fate/little bitch ~煉鉄の小悪魔~ 作:七草探偵事務所
深い、嘆息だった。からからと乾いた喉は妙にいがいがしていて、喋りつかれたのか頭がぼう、っとする。恨めし気にカップに残ったほんの僅かな紅茶の残骸を視つつ、これで良かったかね、とモリアーティは独語のように呟いた。
(はい、すみません。ありがとうございます)
音声だけが、どこからともなく耳朶を打った。いや、モリアーティ自身は声の出所を知っている。気だるげにパンツのポケットから携帯用の、手のひらサイズの情報端末をテーブルの上に放り投げると、空中に青白い映像が投影された。
青白い画面の向こうに、のほほんとした顔が1つ。その後ろに並ぶ顔3つ。各々、思い思いの表情だ。「善いよ別に」と一番手前の顔……リツカに言うと、モリアーティは続けた。「まぁこれでも、教授職だからネ」
「マシュ君にも言ったけど、英霊なんて存在はつまんないものさ。生前だけどね、私の自慢の教え子もいたよ」
(悪だくみをする、ですか?)
「勉学の話さ」
にへら、と穏やかに表情を緩めるリツカに、モリアーティは一度心外そうな顔をした。してから、同じように顔を緩めた。「もちろんそっちも」
「君でもよかったんじゃあないかな」リツカと同じように呑気そうな顔をしながら、モリアーティは手遊びのように、カップの縁を指で撫でた。「君は十分に聡い」
(まぁそうでもいんですが。マシュには、色んな世界を見て欲しいですから)
「結構、殊勝なところあるねえ」
(一応、私もマスターなので)
モリアーティは、それとなく。モニターに映る少女の姿を視覚に捉える。
19歳。小柄な彼女の眼差しの中に、強い芯のようなものはない。むしろ彼女にあるのは、もっと別な、しなやかさとでも言おうか、深みのようなものだ。自分とも違う。あのクソ忌々しい探偵とも違う。この女には、何かがある。極めて陳腐な表現をすれば、譲れないもの、のようなものが。
それが何であるか、モリアーティはそれなりに気づいている。彼にとってはそれ自体はさして興味もないが、たかだか凡人がそう在ることは、興味深いことだろう。人間を辞めている、などと。
まぁ、案外そういうものなのかもしれないが。モリアーティは気づいても気にもせず、しみじみと19歳の女の顔を眺めた。
「それで、わざわざお母さんごっこをするために連絡を?」
(悪いですか?)
「食えないねえ、君」予想通りに素知らぬ顔のリツカに辟易しつつ、モリアーティはもったいぶったように続けた。「調査の結果だろう?」
「結果は、当初の予想通りだよ。この歴史の特異点化は、聖杯のピークパワーの予測曲線の頂点部の直後にあたる時間で発生した」
やはり、と小さくリツカは頷いた。後ろの3人の内、何が何やらという表情をしているのは1人だ。無論、トウマ少年である。
(聖杯の魔力によって特異点ができたのではなく、聖杯の魔力によって発生した何か別な原因によって、この世界が歴史から分断された……そういうことだね?)
「そうなるね。そして、それはどういう意味だと思う?」
(一番嫌な仮説は)リツカは、至って平静な顔だった。(この世界には、聖杯になど頼らずとも人理定礎を崩壊させるだけのプレッシャーがある、というところかしら)
この、画面越しの会話というのは空気感が伝わりにくい。対面のやり取りでしか感じられない微妙な印象の変化が、捉えきれない。にもかかわらず、この5人の間に妙な緊張感が高まっているのを、モリアーティは肌で感じた。
(あの、人狼? がそれ、というわけではないんですか。や、そうじゃないから今そう言う話になっているんでしょうけれど)
おずおず、と背後の1人が手を挙げた。少し癖のある黒髪の下で、少々困惑気味の様子のトウマだ。
(その可能性もあるけど、正直あの獣が生み出されるだけで聖杯の力の8割を使用しなければならないとは思えないかな。良くて幻獣ほどの生物、現代でもほぼ居ないとは言え絶無ではないしね)
(つまり、所詮中ボスってわけさ。あの“猟犬”は)
斜に構えたように、ライネスは不敵に言う。やっぱり、と言うように途方に暮れるトウマの心境は、モリアーティもわかる。それは主に、2つの理由からのものだろう。1つは、強大なはずの敵があくまで前座に過ぎず、なおそれを上回る敵がいるということ。2つは、その敵に関する情報が皆無、ということだ。戦いを決するのは、如何に勝てる状況で戦闘を始めるのかが鉄則だ。そのために、情報は極めて高い意味を持つ。それが欠如しているというのは、思わしいことではないのだ。
そんな風に目を丸くするトウマに対して、クロは違った反応をしていた。(わかったの、アレの名前)
(あぁ。名前、というよりどんな化け物なのか、という情報だけなんだけどね)
一度、ライネスは咳払いした。緊張の面持ちを浮かべるクロに、努めて素っ気なく、続く言葉を漏らした。
(“猟犬”。今のところわかっているアレの呼称は、それだけだ。ただ、文献にある姿とは大分異なる。それが意味するものが何なのかはちょっとわからないが)
(どうやら、大分遠くのお星さまからいらっしゃっているようだよ。大儀なことだ)
(宇宙人じゃない)
(宇宙人だろうが神様だろうがなんでもいいさ。生きているなら殺せるもの)
髪を指先で弄りながら、リツカは軽口で応えた。
(ま、何にせよ、今はその猟犬君をどうコロコロするかが最優先ってわけ。警戒はしなきゃいけないけど、正体もわからないものに対策を立てようもないというのも、事実だからね)
クロは納得したように頷いているが、トウマはまだ途方に暮れている様子である。それでも頷いているあたり、飲み込めない情報量を消化しているのだろう。存在はあくまで凡夫の域を出ない男だが、その広いとは言えない器量の中を最大限に活用しようとしているのは、褒められたところだろう。
危険があるからといって、立ち止まって得られるものは何もない。単純な真理だが、そこに立ち向かえる人は、そう多くはないのだ。結果立ち向かえるならば、果敢な姿勢か、それとも臆病な姿勢であるかは、そう大事ではない。英雄とは、結果のことであって過程を問わぬものなのだ。
「それで、そちらの収穫は?」
(あぁ、例の本。正直、まだ読んでいる途中だから曖昧なんだけれど)リツカが、背後のライネスを振り返る。プラチナブロンドの髪の少女が頷くと、リツカは続けた。(どうやら、上級死徒に関する何某かの資料、みたいなところだね)
「死徒とはまた新要素すぎないかね」
思わず声を挙げたモリアーティの心情はほぼほぼ呆れのようなものだった。何やら謎を大きく湛えた特異点であることは、今に始まったことではないけれど。やれやれ、とでも言うように、画面の向こうでもリツカが髪を弄っていた。
「一応確認するけど、例の実験の時に人狼……“猟犬”が落としていったものなんだね?」
(そうですね。間違いなく、あの広場にはこんなものはなかったし、また存在している必然性も見当たらない)
(一応だが……中でも、『タタリ』と呼ばれる死徒に関する資料、のようだね)
ライネスが悩まし気に言う中、モリアーティだけがその表情の変化を察知していた。
トウマ、だ。今まで、どちらかというと小市民的な困惑を質朴にも浮かべているに過ぎなかった少年の表情に、何か険しいものが奔った。何事か、怖気のようなものを惹起させながら、同時に沈思するように視線がうろついている。いや、彼だけではない。トウマが一瞬だけ瞥見をクロに渡すと、彼女の表情も、ほんの僅かにだけ強張った、ように見えた。
何か、2人にはある。直感的に理解しながら、モリアーティは静観することにした。というより、より重要な要素がありすぎて、それどころではなかった。
「心当たりは」
(ちょっと無い。何分、死徒関連の出来事は時計塔よりも教会寄りの情報だから。カルデアのライブラリにも、そう詳しいものはないみたいだ)
「なるほど」手遊びのように口ひげを撫でたモリアーティは、わざとらしく言った。「つまり、私に見聞をして欲しいということかな?」
ともすれば挑発的なモリアーティの物言いに、リツカはちょっとばかりの苦笑いを返した。はい、と肯定しながら。
(文献学は専門外とお見受けしますが、教授の頭脳があればなんとでもなるでしょう)
穏やかに言ってくれる女である。要するに、彼女は、これから始まる掃討戦の間に一通り目を通しておいてくれと言っているのだ。時間にすれば1日あるかないか。とすれば、彼女の要求値はそこまで高くはないが、最高の頭脳を遊ばせておくのも勿体ない、とでも思っているのだろう。
「ま、作戦中僕は暇だからネ。君らの資料もあるし、やってみせるよ」
(すみません、助かります。一応、手元にある資料は後で持っていくから)
それで、話は終わりだった。こういう機器を使用しての会話は、辞め時がわからないから辞める時はスパッと辞めるものだという。じゃあ、と手身近に挨拶だけして投影映像が消えるのを見止めると、モリアーティはぎしり、と背もたれに身体を預けた。
死徒、というものに関する知識は、モリアーティにはあまりない。生前、何やら吸血鬼がどうこうという事件があったような気がする……そんな程度の認識だ。英霊の座から選られる知識の中で、当代の知識ではなくより英霊全般に関する普遍的知識の中にも、それらはない。
ただ、なんとなく直感がある。
多分、この死徒と呼ばれる事象そのものが大きな鍵にはなっていない。一瞬だけ過った思案……死徒なるものが聖杯によって生み出されたという懸念は、多分懸念だけだ。もしそれほどのものである可能性が高いならば、最初の会話をするのは不毛だろう。とは言え、やはり無視できる要素ではなく、戦う可能性があるなら事前に情報を仕入れておくべし。それが、リツカの思考というわけだ。
当然の合理性。戦うという行為に身を投じる人間であれば巡らせる、当然の数学的思考。それ自体に疑義申し立てをすることはしないけれど、それでもモリアーティは幾ばくか、薄ら寒いものを感じざるを得ない。齢19、年端もいかぬ少女が、ごく自然にこの思考を繰り広げている事実が、である。魔術に関しては疎いモリアーティだが、曰く彼女が魔術師としては特別優れているわけではない、というのはわかる。にも関わらず、彼女の備えた知性は何なのか。
人類というのは奇妙なもので、時に、アプリオリな怪物を生み出すものだ。何の必然性もなく、また因果もなく、人理は天才を産むのだから。ただ、そういったありふれた怪物というものか。
自らもそういった怪物であることを棚上げして、モリアーティは自己解決する。思考にはリソースがあって、そして思考すべき対象にはプライオリティが決まっている。リツカが如何なる存在か興味がないわけでもないが、プライオリティはさして高くなく、またリソースも有限であることを考えるならどうでもいいことだ。それに、有能な人間と仕事をするのは得てして気分が良いのだから、それでいいのだ。
「お、きたきた」
案の定、情報端末に素早く情報が送信されてきた。データは2つ。例の本をデータ化したものに加えて、ライブラリ内にある死徒なるものに関する情報をまとめた資料だ。ざっと流し見てから、モリアーティは後頭部を掻きむしった。
素直に、よく纏まっている。その上で、どこまで調べればいいのかの期待値まで透けて見える。
正直なところ、1日でやるには少々分量としては多いのだが。幾分か顔をくしゃくしゃにして思案してから、口元に年ふりた嫣然を浮かべた。
若者が、老人に期待を寄せるというのだ。分不相応の期待には、つい応えてしまいたくなるのが悪人というものだろう。こういう善人がいるのだから悪意を為すに価値があり、またやりがいというものもあるのだ。善性と逆の悪しか有り得ず。対偶の悪などは単なる子供だましの悪でしかないのだ。
「要するに。人理焼却、なんてのは悪でも何でもないんだよねえ」
のたり。椅子から立ち上がったモリアーティは、出窓の傍によると、鍵を回した。くるくると鍵を捩じった後、玉藻の前がすっかり綺麗に磨いた窓を開ける。山の冷厳な風が無節操に吹き込み、よく整えた灰色の髪の毛を浚っていった。
「人類悪なんてのは、ただの善性の暴走。くだらないくだらない」
そうだろう、とモリアーティは振り返った。
白い、朧な霞が佇んでいた。僅かに覗く目元には、空虚な無邪気さが覗いている。
「やあ、お久しぶり。座って良いかな」
そんな風に言いながら、彼はモリアーティの返答なんて聞かずにずけずけとベッドに腰を下ろした。ちょっとだけ顔を顰めたが、コイツはそういう奴なのだから仕方ない、と思い直した。
「直接お出ましとは珍しいじゃあないか」
「1回くらいは見ておきたいと思ってね、未来のロンディニウムも」
「千里眼があるんじゃあないのかい?」
「僕の千里眼、あくまで現在を対象にするものだからね。それにこの特異点、どうにも見通しが悪い」
椅子の位置を直した。モリアーティは足を組むと、健気そうに座る白い朧な影に相対した。
「何か、事が早まったということかな」
「ティアマト神が堕落した。少なからず、彼女たちがバビロニアに来てくれるまでは覚醒段階には入らないと思われるが」
「いや、それ以上は結構。情報を早く接収したいのだろう? 論理は組み上がっている。あとは、君の手腕に期待するよ」
白い靄の中、軽くそれが身を揺らした。無邪気、というよりは極めて自然的な嗤笑は、とても様になっている。モリアーティはデスクの上に出したままになった情報端末を、その人物めがけて放り投げた。
ちょっと危うくそれを受け取ると、白い霞は物珍しそうにその端末を眺めた。流石に、人類最新の機器は見慣れていないらしい。
「折角なら、情報を吸い出してもらっておいたら便利だったんだけども」
「元は特異点修復後に来る予定だったんだろうに」
「吸出しに10分ほど時間を戴いても?」
「早いな」
「まぁこれでも、一応は宮廷魔術師なんてものをやらせてもらっていたので」
要するに、王家御用達の人材であるくらいの自己主張はあるらしい。半分は化け物でも、半分は人間という訳だ。最も、謙遜というよりはまだまだ卑下が過ぎると思うが。
「例の敵……なるほど、“猟犬”って言うのか。言い得て妙だね」
手慰みのように機器を弄びながら、白い霞が言う。こんな作業をしていても、同時にあの機器から、これまでこの特異点で集めた全ての情報の閲覧を行っている最中なのだろう。
「こちらも戦った。最も、キング君がだけど」
「倒したのかい」
「バビロニアに、少々姿を現してきている敵がいてね。なるほど、この転移条件ならキング君や頼光君が戦いやすいというのもわかる」
ほとんど独語のように言ってから、白い靄が身動ぎする。すっぽりかぶったフードの下から、何か伺うような視線がこちらを向いた。
が、その時は何も言わず、白いそれは被りを深くした、
頭が痛い話だ、とでも言うように首を振る。その素振り以降、それは特に何も言わず、残り7分21秒を黙々と吸出しに専念するらしい。
「じゃ、ここの特異点は任せるよ。多分、フジマルリツカならなんとかできるだろう?」
「どうかな。で、女王陛下には、お会いにならないのかい」
「遠慮しておくよ。妖精の彼女には頭が上がらないから」
シ ュタ、とでも言う擬音語が聞こえてきそうな軽い身のこなしで、白い影が窓枠に飛び乗っていく。まぁ気持ちはわからんでもないな、と思いつつ、モリアーティはその身振りに呆れのような、失笑のような感情を漏らした。
「そう言えば」ほとんど身を乗り出したところで、くるりと丐眄した。「些末な質問なんだけど」
「どうぞ?」
「間桐桜、という人物を知っているかい」
間桐桜、?
直感的に日本人の名前だ、と理解できたのは、同じ日本人の名前をした人物と今まさに共同作業をしているからだった。だが、わかったのはそれだけだ。その名前には一切覚えはなく、モリアーティはいや、と軽く肩を竦めた。
「重要なことかな」
「いや」首を振ったものの、僅かに伺い知れる口元には、微妙な疑心が浮かんでいる。「大したことではない」
そうか、すまないね。モリアーティは、特に頓着もなくそう返事をした。彼は極めて合理的で、その上でどうでもいい事象に関わることは好きではなかった。
「教授? お茶ができたのだわ」
「げ! じゃあ!」
窓からさっさと飛び降りるのと、ドアが開くのは同時だった。後ろで黒い髪を緩く結んだエリザベスは、不思議そうに部屋を見回した。「あら、換気?」
「最近は未知のウイルスが怖いからね」
「そうね。確かに、何がいるかわからないもの。妖精みたいな臭いがするし」
素っ気なく言うエリザベスが、果たして物事を理解した上で喋っているのか、偶然なのかは不明だった。はいどうぞ、と音もなくテーブルの上に置かれたティーカップからは、熱い湯気が立っていた。
ふと、モリアーティは彼女の顔を、注視した。エリザベス女王は、鼻筋通った利発そうな顔だちだ。とは言え、この顔立ちは真性にエリザベス女王のものというわけではなく、依り代となった少女のものらしい。それでもエリザベス女王、という認識を成り立たせているのは、本質的に、2人の気高い気質が似通っているからか。
だが、モリアーティの感受性に引っかかったのは、そういったものではない。もっと漠然とした、気まぐれのような感覚だった。
何故か、先ほど聞いた名前が、エリザベス女王の表情に重なる。とは言え、それはあまりに希薄な気分のようなものだった。じゃあね、と颯爽とした風のように去っていくエリザベス女王の素振りに、そんな曖昧な印象はすぐに吹き消されていった。それに、モリアーティにはもっと重要なことがあるのだ。
それでも、最後にふわりと淡くその名が浮かんだのは、偶然と必然が双生児のように連結した、運命のようなものだったか。取り止めもなく、モリアーティは部屋に残る花のような薫りの残滓を嗅いだ。