fate/little bitch ~煉鉄の小悪魔~ 作:七草探偵事務所
「こっちこっち」
手招きするクロに従って、トウマは足早に駆けていく。しとしと、と降りしきる雨は酷く冷たく、妙にじとりとした手触りだ。どんよりと垂れこめる雲は、酷くどす黒い。
「急に雨が来るんだから」
濡鼠になりながら煉瓦造りの家の軒先に飛び込むと、クロが差し出したハンドタオルを手に取った。投影品らしいが、魔術を発動させた形跡をほとんど見せなかった。あくまで周囲に、ぽつぽつと浮浪者がいるからだろうが、それにしても奇術めいた手腕だ。元より投影魔術に長じていたのだろうが、さらに磨きがかかっているように見える。カルデアの英霊召喚術式“フェイト”によって召喚されたサーヴァントは、無尽蔵でこそないものの、性能の向上を可能とする。明らかにクロの投影の練度が上がっているのも、長時間の召喚により、投影魔術に最適な身体を獲得しつつある……ということだろう。きっと、あのヘラクレスとの戦いで見せた姿も関係あるはずだ。
喜んでいいのかは、よくわからない。複雑そうな顔をしながら、トウマはタオルで髪の毛をかき回した。真っ白いタオルが灰色になったことに、ちょっと顔を顰めた。慣れたつもりだったとしても、タチバナトウマは21世紀の若者なのだ。19世紀ロンドンの衛生状況は、やはり端的に言って不愉快さを伴わざるを得ない。
「せっかくなのに残念だな」
忌々しげに、空を見上げる。重い雲は分厚く、とても1~2時間で消え去るようには見えない。
「デートだったのにね?」
ね、と表情を緩めながら、クロはせっせと手を繋いだ。トウマは不格好に曖昧な返事をしながら、おっかなびっくりと左手を握り返した。そんなトウマのリアクションに、クロは満足げだ。
端的に言って、トウマは、そんなに異性の好意に慣れていない。小中、と『彼女』がいたことはあったけれど、なんとなく友達の延長以上のものではなかった。高校生活は始まったばかりで、部活動もしていなければさして気が利いた人柄でもない彼には、そんな短時間でできるほどに手練れてはいない。バキバキな童貞臭さこそないが、垢抜けてもいないという、そんな佇まいの少年である。
掌に感じる生暖かい手触りの実在性に、ただただ困惑する。クロからの好意は多分本当で、勘違いということはないだろう。何故かは知らないけれど、そもそも何故と問うことは無意味だ。じゃあ何に戸惑っているかと言えば簡単で、応えて良いのか、トウマには判断がつきかねていた。今まで安定していて、且つ良い関係が何か変質するのではないかという予感。特に根拠はないけれど、ただ、変化することに、素朴な怖れのようなものを抱いていた。これはトウマに固有の体験というよりか、同じような境遇にある多くの人々に当てはまる普遍的葛藤であろう。どこにでもありふれた、ありきたりな主観的葛藤に悩む姿は、年相応のものであった。
なお、トウマはちょっと自覚しながら、あえて見ないようにしている事実がある。例えば繋いだ手の感触の心地よさだったり、隣に彼女がいるだけで気分が良かったり、そろそろ終わりを迎える時分に降り出した雨への恨めしさであったり……即ち、根本的には彼女に対し、心憎からず思っている、という事実である。この事実そのものに対しては、トウマは疑義を挟んでいなかった。要するに、トウマはそれなりに自己肯定感があり、自分の主観的体験に対してはそれなりに素直だった。くどくどと言ってみたものの、まぁ、そういうことである。
互いに何も言わぬまま、ただつないだ手の力だけが弱まったり、強まったりしていた。その強弱だけでコミュニケーションをとるかのように。その度に妙な気分になりながら、トウマは指を絡めてくる彼女の手遊びを、ぎこちなくも受け入れていた。多分、今自分は赤面しているぞ、とは思った。
「あれ、どうやって倒そうね」
不意に、クロは声を零した。思わず彼女の顔を見下ろして伺うと、彼女も、僅かに照れたような顔だった。彼女も、手慣れてこそいるが、同時に一途で初心なところがある。
トウマも、内心の心地よい焦燥から目を逸らすように、「どうだろうね」と思考停止気味に相槌を打った。打ってから、思考を普段通りに引き戻していった。
あれ、が何を指すかは言うまでもないことだ。そして、その手法は今考え中の事案でもある。あの敵の厄介なところは、何はともあれあの空間転移じみた移動手段だ。性能で言えばサーヴァントと同格に値する敵に対し、切り札たる宝具が躱されるというのでは、戦いにくいことこの上ない。
「持久戦に持ちこむ、とかになるのかなぁ」
自分で言ったが、これは多分巧い手ではない、と直感的に理解する。いつでも戦域から離脱し得る敵を相手に、持久戦を強いることはそもそも不可能だ。そうではなく、あれを倒すには宝具クラスの打撃で以て、一撃で打ち殺すことを主眼に置かなければならない。いたずらに時間を浪費すれば、それだけ敵に遁走の可能性を与えることになるのだから。
頭の痛くなる話である。敵を倒すには一撃必殺を以て当たらなければならないというのに、その一撃必殺を当てる術がない──詰み、とまではいかないが、それに近い状況血言える。
「ボルグがちゃんと使えたらどうだったかな?」
詮のないこと、と前提しながら、クロは漫然と言った。
『
が、矛盾的だが、それは“当たれば”の話だ。運動性能に大きな開きがある上、一瞬でレンジ外まで距離を離せる術を持つ相手に対しては、発生すべき因果を発生させることそのものが難しい。要するに、因果逆転の魔槍ゲイ・ボルグとても他の宝具と同じなのだ。とは言え、雑に使うのではなく、巧く誘い込めれば攻撃手段としては有効かもしれない。というのがクロの観点ではあった。
だが。
トウマは、何か、今の思考の中で奇妙な引っかかりを覚えていた。
あの人狼には、何がしか空間転移のような能力がある。そしてそれ故に、宝具の打撃は寸で躱される可能性が極めて高い。事実、映像記録を見た範囲では、アロンダイトやゴールデンイーターの真名解放の際に転移し、回避行動を取っていたように見える。
事実的に羅列される思考。取り止めもなく、ただただ陳列されていく事物の思考だというのに、何かを物語っているような気がした。
何故そんな気がした? 内心で、自問する。自由連想の体で、寸前までの思考を遡行させたところで、トウマは、ふと、煩雑に絡まっていた思考が解れていく感触を惹起させた。
が。
「あ」
「?」
「ごめん、ちょっと待ってて」
「あ、トーマ」
トウマは、小走りに駆けだした。どぶのような腐臭を放つ雨も構わず、軒先で浮浪者たちが恨めし気に空を見上げる中。メインストリートから外れた路地へと、走っていった。
※
ざあ、ざあ。雨が降る。
足音が、汚濁色の水溜まりを割った。びしゃ、と弾いた汚水が石畳の隙間からしんなりと延びる雑草に降りかかり、ふらふらと揺れた。葉の上にしがみついていた芋虫が、不愉快そうに身悶えした。
あの、とおっかなびっくり響いた声は、まだ若い。齢にすれば、16か17ほどだろう。声色には未熟さが残り、佇まいは、拭いきれない頼りなさが滲んでいる。むしろ、だからこそ、声の主たる少年の振舞は、何かのっぴきならない良識を感じさせた。また、確かに少年は未熟を脱しきれないが、身体の作りは十分立派だ。きちんとした栄養を摂り、年齢以上の逞しさを感じる身体ではある。
他方、声をかけられた方は、果たして聞いているのか否かも不明だった。薄汚れた身なりは、端的に言って、万人に不快感をもたらすものだろう。長く伸び放題の白髪と口ひげも茶色の水を被って、どうお世辞を言い含めても清潔とは言い難い。浮浪者たちの中でも底の底、どん底にある世捨て人そのものであった。
どん底にあるであろう、汚らしい人物……果たして男性なのか、女性なのかすら不明だ……は、身なりの善い少年の声に対し、ほとんど身動ぎすらしなかった。自分を追いかけてきた少年に対して、ただ、射殺すような視線だけを返していた。
雨は、まだ降り続いている。しばし、互いに沈黙を飲み込んだ。最低の浮浪者は微動だにせず。他方、少年は少々苦っぽい表情で、いかばりか後悔や少々身勝手な怒気、それとおおむね申し訳ないという、そんな雑多な情動を孕んだ苦さだった。
良かったら、と口にして、おそるおそる、少年は汚濁そのものといった風貌の老人に近づいた。羽織っていたジャケットを脱ぐと、老人の肩へとかけた。
あの、別に要らなかったら棄てて構いませんので。そそくさとそう付け加えて、少年は身を翻した。その前に、もう一言だけ、付け加えた。ご不興を被るようでしたら、すみません。
まだ、少年はもどかしげに立ち止まっていた。何か言いたげだが、言うのを憚る顔。倫理的行為に往々にして付きまとう、他者の主観性の侵害……他我への毀損という押しつけがましさに懊悩を抱く、そんな顔だった。
結局、少年は、一言だけ謝罪の言葉を添えてから、その場から立ち去った。粘着質のようにまとわりつくもどかしさを、振り切ろうとするようにも見えた。己の無能をすぐに正視できるほど、少年は、達観もしていなかった。
どこにでもありふれた光景だった。倫理的な行いをしようとする誰かと、倫理的な行いをされようとする誰かとの間に生じ得る、ともすれば行き違いのようにも、あるいは一方的ながらもニーズがすり合っているようにも見える……そんな、ありふれた一瞬だった。おおむね、人類の言語でその状態を葛藤といい、他者へと拝する憐憫という名の情動を以て倫理的行いをするときには、付きまとうものである。
老人は、やはり、身動ぎすらせず、その場に佇んでいた。雨に打たれるのも構わず、身体が震えるのも構わず、ただただ、途方もなく佇んでいた。手が、肩にかけられたジャケットへと伸びる、襟首を掴み、無造作に脱ぐと、まじまじとその衣類を見つめた。老人の視線は、杳として知れない。ほんの少しとも動かず、微動だにしないまま。あの射殺すような赤い目だけが、ディープブルーのジャケットを眺めやっている。
ごうごう、と空が唸っている。どす黒い雲は分厚く、重油のような雨を垂らしている。大地に激突した滴は無数に砕け、煉瓦の壁にへばりついていく。雨に濡れた道端の吐瀉物はふやけ、撒き散らされ壁に塗りたくられ乾燥していた男女の体液は腐臭まじりの雨に流され、無限に希釈されながら世界に広がっていく。さながら、ライプニッツのコスモスのように。炉端の小さな陰や公園の樹々の下で雨宿りしていた浮浪者たちは観念したように、あるいは諦観したように雨降りしきる空の下を歩きだし、汚らしい衣類を雨で洗濯し始めていた。しなびた草の下、息絶えた芋虫が物と化していた。
身汚い老人は、のっそりと動き始めた。ジャケットは羽織らず、さりとて手にぶら下げたまま。相変わらず射殺すような目で世界を閲する様子は、何事かを思案しているか伺い知れない。だが、何事かは思案している。その眼球は、虚空を貫く光の帯を、感慨深く視座に入れている──。