fate/little bitch ~煉鉄の小悪魔~   作:七草探偵事務所

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ただ同じ星の下

その日の夜、眠れない夜を過ごしたマシュは、静かにベッドから抜け出した。

1世紀を迎えたばかりのローマには、安眠に特化した寝具はまだ登場していない。カルデアから持ち込まれた寝袋の方が善かったかな、と思いつつ、マシュは立ち上がった。

特に、何をするわけでもない。窓から外を眺め、焚火に照らされた見張りの兵士の姿を認める。あくびを漏らしながら、それでも勤勉に務める兵士。望郷を感じているのか、それとも勇躍と心を滾らせているのか。1人の人間の生に微かに思いを馳せる、などというロマンチズム―――というよりサンチマンタリスムを胸郭に凝らせたマシュは、莫と、佇立した。

何を感じているのか。マシュ自身すら言葉の輪郭を与えかねる情動の、静かな狂想。佇むばかりのマシュの背に声をかけたのは、彼女の敬愛する人物だった。

「眠れないの?」

「はい。なんだか、緊張してしまって」

リツカの声に、マシュは照れと困惑と焦燥をないまぜにした返答をした。

「緊張してる、のかもしれません。今まで、こんな大規模の戦いはありませんでしたから」

結果、彼女は嘘を吐いた。いや、正しく本当のことを述べては居たのだが、彼女を感情の坩堝に突き落とした原因は、別にあった。

「ふぅん」

と、リツカは無関心そうに相槌を打った。マシュはリツカの方は見ず、僅かな安堵の吐息を漏らすと、静かにベッドに戻った。

いや。

戻れなかった。

戻ろうとして、不意に視界がぐるりと動いた。小さく悲鳴を上げると、柔らかい衝撃が身体を叩いた。心地よさすら感じる感触に気を動転させていると、不意に耳元で声が耳朶を衝いた。

「マシュは可愛いなぁ」

「せ、せせせ先輩!?」

マシュは顔を真っ赤にして、文字通り目と鼻の先の彼女の(かんばせ)を見やった。

「トーマ君のこと破廉恥って言ってたけど、マシュも破廉恥の仲間入りだね」

なーんてことを言うリツカの吐息が、鼻頭に触れる。その振動が鼻の軟骨から迂遠に心臓まで伝わって、大きく跳ねたような気がした。

「い、いきなり何を」

「本当は何考えてるのかなーって思っただけ」

朗らかな口調だが、その言葉は鋭い。そして鋭くはあるが、貫く地点は痛覚ではなく官能だった。

マシュはこの時、もちろん振りほどこうと思えばリツカの懐から離れることができただろう。だが、彼女はそうしなかった。そうせずに、むしろ逆に、マシュは彼女の胸元に顔を預けた。

「あの、お恥ずかしいのですが」

「だろうねぇ」リツカは、自分の胸に顔を埋めたマシュの頭に、顎を乗せた。

「―――酒呑童子のことを、考えていたんです」

幾分か唐突なその名前に、けれどリツカは少しの動揺も見せなかった。リツカはこの時、その名前が出ることは全く予想していなかったのだが。

「強かったです。とても、強かったです」

「そうだねぇ。とんでもなかった。普通のサーヴァントじゃないみたいだったね」

「はい」マシュは、この時も僅かに躊躇った。躊躇ったが、述べることにした。「それと、彼女は楽しそうでした」

「へぇ?」

「あの、佐々木小次郎という方もでした。人の世をかけた戦いだったのに。酒呑童子も佐々木小次郎も、ものすごく楽しそうで。私たちは正しいはずなのに」

次第に小さくなる声に、リツカは能く頷きを返していた。マシュの言葉を聴き届けて、「そうかぁ」と言葉を呟いたリツカは、少しの逡巡もしなかった。

「いいんじゃあないかな。マシュが言う通り、マシュは正しいと思うよ」

「なら」

「でも、私の個人的な感想としては、マシュは正しい道を歩んでほしいけど、色々楽しんでほしいなぁと思うのであった」

「え、ええと」

少しだけ、リツカは空を仰ぐように視線を彷徨わせた。上手に口が動かせない、とでも言うように口をパクパクさせてから、彼女は一つ結びの髪を照れるようにかき回した。

「この世の中に善悪の観念はあるしそれは蔑ろにすべきことではないんだけど、それだけで世界が成立されるのはあまりいい考えではないんだよ。一つの理で世界を理解しようとするのは基本的に愚劣だし、そもそもつまらないからよくないことだと思うんだ。中世的だし、西洋的だし、宗教的だし。そういうのは、傲慢な世界の見方だよ」

啓いてみれば、リツカの口腔は酷く饒舌だった。彼女の胸に顔を埋めるマシュは、ただ声を聴くだけだった。怒っている、とはあんまり思えなかった。でも、何か怒気に近いものを感じているようにも見えた。

「あー」

と判然としない声を漏らしたのは、多分、自分の饒舌に羞恥心を抱いての発言だった。誤魔化すようにマシュの頭頂部の匂いを嗅ぐところからしてリツカも平静ではなかったが、そんな行為をされるマシュもやっぱり平静ではなかった。

「喫マシュ」

などと嘯くあたり、この時本当にリツカは混乱していたのである。

「難しいことは言わないけども」

マシュより幾分早く平穏を取り戻すと、リツカはマシュの顔を正面から見た。

「何かが正しく、何かが悪いと思う気持ちはもっておいて。多くの人は善悪なんてないって言うけど、ほとんどの人たちは善悪の狭間の軋轢に耐えられなくて思考放棄しているだけだから。

そしてそれと同じくらい、いろんな世界を楽しんでほしいな。ほら、今私たちって、旅をしているみたいなものだからさ」

流石に不謹慎かなぁ、とリツカは苦笑いした。幸いロマニたちはこうした状況はモニターこそしていたが、音声データまでは収録していないはずだった。

「ねぇマシュ」

言いかけて、リツカは肩を竦めた。

「いや。なんでもないや、これ以上は、私の押し付けになるから」

そう言葉を濁したが、マシュは彼女が何を言わんとしているのか、それとなく察知した。マシュ・キリエライトは極めて敏く作り出されたが故、状況からその自分の判断が正しいと判断した。判断して、その上で、その言葉を深追いすることをやめた。

その代わり。

「先輩、お願いが、あるんですけど」

「なんだい?」

「あの。このまま、一緒に寝てもいいですか?」

一拍ほどの、沈思。赤銅色の髪の少女は、さして感情を揺らすことも無かった。

「トウマ君とクロみたいに、同衾したいと仰る?」

なるほどぅ、などと宣いながら、リツカはクロみたいな顔をしていた。あの小悪魔フェイスである。

「ど、どどどど!?」

「奇妙な冒険の擬音語かな?」

などと茶化しながら、リツカはずいとマシュに肉薄した。

「ええでしょう。藤丸立華、破廉恥なマシュちゃんの所望の通りに同衾致しちゃいます!」

「わわわわ……!」

―――その日。

もちろん、けしからんことも不埒なことも無かった。仲睦まじく、手を繋いで、温和な良眠に微睡んだのである。

だが、今日のこの日は、マシュにとっては記念すべき日にはなった。彼女の最初の冒険が、ある種適ったのだから。

 

 

あるいは、リツカが述べた通りのことも、この夜に起きていた。

アルプス山脈の山麓。樹々生い茂り、人の痕跡の全き無き場所に、厳かに佇む人影があった。

峻厳としか言いようのない、頑強な体躯。大理石からそのまま削り出してきたが如き、1人の男。ともすれば厳しい修行に耐え抜いた武人とも見える男は、暗黒の宇宙(そら)色の眼差しを下界に注いでいた

終末期の病人の如き容貌の男は、底知れない眼差しに状況を映している。

この戦いは、恐らくローマ帝国が勝つであろう。男は柄にもない思考を巡らせながら、その先の戦いを辿っていく。

あと3度、戦いは続く。その内に機会は訪れるであろう。その機会を逃さぬことが男の務めであり、深きソラの淵から掬いだされた男の、僅かな人生の意味だった。あるいは、死の。

と。

男は、背後を振り返った。

陰鬱な視線の先に、影は2つ居た。

1人。白亜の髪を揺らした、褐色の肌の少女。純白を基調とした出で立ちながら、その温和な佇まいには、男をしてたじろがせる何かがある。

そしてもう1騎。影の如き虚無が、紫紺の目を向けていた。

「何を企んでいる?」

声を発したのは、少女の方だった。だが、猛然とした殺意をぶつけているのは、もう片方の影であった。

「貴方のような者が居た記録は、無いのだけれど」

そう問うことで、むしろ少女は不意に戦端が開かれることを掣肘しているように見える。そして事実そうだった。

男としても、矛を交えるつもりは一切なかった。男は自分の存在意義を弁えており、それ以外のことをする気はなかったのである。

あるいは、もし戦火が巻き起こることがあるとするなら、それはその影の軽挙妄動に依るところであろう。男はその影の挙動を注視しながらも、さりとて男は影の放つ猛々しいまでの怒気を非難がましく見ることもなかった。何故ならその兵器にとって、男は極めて異質であり、且つ見逃しがたい脅威だったからである。あるいは買い被りも多分に含まれていたのだが、その怒気が故無きもので無いことも事実だった。

男は己に害意が無いことを伝え、そして自分の目的を害さない限りにおいて、その少女の意図を挫くものでもないことは伝えた。逆説的に己の目的が害されれば相応の対処をせねばならないことも、暗に伝えた。

「もちろん、私ではそちらのサーヴァントにはとても及ばぬ。所詮は果敢無いこの身ではな」

「そう、わかった」

少女は男の意思を受け入れた。彼女の目的としても男のそれに反目すること無きことを判断したのである。

そして―――互いに僅かな会話から察したところ。

互いが反目し、矛を交えた場合。おそらく互いに人理を巻き込んで覆滅し合う結果になることを、双方ともに敏くも理解した。そしてそれは、互いの意に反することであった。少なからず、この時点では。

そうして、2組は離別していく。正確には距離をとっていく2人の背を、男は無言のままに見送った。

離別の途中。クソ真面目に棒立ちする修行僧の如き男を振り返り、少女は苦く笑った。

「センスを疑うね?」できの悪い三文芝居でも評するかの如き口ぶりである。「ピエロにしては、可愛げがありすぎるよ」

影は、まじまじと少女を見返した。お前が言うな、と言わんばかりの目である。決まり悪そうにした少女は、苦し紛れのように言葉を続けた。

「貴方だって、アレと似たものじゃない」

少女は何故か、少しだけ気分が良さげだった。

「……」ばち。

「いてて、やめてよ」

「………」ばちばち。

「だからやめっ。ねぇホンっ……私さ、普通の人だから。立派なのはクラスだけで―――だからお冠なのはわかったから、ねぇ?」

「…………」ばちばちばち。

「絶滅しちゃうよぅー!?」

 「……………」ばちばちばちばち。

自らの使い魔(ゴーストライナー)にしばき倒されながら、彼女は思うのだ。

彼が来てくれた条件は、確かに整っている。だが、そうして応えてくれたことに、情けなくも泣きたくなったのだ。

 

 

同じ夜。

城郭都市ローマから僅かに離れた草原の丘に、彼女は居た。

瀟洒な給仕服を纏ったその女性の足運びは、極めてしなやかである。洗練された身のこなしは芸術というよりも武術的であり、それが故に、彼女は見る者に美質を感じさせることだろう。

その名、月霊髄液(ヴォールメン・ハイドラグラム)、と言う。とある魔術の大家が生み出した、至高の魔術礼装である。後に紆余曲折を経て、司馬懿の依り代たる少女の所持品と為ったそれは、彼女の(オモチャ)が改良した際にトリムマウの名を与えられていた。主がサーヴァントと召喚されてなお仕える様は、まさしく忠道を歩む義臣といった様子でもあろう。

だが、この時は、彼女はライネスに着いていかなかった。メディオラヌムに遠征する司馬懿、そしてライネスから、緊急時での首都の守りを任されていたからだ。サーヴァント、司馬懿の強さはその知略にこそある一方で、自身の戦闘能力は一般人のそれと大差ない。その繊弱を補うものこそトリムマウであり、サーヴァント相手でも防戦に徹すれば易々と負けることはない。無論、これは主がサーヴァントとして召喚されたが故のスペックの向上に依るところ大でもあった。

そんなトリムマウは、背丈の低い草をかき分けながら、件の人物を追っていた。追う、と言っても、そこに切迫はない。彼女が探している人物は、極めて理知的で道理のわかる人物だったからだ。

果たして、トリムマウはすぐにその人物の影を見て取った。なだらかな丘の上に立ち尽くす、小さな人影。背を向けたまま空を見上げるフェルトの髪をした少女の元へ、彼女はごく自然に接近した。

「アルテラ様」少女の名を呼んだ。「また、星を見ておいででしたか?」

あぁ、と応えた声は、少女のものというにはあまりに老成しているように思えた。ようやっと振り返った浅黒い肌の童女の目は、明星のように爛々と赤く閃いていた。

「星は良い。なんだか、落ち着く」

そう言うと、アルテラは再び空を見上げた。

雲一つない夜空。深淵よりも果て無い星の大海に散らばった綺羅星たちは、互いにどちらがキラキラしているか競うように煌めきを放っている。

おそらく、これは綺麗な光景なのだろう。トリムマウは、そのように理解する。いかにエルメロイの至上礼装とは言え、人間的主観的価値を判断の俎上に載せられるほどに発達した人工知能を装備しているわけではまかった。そしてそれに対して、彼女はさして感心は無かった。

「トリム」

アルテラが、背後のトリムマウを振り返った。彼女は親しみを込めて、トリムマウを愛称で呼ぶ。その表情の無邪気さに、先ほどの老成は感じられない。外見相応の素直さに、彼女は僅かに微笑を浮かべた。

「今、同じ星を見上げていたぞ」

あれだ、とアルテラが指をさす。その指先を負ったトリムマウは、煌めく星を見つけた。その惑星の名称を素早く検索したが、彼女はその名を口にしなかった。意味のないことはしない主義なのだ。

ネロみたいだな、と少女は吐息を漏らすように言った。果たしてそれが喋りかけだったのか、それとも独語であったのか、トリムマウは判別しかねた。望郷の眼差しでソラを見上げる小さな女の子を、水銀の魔術礼装は静かに見守るだけだった。

「ネロに、言われたのか?」アルテラはその星を見上げながら言った。「連れ戻してこいと」

少しだけ、少女の口ぶりはいじらしい。

「確かに皇帝陛下からのご命令を受けております。アルテラ様のことをお守りするように、と。ですが、なるだけご自由になさるようにも申し付けられております」

そうか、とアルテラはそっぽを向いた。水銀色の給仕は穏やかな微笑を浮かべままだ。

「皇帝陛下のスケジュールをご存じですか」

「どうせ忙しいのだろう」

「明日は私が雑務の処理を承り待っております。昼までは時間的余裕があるかと」

アルテラは、その時特に何も反応しなかった。いや、その表現は正確ではあるまい。子供じみた反応が爆発しそうになって、それをなんとか抑えているらしかった。ぷるぷると震える肩の素直になれない様が、なんとも微笑ましかった。

「帰ろう、トリム」

アルテラは、踵を返した。トリムマウの返答を聞く余裕すら無く、アルテラはいそいそと歩いていく。

「早くお眠りになりませんと、寝過ごしてしまいますからね」

「何のことだ」

「健康を慮ってのことでございますよ」

ずんずん、と歩みを進める羊毛の少女の後を追う。決して顔を覗き込むような下劣をすることはする必要もない。どんな顔をしているかなど、わざわざ伺う必要など無いのだから。


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