fate/little bitch ~煉鉄の小悪魔~ 作:七草探偵事務所
マシュが教会の裏手に回ってからおよそ1時間。手持無沙汰を極めていたトウマは、ウエストポーチから取り出した小型のタブレット端末を詮もなく眺めていた。当然、暇つぶし用のゲームなんかが入っているわけでもない。不躾にもベンチに寝転がりながら、トウマはあれこれと調べていた資料に目を通していた。古来の伝承やら何やらをまとめたものだ。トウマの目が追っていたのは、“切り裂きジャック”について、だ。
切り裂きジャックは、恐らく近現代の伝説という矛盾の体現だろう、と思われる。近代以降の大きな潮流……啓蒙主義とは、その字の如くに蒙を啓く、即ち迷信を理性によって見定め、解明し、人間性を人間性そのものへ向かって解き放つ作業こそを意味する。その近現代の象徴たるロンドンで起きたシリアルキリングは、近代や啓蒙という人間性の灯では照らしきれない、明るみの深淵をこそ示していたのかもしれない。残虐性という極めて人間的な振舞に関してではなく、その端的な恐怖に囚われ、畏怖し、ないし愉快がってあれこれと妄想を掻き立てる所作そのものを、指して。
そういう小賢しい思考が空転しながら、トウマの思索を閉めていたのは、彼の乾いた知識上と記憶に存在する白毛の反英雄の姿だった。
ジャック・ザ・リッパーを名乗る英霊に対する彼の態度は、いかんせん複雑だった。知識上のものとして、Apocryphaを原典とするあの水子の怨霊の複合体たる『ジャック』のことは知っている。それに加えて、ローマで出会った『ジャック』。バーサーカーで召喚された切り裂きジャックは、数多の伝承の群体その総体で、あの時はただアルテラとともに過ごす都合で少女としての姿を取っていただけに過ぎなかった、らしい。とは言え概ねあの白毛の少女の姿で過ごしていただけに、記憶の淵から浮かぶ姿は、あの小さな姿だった。
今回、モリアーティ教授の推論通り、ジキル邸に現れた敵は水子の怨霊としてのジャック・ザ・リッパーだろう。リツカたちが戦闘した痕跡からも、それは伺い知れる。通信の攪乱と毒の作用は『
可能性を絞り込んで、彼女と確定して、そして、戦うのだ。ただただ陳腐極まりない人類悪……“生きたい”という資本主義的で細やかな願いの残り滓として産み落とされすらしなかった子供の怨霊を、ただ正義の名の下に、抹殺するのだ。
なんとなく、にがっぽい感情が胃の底から持ちあがってくる。トウマの予想通りなら、多分、ジャックと戦うのはリツカを主体とした班になるだろう。
リツカなら、間違いなく躊躇なく撃破する。相手が誰であろうと、彼女は戸惑いなく敵を殺す。彼女は俗物的な人情論を嫌っているし、それ以上に低能な正義論を嫌っている。ミクロな倫理的配慮と、マクロな倫理的正義の行使を取り違えることは、恐らくない。彼女は、ただ人理を取り戻すための如何なる障害をも撃破するのに、一切の躊躇をしないはずだ。
それに、ほっとしている。自分がジャックを手にかけないで済むことに、安堵している。安堵しながら、客観的に自分の悍ましさを理解して、トウマは自分自身に恐怖すら抱いた。要するに、責任を放棄したことに安心しているのだ。それは恐らく、子どもの賢しらさというより、意気地のない大人の官僚的身振りでしかなかった。
とは言え……トウマ自身は納得しないだろうが……、彼の仕草は基本的にありふれたものだったし、特に非難されるべきものではなかっただろう。彼はまだ16歳で、来月12月23日に17回目の誕生日を迎える。その程度の小市民めいた少年に、世界のシステムそのものの重さに向き合えという方が酷だ。そこで割り切れずに、善きにしろ悪しきにしろ、感情的になるところが若さであった。
畢竟、トウマは、世間知らずなガキでしかないのだ。救いようがあるところと言えば、彼は少なからず対自的にその事実を理解しているところだった。
トウマは、身体を起こした。タブレット端末からは目を離さず、切り裂きジャック事件の資料を、ただ、意図的な無感動さで脳内視覚野に映していた。
切り裂きジャック事件の被害者は数多いが、同一人物の犯行と目されているのは5人の被害者とされている。その人物は全員女性で、内4人は死後猟奇的な解体をされており、さらに1人は凄惨としか言いようがないまでに刻まれている。当時の写真は記録として残っていて、死体安置所で撮影されたものや現場での写真を見ることができる───。どれも、酷く気分が悪くなる写真だが。
トウマには、判断が付きかねる。これは悪魔の所業で人間のやることではない、と考えるべきなのか、それとも人間はここまで悪意を以て人を殺せると考えるべきなのか。それとも、別なものなのか。彼には、よく、わからない。
ただ、思うことはある───惨く刻まれた……というより、破壊された被害者の遺体を、苦々しく正視しながら───。
人がこんな風に死ぬのは、あまりに哀しすぎるではないか。
胸郭に淀む汚濁のような情動に顔を顰めたトウマは、かつん、と響いた音に、急いで顔を挙げた。
あの黒衣の男の姿が目に入った。陰鬱さを纏いながら、どこか気高い傲岸さを芯にした男から受ける印象は変わらない。巌窟から掘り出してきたような男が抱きかかえているのは、他でもないマシュ・キリエライトだ。
声もなく、血相を変えて慌てて立ち上がったトウマを掣肘するように、男の目がじろりと射すくめた。
「慌てるな」男の声が教会の内に響いた。「気絶しているだけだ」
所在なさげに立ち竦むトウマの前まで来ると、男は無造作にマシュの身体を差し出した。半ば反射するように両手を出すと、右腕を彼女の首にもう一方を膝裏へと回した。
「洗礼詠唱そのものは成功した。
男と揃って、トウマはマシュの顔をまじまじと見つめる。あの人形のような、艶やかな白い肌に、うっすらと紅が挿している。深い呼吸に応じて、彼女の胸郭も上下していた。
「全部じゃないんですか」
「この女の希望だ。何を見たかは知らんが」
「やっぱり、正体は」
「堕ろされた胎児の妄執の群体、というモリアーティ教授の考えは当たっている。
お前も十分に承知していると思うが、その本当の姿がなんであるか否かは問題ではない。何であるかではなく、誰であるかが大事だ……というと、アーレントのような言い方にはなるか」
男の声は、酷く突き放したような物言いを放り投げた。取り付く島もない口ぶりは妙に鉱物めいた硬質さで、一瞬反感を抱いたトウマもただ声を咽頭で押し込めた。にべもない口ぶりに、どこかやるせなさへの苛立ちのようなものを感じたからだ。だから、トウマにマシュを押し付けるなり深く帽子をかぶり直した男の所作に、却って人間味のある親しみを感じてしまった。反感の残滓とない混ぜになった親近感は、ありふれた葛藤のようなものだった。
「本体も、本質的には怨霊のようなものだ。奇蹟を以てすれば、人の身でも打倒し得るだろう。悪を打倒するのに、躊躇や気遣いは無用だ」
「でも」
「あれは人理の影法師ではない。ただ、恐怖が形を作っただけのものにすぎんよ」
トウマが言い淀んだ瞬間に、先を取るように男の声が覆いかぶさる。目を白黒させるトウマを他所に、男は言葉を続けかけ、首を横に振った。喋りすぎたな、と自分に言い聞かせるように独り言つと、男は身を翻した。
「ではな」
もう、さっき見せた僅かな人間らしさはない。頑健な仮面でペルゾンを覆い隠すような男の声は、鉱物というよりは軽金属めいた硬質さがある。ずんずんと歩を進めていく男の背にかけるべき言葉も見当たらず、まごまごと口唇を震わせていたトウマは、男が教会の扉に手をかけたところでようやく発声した。
「あの」男は、扉を開けた。「ありがとうございました」
男が、束の間静止した。開け放った扉から入り込む雨粒を受けながら、何故か、立ち止まっていた。
ふと、男が微かにこちらを見た。身を翻しもせず、ただ流し見るような目つきには、意外なものを見るような、呆気にとられながらも愉快そうなものが浮かんでいた。きっとそれは、偉大な英雄が、小市民の素朴な心情を垣間見た時のような喜悦、のようなものだった。
「え?」
男が、何か口走った。大分距離があるせいで、巧く聞き取れなかった。ぽかんとするトウマの表情に、何やら決まり悪そうに視線を外した男は、くつくつとした嗤笑を口元に浮かべ、教会の外に、一歩足を向けた。
「Attendre et espérer───強い意志を以て、事に当たりなさい。どこにでもありふれた、誰でもあって誰でもないマスター君」
黒い影が、暗雲の中に溶けていく。その姿を見送ったトウマは、幾ばくか、その背の幻影を網膜に映していた。
男の声が、無暗に脳神経を発火させていく。何故か、手が震えているような気がする。頭の中でこんがらがった配線に新しい線が加わって、継ぎ直されていくような、そんな感覚。余計に混乱するのか、それとも何事か新しい発想が胚胎したのか。ただ、鈍い感触が脳の奥底、脳幹ほどで淀んでいるようだった。
走馬燈が回るように、脳裏に顔が過る。旅の中で出会ってきた幾多の顔。苦しみにも似た情動が胸郭の奥底で湧き出し、静かに、地下水脈を流れる清水となって全身の四肢末端に滲みていく。
「タチバナ君?」
ふわ、と深雪のような声が耳朶を衝いた。ふと気が付けば、開け放たれた教会の扉の向こうに、黒い姿があった。
真っ黒なレインコートに身を包んだ、アリスだった。緊急時に備えて、外で待機していたのだろう。雨が滴るコートを脱ぐと、修道服めいた黒装束が顔を覗かせた。黒い森の魔女、という言葉が、どうしようもなく似合う。
アリスは、訝るようにトウマと、彼が抱いたマシュを見比べた。見慣れてみると、アリスは表情に感情が現れやすい、と思う。というより、僅かな表情の機微でしか読み取れないという方が正しいか。端的に言って、彼女は事の推移を思案しているらしい。
「疲れた、そうですよ」
アリスは、ほぼほぼ無表情のまま小さく頷いた。僅かにだけ動いた口唇が、「そう」と独語めいた呟きに象られていた。とりあえず、納得はしたらしい。顔を挙げたアリスは、つと丐眄した。
教会の入口に、一羽、鳥がいた。濃い灰色の羽毛に、嘴の黄色が鮮烈さを感じさせた。その鮮やかな嘴に何か小さな紙袋を咥えた小さな椋鳥が、ちょこんちょこん、と教会の中へと入ってくる。しゃがんだアリスが手を差し出すと、手のひらの上に紙袋を乗せた。それで、その使い魔……プロイキッシャーの仕事は終わりらしい。アリスが立ち上がるのを合図に、踵を返すと、またちょこんちょこん、と教会の入口まで跳ねていき、雨の中を飛び立っていった。
アリスは、ちら、と伏し目がちな瞥見をトウマに差し出した。出ていけ、というわけではない。居たければ好きにしたらいい、でも余計なことはするな。多分、そんな意味の一瞥だった。トウマも一度深く頷くと、こつこつ、とブーツの底を奏でるアリスの背を、ただ目で追った。
祭壇の前まで行くと、アリスは一度、壁面に大きく飾られた十字架を見上げた。かつて聖なるものを磔にした墓標の表徴を、眺むるように佇む黒い魔女。どことなく不吉な光景だな、と思うのは、少々歴史の勉強が進んでいるからか。だが、トウマが直観したイメージは、もっと、凄惨だった。
ステンドグラスから注ぐ淡い光を受ける彼女の背が、何か、光に誘われているように見えた。何か聖なるものに、身を殉じるかのように。
ぞっとした。目前に焼き付いたイメージを振り払うように身震いすると、コツン、と何かが頭を小突いた。
にゅ、と肩から青くてちっこい姿が現れた。青い駒鳥は、トウマの肩に止まったまま、憮然とした様子である。チッチッチ、と抗議するみたいに声を鳴らして、翼をぱたぱたさせている。
が、一瞬で青い駒鳥は身を硬直させた。祭壇の方を見ると、じろりとした視線にぶつかった。
しゅんと身を竦めた駒鳥は、渋々といったように飛び立った。そのままアリスの肩の上に乗ると、鬱々としたように羽を休めた。流石に、鳥の情動などはわからない。
アリスは身を屈めると、何か作業を始めた。彼女の魔術は、系統的に黒魔術に分類されるらしいが、その系統樹からは極めて乖離し、最早別物と化している……とは、リツカの談である。とは言え基本はやはり黒魔術であるらしいので、今行っているのもそういうものなのだろう。多分。
何をしているのか、彼女は黙して語らない。その魔術は、リツカとライネスに言わせれば“魔法以上に魔法に近しい”ものらしい。ほとんど独自に発達しきった魔術は2人の理解の外にあり、カルデアのライブラリにも名称だけがある程度でほとんど記録にない。クロをして理解不能、再現すら不能のそれは、ある意味で魔術というよりは異能にも近しいか。差異があるとするならば、彼女のそれは、順当な魔術と同じように継承されてきたものだというところか。魔術師が魔術師であるが故、アリスが何事かしているのか詮索する者は誰もいない。
十字架の前に跪くアリスの姿は、修道女めいた服も相まって、奇妙に調和している。それだけに、先ほど過った観念が忍び寄るように眼底から這い出して来る。
殉教の乙女。美しくあるほどに不吉な予感に、トウマはただ、立ち尽くすしかできなかった。
※
降りしきる雨の中、ホワイトチャペルはさながら夜の帳が降りたかのように陰鬱だ。スモッグが混じった雨は、客観的にも主観的にもどこか粘ついていて、道端にできる水溜まりはどす黒く濁っている。浮浪者たちはこんな時でも幾人か徘徊している。目的もない行軍はどこか亡霊めいていて、この陰鬱な街並みに、不気味に溶け込んでいる。浮浪者たちの身なりは皆お世辞にも綺麗とは言えず、雨の中動き回っているのも、恐らく衣類を雨水で洗濯するためのものであっただろう。それだけ、彼らは汚らしかった。
ホワイトチャペルロードからふらりと1本入った路地に入り込んだ浮浪者は、日々の疲れを癒すために、奥まで入り込んだあたりで腰を下ろした。硬い路面の感触も慣れたものだが、慣れたからといって心地よいわけではない。人間は耐えようと思えば悍ましい悪にも慣れてしまう生き物なのだ……つまるところ、路地で寝ることに慣れていることと、路面の肩さや雨の冷たさ、着の身着のまま寝ることの堅苦しさといった不快が解消されることは、イコールではない。ただ、その現状を仕方なく受け入れているだけ、とも言うか。
こんな風になったのも、いつからのことだろうか。街から人が消え、住居のあるものは皆引き籠るようになった。妙な恐怖が空に渦を巻いているかのような錯覚が、待ちゆく人々を捉え、臆病にさせている。警官が見回りにくることすらなくなったのは、良いことの一つだ。こうなる前は、道端で5分も寝ていればどこからともなく警官が現れ、法律という名の鈍器を以て浮浪者を打ち、その場から退去させたものだ。あの頃に比べれば、寝たいときに寝られるというのは幸運だ。とは言え、以前より就労の可能性は減り、お陰で日々の糊口を凌ぐことで精一杯だ。
最も、浮浪者は、そんなことも自然と受け入れている。ホワイトチャペルと言う名の掃き溜めにまで堕ちていった人間たちは、皆、世界の不条理を唯々諾々と受容することに慣れきっている。そうでないものは、もう皆死んでいるし、また死んでいくのだ。
いや、その言葉は、実質正確ではない。唯々諾々と受容していても、死に神は不条理にやってくるのだ───。
そう、この時も、端的な不条理さとともに。
浮浪者がこくこくと眠りに半身を浸され始めた時、それはやってきた。闇黒とともに、昏い獣臭が膨れ上がる。ぽた、ぽた、と滴るのは、雨ではない。もっと粘度が高く、猥雑で、有機的で、つまるところ、それは垂涎だった。どす黒い闇暗がそのまま象られたかのようなそれから突き出た顎からは、銀色の刃が顔を覗かせていた。
浮浪者は、そのまま目を覚ますことなく捕食された。大口に咥え込まれ、無数の牙に切り刻まれ、磨り潰され、破砕され、上は脳髄から下は子宮に至るまでの内臓は粗びき肉団子にされ、飲み込まれていった。
極めて獣じみた所作でありながら、その手口は鮮やかの一言だった。血の一滴、毛の一本の痕跡すら残さずに、浮浪者の女は跡形もなく消え去った。
しばし、その闇黒はその場に留まった。未だ慣れないこの世の肉の味に困惑していたのか、それとも別な理由なのかは伺い知れない。ただ空を見上げたそれは、降りしきる雨の向こう、分厚い曇天の先に横たわる光帯を、凝視した。
あれが、この世の法を焼き尽くした因果の根本。ヒト、という種の陳腐な悪性の発露。取るに足らぬ失笑物の児戯だが、何にせよ、それにとっては僥倖だった。アレが無ければ、たとえ窓が開こうとも、この世界に来ることは能わなかった。
くつくつと嗤いのような音を喉元で鳴らしながら、時折、それは酷く咽た。血走りの咳き込みを吐き出しながら、それは、厄介そうに唸った。
この世界は、酷く息苦しい。動くだけで身体が軋む。この身体は全く以て不完全だ。所詮は仮生の肉体とはわかっているが、これならばあちらの肉体の方がまだ良かったか。
詮のない思案を巡らせてから、それは、まぁいいや、と素直に思考を放棄した。今回の戦いの意味は真なる玉体の顕現ではなく、賢しらな、敵を知ることなのだから。
それは、小さく身動ぎした。雨音に紛れて響いた羽音を察知して、素早く路地の奥へと溶けていった。
ぼつぼつと降りしきる雨粒に紛れ、ぱたぱたと軽く空気を叩く音が耳朶を打つ。薄暗い闇に身を潜めながら空を見上げれば、この大雨の中、場違いに飛ぶ灰色の鳥が見えた。何羽かの椋鳥が頭上を過ぎ去る際、それ、は身を縮めた。忌々しく見上げてから、星からの闇黒を凝縮したかのような身体から、唸り声を漏らした。威嚇するようにも、また恐れるようにもとれる声を喉元に鳴らしていた。
この世界に来てから、常にこの街を監視する天からの目。あの女を食い荒らすのに、この身体はまだ力不足だ。
だがあと少し。あと少しで、有望な眷属が産み落とされる。それまでは、この獣の王の身体を以て───。