fate/little bitch ~煉鉄の小悪魔~ 作:七草探偵事務所
誰か、起きてるのだろうか。
微かに耳朶を打つ足音に、マシュ・キリエライトは、何故か足を止めた。息まで殺した。奇妙な疚しさのような感情が全身の毛細血管を浸していた。
足音が、遠ざかっていく。個人的決意、哲学的に敢えて言語表現すれば俗人的な実存的決意を胸に奥深く抱いた立華藤丸の規則正しい足音だったのだが、流石に別フロアにいるマシュにはそこまでのことはわからなかった。不幸にも、あるいは不運にもマシュがその足音に感じてしまったのは、もっと薄暗く、ひたひたと歩くような……自分に這い寄ってくる、詰問する夜闇の足音のように聞こえたところだった。
後頭部に、何か暗いものが忍び寄っている。そんな妄念が過り、マシュは身体を強張らせた。
嘆息を吐く。バイタルデータを呼び出してみる。体温、血圧、心拍数、酸素飽和度。どれも顕著な以上は認められない。気分の問題、と割り切って、マシュは顔を挙げて、正面のドアを見据えた。
ゲストルームの3フロア目の一画。オーク材の手触りの善さげなドアは、この屋敷の品の良さそのものを伺える。ただ、どうにも気後れしているマシュにしてみれば、この歴史的厳かさが、どうにも拒絶的にも感じられる。
……いや、多分、その拒絶感は、自分の心理的要因が大きい。マシュは、こんな時でも冷静に、対自的に己を理解する。理解した素振りで己を律して、マシュは、ドアへと手を伸ばしかけた。
「お待ちになって」
ひゃ、と悲鳴を上げなかったのは、マシュがきちんと戦う人間として訓練され、しっかりと錬成されていたからだろう。心理的事象を即自的に生理的仕草に直結させないように、彼女は己を相応にコントロールできる。
だからといって、ビックリしないわけではないのだ。実際マシュは心臓が止まるほどにびっくりしたし、俗っぽく言えばたまげた。
だってそうだろう。可能性が0ではないとは言え、この屋敷に全く探知されずに潜入し得るレベルの気配遮断など、到底想像外の出来事だ。とは言え味方にそういったスキル持ちもいないのだから、完全に不意打ちだったのだ。
恐る恐る、振り返る。暗い廊下に朧に浮かぶのは、何やら赤いあくま……ではなく。腕を組んで、微笑を隠すように口元に右手を添えた、エリザベス女王だった。
「えっと、あの」
「中国拳法。境圏、というのだったかしら。ま、それはどうでもいいのだけれど。ここ、貴女のお部屋ではありませんわ」
「いえ、私は」
「わかっていますよ。でもおやめなさい。リツカはお休みになっていますから。敵襲以外、起こすなと仰っておりましたでしょう? 今ばかりは、良い夢をご覧になっていただきましょう。それが、忠臣の務めかと思われますが」
エリザベスの振舞や表情、そういったものには一切の変化はなかった。にも関わらず、ぴしゃりと言い放った言葉は金属めいた硬質さだ。女王、という肩書を感じさせる声色。マシュは、小さく肩を竦めた。覚えず畏縮したというよりも、エリザべスのその声質に思い当たるものがあったからだった。要するに、疚しさのようなもの。
「眠れないのね、ついていらっしゃいな」
身を翻すエリザベス。ふわりと静かな闇を孕んだ空気を飲んだダークグレーのロングスカートが凪に遊んだ。
「私では、役者不足かと思いますけど。どうかしら」
「いえ。その、大丈夫です」
変な返答になったかな、と思った。マシュ・キリエライトは基本的に丁寧な人物だが、身分卑しくない人物に対して、適切に礼を払えるほどに大人でもない。
だが、そうしたものを寛恕できるのが、身分の高い人物の徳なのだ。構いませんよ、と応えたエリザベス女王の振舞はまさしくそれであった。
畏れ多い、という感情をマシュが知ったのは、多分この時だった。ネロの時も感じたけれど、彼女の振舞と自分たちの立場を鑑みれば、どちらかと言えば友人のようであった。
エリザベスに連れられて向かったのは、3階のバルコニーだった。3階ロビーの出窓を開け、冷然たる夜風に身を包まれながら、マシュはなんとなく、鬱屈した熱のようなものがちょっとだけ和らぐのを感じた。
「タマモやアリスほど上手くはないですけれど」
そう言って、エリザベスは道すがらに寄ったキッチンから拝借してきたティーセットを広げていく。テーブルクロスを広げるのを手伝わされつつ、マシュは丁寧な手順でカップに紅茶を注いでいくエリザベスの身振りを見守った。
「ティータイム、とは言えない時間ね。でも、たまにはこういうのも良いでしょう」もうもう、と立ち昇る白い湯気を見つめ、しみじみとエリザベスは言葉を漏らした。「どうかしら。闇夜の中であれば、秘め事を漏らすのも幾ばくかは憚りないでしょう」
薄く漏れる屋敷からの灯を受け、ぼんやりと、エリザベスの顔立ちが浮かび上がる。溌剌とした東洋人のかんばせに浮かぶ、思慮深い柔和な面持ち。
エリザベス女王。善き王として16世紀に君臨した、イングランドの女王。それが、彼女。
「幸い、私はあなたより少しだけ長く生きたことがあります。非才の身ですが、応えられることもありましょう」
「恐れながら」だから多分、つい言葉が口をついて出たのは、偶然ではなかっただろう。「女王陛下にそのお尋ねしたく」
「はい。なんなりと申しなさい」
「少しだけ、迷っています。私が戦うべき敵は、誰であれ、悪であれという生き方しかできなかったもの、だと思います。それを、私に……私たちに討つ資格があるのかどうか、わからなくて」
注がれたローズティーに視線を落したまま、マシュは控えめながら、しっかりと言葉を残した。
マシュ・キリエライトの特性は、精神力をそのまま防御に転換する、そういう類のものだ。迷いがあれば、その守りはどうしてもその分だけ脆弱にならざるを得ない───そういう理屈を盾にした、弱音のようなものだった。
難しいわね、と独語のように呟いてから、エリザベスは思案するようにマシュを伺った。5秒ほど沈黙を遊ばせた後、エリザベス女王ははっきりと口にした。「倒すわ」
「理由は簡単。今回の戦いにおいて、私たちは少なからず大儀を以て戦っているわ。その障害になるものは、排除する。資格の有無なんて関係ないのよ」
「でも、それでは」
「お悩みになる気持ちはわかるわ。私も、ずっと色んなことに悩んで、決断を下すことが厭わしいと思って生きてきました。
でもいい、マシュ・キリエライト。世の中には、色々な観点で生きている人間がいるわ。各々には各々に立場がある。大儀を以て、事を進める人間はそれらを勘案しなければならないわ。そして、往々にして、私たちは全ての要求を満たすことはできぬもの。正義と正義の確執であれば、まだ事の理解は容易でしょう。ですが相手が端的に悪しき者であった場合、それはなお困難を極めるでしょうね。
どうして良いかわからなくなった時は、一度立ち止まり、己の為すべきことを振り返りなさい。それが分かった時、為すべきことを躊躇ってはなりません。
そして。時にあなたの義務を履行する際に、流さなければならない血があるのだとしたら……自らの手を、汚すことを厭うてはダメよ」
あ、と思った。
思い浮かんだ光景は、もう、何か月も前のこと。オルレアンで王妃を送り出し、音楽家を贄にして、邪竜の前に4騎で陽動をしかけさせ、もう一方のマスターとサーヴァントを死地に送り出した、彼女の姿だった。
それだけじゃない。ローマであのゴーレムを討てと彼女に命じた彼だって、そうだろう。
最後に浮かんだ景色は、あの船の上だった。ヘラクレスに立ち向かえ、という命令を下した、藤丸立華の顔だった。
「責任を担う主体は、潔癖であり続けることはできないのです。なのに自らが切り捨てた者たちを背負い込んでしまおうとするのは、とても愚かしいことでしょうね……」
※
「あなたって、案外お節介よね」
開いた窓から漏れ聞こえる声を耳朶に、クロはちらっと横を一瞥する。開いた窓を挟んだ向かいに、壁にもたれかかるクロと同じような恰好で立ち竦む黒一色の姿は、奇妙に身動ぎした。
ひた、とこちらを見据える目は、昆虫の甲羅のような艶っぽい無機質さがある。それも慣れた感覚で、ほんの僅かに滲む気まずさのような表情は、仄かな照れの対偶の情動だった。
「あなたも、そう」
「私はまあ、先達のようなものだし。ほら、先輩って、道を示すものでしょ?」
「なら、私も」アリスは、ちょっとだけ窓から顔を覗かせる。バルコニーでは、まだ、マシュとエリザベスが喋っている。「私は人形師で。私も、似たようなもの」
そうね、と、クロは特に拘泥するでもなく、答える。長年続いた家系の魔術師など、見てくれは人間だが内実はむしろ人形のようなものなのだ。積年の研鑽によって錬成された魔術によって、身体の隅々まで改造されつくされた怪物。それが1000年クラスの家系ともなれば、形が同じに見えるだけで、ほぼ別種の生物ですらあるだろう。
生ける芸術品。それが、魔術師というものの、本質なのだ。
「憐れみ、というのは不思議な感情ね。いえ、もうそれは感情ですらないのかもしれないけれど」
「同胞感情?」
アリスは、肩を竦めた。自分で言ったけれど、クロもそうだと思う。マシュ・キリエライトという人物に、アインツベルンの彼女は、別に
多分、もっと垂直的で、それでいて水平的な、奇妙な関係性。不平等で非対称的であるが故に生じる、多分自由と呼ばれる振舞。それが力への意思に基づいた同情であり、憐憫、というものなのかもしれない。
「形相は、質料の内に秘められている」
「アリストテレス?」
「善き魂を持つあの子は、きっと立派な人なのね」
独語のように声を漏らしてから、アリスは、クロの姿を目で捉えた。
「恋愛感情を抱けるのも、きっとそう」
酷く鋭い、刃のような言葉だった。あまりの鋭利さ故に、一切の痛みを伴わない言語。はっとしたクロは、一瞬だけ顔を赤くしてから、すぐに平静を取り戻した。「まぁ、そうね」
「あなたは」そんなクロの取り繕いなど知ったことではない、というように、アリスは続けた。「あの少年君のこと、好きなのね」
今度は、沈黙しか言えなかった。ほんの僅かに口角に微笑を浮かべたアリスは、あの昆虫めいた無機質さで呟いた。「これでおあいこ」
アリスの様子は、普段とそう変わらない。ビスクドールのようにも、あるいは日本人形にも見える硬い表情に、抑揚のない声色。仏像のそれにも似た微笑だけが口角に浮かぶ様は、何か超然としたような印象を感じないでもない。にもかかわらず、クロは直観的に、観念を惹起させた。
無邪気な、笑い顔。ナーサリーライム、という彼女の真名が、脳裏を過った。
「身構えてさえいれば、後悔しても、受け入れられるものよ」
「言われなくても」
「なら、いいの。恋する英雄さん」
音もなく、アリスは壁に寄り掛かっていた身体を起こした。人形師である彼女にとって、マシュ・キリエライトが気にかかる存在者というのなら、多分、クロエ・フォン・アインツベルンという存在者も、やはり似たようなものなのだろう。
無言で立ち去るアリスの背を見やる。なんだか決まり悪く後ろ髪を弄ぶ。おあいこ、と言ったアリスの口唇の動きを思い出し、ちぇ、と舌打ちした。
クロも、静かに身体を起こした。外では、まだマシュとエリザベスが静かに喋っている。一瞥だけを残して、無音の足音が床を咬んだ。
自分のすべきことはわかっている。あの時の感覚は、まだ残っている。いつか自分が抱いたあの気持ちとよく似ていた、ただ存在することだけを希求する原初的な情動。
きっと、彼はもう、そこから足を踏み出している。原初性は根源性と等価ではない。石清水がやがていくつもの流れと絡まって大河になるように、思想は流れるが故に、原初性を超越する。超越論的経験のように。
否、というべきか。だからこそ、というべきか。内心の己が情動を、クロエ・フォン・アインツベルンは、ちゃあんと理解した。そして、己が為すべき義務を。
「だから、力を寄越しなさい───」
※
珍しく、アリスは鼻歌を唄っていた。恐らく自分でも無自覚のまま、何がしかのマザーグースのようなものを口遊む。
ふふ、と小さく笑う。闇夜に溶けるように屋敷を逍遥しながら、彼女は庭先に足を運んだ。
手入れされた庭先を眺め、彼女は満足そうに立ちどまる。振り返って屋敷を仰げば、月に照らされた彼女の屋敷は、どこか赤々と煌めいている。
手を、掲げる。掌に収まる小さなペンダントをじわりと眺め、アリスは、屋敷の彼方、夢幻の世界に揺らめく青白い、精悍な月を見上げた。
「あいとゆうきの、おとぎばなし」
小さく、それでいて確固と呟いた天鵞絨のような声が、青白い月に溶けていく。
「なら、私、も」