため、トウマが色々なことに手を出して修練に励んでいるのは、カルデアのスタッフ間では周知の事実だ。魔術に関してのことだけではなく、例えば今回の新型魔術礼装を運用するために、ホルスターから銃を抜く動作を繰り返し練習したり、洋の東西を問わずに戦術・戦略論などを学んでいたりするらしい。加えて、歴史や古い物語を読み込んだり。3食の食事以外の時間はほとんどそういったことにあてている。睡眠の管理は医務室側で行っているため、カルデアに居る時はきっかり8時間取らせているが、こちらの管理が行き届かなければ、それこそ4時間3時間の睡眠で済ませようとするだろう。
悪いことではない。目新しいことへ挑戦する楽しさのようなものが無ければ、その苦しさには耐えられまい。日々、魔術の指南をしているロマニには、なんとなくそんなトウマの無自覚な内心がわかるような気がした。
その上で、男が懸念するのは、この過酷な戦いの中、どれだけ楽しさだけを原動力にしていられるかというものだろう。感情論に依拠したモチベーションは、強力なだけに擦り切れるのもまた早い。
元より、立華藤丸の出自は不明極まりない。なんらかの設備の不具合によるものなのか、魔術と全くかかわりのない人生を送っていたにも関わらず、原因も原理も不明なままこのカルデアに転がり出たというだけの少年。世界運営上、気まぐれに生じるらしい第二魔法原理のせいなのかどうなのかは不明だけれど、何はともあれ、こんな世界の運命を背負わされる言われは一切ない。そんな少年が懸命に世界を背負って立とうという、その心境は想像を絶する。想像を絶するだけに、他者から見れば、その摩耗を懸念するのは、至極自然な発想であろう。身長200センチを超えようというこの男は優しい奴なのだ。
「でも、まぁ大丈夫じゃないかなぁ」
「ですかね」
「まあ特に根拠のある話じゃあ、ないんだけど」
ぼりぼり、とロマニは頭皮を掻きむしる。日頃の心労のせいか何なのか、若干円形脱毛症になりかけている部分が、手袋越しにもなんとなく感じる。あまり知られたくないなぁ、と思う箇所だ。
言葉を濁したのは、別に言いにくいことだからではなく、ロマニには確証のある話ではないからだ。ただ、妙に確信めいたものは、ある。決して多くの時間をともに過ごしたわけではないけれど、なんとなく、ロマニにはわかる。多分、それはロマニ・アーキマンという人物が、人間として立派ではないからだ。
「多分もう、彼はちゃんと、立脚点があるんだと思うよ」
驚いた様子の男に対して、「多分ね」と続ける。ロマニには、人の内心まで踏み入るだけの千里眼なんて持ち合わせはない。
「だから大丈夫さ」念のため、もう一度だけ「多分」と続けてから、ロマニは映像をぼんやりと眺めた。公園を散策し尽したのだろう。二人仲睦まじく手を繋いで、没目的的ながら、漫然と公園の外に向かっているようだった。
「まぁそうなってもいいように、僕たちがいるわけじゃない?」
男は幾ばくかモニターを食い入るように見つめてから、深く頷いた。
と、ロマニは腕に巻いた腕時計らしきものが、ブルブルと震えたのを感じた。おろ、と小さなディスプレイを覗き込むと、カルデアの技術顧問様からのメッセージだ。(第二研究室で待ってる。フェイズ5まで進んだ、進捗確認諸々)
ロマニは、しばし、その文字面を眺めた。悲嘆とも、苦悩とも、後悔ともとれるし、またとれぬ情動の渦に囚われたロマニの顔は、傍目には虚無を鑑みるかのような表情だっただろう。実時間にして3秒ほど。ロマニの体感にすれば永遠にも等しい時間を眺めやってから、右手を、頭に重ねた。円形脱毛症のせいで10円禿になった部分を、人差し指で軟膏でも刷り込むように撫でた。
「僕たちは、あまり大人として胸を張れないことをしている」自虐的に笑みを浮かべてから、ロマニは朗らかに、重いため息を吐いた。「子供が頑張ってる姿を後ろから見ていることしかできないんだから」
だから、ちょっとでも緩和しないといけない。最後、尻切れトンボのように吐いた声は、独語のように曖昧で、またその実は、発話というよりは主観的内心から沁みだした自責のようなものだった。
多分、そんなロマニの内心を、男もよくわかっていた。ロマニとダ・ヴィンチしか与り知らないことについては流石に知らなかったけれど、このカルデアで稼働しているスタッフ全員が、肝に銘じていることなのだ。中には、リツカやトウマと同じ年齢の子供を持つ親だっているのだから。男も、同じ年齢でこそないが、まだ5歳になったばかりの娘の親だった。
「じゃあ、何かあったらよろしく」
「はい。少しは休んでくださいよ、先生」
背後からの声に手を挙げて応えながら、ロマニは管制室を後にした。相変わらず、節約のために自動ドアを急場で設えたドアノブを握って手動であける。途端、ひょう、と吹き込んだ冷風に、ロマニは身を竦めた。
慌てて廊下に乗り出して、真っ暗な廊下に出る。エネルギー節約のための計画停電中は、カルデアのバイタルパート以外の電源は極力カットされる。非常灯の電源すらついていないという、徹底ぶりだ。もちろん空調も最低限で、気温は摂氏-20度を下回る。南極の中でも標高6000mに位置する場所なのだから、これでもまだ大分温かい方ではある。魔術師ならば魔術回路と刻印を励起させ、基礎代謝をあげながら防寒着を着れば、まだ“ちょっと寒い”くらいに留められるレベルだ。いそいそと厚手のジャンパーを羽織ると、魔術回路の一部を別に駆動させ、指先に小さい灯を閃かせる。魔術としては原始的な操作で、知識こそあれ魔術そのものには長じないロマニでも、この程度のことはできる。まぁ、こういう時に最も感じるのは、文明の利器の存在だが。また携帯型のLEDライトの方が便利だし、明るいというものだ。
「大体これ、疲れるんだよなぁ」
少々、詮のない文句を漏らしながら、ロマニはなんとか第二研究室へとたどり着いた。距離すれば、500mも歩いただろうか。管制室のある地上1FからBF4階、水耕栽培式の食料プラントのある区画のすぐ脇が、そこだ。
「やあ入るよ」
よっこらせ、と例によって手動ドアをあける。相変わらず真っ暗であることは変りないが、暖色の灯がまあるく広がる空間は、なんとなく、穏やかさを感じさせた。
広さにすれば、4畳もない空間だ。備品用の倉庫として作られた空間だが、今では倉庫などどこの部屋でもいいわけだ。他方、地下4階備品倉庫は、ダ・ヴィンチの研究室からほど近いという理由と、食料プラントの水の音が集中力を高めるという理由。加えていうなら、他の誰も近寄らない、という理由で、急場の第二研究室に作り替えられていた。流石キャスタークラスのサーヴァントというべきか、【陣地作成】により作り替えられた倉庫は薬品類やら器具やらが綺麗に並び、中央には何事か銀色のカプセルが……ちょうど人一人が横たわるほどのサイズの装置が、鎮座していた。
「よ、お疲れ」
件の人物は、倉庫奥の椅子に座っていた。安っぽいパイプ椅子は、今は使っていないオリエンテーションルームから持ってきたものだろう。入口傍にたてかけてあったパイプ椅子を手探りで取り出すと、ロマニもすっかり冷たい椅子を開いた。
「悪いね、来てもらって」
「いやいいよ。僕の仕事ですから」
言いながら、ロマニは手癖のように頭に手を伸ばした。円形脱毛症の丸い縁、頭皮と頭髪の境目のざらついた感触を指の腹に感じながら、「フェイズ5っていうとどのくらい?」
「メインの方はユニットの方に記憶転写を終えて、自我破壊も終わったよ。今はフィールド誘起素材の精製。こっちが資材」
こつこつ、とダ・ヴィンチが棺のような機会を指で叩く。ロマニは、ただ無言で頷くだけだった。
「これで、全員かい?」
「そうだね、予備と廃棄も含めて全部」
ダ・ヴィンチも、無感動そうに言う。
「ミネルヴァの梟は、黄昏時に跳ぶ」独り言ちるように、ダヴィンチは声を漏らした。「全て恙なく終わらせなきゃあならない──裁きのために」
それは僕の仕事、とは言わなかった。ただ、内心で注釈をするに留めた。代わりに、ロマニは「飲むかい」とポケットから小さめの缶コーヒーを取り出した。
つと、ダ・ヴィンチの目が泳ぐ、束の間ロマニの手元を漂ってから、彼女の顔が、現実味のあるように蠕動した。
「これ、どこから?」ちょっと胡乱気な顔。そんな人間味のある顔で、ダ・ヴィンチはロマニを見上げた。「備品をくすねてくるのは、所長としてどうなのかな?」
「失敬なことを言うなぁ。私物だよ、私物」
「わざわざ持ちこんだのか。変な奴」
お前に言われたくないぞ、と言いたい気持ちをぐっと我慢する。美的センスだけで自分の身体を作り替えるような変人に変人呼ばわりされる言われはない。代わり、「糖分は、気分を善くするからな」と愚にもつかないことを言って、缶コーヒーを放り投げた。上手い事キャッチすると、ダ・ヴィンチは念のため、とラベルを見て備品でないことを確認してから、こきゅ、とプルタブを開いた。
「もうセイバーとアーチャーの分の素材は確保した。後は、ランサーの分かな」
「三騎士にしかなれないんだったかな」
「それ以上となると、流石にあの子が持たないからな。マシュの適性から見ても、どうやら三騎士以外はあんまり巧くないだろうし」
やはり、ダ・ヴィンチはどこか上の空だ。いや、その理由は、ロマニにも十分推察のつくところだ。意外なのは、彼もしくは彼女が、しおらしくしている姿が珍しかったのだ。いつも自信満々な顔で論理的に話をする姿は、今は鳴りを潜めている。
「今日は、僕が担当しようか?」ポケットに手を入れてから、今さらに思い出した。自分用でもってきた缶コーヒーは、やったのだ。「まぁ助手についてもらわないと困るが……一応、外科手術の心得はあるつもりだ」
「いや、いい。あくまでこれは私の仕事だから」
ロマニの提案に、ダ・ヴィンチは硬質な声を素早く返した。が、ふう、と嘆息をついてから、「やっぱりそうしていただこうか」とうつむいたまま口にした。
「助手にはつくよ」
「大丈夫だよ、要するに解剖する心づもりでやればいいんだろう?」
「そういうことじゃあない。そのくらい、やってみせなければ示しがつかないという話だよ。あの子に対してもね」
言って、ダ・ヴィンチは立ち上がった。背後の棚から器具を取り出す姿を見ながら、ロマニは、銀のカプセルの一部……小窓部分を、覗き込んだ。
覗き込んでから、後悔した。自分の選択が誤っていたことへの後悔ではない。そもそも、ロマニにそれ以外の選択肢などありようもなかったのだから。ただ、それは人間という種そのものへの戦慄であり、その忌むべき行為そのものを行ってしまう人類種という恐怖を見せつけられたことへの、後悔だった。ロマニ・アーキマンは、今日ほど自分がロマンなどという愛称で呼ばれていることを、苦々しく思ったことはなかった。
「じゃあ始めようか」
にも拘らず。というより、だからこそ、ロマニは普段通りの声色で言った。入口すぐ脇のハンガーラックから術衣を取り出し、ジャンパーを脱いで代わりにそちらに袖を通しながら、ロマニはマスクとゴーグルを装着していく。
既にダ・ヴィンチは器具を用意し終えていた。術衣も装着済みで、ロマニがカプセルの隣に立つと、銀色のカプセルが鎮座する台座に備え付けられたタッチスクリーンを2、3操作する。警告音が響いてから、ぷしゅ、と空気が抜け、カプセルが縦に割れるように開いた。
ひや、と冷たいものが背筋を撫でた。ここはむしろ暖かく設定されていて、気温にすれば20度はある。だから、冷たく感じたのは多分実際に寒かったのではない。それは多分、もっと悍ましい、人間性の寒気のようなものだった。
「この、赤い線のところを」言葉を、区切った。声が、咽頭に詰まったかのようだった。「切除すればいいのかな?」
「そう。まずは四肢の脱落から始めよう。その後頸部切除を……」
これこそが、人間性なるものの本質であった。