fate/little bitch ~煉鉄の小悪魔~ 作:七草探偵事務所
空に、月が、2つ浮かんでいた。
屋上から見上げる空。開けた空を見上げたエリザベスは、ただ、呆然とその様を見上げていた。
エリザベス女王の知る由もないことであり、また、この戦場に居る誰しもが知らぬことではあった。真祖が振るう、精霊種としての力能。霊子情報と根幹世界に干渉し、同じ幹から枝分かれした並行世界……選定事象にまで及ぶ世界事象から朱い目報を引き出し、ありうべき自然事象であるならば再現する恐るべき力。『
ただ、直観的に理解はしていた。あの朱い月に敵う魔術は、恐らくあらゆる未来を含めて存在し得ない。空想具現化の中でも最上位の具現、『月』と言う星の形而上学的実体を具現化させて叩き付ける“月落とし”に敵うものなど、ありはしない。
「
だが、エリザベスはにべもない、といったように、それに抗うための術を設えていく。8つの宝石を宙に投げる。舞うように宙に展開した宝石同士が結節し、多重の魔法陣を展開していく。
(本当に勝てるんだな、エリザベス女王!)
「
(いい減らず口だよ。私が発射タイミングを指示する、余計なことは考えずにそいつをぶっ放すことに集中しろ)
宝石剣を構える。なんとか傷口を補強したお陰で、両手で剣を支えられている。腹に孔は空いているが、もう構うものか。いっそこのまま裂けて余分な贅肉が零れたほうが、色々気分が楽になるかもしれない。
「忌まわしい秩序の飼い犬が! 今ここで、私のこの手で、押し寿司みたいにぶっ潰してあげるわ!」
“真祖”が腕を振り下ろす動作が、多分、発射キーだった。
空に浮かぶ月が落ちる。遠近感も現実感も何もかも脱落したその光景は、まさしく空想の出来事としか認識しようもないほどだった。朱色の紅蓮に染まった月は、酷く緩慢な速度に見えた。巨大であるが故にそう見えただけなのか、それとも自分の意識が朦朧とし始めたが故なのかはわからなかったが。
「主が私をお選びになったというのなら。主よ、私は、あなたを変わらずに信じます」
(今だ、撃て!)
「我が真名、妖精の女王を担う栄光の名の解放を以て、そしてこの
「無駄ァ!」
「いっけえ、無限エーテル
宝石剣が震える。宝石剣が宝石剣たる本領を、解放するその時を待っている。
展開した魔法陣によって加速した魔力の砲弾が射出され、虹色の閃珖が迸った。
──神秘は、より高い神秘に抗えない。
それは、この世の理のようなものだ。古きものの力は、新しきものを乗り越える。この絶対法則を破る手段があるとするならば、神秘の質を上回るだけの量を持ちださなければならない。端的に言えば、質を上回るだけの量を持ちだせるなら……最新は、神秘を凌駕し得る。
だからこそ、その月落としは最強の攻撃なのだ。直径3500万km、7.3×1022 kgの質量を持つ『月それ自体』の形而上学的実体を抽出することで形成される幻想の月の神秘は、質だけでなく、量すらも地球に住まうあらゆる存在を凌駕する。これを打倒するには、むしろ質ではなく量において、神秘を上回らなければならない。
──端的な矛盾である。圧倒的な古質の神秘を新しい神秘で打倒するには膨大な量を用意しなければならないのに、量においてすら圧倒的。畢竟、この世界に、あれを上回れるものはない。
だから、その光景は当然の結末ではあった。エリザベス女王が放った虹光の奔騰。
はず、だった。
“真祖”の表情に緊張が奔ったのは、月を落としてから5秒、あとだった。
とっくに月が周囲一帯を破壊してしかるべき時だったのに、まだ、一切の破壊は起きていなかった。いや、それどころではない。まだ月は墜落していない───寸でのところで、推し留まっていた。
否。押し留めるだけではない。拮抗した膂力の鬩ぎ合いは徐々に均衡を崩し、紅蓮の月が徐々に光に飲まれて削れ、あまつさえ押し返され始めていた。馬鹿な、という思考すら浮かび上がらず、彼女の朱い目には、その度し難い光景だけが焼き付いていた。
別に、特別な論理が働いていたわけではない。単純にして明快な事象。『月それ自体』を上回るだけの神秘ないし魔力をぶつけている、というそれだけの理屈だった。だが、そんな事象が有り得るはずがない事象であることは、誰よりも“真祖”こそが理解していた。この星の触覚たる“真祖”が振るう技、かつて月の王が振るった絶技に拮抗するものが、19世紀ロンドンにあるはずがない。“真祖”の疑念と困惑は、至極当然で、正当ですらあった。模倣され、再現されただけの彼女が空想具現化で再現できるものには限度がある。この“月落とし”とて、月の王が振るったものとくらべれば天地の差はあろう。だが天地の差はあれど、その威力は英霊などを殺してあまりあるはずなのだ。事実、遥かに枝分かれした世界から、月の王が行ったあの瞬間の霊子情報を引っ張り出してきて再現したこの“月落とし”は、たとえ対界宝具とて迎撃できるはずが───。
そこまで思考して、“真祖”は理解した。理解、してしまった。
“真祖”を破る術は、魔術にはありはしない。それは変わらず、冷厳に存在する事実だ。だが、かつて“真祖”の原型たるものを破ったのは、魔術では、なかった。
不運というべきか、それとも運命というべきだったのか。“真祖”がこの世界に呼び込んだ霊子情報の、付帯情報こそが、致命傷だった。何せ、彼女が呼び寄せたものこそは、朱い月をその力によって粉砕したものだったのだから。
──魔法。世界に5つしか存在しない、世界を超える術。その二番目、並行世界運用こそ、“真祖”が敗れる道理だった。
「紛い物の剣で真性に至るなんて!」
「たかが月の1つや2つでビビってるような甘ちゃんじゃあねえ、国を護るなんて、できやしないのよ!」
拮抗が、崩れていく。月が、押し返されていく。いや、割れていく。あの宝石剣から放出される無限の魔力砲が、『月それ自体』を凌駕する。質、量ともに最強であるはずの月落としを超えていく。この世界の魔力の総量で上回れないなら、無限に広がる並行世界から魔力を拝借すればいい。たとえ如何なるものであっても、無限を超えることなど、それこそ論理的に不可能なのだから。そんな暴論めいた理屈だけで、最強の一手を粉砕していく。
並行世界、あらゆる時制の英国から供与された魔力を以て打ち出される、まさしくは無限エーテル砲。“真祖”が最後に見たのは、月が砕ける瞬間だった。
「あー、もう。外なる神なんて奴に呼ばれた時点で、嫌な予感しかしなかったけど」
光に飲み込まれる寸前、彼女は、自嘲気味に声を漏らした。
「これじゃあ、悲劇どころか喜劇じゃない」
※
ふ、と力が抜けた。
ぐらりと視界が揺れ、足元の感覚が喪失する。気絶して倒れるなぁ、なんて自覚がぼんやりと脳裏にあったけれど、だからといって、どうすることもできなかった。というかもう怠くてそれどころじゃなかった。
自由落下するに任せてしまえば、次に来る衝撃は、背中と後頭部の強打で、
「おっと」
なんともまあ、呑気そうな声が抱き留めた。
あやふやな視界に、白い影が映っていた。
「お疲れ様、偉大なる我らが女王陛下。倒せると思っていたけれど、本当に倒してしまうんだねぇ、姫君を」
耳障りのいい声だな、と思う。でも、だからこそ無性に腹が立つ声だな、とも思った。むかっ腹は立ったけれど、だからといって、何かしでかす気力はなかった。
「やろうと思えば、なんだってできるのが人間ですもの。主がそれを導いてくださるのなら」
今、彼女がその男に言い放てる精一杯の皮肉だった。ふふ、と小さく笑った男は、それでも、その実本当に感心したし、その通りだな、と思ったのだ。客観的に、それが彼女の【カリスマ】によるものだということは理解している。聞くものを心酔させる『
だから、なのだろうと思う。決して形と論理は違えども、彼女が外なる敵を討つために星の
「あんなもんに負けるようじゃあ、メアリーに、馬鹿にされてしまうでしょう……」
「もういい、大丈夫だ」うわ言のように声を紡ぐエリザベスを、彼は静止した。「霊核は上手く避けてるけど、重傷だ。治してあげるから、一度、郷に戻ろう。グッドクイーン、ベス」
ふわ、と花が啓いた。
※
「リン! リン──エリザベス!」
屋上への出口を魔力弾でぶっ飛ばしながら転がり込んだライネスは、ただ、目の前に広がる空無に、足を立ち竦めた。
無の静寂が、風となって拭いている。厳かな剣呑さすらある闃寂が、延長していた。
ただ、虚しく、ライネスはその光景を見やる。絶体絶命の状況を跳ね退けて見せたエリザベスと、この余韻を分かち合いたかったというのに、エリザベス女王は、跡形もなく消滅していた。
当然と言えば当然──そんな思考が、冷たく過る。分不相応の力を振るえば、かならずその反動がくる。ただそれだけの事実だ。
───そんな思考ができる自分が、今だけは不愉快だった。ライネス・エルメロイ・アーチゾルテは、元から、あんまり友達の居ない人生を送ったのだから。
《すみません》
「いい、君のせいじゃあない」
内奥に響く司馬懿の声の返答も、なんだかにべもなくなってしまう。
「やっと気づいた。随分無礼な影法師ですこと」
ぞわ、と肌が粟立った。
あの、白い貴人が───“真祖”が、立っていた。しかも、瑕らしいものは、一つとて無く。
「あなた、割と目が節穴ね。それどころじゃないのかもしれないけれど」
「は?」
なんというか、ライネスの返答は、物凄く間抜けだった。じとっとした目でこっちを見据える赤と紫の
「その魔眼でよく見なさい。今の私は、あなたの魔力弾一発で消滅するくらいに空っぽよ」
「あ」
「真体ならともかく。紛い物の私程度じゃあ、あのクソデカビームぶっぱされて無事じゃあいられないっての」
脱力、した。“真祖”の言い分が、嘘ではないことはすぐにわかった。魔力の流れを精緻に観測することに特化したライネスの魔眼を以てしても、“真祖”は、まるで魔力が残っていなかったのだ。空っぽ、という表現は、極めて正しかった。
「ふゥん」
緩慢な素振りで、“真祖”が、近づいた。身構えたけれど防御しなかったのは、事実、目の前の“真祖”は、もうライネスすら倒せないほどに弱体化していたからだった───けれど、多分、本当の理由は別だった。
逆立つ黄金の髪の下、荒れ狂うが如き形相はもう無く。なんだか、ネコみたいな顔をしていたな、と思ったからだった。
「私、殺されかけたのはこれで3度目。あのキャスターの面は拝んだから、私の挙動を全部見切ってた人がどんな奴なのか見てみたくてね」
“真祖”が、手を伸ばした。ライネスの頬に触れ、手触りを確かめるような仕草をする彼女は、とても、蠱惑的だった。
「私と同じ、朱い魔眼」
小さく、彼女が微笑した。悍ましいほどの凄絶を秘めた、穏やかな、微笑だった。あの女王様も赤い服だったわね、と独り言ちる言葉は、言いようもなく流暢で、這い寄るように耳介を舐めた。
「気に入ったわ。懐かしい気持ちにしてもらったお礼は、ちゃあんと、返してあげる。私が必要になったら、呼びなさい。その時は───私を倒した責任、ちゃんと、とってもらうんだから」
ふわ、と風が吹いた。まるで風に浚われるように、“真祖”の姿が掻き消えていく。あ、と手を伸ばした時にはもう遅く、伸ばした指先は、ただ空だけを切った。
と、指先に、何かが掠めた。思わず掴んだライネスは、その、手に残ったものを見つめた。
淡い色の、花びらだった。指を開いた瞬間、また風に乗って飛び立った花びらは、空へと溶けていった。