fate/little bitch ~煉鉄の小悪魔~ 作:七草探偵事務所
パッションリップが目を覚ました時、まず、漠と放心していた。いつから意識を取り戻していたかすら定かではなく、気が付くと、壁に寄り掛かってへたり込んでいた。
きょろきょろと周囲を見回してから、やっと、パッションリップはその人物を認めた。
出すべき声もわからず、よたりながら、パッションリップは立ち上がった。おぼつかない足取りのまま、重たい巨腕を引きずっていく。亡者のような身振りのまま目指した先、赤銅色の髪の女は、いた。
先ごろのパッションリップと同じように、四肢が萎えたように地面に座り込み姿。壁に全体重を預けるその有り様に、彼女はかけるべき声を問うに見失っていた。だってそうだろう。胸郭にどかりと開いた風穴は、どう見ても、人間としては致命傷だった。
「あぁ起きたんだ」
だというのに、彼女は……リツカは、なんだか道端で会って挨拶でもするみたいな呑気さで喋っていた。
「良かった無事で。腕もなんとかなって良かったよ、申し訳ないことをした」
しゅん、と寄る両の眉宇。こくん、と頭を下げて、リツカは現状の肉体でできる心底の謝罪をしていた。
何を馬鹿な、と言いかけて、やはりまだ、パッションリップは喋ることすらできなかった。ただ蒼褪めて、佇んでいることしかできなかった。
リツカは顔を上げると、じい、とパッションリップを眺めた。気まずそうに右側頭部の髪の一房をかき回してから、恐々と視線を逸らした。
「リップちゃんは」相変わらず、彼女は気まずそうだった。「あんまり誰かを傷つけたくなかったんだねえ。その、手、で」
虚を、突かれた。まだリツカは気まずそうだけど、ちゃんと、目線はパッションリップを向いていた。
「指揮官てのは得てしてそういうものだけれど、辛いことをさせてしまった。その心情を推し量り切れなかったのは、私の指揮官として無能だっていうことだ。だから、これは、無能さのしっぺ返しってだけのことだから。まぁ、あんまり気にしないでね」
これ、と言いながらリツカは腹を摩った。つい傷口にふれたせいで、一瞬、彼女は苦し気に口元を結んだ。やれやれ、と肩を落とすと、リツカは、改めて脱力したようだった。
そこで、パッションリップはわっと泣き出していた。だらだらと地面に崩れ落ちて、ただ泣きじゃくり始めた。
仕方ないな、と漏らして、リツカはパッションリップを抱き寄せた。濃い菫を思わせる髪を胸元に搔き抱いて、そのつむじに、鼻頭を埋めた。
※
「具合はどうだ」
アーチャーが戻ってくると、リツカはかろうじて手を挙げて応えた。ふらふら、と手が揺れる様は、風に吹かれる沼地の葦を思わせる。
「リップちゃんは大丈夫だよ。流石に神核があるというか、腕切断されたくらいならすぐに治る」
ほら、とリツカは胸に抱くパッションリップに視線を落した。リツカの腕に抱かれたまま、すやすやと寝息を立てる様は、確かに大丈夫そうだ。そも。アーチャーは、そういう意味で、パッションリップのことは心配などしていなかった。
「お前のことだマスター」
「だから大丈夫だって。カルデアのマスターってのは、そう簡単に死なないように作られてるもんだから。流石にこう短時間に2回も死にかけるのはしんどいけど」
ほら、と両腕を持ち上げて、コロンビアポーズのリツカ。表情はいつも通りで、事実、もう、胸の傷口は綺麗に塞がっていた。
アーチャー自身、あまり魔術師としての常識の持ち合わせはないのだが、曰く古い魔術刻印の生命維持機能は凄まじい、とは聞いている。彼女の場合は、その特性を盛り込んだ令呪がそうさせている。幻獣に
曰く。少数精鋭で特異点に乗り込むマスターたちの生命の保障は、グランドオーダーを敢行する上で最優先課題だっただろう。まして、
「愚かなことをする」
「戦うべきでないものが戦わなきゃいけないんだ。多少、道理に合わないこともしなきゃあいけない」
「そういうのは、好きじゃあなさそうだが」
「好き嫌いで世界が救えるんなら、そうしたいんだけどね。ヒューマニズムを振り回して救えるくらい世界が安っぽいなら有難いんだけど、そうじゃあないから」
「なぁマスター」
アーチャーは、リツカの隣に腰を下ろした。特にあてもなく視線を放り投げる。何をするでもなく、アーチャーは、ぼんやりと、自分の胸郭に埋もれている何かを、手触るように、知覚する。
「お前はこの世界が滅んでもいいと思っている。なのに世界を救おうとしている。何故だ?」
「難しいことをお聞きなさる」
ごしごし、とリツカは側頭部の髪の一房をかき回した。たまらずアーチャーは横目で彼女を盗み見たが、ちょうど、腕にかくれて彼女の顔は伺い知れなかった。顔は、その向こうに、退いていた。
「私は今19歳で、そろそろ20歳になるんだけども。大分長いことこの世界には生かしてもらってるから、恩も義理もあるからねぇ」
腕を、降ろす。リツカの表情はいつもと変わらず、アーチャーと同じように、どこともしれない虚空を眺めている。
「だから、仕事は顔を張って、がんばらなくちゃあ。もう、16歳の子どもじゃあないから、私は」
※
パッションリップは、独り、迷路を歩いている。ふうふう、と溜息をつきながら、せっせと生真面目に歩いている。嘘。たまにサボタージュに勤しみながら、それでもちゃあんと、パッションリップは独りでがんばっている。言われたことをきちんとやる、というのは結構大変である。社会というのは得てしてその先を求めるけれども。
とまれ、パッションリップはサボりこそすれ、弱音すらなく重い腕を引きずっていく。己の為すべきことをなす、という、ひたすらの忍従の中で。
※
……バルビゾン派の画家、ジャン=フランソワ・ミレーの作品は主に農民を主題に描いている。代表作は『晩鐘』といって差し支えないだろう。バルビゾン派……1830年代派とも呼ばれるフランスの画壇の風景画家たちの中でも、ミレーは特に、バルビゾン村で生活を営んでいた農民たちを画にかきとった。
──アーチャーは、身を屈めた。地面に落ちていた紙片を手に入れると、特に意味もなく首肯する。相も変わらず、珍妙且つ不快を催す意地汚い図形のような文字が妄言のようにびっしりと文字群が蠢いている。特に読めもしないが、これを探し回るのが、アーチャーの仕事であるという。仕事であるならそれに従うのが、アーチャー、という存在者の、ある種の放心だった。
……ミレーの画は、とにかく暗い。情景が、とか雰囲気が、というのではない。とにかく、暗い影の描写が多い。『晩鐘』を見てみる。薄暮であろうか、それとも明朝であろうか。淡く陽の光が滲む空の下、広がる大地の上に静謐に佇む2人の夫婦は、果たして何かに耐え忍んでいるかのようである。
ではその画に苦痛が満ちているのか、というと、多分そうではない。
──意味があるかは不明だった。リツカ自身も、こんなものを探し回ることそれ自体に意味があるのかは不明だ、と言っていた。
不毛な作業である。それでも、アーチャーは、何の気なしにこの仕事に従事している。シシュポスが岩を持ち上げるように、せこせこと紙片を拾っている。
……ある批評家の批評の中で、ミレーを始めとするバルビゾン派、そしてその志を受け継ぐセザンヌを取り扱っている。曰く、セザンヌは自然に真に向かい合い、ロマン主義のように自分語りに自然を取り込まず、自然そのものを描き取ろうとした、という。自然そのもの、というのは、いわゆる科学的態度とは異なる。自然なるものを解体し理解しよう、という知的態度とは違ったベクトルの客観性で以て、自然に相向かっている。プレザンスな自然。あるがままの自然ではあるが、無垢ではない自然。超自然的なものを胚胎しながら区別され隣接する、生きた自然、のようなもの。実のところ、現代の科学者、とやらが受け取ってもいるように思われるそうした自然を描きとろうとしたのがセザンヌであり、セザンヌが参照していたバルビゾン派である、という。その自然に向かう態度こそは清貧、あるいは聖性への渇望であり、ヒューマニズムと呼ばれるものとは別種の眼差しだ、というのが、その論旨の特徴を為すものであろう。
──アーチャーにとって、別にその動作の結果が正しいかどうかは、実のところ関係なかった。彼にとって大事だったのは、リツカの言われた通りに、生真面目に、その紙片を集めまわることの行為、それ自体だった。
よくある、結果よりも過程が大事、というような俗っぽい理由に、外見上には似通っている。外見上は。
……ミレーの画は、風景画である。その多くが農民たちであり、主題にも見えるが、恐らく大きく描かれた農民たちは、風景として描かれている。ロマン主義が描こうとした
ミレーの画は薄暗い、と述べていた。その薄暗さは、おそらくこの自然そのものですらある人間を描こうという背景から生じている。自然がつれてゆく運命に耐え忍ぶ人間たち。そんな重苦しいものを描くのだから、画面が暗くなるのは、なんというかまぁ、それこそ自然な成り行きであろうと思われる。
──アーチャーの本来定められていた人生……それを人生と呼んでいいかどうかは不明だが……は、まさしくそういった忍従そのものであったともいえるだろう。一つの滅亡機構として世界に規定され、そしてその通りに動く、というそれだけの機序。世界と、それに祀ろわれた神々を滅ぼす機械。燃える剣をとって焼き尽くす装置。それに叛意を熾したからこそ、アーチャーは燈の中に幽閉され、そして今度はそれ以下の堕落をもって凍る世界を滅ぼさんとし、そうして、何を為せもせずに終わった。それが、運命を担い産むことを捨て、ヒューマニズムに傾倒した神性の、自明の末路であった。
……だが、ミレーの画には光がある。また『晩鐘』に還ろう。うなだれ佇む夫婦。女は祈りを捧げている。籠の収穫物に視線を落しながら、手を合わせている。男もまた、恐らく祈りを捧げている。手こそ合わせていないが、その眼差しは作物にあてられている。静かに佇む農具。足元に拡がる大地。その全てを、宙の彼方の淡い色の光芒が照らしている。画面が暗いことに相違はなく、そこに分厚い自然の帳が降りているのは変わらないが。それでも、空には陽がある。明け方に咲いた爽やかな光であろうか。それとも暮れ行く亡羊たる残光であろうか。だが、それでもミレーの画には太陽の光が風景を閲している。
──ならば、アーチャーのその仕草は、ただの繰り返しでもあっただろう。捨てたはずのものを取り戻すような作業。いじらしくもあり、あるいは意地汚くもある身振りであることは自覚していたし、そこに自分勝手さを感じてもいるのだが。
アーチャーは、その紙片を拾っていく。慰めとして、未亡人たちが畑の落穂を拾い上げるように。自らの生そのものを、拾い上げていく。
※
「ぬ」
ぶに、と人差し指が腹にめり込む。思いの他に柔らかい感触で、キングプロテアは、ちょっとびっくりする。
指がめり込んでいる相手……リツカは、それで目が覚めたようだった。いつも以上に所在ない顔つきで周囲を見回した後、やっとこさキングプロテアを認めて、あぁ、と曖昧に声を漏らした。
お疲れ様、と彼女が言ったので、キングプロテアも真似して返す。人間と言う種の挨拶である、ということだけは知っていた。
「体調は大丈夫かい」
大丈夫、と返す。それよりもリツカは大丈夫なの、と尋ねる。彼女の方が明らかに体調が悪いことは、よくわかる。2回も死にかけて治癒しているのだから、体力を浪費していてしかるべし、だ。魔術師にとって、オドとは精気そのものなのだから。
「そうだな」ちょっとだけ、リツカは言い渋った。「大丈夫ではないかな」
「最近死にかけるってことはなかったからな。昔は酷かったけど」
「どうしてパッションリップには黙っているの?」
「それは彼女がまだ、背負うべき事柄ではないからだよ」
肩を竦める。酷く辛そうだな、と思う。ここまで直截に喋るあたり、大分心労がたまっているんだろう。普段のリツカなら、多分、もう少しはぐらかすだろう。そんな気がする。
「人には成長する手順、というのがある。最初からなんでもかんでも背負いすぎるのは、却って成長を害するから。
んで、リップちゃんはまだ最初の一歩を踏み出し始めたばかりだから、私の事情とか、そういうのまで背負いこまなくていいんだ。今は、まだ」
「それに」と続けた頃には、リツカは大体独語みたいに喋っていた。「そもそも愁嘆場みたいなのは嫌いなんだよね。わーわー泣くとか、ぎゃーぎゃー騒ぐとか。日本のドラマじゃないんだから」
ねえ、とリツカは声を漏らした。やはり、辛そうだった。喋らなくていいよ、大丈夫、と伝えると、彼女は安堵したらしく、深い嘆息を吐いた。
「嫌いなものの話より、好きなものの話が聞きたい」
どうせ聞くなら、と後付けする。喋る必要はない、と言外に含ませて。
リツカは、やはり所在なく、ぼーっと視線を投げている。思考らしい思考はしていない。リゾーム型の思惟だけが、ぐにゃぐにゃとリツカの脳みそを転げまわっているらしい、ということだけはうかがい知れる。
「私、アドルノが好きなんだ」
失神しそうになりながら、ぼんやりとリツカは言った。
「『
彼は、実存、と呼ばれる人の在り方そのものは否定してないっぽい気がするんだよ。彼が批判したいのは一つどころで世界を語らんとする還元主義的言説、そういう仕草なんじゃあないかな。まぁ要するに、バカが嫌いなんだろうけど。
だって根源とか、そういうものに世界が還元されるなんて考え方はつまんないじゃあないか。一つの考えや思考で世界が運航していたら気持ち悪いじゃないか。何か絶対の真理があってそのもとに善悪が決まっているのがこの世界だとしたら、そんな世界は多分滅んだ方がいいよ。不健康だし。
今の人間の社会が正しいとは思わないけど。悲惨なことばかりの人間社会のどこに正しさがあるのか、と言われたらよくわかんない。そう考えれば、どうやらこの世界とやらは滅んだ方が適当なのかもしれないね。
まぁ、でも滅んでしまうのもやはり適当ではない気がするし。それなら、少しでもこの世界の不正とやらを取り除いた方がまだ健康的というか、正しい行為なような気がするなぁ、などと。
マルクス主義みたいなことを、アドルノを読んでいると思うのでした。廣松渉からは難癖付けられそうだなぁ、まぁいいか。おしまい。結構なことだ、マル存主義も」