fate/little bitch ~煉鉄の小悪魔~ 作:七草探偵事務所
「ここなら、もう、大丈夫だと思います」
恐る恐る、腕に抱いた細い身体を横たえた。
ロンドン橋からおよそ4km地点。入り組んだ路地裏にアリスの身体を横たえたトウマは、小さく頷く彼女の姿に、ただただ痛ましく顔を顰めることしかできなかった。表情だけはほんの少しだけ落ち着いているようだった。手が離れた時、彼女は僅かに目を開いて、寒そうに、ブルっと震えた。
人間なら、即死している傷だ。どれほどの打撃に晒されたのか、まず全身の骨が折れている。一部解放骨折し、腕やら足から骨が抉れて見えている。だが、それはまだいい。一番ひどいのは腹部の裂傷だ。腹腔内臓器はほとんど吹き飛ばされ、かろうじて脊椎が繋がっているだけ、という状況。だが、サーヴァントという存在者の為せる業か、それとも、魔術師としての在り方がそうさせるのか。内臓はぽっかりと無くなっているものの、皮膚は既に出来上がっていた。
だが、そこまでだ。まだ肉の縫合がされていない傷口からは夥しい血が流れているし、多分、自分の身体の中味まで修復できる魔力は残っていない。あれだけの大技を繰り出したのだから当然で、マスターのいない“はぐれ”なら、なおのことだ。
「大丈夫」
真っ青な顔色のまま、アリスは消え入りそうな声で言う。何が、という主語は抜けているけれど、何が言いたいのかくらいはわかる。
大丈夫とは、わざわざ契約を結んで、魔力供給をしてもらう必要はない、という意味の言葉だ。自力で治癒できるから大丈夫、という意味ではない。要するに、自分に情けをかける必要はない、治る見込みのない人間に、リソースを割くなという言明なのだ。
黒の宣告。頭で、その必要性はわかる。カルデアから供給される魔力量には、限度がある。時間だってそうだ。合理的に考えて、そのリソースをただ彼女の治癒に割くのは、現状明らかに悪手なのだ。まして、サーヴァント。人間が死ぬのと、サーヴァントが消滅するのは、同列に語るべきことではない。トウマは、頭で、それを理解している。彼は傑出した頭脳の持ち主でこそないが、人並の頭は持っているのだ。
だというのに、トウマはただ、目の前の現実がただただ恨めしかった。サーヴァントだから、何だというのだろう。サーヴァントだって人の形をしていて、豊かな情動があって、理性を持っているのだ。それを死なせることを、どうして平気で受け入れられようか。まして生かすための方法があるというのに、それを執らないことは、どうして正義で在り得ようか。
きっと。
きっと、リツカなら、当たり前のように割切り、死という選択を執るのだろう。自分より4歳しか違わない彼女は、その選択肢を受け入れ、それで、背負ってしまうのだ。当たり前のように、表情の一つも変えずに、ただ独りで非正義を被ってしまうのだ。
薄く、アリスが目を開けた。身体の損傷具合を鑑みれば、どれほどの苦痛なのかは想像を絶する。だというのに、アリスは、小さく微笑を浮かべたのだ。大丈夫、と言うように。そしてその「大丈夫」は、さっきとも、意味が違う。
多分、それは、あの時の問いの解答。彼女なりの、自問と自答の末の微笑。だから、もう大丈夫、と告げるように、彼女はその表情を執ったのだ。
「アリスさん、俺忘れません。あなたのこと、絶対に忘れません。だから、」
続く声の在処は、自分でもわからなかった。声に迷って沈黙を押し殺すトウマに、アリスは、薄く、頷いて目を閉じた。
彼女の手が、地面に落ちる。魂が抜けたように脱力した肢体を萎えさせる様の意味なんて、考える間でもなかった。
トウマは、ただ己の無能っぷりが情けなかった。結局、彼女に背を押されなければ、その決断はできなかったのだ。だから、頬を伝った水分は、大体が自分に対する叱咤であったし、叱咤しなければ泣けもしない、自分への腹立たしさだった。頬を張るように目元を拭って、全身の震えを手で握りしめて、トウマはきつく、目を閉じた。
じゃあ、また。発した声は、その実口に出していたかわからなかった。唖が真理を言祝ぐように、沈黙の中で応じていたのか。それとも、本当に口に出して発話していたのか、よくわからないし、多分それはどうでもいいことだった。微かに彼女が頷くのを見届けて、トウマは踵を返した。
※
遠ざかる足音に、寂しいな、と思った。
ほう、と息を吐く。アリスは段々薄れていく意識の中、漫然と、少年のことを考えていた。
これまで、きっと同じように、サーヴァントたちに助けられてきたのだろう。見てきたわけでもないし、聞いたわけでもないけれど、よくわかる。頼りなくて、でも頑張り屋。人類史に名前を残す英傑なら、構ってしまいたくなるだろう。英雄、というには非力だけれど、英雄の傍らにいる勇敢な仲間というには相応しい。元より、未来を取り戻すためのこの戦い。英霊たちは、初めから戦う意欲に満ちているだろう。そうでなければ、英霊などになりはしない。でも、そういう前提の意識とは、別なのだ。
だから、多分この気持ちは、アリスの……というより、久遠寺有栖のそれとは、多分異なる。どちらかと言えば、形象を持った
「もう、答えは、出てる」
ほとんど意識の全体を渦巻き始めた疼痛の中、うわ言のような声が漏れる。意識を身体感覚と意図的に切り離してさえ、息を吐くだけで惹起する激痛は死に神のように付きまとってくる。
「優しいのに、傷だらけね」
身体中の傷が、痛かった。
思わず笑ったのは、果たして自虐だったのか否か。瞬間、断絶させたはずの痛みが意識を這い回り、アリスは呻くようにしながら、地面に横になった。額に滲む脂汗に、口の中はカラカラに渇いていた。永遠のようにも思える、刹那の間。アリスはただ、どうしようもなく、あの少年のことを、考えている。
サーヴァントの、サーヴァントとしての生はその場限りの一瞬のもの。英霊の座に登録された英霊という存在は永遠にも等しいが、そこに還っていくサーヴァントの魂は、刹那的なものに過ぎない。まして、ナーサリーライムという存在は特殊を極める。契約者によって姿かたちを変える、それがその英霊の在り方。この身体を以て召喚される可能性は、おそらく絶無。そして多分、召喚されたとしても、今のこの感情の在り方がこの在り方を再び執ることは、なおのこと有り得ないだろう。
“彼女”のことを、恨めしい、と思う。だって卑怯ではないか。この旅の最後まで、あの少年の傍に居られるなんて。でもだからこそ、もっと思う。
……。
小さく、口の端に穏やかな微笑を浮かべる。それに自分だって、もう、大事なものをもらったのだ。最期に自分を看取ってくれたのが、彼で良かった。多分、あの少年は、どんな英霊に対してもそうしてきたのだろうし、また今後もそうしていくのだろう。人間として、当たり前で、だからこそ困難な善性。古い記憶の中、朴訥とした青年が発した『一般論』が脳裏を、過った。
我ながら、単純だと思う。赤い髪の知り合いを思い浮かべて、人のことは言えないな、と思考を重ねる。思考を重ねて、彼女は脂汗を滲ませながら、上体を起こした。
なら、自分が今しなければならないことは、明白。消える前に、せめて、為すべきことはなさないと。動かない下半身に苛立ちながら壁に寄り掛かると、まるで狙い澄ましたように、青い影が視界に紛れた。
小さな鳴き声を漏らしながら、青い小鳥が伸びた膝に降りる。引き連れられるように10羽ほどの椋鳥が並ぶと、アリスは眉を顰めた。
「役立たず」
身も蓋もない罵声である。それでも気にもしないように首をくるくるする姿は、とてもふざけているようにしか見えない。
──まぁ、今回だけはいつも通りの働かれては困るのだが。馬鹿そうな駒鳥の姿に嘆息を吐きながら、「行きなさい」と手で払うように声を投げた。
雨の中、一斉に小鳥たちが空に舞い上がる。雨降る曇天を翔ける姿は、すぐに見えなくなった。あのプロイたちが仕事を終えた時、このナーサリーライムも終幕を迎える。間もなく、すぐ。
色んな人の顔が、網膜を掠めた。走馬燈、というには緩慢な記憶の想起。泡沫のような手応えの無さとともに駆け巡る表象の群れ。遠くで聞こえる野犬の遠吠えが、微かに耳朶を打つ。
あの時の、背の暖かさを、思い出す。
ついさっきの、腕の裡の暖かさを、思い出す。
ツン、とする冬季の山間の冷たさは、針で刺すようだった。
しとしとと雨が降りしきるこの幻想都市の冷たさは、ぬめり気があるようだった。
叱るように響いた硬い声と、粛然と見届けようと呟いた硬い声が、不定に重なる。
記憶が判然としない。夢は、時制が混濁するし、気持ちだって、ごちゃまぜになる。それが元から似たものなら混交はなおさらだった。
寒いなと思った。
それは多分、肌の温もりへの恋しさの裏返しの、感情以前の情動だった。
寒いな、と、思った。
寂しいな、とは、もう思わなかった。
先々週忙しくて投稿できなかったので、明日もう1話投稿予定です