fate/little bitch ~煉鉄の小悪魔~   作:七草探偵事務所

197 / 243
Ⅴ-2

 「おや、マシュ君じゃあないか」

 多分、その声は、運命のようにやってきた。

 それが、ジェームズ・モリアーティの言葉がやってきたときに、マシュ・キリエライトが抱いた直観だった。

 場所は、屋敷の正面ロビーだ。階段を降りて、索漠と立ち尽くした時、背後から声が肩を叩いた。振り返ると、ちょうどキッチンの入口から顔を出す年寄りの顔が目に入った。

 「お茶飲まないかい、お茶お茶お茶」

 好々爺然とした顔で、なんとも知性の低そうなことを言うモリアーティ。ひょこりと姿を現したやせぎすの男の手には、ティーポッドが口から湯気をたてていた。

 「ちょうど飲もうと思ったんだけどねえ。玉藻君はいないし、女王陛下ももうお茶淹れてくれないしね、困った困った」

 モリアーティは気さくな様子だ。どうかな、と首を傾げて見せる素振りは、とてもあの“ジェームズ・モリアーティ”らしくない。犯罪界のナポレオン、と呼ばれた男には。

 微かな、それでいてどこか芯の強い逡巡が、マシュの脳裏に飛んだ。後頭葉から脳幹を通って、延髄から脊髄まで徹る。

 言ってしまえば、モリアーティ教授は、ある一時代で悪意を積み上げた、悪の親玉のような人物だ。

 自我と関わりのない逡巡の後、マシュは首肯を返した。「そうか、そうか」と機嫌良さそうな顔をした。さっきの逡巡が、何か愚かな見当違いだったような気分すら覚えるほどだ。やはりやめよう、と声を出しかけたが、それも、もう憚られた。何せ、あの犯罪皇帝はにこにことした笑顔を浮かべていて、とても無邪気な様子なのだから。少年めいた表情に否を語るのは極めて申し訳なさを感じさせ、マシュは口に出しかけた言葉を噤んだ。マシュには、無垢なりに発育した良心が備わっていた。それに、ティータイムそのものに興味がなかったわけでもない。なんとなく、気分を落ち着かせたかった。

 じゃあ行こうか、とモリアーティに誘われて、マシュは屋敷の外へ出た。正面玄関を出ると、玉藻の前が鼻歌を唄いながら、玄関前を掃き掃除している。ふわふわと揺れる彼女の尻尾は、とても肌触りが良さそうだ。空には分厚い灰色の雲が横たわっているけれど、雲の隙間からは珍しく青空が覗いている。切れ目から滲む蒼空は目に染みるほどで、体の内側を擽るように満たしていく。

 思わず立ち止まっていると、「こっちこっち」と裏庭の方へ向かったモリアーティが手招きしている。釣られて向かうと、粒の善い朝露が、靴を濡らして、タイツの奥の肌をツン、と鮮烈に刺した。靴に草や土がつくのも構わず、足が濡れるのも構わず、マシュは見なりの善いモリアーティ教授の後をついていく。

 屋敷の裏手まで回ったところで、マシュは、わぁ、と質朴に感嘆の声を漏らした。綺麗に刈り込まれた庭は、多分金時の手柄、だろう。黒く深い森を臨む小さな広場には、空から陽が差し込んでいる。その広場に、木で作りこんだテーブルとベンチが小綺麗に並んでいた。

 マシュの生き生きとした語彙力の中に、この掬するような薫り高い景色を風合いよく語る言語はなかった。小綺麗で小さくて、どこか宝物めいた場所だ、と思った。

 「金時君に頼んでてねえ。寸法通り作ってくれないから、困ったものだよ」

 本当は木材にもこだわりたかった、とモリアーティは漏らしながら、ベンチに座った。近づいてみると、確かにテーブルは全体的にごわごわしている。モリアーティはそれに構わずテーブルクロスを敷くと、素早くティーセットを並べていく。向かいのベンチに座って、マシュは老人のそれなりに手際のよい仕草を眺めた。元々英国紳士なのだから、マナーもできているのだろう。

 「菓子が無いのが残念だね」

 確かにそうだ、と思う。ほわほわと温かな湯気を放つティーカップとくれば、甘い菓子があるべきだ。

 「ま、仕方ない。今日は切らしているからね」

 それもそうだな、と思う。この屋敷の菓子類や食事は、玉藻の前がどこからともなく市井で手に入れてくるものだ。いつも、なんでもあるわけではない。無い物は、ないのだ。

 それでも、些細なことだなぁ、と思う。モリアーティはエプロンをつけたまま、さっそくとティーカップの取っ手をとると、一度薫りを楽しんでから口をつけた。少々不満そうなのは、多分、この屋敷で、より美味な紅茶を散々バラバラ味わってきたからだろう。

 マシュも、紅茶に口をつけてみる。陶器のカップが下唇に触れ、ふわりと香り立つ茶葉の馥郁たる馨しさとともに、舌に心地よい温度が流れてくる。単純に美味しい、ということだけが、マシュの頭に観念として浮かんだ。ライネスが淹れてくれるものも美味しいし、ロマニが淹れてくれるものも美味しい。クロが時折気まぐれに淹れるインスタントコーヒーも美味しいと思うし、マシュはなんでも美味しいなぁと思うのであった。

ただ、なんとなく、心地よい気怠さが空気に横たわっている。少々の不満を覚えながらも、呑気な時間を楽しむモリアーティ教授は、真実呑気そうにしている。マシュも幾分かばかり気が楽になるのを感じたところで、不意に、背後に何かどす黒いものが迫るのを知覚した。

 いや、気のせい、だ。僅かにわき目を横に向けると、何もない。古い魔女の館が、重々しい威容を厳かに湛えているばかりだ。

 肌が、粟立っている。薄手のパーカー越しに腕を撫でたマシュは、言いようもなく、脳裏に誰かの顔が浮かぶのを感じた。オルレアンで出会った鬼の顔だったろうか、それともあの侍の顔だったろうか。大海の上で出会った海賊たちの顔、だったろうか。それとも、マスターの顔だったろうか。だが、最後に浮かんだ顔だけははっきりしている。ローマで出会った、病的な白毛の女の子の顔が頭蓋の底の方から浮かび上がった。マシュは怖気のような嘔吐感が臓腑からせり上がり、思わず身体を冷たく痙攣させた。胃までせり上がってきた吐き気を押し込むように、慌てて紅茶で喉に流した。

 おずおず、とマシュはモリアーティ教授を伺った。年ふりた老人は特に何か気にするでもなく、さっきと同じような呑気さで紅茶を味わっている。安堵しながら、マシュは吐瀉の代わりに、深い嘆息を吐けた。

 「どうでもいいことなんだけどねえ」

 もう一杯、とティーポッドから茶を無造作に注ぎながら、モリアーティは声を転がすように吐き出した。

 「英霊、ってのは厄介だねえ」

 飲むかい、と小首を傾げるモリアーティに、マシュは素直に頭を下げた。カップを差し出すと、やはり無造作に、じょぼじょぼと注いでいく。

 「私という完結した存在が完結した存在でこの現象の世界に召喚される……というのは、色々、つまらないことだ」

 何故、と問うと、モリアーティは失望するように続けた。

 「だって、私の知性はここで完成し、これから先拡張されることもないんだヨ? 勉学に携わるものとして、自分の頭脳が頭打ちだと思い知らされるのは、とても不愉快だネ」

 だから、こういう余分なことをして楽しんでいる。そう、モリアーティは続けて、紅茶をちびりと口に含んだ。

 英霊は、英霊の座に辿り着いた時、そこである種の完成形として登録され、保存されるのだという。そこから変質することはなく、ある意味でそれは人間としての、成長の終わりを意味するものだろう。モリアーティの細やかな嘆きは、ただそれだけの単純さで、単純であるが故に、何か胸を打った。

 「ま、今は色々楽しんでるからいいけどね。悪事を働けないのがちょっと残念ではあるが」深いため息は、多分、ネガティブなものとポジティブなもの、どちらの情動をも綯い交ぜにした志向性のものだった。「たまに、自分の存在の枠の外で呑気にしているのもいいもんだよ」

 今さらのことだけれど、目の前にいるこの人物は、あのジェームズ・モリアーティその人なのだ、とマシュは思い出した。創作の人物ではあるけれど、犯罪皇帝と呼ばれ、ロンドンのあらゆる悪逆に張り巡らせた蜘蛛糸のように関わっていた人物。彼の本質は害悪を為そうという悪意そのものであって、カルデアに協力的な理由も、人の世の存続がなければ悪もまた消えるという、そんな立脚点に依るものなのだ。

 英霊は、その存在を規定された時からそうあるものとして措定される。反英雄は英霊の座に召し上げられた時から、それ以外のものに変容する可能性を、途絶されるのだ。モリアーティ教授は、多分、そういう事実自体を何の気なしに受容するだろう。自らの自由意志を以て悪となった人なのだから。英霊の座、ひいては人理が存続する限り悪そのものと措定されたところで、痛くもかゆくもないはずだった。

 では、そうでないものはどうであろう。神代の魔性たちの中には、自らの意思と関わりなく、そもそもが悪として産み落とされたものもあろう。ミノタウロスなどは、そういった事例なのだろう。

 そして、多分、この胸の内にわだかまるこの何か、も。悪以外のものとして生まれようもなかったものに向けるべき感情など、一体どのようなものが可能であろうか。

 正義?

 同情?

 共感?

 怒気?

 義憤?

 恐らくは、そのどれでもないし、またどれでもある。それは雑多な感情の渦なのだろうか。それともいずれの言語でも捉えられない、沈黙せざるを得ない不定の情動それ自体を指すのだろうか。それとも、全く別な事態なのだろうか。

 頭の中に、鈍痛が淀んでいる。懊悩が固着したような、硬く、鈍い痛み。マシュは沈黙せざるを得ず、そしてその通り、黙してただコーヒーを口にした。

 「羨ましいねえ、マシュ君は」

 顔を、あげた。のほほん、としているモリアーティの顔を、注視してしまった。

 「デミ・サーヴァントのことは知っているよ」半分になった紅茶の表面、それに映る自分の顔を見ている、らしい。所在なく、モリアーティはカップに瞥を与えている。「要するに、君は今を生きる人間というわけだ」

 「善となるか、それとも悪しきものとなるか。何にせよ、変貌する可能性の未来を持っている、というのは善いことだよ。それが多かれ少なかれ、ね」

 犀利な男の声は、きっと古寂びた声帯が奏でた和音のようなものだったのだろう。静かに刺すような言葉でありながら、その針に痛みはない。それでいて核心にまで差し込まれるその言葉は、マシュの胸郭の奥底にまで届いて、鬱勃と膨れるような情動を掻き立てた。きっと、その時の情動は、マシュの顔に現れていた。ビスクドールのような質の良い肌が醜悪に軋み、白い肌に赤みが指していた。多分、数秒ほど。横溢するほどの情動の処理の仕方がわからなくなって、マシュは、今すぐにでもここから逃げ出したくなっていた。でも、そうはしなかった。できなかっただけだろうか。そうかもしれないし、そうでないかもしれない。どちらにせよ。逃げないことをよしと考えることにした。逃げることは重要だが、重要な局面で逃げるのは、多分間違ったことだと思ったから。

 もう少し飲むかい、とモリアーティは気さくそうに述べた。やはり無言で、頷きだけで肯定したマシュに対しても、彼は何の気もなしに心地よくカップに紅茶を注いだ。マシュの雪いだ分で全てらしい。最後、小さな滴を垂らしたポットの口をハンカチで拭きながら、モリアーティは「僕も一応、教授職だからね」と一言付け加えた。

 まだ、あの鈍麻な傷みは続いている。硬い感触は続いている。じんわりと肥大する腫瘍のような疼痛だけれど、気分は落ち着ている……ような気がした。

 その後のことは、正直あまり覚えてない。穏やかな様子のモリアーティは、とつとつと染み出すように言葉を漏らしていたと思う。数学のことや物理学のこと。物理学は実は数学と仲が良いわけではなく、都合がいい言語だから数式を使っていること。紅茶のこと。宿敵たる探偵のこと。紅茶が切れたことも、声がかすれ始めたことも、時折咽ながらも、何か必死に、モリアーティは言葉を続けていた。マシュは、それをどこか上の空で聞いていた。多分それは重要でなく、だからこそ重要な言葉たちだったから。そしてそれは、彼も了承していた。だから彼は必死だった。

 モリアーティの言葉を脳髄の聴覚野で受け取りながら、その思考は、もっと別な所を逍遥していた。生まれてからの出来事。冬木での出来事。オルレアンでの出来事。ローマでの出来事。海原の上での出来事。そして今、目の前に現れている、出来事。

 それから、多分10分ほど会話をしてから、何か自然的に、マシュとモリアーティ教授は分かれた。教授はもっと紅茶を飲みたいと言ったのだったか。それとなく、自然に、不調和ない別離だった。

 「では、ばいばい」

 可愛らしく手を振って見せるモリアーティ教授の姿が、印象的だった。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。