fate/little bitch ~煉鉄の小悪魔~ 作:七草探偵事務所
Ⅰ-1 覚醒
南北アメリカ連合国・“人類はここでお終いです同盟”軍事緩衝地帯
旧ケンタッキー州マンモスケープ国立公園跡地
予定時間まで、残り10秒。
“ボイジャー”は左腕に巻いたG-SHOKの秒針を確認し、その時を待つ。
9秒、8秒……淡々と進んでいく秒針の進行を、焦りも無く待機する。どっしりとした構えは、彼女の豪胆さを十分に感じさせただろう。
既に陽の落ちた森林、その奥に拡がる眼下のくぼ地のエプロンにタキシングする機械化装甲歩兵……
サーヴァント、2騎。その名と、
2、1──。
ボイジャーが立ち上がるのと、重い振動が暗闇を打ったのは同時だった。
2基の格納庫、及びタキシングしていた4機の装甲歩兵が膨れ上がった爆炎に吹き飛ばされ飲み込まれ、誘爆が巻き起こっていく。爆破に煽られた4匹の獣は散らばった残骸に引き裂かれ、肢体が切れ切れに粉みじんと化していく。噴き出た血液は忽ち爆炎に巻かれて蒸発していた。
サーヴァント1騎はこの爆破で即死していたベッド下で起爆した宝具で一瞬で五体が千切れ飛び、死んだという感覚もないままに死亡した。爆破とともに四方に散らばった白刃に首を刎ね飛ばされ。荊軻は死んでいた。予定通りだった。
「
燃え盛る爆炎の中、黒衣のボイジャーは一直線に眼下に飛び降りる。すらりと伸びる肢体に、腰回りと胸元を覆うスイムスーツはそれだけでは夜目でも目に付くが、彼女の姿が敵に捕捉されることはない。その上から羽織った、“
着地と同時、全高3mを超える巨大な四足獣……ソウルイーター、の呼称認定を受けるそれの頸を、着地と同時に手のひらから伸ばした長刀で鮮やかに切断する。食い散らかそうとする衝動を抑え込み、掬い上げの返す刃でもう1匹のソウルイーターの頸を刎ねた。
これでソウルイーターは全て撃破。装甲歩兵は既に殲滅。残るは──。
網膜投影されるHUDに表示された戦域マップに、既にマーク済みだった。慌てて駐屯地から離脱する赤いブリップが1騎。だが遅い。ウィリアム・テルの敏捷値はB、決して低くはないが、彼女にとっては鈍足だった。今の姿の彼女の敏捷値はA+。上位のランサーやアサシンにも引けを取らない速度で背後から忍び寄ること1秒。距離で言えば狩ろうと思えばいつでも狩れるが、敵はかのウィリアム・テルである。油断すれば伝承の通りに穿つ因果逆転の弓法で頭を林檎みたいに射抜かれるのは定めだ。そしてこの運動性能、山岳地帯だというのに鮮やかな引き際を見せる姿は賞賛に値する。流石はスイスを代表する英雄だった、が。
だが、その退路は予測済みだった。
一瞬、マップ上のブリップが静止する。半瞬もなく、ウィリアム・テルの至近で爆破が立ち昇った。
「デスサイズ!」
ぐにゃ、と刀が蠕動する。長く延びた黒い長刀がねばねばと不定に形を変え、大鎌へと変形する。
ぐん、と肩にGが伸し掛かる。気配遮断が切れ、こちらの存在に気づいたアーチャーがぎょっと身を翻した。右手に当てたクロスボウが的確にこちらの頭部を狙う。
「『
だが遅い。既にクロスレンジに入っている。大鎌を左手で一杯に伸ばして振るった横薙ぎの一閃。ランサーのそれすら上回るリーチで繰り出された鎌の刃は、次の句を繋げんとするアーチャーの上顎からを切り飛ばしていった。
ひょん、と宙を舞うウィリアム・テルの上あご。クロスボウを放つ格好のまま、数歩走った顔無しの身体はブナの樹に激突してぐしゃりと静止した。
「アルファ03、
(アルファリーダー了解。予定通り指定座標後退しろ、メイヴがピックアップにくる。2人でのんびり帰れ)
「あれ、オベロンは?」
(俺はまだ仕事。なんか思ってたより人使いが荒いぞ、アイツ)
「リツカ、あなたのこと好きだから」
(吐き気を催すことを嘯くなよ)一瞬、
ふん、と鼻を鳴らしながら通信を一方的に切断するキャスター。やさぐれているようで結構素直な奴だな、と思う。不遜な口ぶりは原典通りで、案外素直な内面性もそうだと思う。厨二病を地で行くというのはあーいうことを言うんだろうな、と思って、ふふ、と小さく笑った。人のことは言えなかったな、と自嘲して、ボイジャーは、フードをはがした。
ひょう、と温い風が黒い髪を攫う。鈍いほどの純黒の髪に、前髪に結んだ紅い礼装が一房、しゃらん、と跳ねる。ゴーグルを首にぶら下げると、ボイジャーは、手慰みに、右の手首に巻いたマフラーを撫でた。
2騎、サーヴァントを落した。アサシン、荊軻。アーチャー、ウィリアム・テル。特に喋ったこともなければ、顔に覚えもない3人に馳せられる思いはさして多くもなく。その感慨を自分だけの胸の内に落とし込み──ボイジャー、宇津美エリセは闇夜を駆けた。
(エリセ~着いたわよ。早くしなさいな!)
※
“私”がまず知覚したのは、額への痛打だった。ごちんごちん、と打つ痛みに、思わず“私”は喘いでいた。
「起きたか」
次いで、知覚したのは呑気そうな男の声だ。ハッと目を覚ました“私”の目に飛び込んできたのは、真っ黒黒すけであった。艶のいい、
「ほれ、そんなにやると傷ができる」
ひょうい、と手を払われると、大鴉は素直に従った。ぴょこぴょこと跳ねながら“私”の顔からどけると、のそのそと“私”は身を起こした。
「よ」
しゃがんだ姿勢の男と、同じ目線の高さだった。気だるげに手を上げた男……肌の浅黒い、気骨のある厳つい男だ……に、思わず“私”も頭を下げて礼を取った。
「俺はそうだな、バーサーカーと名乗ってるんだが」ぽりぽりと頭をかきながら、バーサーカー、と名乗った男は言い難そうにしている。「お前、なんでこんなとこに寝てんだ?」
“私”は周囲を見回した。青々、とした草原の広がる大地。ところどころ捲れて、乾いた地面が顔を覗かせている。
……はて。何故此処にいるのか。“私”はさっぱり見当がつかなかった。いや、そもそも。
「すみません。あの……」
「あ、なんだ?」
「どうやら、私は自分が何者であるかすら不覚のようで」
ぽかん、とする男。大層間抜けな顔つきであるが、“私”はもっと間抜けていたに違いない。
ぽかん顔から、男の顔が途方に暮れ始める。困っているのは私だぞ、と言いたい“私”であるが、生来、どうやら言葉少ない男らしい。じい、と途方に暮れていた男を穴の開くほど眺めると、やれやれ、というようにバーサーカーは立ち上がった。
「おおい、ちょっと来てくれや。面倒ごとだ」
と、男が明後日のほうに手を振る。つられるようにそちらを向くと、すぐにその姿を2つ、認めた。
2人とも、女性だ。片方は、見た目、幼く見える。もう一方は妙齢の美麗な女性だ。どちらも共通するが、何か、厳かなものを感じる、ということか──。
「なんだ、見えるのか?」
「え、まあ」
「クラスはアーチャーか」
「サーヴァントだろ、お前」言ってから、バーサーカーは、あぁそうか、と声を漏らした。「記憶喪失か……」
ほどなくして、件の2人はやってきた。先ほど見た通りの人物である。
「して、何者なのだこやつは」
どこか不遜さすら感じる物言いの、妙齢の女。紫紺の髪を長く伸ばした女は、油断なく“私”の所作を探っているようだ。
「記憶喪失なんだとよ」
「まぁ、お記憶を」
他方、もう一方の幼い赤い髪の女性は、素直そうに悲し気な表情だ。対照的な2人だか、改めて、目の前にして感ずるところがある。2人とも、貴人、と言う言葉が自然と思い浮かぶ佇まいだ。
「申し訳ございません。名すら名乗れないもので」
思わず、“私”は頭を下げていた。
「いや、良い。そなたの誠実さは感ずるところだ」
幾分か、長い黒髪の女性の表情が和らいだ。表情の橋に浮かぶ同情を見るに、彼女も、悪い人ではない、と直感的に理解できた。
「スカディ、という名だ。この姿ではスカサハ、とも呼ばれておるが、そなたの好きに呼びやれ。何もできぬ女だが、クラスはキャスターを頂いている」
女性……スカサハ、ないしスカディ。それが彼女の名だ。
「ラーマ様の妻でございます。名はシータと。ラーマ様の弓術は心得ていますが、何分私は非才の身。どうぞ、よしなに」
背の低い赤髪の女性は、シータ、という名らしい。“私”は丁寧に2人に礼を返しながら、思わず、シータの顔を見返していた。
「どうか致しましたか?」
「いえ、何か、その、懐かしい気がしたもので」
「同郷の方なのかもしれませんね。見覚えはございませんが」
ふふ、と品よく笑うシータ。そんな彼女を孔が開くほど見つめたことが気恥ずかしく、“私”は思わず顔を赤くしていた。
「おいおいナンパか? その嬢ちゃん、見た目は可愛らしいがちゃんと旦那がいるって言ってただろ?」
「そんな不貞なことは」
思わず、バーサーカーに抗議していた。そんな意図はなかったし、そういう気分すらわかなかった。記憶にはないけれど、自分にもそう……何か、伴侶と言うか、そういう人がいたような感覚はある。
「まぁいい。敵じゃなさそうだとわかっただけでもいい。改めて、俺はベオウルフ。バーサーカーのサーヴァントだ」
バーサーカー……ベオウルフ、と名乗り出した男は、そう言うと、顔つきが変わった。具体的にどう、ということまではわからないが、直感的に言えば、獰猛な顔つきになった、と思った。
「どうやらお前もサーヴァントらしいが、記憶喪失じゃあ仕方ねえ。シータと一緒に後ろに下がってな」
何が始まるのか、とは尋ねなかった。尋ねる間でもなく、“私”のこの身体は、今何が起こらんとしているのかを鋭敏に察知していた。
戦いが始まろうとしている。互いに絶命させあおうという野蛮な行為が始まろうとしている。ぞわぞわ、と肌が粟立った。戦いの気配を察知して、“私”はどうしようもなく浮足立つのを感じていた。何か、心臓がぎりぎりと冷たい手で掴まれるような恐怖感。いや、恐怖感と言うより、これは忌避感に近しいだろうか。“私”は、今から始まるものに、何か底知れない軽蔑を感じているらしい……。
はっとした。ベオウルフの目が、じい、と孔が開くほどに“私”の目を見ていた。年ふりた獣めいた赤い目が、ひたと見据えている。底まで見透かすような目に、“私”は思わずたじろぐものを感じたが、態度には現さなかった。“私”はどうやら豪胆な性格らしい。
「シータ、頼めるか」
「はい、私でよろしかったら」
「よし、それじゃあ……アーチャー、ついてこい。1人で居ると危険だからな」
はい、と二つ返事をした。そもそも記憶喪失の“私”には、選択権がなかった。それに、3人は悪人には思えなかった。
※
ベオウルフらに連れられ、歩くこと東に2
此処からさらに1miほども先で、争いは起きていた。
片や、妙にどす黒い人型の何かが数人いた。手に剣を持つ者もあれば、斧を持つ者、弓を手に取る者もある。
片や、奇妙な軟体生物を思わせる不定の生き物が、どす黒い人間の倍近い数が要る。うねうねと多足を蠢かせ、人型を捕食しようともがいている。
記憶喪失の“私”ではあったが、直感的に、両者ともに何か怪しげな者たちであることは理解できた。どちらも、敵だ。“私”は自覚する以前の思考の段階で、素早く判断を下していた。そして、我ながらびっくりした。“私”の忌憚ない判断力は、戦い慣れしているように感じた。眼下で繰り広げられる悍ましい殺し合いを見、“私”は却って沈着冷静になっているようだ。
「俺たちの仕事は、アイツらを殲滅することだ」ベオウルフの横顔を一瞥した。その瞥の気づき、彼は眼下を見下ろしたまま少しだけ頷いた。「奴らから街を守ること。それが任務だ」
ならば、と身を乗り出そうとする“私”を、ベオウルフは掣肘した。首を横に振って、今はまだその時ではない、と示している。
「ユニオンの連中と
“私”は眼下を見下ろした。あの不定の生物と厄人、と呼ばれた霊的存在は、骨肉の争いを繰り広げている。多足に絡めとられ圧殺される人型もいれば、斬殺される不定の生き物が血の飛沫を上げ、腐肉のような塊を溢していく。とても見ていていい気分にはならない光景だった。
ベオウルフの言うことは最もだと思われた。自然と、あの中に繰り出しても負ける気はあまりしなかったが、あの数を殲滅するのは容易いことではない。それに、この感慨は所詮勇み足である可能性もある。何せ記憶喪失なのだから、慎重に事を進めるべきだ。
それから15分ほどは、知略も何もないただの殺し合いの風景を眺めるばかりだった。数では厄人が劣っていたが、優勢のようだった。互いに知性はないが、幾分か厄人のほうがマシではあるらしい。後方に控えた弓兵の厄人が割に的確な支援攻撃をして、不定の生物に負けそうな厄人のカットに割り込んでいる。長距離攻撃のない不定の生物は、為す術なくつるべ打ちにされていた。まず倒すなら、あの弓兵を狙撃して黙らせる必要があるだろう……。
「アーチャー。お前、戦う勇気はあるか?」
一瞥もくれず、戦場を見下ろすベオウルフが言う。何気なく言うような言葉は、どこかまだ実感も伴わずに耳朶を打った。
「覚悟はあります。やれます」
“私”は応えていた。力強く応えられていた、と思われる。
「覚悟。覚悟か」
ベオウルフは、何か溢すように声を漏らした。“私”に喋ったわけではないとわかっていたが、黙然と、“私”は頷いていた。
結構なことだ、とベオウルフは頷いて見せた。勇ましく若々しい容貌の男だが、厳しい眼差しに、さっと引かれた深い皺は、険峻な古山の気風がある。
「よし、全員聞け。これから作戦を伝える」
ベオウルフの言質に、3人が声も発さず、それでいて確かにしっかりと首肯を返した。
……ベオウルフの作戦はこうだ。まずシータが敵アーチャーを背後から奇襲、これを撃破後、厄人たちを援護するふりをして不定の生物たちを撃破しながら、退路遮断。厄人たちの勝利が決したその瞬間に、“私”による長距離攻撃で攻勢に出る。厄人たちがアーチャーに頼ろうと態勢の立て直しを図ろうとした時に背後からシータが狙撃を開始。シータと“私”の2人のアーチャーで十字砲火を組み、可能な限り敵を漸減。逃げる敵は追わず、あくまで戦おうとする残存兵力はベオウルフが掃討する……という形だ。スカディは適宜、キャスターとして各戦力への支援が主な役割になる。
極力射撃で敵を撃破する作戦。各員の戦力を危険に晒さすことなく敵戦力を撃破する妙案、と言って差し支えないだろう。敢えて最も危険に身を晒すのは、単独行動を図るシータだろう……。
「アーチャーなら私がその役を引き受けますが」
静々と、“私”は主張していた。そうするのが自然なことだ、と“私”は思っているらしい。“私”の目から見れば、シータはとても小柄で、争いごとに長じているようには見えなかった。だが、ベオウルフはにべもなく首を横に振った。
「重要な役割だからこそ信頼できるヤツに頼むだけのことだ。それに、シータは強いぞ? たかがシャドウ・サーヴァント1騎に熨されるほど弱くねえ」
「お気遣い感謝します、アーチャー様。ベオウルフ様の仰る通り、ラーマ様から賜った技倆、お見せいたしますね」
綻ぶように言うシータ。うんうん、と頷くスカディの素振りも見るに、ベオウルフの言質は正しいのだろう。サーヴァントとは、そういうものである、ということなのだろう。
それでも、“私”は釈然とはしていなかったが、渋々と理解を示していた。ベオウルフの言うこと……シータの強さではなく、信頼できる仲間に大任を頼むというのは、当然のことだ。所詮記憶喪失でこの場にいるだけの“私”に、信頼などあろうはずがない。むしろ、その上で“私”を引き入れようとしていることに感謝すべきだろう。場合によっては、既に処理されていてもおかしくはない……。
決まりだった。
「よし、じゃあ各自作戦行動に入る。状況開始」
ベオウルフの言葉が、全ての合図だった。
スカディが、サッと杖を振った。宙に描く文字は2つ。鳥の足に近い文字と、門に近い文字だ。怪しく光芒を放ちながら宙に漂った文字が燐光となって解けていき、シータの周囲にふわふわと漂い始める。燐光が収まるや否や、シータは丘から駆け出していた。
迅い。丘を迂回しながら、敵のアーチャーに捕捉されないように慎重に通路を選んでいるにも関わらず、気が付くと既に敵の背後をとっている。
この位置から見えたのは、背後に忍び寄ったシータがナイフを引き抜いたところまでだった。あ、と思った時には背後から敵アーチャーに飛び掛かる。そのまま組み伏せる様は稜線の向こうで見えなかったが……3秒後、ひょこりと顔を出したシータが健気に手を振ってきた。
鮮やかな動きだった。なるほど、さっきの己の心配などは杞憂に過ぎなかった、というわけだ。
「ほれ、おぬしもさっさと武器を出さぬか。バフを盛り盛りしてやろう」
スカディがつんつん、と杖で脇腹をつついてくる。バフ盛り……先ほどの文字を使った魔術での、強化のことだろう。それにしてもバフ盛りとはどういう言語なのだろう。
ともかく、武器を現出させることにする。曰く、サーヴァント……ないし英霊とは古き英雄の魂が昇華した者、
それが手に現れたのは、次の瞬間のことだった。左手に現れた白亜の弓。6
これが“私”の武器──。手に馴染む感触が、実感となって表れる。と同時、“私”はぞっとするものが臓腑から沸き上がるのを感じた。どす黒い蠢動。とは言え、それは束の間のことだった。きつく目を瞑ると、今の黒い衝動はどこかへ潜むように消えていた。
「こりゃすげえ」どこか無邪気そうに、ベオウルフはその弓を見やっていた。「武器に詳しかねえが、逸品てのはわかる」
今までの険峻且つ厳格な様子とは打って変わって、子どもみたいな感想のベオウルフ。対して、スカディは何か難しい顔だった。
「これは……火神の弓、か?」
「なんだ?」
「火は好かぬ」
眉を顰めた表情の後、いや、とスカディは首を横に振った。沸き立った思惟を振り払うような仕草である。表情を糺すと、スカディはそろそろと弓に手を伸ばした。
「触れてもよいかな」
構いません、と“私”は目で言う。彼女も視線で応じてから、伸ばした手の指先で、艶やかな神弓を撫でた。
「過去は過去。我ら英霊は、未来ある若者たちに道行を示してこそ」
ぽつり。スカディは、後を僅かに、それで長く引いた声を漏らした。ほとんど囁くような声は、かろうじて“私”にも聞こえるくらいだった。
「良かろう」もう、スカディの素振りに先ほどの影はなかった。「そなたの武具は見た。銘こそわからなかったが、在り方は知れた。幾分か、シータの弓に似ているようだが」
「てぇと、インドの出自ってことか? シヴァに
「そこまではわからぬが。とりあえず、この戦闘中、より勁くすることはできよう。さて、どれにしようかな、と」
薄く目を閉じ、思案するスカディ。如何なる魔術を使うか、勘案しているところだろう。察するに、先ほどシータにかけた魔術は静粛性と運動性能を底上げしたものだったようだ。
思案は2秒ほど。さっと杖を振り抜くなり、手慣れた手付きで1文字を宙に描く。光芒を引いて浮かんだ文字は、梯子を思わせる象をしている。ふわ、と燐光となって散り待った光が“私”の白亜の弓に纏うと、しとりと馴染んでいく。
やれる。そんな自身がふつふつと漲るのを感じた。先ほど浮かんだ黝い怖気は、影も形もない。
スカディが手早くベオウルフに魔術を駆け終えた時、ちょうど戦況は安定し始めたようだった。身を乗り出す彼の素振りにつられて顔を覗かせれば、厄人2人に挟撃された不定の生物が斬殺され、青い血を撒き散らしているところだ。その2騎を背後から襲撃しようとしていた円筒のような、妙な植物めいた生き物は、放たれた矢に忽ちに射抜かれ絶命していた。もちろん、射ったのは、シータだった。
最後の不定の生き物の集団が追い立てられはじめた今が、頃合いだった。
ベオウルフが、“私”の背を押した。攻撃開始の合図だ。気が付くと、スカディの姿はない。シータが陣取る方へ向かっているらしい。
“私”は丘の稜線から半身を乗り出した。腰にぶら下げた矢筒から、長い矢を取り出す。象牙のような白い弓の弦に矢を番える。
距離、3mi。十分に射程圏内だ。心の乱れはない。凪いだ
中る。確信とも呼べぬ感慨。むしろ、その結末は当然訪れるであろうものだという心情のもとに、“
音もなく、大気を切り裂く一射。3miの距離を2秒となく駆け抜けた“私”の矢が、途中、ぼう、と火を熾した。煌々とした炎を纏った矢が射抜いたのは、厄人の1騎だった。剣を持った1騎の胴体にはっしと刺さるなり、衝撃だけで肢体がばらばらに砕け散った。半瞬遅れて追いついた衝撃波が厄人の群れを薙ぎ倒し、続けざまに膨れ上がった炎が膨れ上がる。炎の舌なめずりに焼かれた不定の生物たちは、火の光の中で、奇妙な叫び声をあげながら身悶え、絶命していく。
興った感慨は、多様だった。思いがけぬ自らの矢の威力に、驚き、という感慨が起こるのは当然として。その事実に対して、ポジティヴな感慨とネガティヴな感慨、どちらもが鬱勃と立ち上がった。
恐ろしい力だ!
「アーチャー、もう一発だ!」
己の感慨とは別に、“私”は目も止まらぬ素早い動作で筒から矢を引き抜いていた、番える動作に淀みなく、まるで幾百、幾千、幾万とその動作をこなしてきたかのような滑らかさで射を放つ。
狙いは1つ、態勢を立て直した厄人の小集団、3騎。逃げ惑うように退避を始めたもう1方の集団は、味方がいたはずの場所からの矢でばたばたと四肢を萎えさせていった。
素早くその足元へと、炎の矢を射かける。防御の姿勢をとったが、狙いは本体ではない。足元に直撃するなり、ぼう、と膨れ上がった衝撃が3騎の姿を宙に舞わせた。
倒してはいない。だが、一瞬行動を遅滞させればもう完了だった。1騎、素早く態勢を立て直した厄人が剣を振り上げ、何事か攻撃しようとしている。振り下ろしの間際、黒い影は後頭部と背中を射られ、たちまちに消滅した。
あとは、最早作業に過ぎなかった。2か所の狙点から矢を射かけられた2騎に、耐えられるはずもない。一瞬で剣山のように矢を射たてられた2騎は、跡形もなく消滅していった。
敵戦力撃滅。倒すべき敵は、もう居なかった。
「上々だな」
ベオウルフは、しみじみと呟いた。圧倒的勝利に対する感想なのか、それとも別なものに対する感想なのかは伺い知れない。両方か、と思ったけれど、どちらかと言うと後者な気がする。そうして別な何か、というのは、“私”の強さに対するものだろう。
「さぞ名の知れた英雄とお見受けする。敵であったと思うとぞっとするな」
慇懃そうにベオウルフが肩を竦めた。“私”は知らず、半歩足を引いた。何を隠そう、自らの力に最も驚いたのは自分自身だ。
また、先ごろの黒い衝動が臓腑から這いずってくる。自ら暴威を振るう存在者である、という事実は、恐ろしいことのように感じられた。この手は、生命を殺し得る手なのだ……。
はっとした。じい、と見つめる碧い目に気づいた。自分の奥底に淀む何かを、さっくと見透かすかのような目だ。何か、学びの深い聖仙のような、硬さと柔和さを兼ね備えた目。
だが、それも束の間だった。
「で、どう見る大将。連れて行って大丈夫か」
(色々チェックとかはしてもらうけど)
と、不意に別な声が耳朶を打った。落ち着きのあるような、幼さがあるような、印象が受け取りづらい声だ。女性の声だ、とは知れた。
(御高名な英雄に声だけで話す無礼をお許しください)
相変わらず、声だけが発せられている。ほら、とベオウルフがパンツのポケットから、何か小さな箱のようなものを取り出した。掌の半分もない、小さなそれから声が聞こえているらしい。
(私の名前はフジマルリツカ。ベオウルフたちの……そうですね、上司みたいなものだと思っていただければ)
思わず、“私”は襟を正した。リツカと名乗った女性が、なんとなく目上の人間だと思った。というより、何がしか敬意を払うべき相手だろう、と理解したようだった。
「私の方こそ、名乗るべき名を知らぬ無礼をお許しください。今はアーチャー、と」
(アーチャーか。いいね)一言、リツカが呟いた。(あなたが良かったらだけど、私たちのところに来ませんか。戦える人が必要でして)
戦える人──。
願ってもない申し出だと思う一方で、“私”の気にかかったのは、そこだった。“私”は怯えていた。自らが振るい得る力の強大さに、“私”は大変な忌避感を抱いている、らしい。
「わかりました。正直行く当てもありませんし、私のような不心得者で良ければ是非」
それでも、“私”はリツカの提案を受け入れることにした。戦うことは好ましいと思っていないけれど、その力を頼られることは嫌いではない。当てがないのも事実だった。今、自分についてわかっていることは、あの美しい弓を持っていることくらいなのだ。これでは日常生活もままならない。それに、なんとなく、ベオウルフもスカディもシータも、全員良い人たちに思える……。
一拍の間ののち、リツカは(ありがとう)と零すように声を漏らした。酷く声色が疲れているように感じられた。気のせいかもしれなかった、が。
「お、戻ってきたな」
ちょこちょことした足取りで、シータとスカディがこちらにやってくる。と、それとは別に、先ほどのカラスが“私”の肩にとまった。青く冷たい目は、何か全てを見透かすような静謐が潜んでいる……ように、見えた。気のせいかもしれなかったが。がらがら、と大きなカラスは一声啼いた。
「じゃあ帰るか……ナッシュビルへ」