fate/little bitch ~煉鉄の小悪魔~   作:七草探偵事務所

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今回ちょっと長めです


悪魔の囁き

ケテルマルクト上梓より75時間後

イタリア半島 メッセナ

 

自由都市メッセナがローマと同盟を組んだのは、紀元前264年。カルタゴと共和制ローマの戦争の折のことであった。

紀元後、60年現在。共和制ローマは既に帝政へと移行し、80年を過ぎている。安定したパクス・ロマーナにあり、帝政ローマとメッセナの関係性は大きな変化を被ることは、およそなかった。

そんな、普段は活気ある港町。されどその日は、陽が昇った後も人声は囁きすらなく、寂れた廃墟のようですらあった。

そんな真新しい廃都の中。

海岸線に佇む少女が2人。

水平線から昇る暁の陽を受け、白い髪を潮風にさらう小さな少女。殺人鬼(ジャック・ザ・リッパー)

 であれば、その髪は対称性だったろうか。プラチナブロンドの髪は、宝石のようであろう。ライネス・エルメロイ・アーチゾルテは、殺人鬼の背を見守るように見つめている。

 ジャックは、胸にあてた手を、解く。青い眼差しが、エオスを穿つ。

 ───きっとそれが、“私”が此処にいる意味。

 ほんのわずかな可能性の意図を手繰り寄せた顔見知りの、細やかな頼み事、召喚されることなどほとんど有り得ない殺人鬼が呼ばれた意味と理由。

 夢幻のような吐息。瞑目の中に揺蕩う、朧な男の輪郭。精緻に自分を見据える怜悧な目。鏡のような目に映る殺人鬼の無貌は、きっと、破顔していた。

 水平線が割れた。

 それはまるで預言者が征く先を吐息が開くような光景。割れた大海から顔を上げたのは、人というにはあまりに高潔な身体だった。

 だからこそ。

 少女は、嗤う。高潔こそ人の証だというならば、彼女はその高潔を堕天させることこそが本懐であるのだから。

 暁の水平線を見渡す青い眼光。血濡れの蛮刀の如き眼差しが、人類(にんげん)を捉えた。

 原初の人。随分、お笑い種な存在者だ。そんな質朴な人間性など、悪魔の格好の餌食に他ならないではないか。

 嘲笑、侮蔑。数多の軽蔑を含んだ媚態の嘲弄が、少女の形相を歪めた。

 「準備はできたかい」

 ライネスの赤い目を見返して。

 頷き、一つ。無言で互いの信を交わし終え、ジャックは巨人を睥睨した。

 「『■■■■■■■■■■■■■■■』!」

 

 

 8時間前

 ケテルマルクト起動より70時間後。

 港町メッセナ、宿屋にて

 

 (う、うむ? これでよいのか?)

 空中投影された映像の中、ネロはきょろきょろと見回していた。

 困惑は少しだけ、大部分が好奇心といったところだろう。(そこはあまり触らない方が良いかな)とダ・ヴィンチに支持されてビクリとしてみたりしながらも、ネロは未知なる魔術の粋に感心している様子だった。

 そんな様子を眺める視線は、実に5つ。宿屋の酒場を接収……もとい貸し切っての臨時対策会議に顔を連ねた面々は、そんなネロの仕草にじれったさを感じないわけにいかなかった。

 (これが流行りのリモート会議? とやらか。未来では皆このようなことをしているのか。便利だな、わざわざ集まらんでもできるというのは)

 (良いこともあるけど、欠点もあるからねぇ。使い方によって便利なのは確かさ……っと、そんなに時間も無駄にはできないね)

通信映像越しでダ・ヴィンチが肩を竦める。咳払いの一つもしようとしていた司馬懿は、少しだけ肩透かしにあったように、緩く息を吐いた。

それじゃあ、とひらひら手を振ったダ・ヴィンチのモニターが閉じると、次は地図(マップ)が立ち上がる。頷いた司馬懿はすっくと立つと、相変わらず感情の起伏の無い空色の目で残る4人を見渡した。

 「新しく追加された情報は?」

 「んじゃあ、まずは私かな」

 ぼやん、としたように言ったのは、リツカだった。特に挙手などするでもなく周囲を一瞥して同意を得ると、リツカは努めて落ち着き払った様子だった。

 「まぁトウマ君の言った通りなんだけど、その結果だね。確かにアレ、こっちの攻撃が一切効く様子がない。原理は不明だけど、トウマ君の推測通りなら固有結界の敷衍……足元の楽園化っていうのも、強ち間違いじゃあないっぽいかな」

 「逆説的復元、ねぇ」

 かちゃ、とリツカが右手のポインターを操作する。スイッチを押し込むに合わせて別枠で映像が立ち上がると、巨人の足元───草原を踏みしめた足跡が表示された。

 草原、というのは、その世界はあまりに豊かだった。地中海気候には決してそぐわない植生の樹々が忽ちに生い茂り、雑多に生えそろう樹々には忽ちに果実が実っていく。赤い実は林檎だろうか。だがその隣に実をつけているのは葡萄でありオリーブであり、キウイが鈴なりになっていた。ミルトンの失楽園に曰く、楽園は季節も時間も超えた数多の樹々が生い茂るという。ならばこれは、まさにその通りの光景ではあった。

 「楽園から足を離れてる場合に限り攻撃が通る、というのも間違いなさそうだ。片足を上げて居た時は、なんとかダメージが通った様子だったから」

 それでも、Aランクの宝具で『壊れた幻想(ブロークン・ファンタズム)』込みで。

 そう補足したのは、クロだった。肩を竦める、というよりその仕草は馬鹿げたものに対する質朴な呆れのようだった。

 「頭を吹っ飛ばしたのに、10秒で再生よ? インチキ宝具もいい加減にしてほしいわ」

 「それにあのデカいの、結構頭が切れるし、見た目によらず速い。ブラダマンテの宝具で狙撃してもらったけど、それだけ回避したから」

 口を尖らせたクロは、ぶらぶらと足を揺らしている。切断されたはずの右足は、包帯ぐるぐる巻きにされてなんとか保持されている様子だ。

 救援に駆け付けたジャックの【外科手術】の賜物だった。とはいえ、最低限度の機能と見れくれだけ修復されただけの状況である。中~遠距離からの射撃なら可能だが、近距離での機動格闘戦闘は不可能―――そんなコンディションだった。

 だがそれよりも。

 普段通り在ろうとする少女の姿が、ただただ、痛ましかった。トウマは、隣で鼻をつんとさせる少女の存在に、どうにか意識は向けていた。

 「攻略不能なゲーム、か。アイツが好きそうなお題目だよ」

 独り、言ちる。司馬懿……ではなくライネスは気難しさと草臥れを同居させたしなびた顔を浮かべると、「課題としては酷く難題だよなぁ」と零した。

 (それで、そのなんとかという巨人は真直ぐ余のローマに向かっているのであろう?)

 「まぁ真直ぐ、というか主に陸路でってところかな」

 (小癪な。いくら余とて無敵の巨人が相手ではお手上げだぞ)

 「楽園による無敵化かぁ。固有結界(リアリティ・マーブル)でも貼れればいいんだけどね?」

 益体も無く、リツカは肩を竦めた。

 固有結界。心象風景を形にする、魔法(きせき)に近い大魔術。なんだかTYPE-MOONの世界観だと割と使えるキャラクターが多くね、という気がしないでもない魔術だが、当然大魔術の名は伊達ではない。魔術師としては素人に毛が生えた程度のトウマは当然として、リツカも当たり前のように使えない。ロマニは「いやぁ」と苦笑いして、ダ・ヴィンチは不快そうに「天才にも、残念ながらできないことがある」と言ったものである。

 「キリ様なら使えそうだったけどね。ペペさんは……どうかな」

 さらり。リツカは、薄氷のような言葉を投げる。狙いの定まらない言葉は真性にして独白だったが、どちらかと言えば虚空のどこかへの詰問か、非難のようにも聞こえなくはなかった。

 その場にいて、その言葉尻の意味を問うものはいない。というより、誰もその言葉がなんであるか、よくわからなかった。理解したのは特異点の外にいるロマニとダ・ヴィンチ、その他モニターするスタッフの面々だっただろうか。だが、敢えて何か言おうとするものは特にいなかった。詮の無いことにすぎない、と皆承知していたのである。

 故に、トウマがその時、リツカの言葉をさして気に留めなかったのは必然であり自明のことであったし、別なことへの思案をしたのはむしろ合理的だった。

 《聞きたいことがあるんだけど》

 素知らぬ顔で、トウマはパスで隣の少女に語り掛ける。僅かな緊張を感じながらも、応えるような一瞥に安堵を感じた。

 《クロは無限の剣製(アンリミテッド・ブレイド・ワークス)、使えないの?》

 《無理ね》

 思案も何もない、即答だった。

 《確かにクラスカードにその情報はあるけど、それの使い方がよくわからない。そこに入ってる剣を見て投影(コピペ)するのはなんとなくわかるけど、ライブラリそのものを引っ張り出す方法はわからないというか》

 クロは若干だけ眉を寄せていた。魔術の知識など皆無のトウマに伝えるための言語をなんとか選択しているようだ。

 《少なからず、固有結界を展開して向こうの楽園を上書きするって戦法は無理ね》

 無論、クロはトウマの思考などお見通しだった。

 そこで思考を一端停止させる黒髪の少年は、ごく自然に、ネロの声へと意識を向けていく。

 (むう。もっとこう、前向きな情報はないのか。いかに余とても、胸が塞ぐぞ)

 「まぁ悪い情報だけじゃあないさ。アイツ、歩くのは早くないし。案外、デカくなるのも遅いし」

 ライネスの口ぶりは、若干投げやりだった。ここ数日観測して判明したいい知らせがその2点だけ、というのは、どうにも頼りなかった。

 足が遅い。成長の鈍さ。どこかつかみどころのない情報だ。原作(Apocrypha)ではどうだっただろう。鈍足という印象は特になかった気はするし、成長速度は目まぐるしかった気がする。モードレッドと剣戟を重ねるほどに成長するまで、数時間とかからなかったような。少なからず、部隊を再編・数十キロ後退した後、作戦会議を開くような時間的余裕は明らかになかった。

 それが何か、重要な理由なのだろうか。頬杖をついたトウマは、空中に浮かんだ映像を漠と眺めてみる。

 (しかし醜い面ではないか! あれで神の玉体だと、酷男でないか)

 ネロはその様相に、嫌悪感を隠そうともしない。かくいうトウマも、まぁ確かにと頷く。アダムのビジュアルは小説だけだと流石に不明だったため、こうして姿を目にするのは今回が初。そしてその感想は、あんまり思わしくない。

 だが、そう感じるのはネロと、そしてこの世界からある意味で乖離するトウマだけだっただろう。

 原初の人の模倣。模倣などとは言うが、その在り方は真性のそれである。全知全能、いと高き者。新プラトン主義における、実在(イデア)より流出する見姿。あのリツカでさえ、その巨人を見る目はどこか気分が悪そうだったし、司馬懿も意図的にそれから視線をずらしていた。通信越しのダ・ヴィンチすら唸るほどの御稜威が、それにはあった。

 (そうかなぁ、厳かさを感じられる良いデザインだと思うけどなぁ)

 ───正確に、ケテルマルクトの威容に畏怖を抱かない人間はもう一人いた。ロマニ・アーキマンである。その故こそ不明であるが、何にせよロマニは反論した。どちらかというと、控えめな呟きにも近い。

 (なんで心臓に罅が入ってるのかはよくわからないけどね)

 何の変哲もない、上滑りのような言葉。誰しもそれとなく聞き漏らすロマニの言葉だったが、トウマは何故か、その言葉につられるように巨人の画像を注視した。

 現時点にて、全長100mに達する巨人。未だ胎から落ちたが如く無垢な原初の人は、緩慢な動作で歩行を繰り返している。

 そして、その胸部。中央というよりはやや左より……人間でいうところの心臓部分が黒く刳り貫かれ、孔を基点に四方に奔る模様。確かに模様というよりは、亀裂や罅のように、見えるような。

 (銃創みたいだなぁ。心臓を撃たれた、死体みたいだよ)

 その時のロマニの発言は、全く以て何気なかった。だが、トウマの脳裏に電流が走ったのはその時である。直感というよりは直観に近い洞察。啓示にも類似する思索。

 そして、もう一人。同じ結論に辿り着いたのは、立華藤丸のサーヴァントは、声こそ出さなかったが静かに見開かれた目は、解答(こたえ)に行きついた目であり。

 そして同時に、不快と憐憫と苛立ちと憧憬が混濁したが如く、不定の情動を奥底に湛えた目だった。

 「どうした?」

 だから、そのタイミングはあまりに間が悪かった。あるいは間が良かったのだろうか。どちらにせよ、それが声を上げたのは、間違いなく必然だった。

 唐突に声を上げたジャック・ザ・リッパーに、全員の視線が向いた。

 「あの楽園? を、無くしてしまえばいいんだよね?」

 泥濘のような声。ぬるりとした声は、最早媚態にすら近い嫣然を孕んでいた。

 「できるよ。私なら」

 淡く崩れた輪郭の、それはずれた言葉(ディスクール)

 差異化しながら延びていく、構造の亡い台詞(エクリチュール)

 「私なら、なんとかできるよ」

 其をきっと、悪魔の囁きと言うのだろう───。

 

 ※

 

 クロエ・フォン・アインツベルンは、微かな動悸を知覚する。

 時計は周囲にないが、時間はわかる。現地時間における、およそ3時半。さらりと乾いた唇をなめ、クロは静かに目を、開ける。

 まだ、昏い。太陽は未だ地平より出でず、世界には暗黒だけが灯っている。それに、その密着具合もあり。クロの視界が捉えるのは、マスターの取り立てて分厚くもない胸板だけだった。

 すい、すい。酷く呑気な寝息が、耳元は至近、20cmの距離で甘く膨らむ。

 案外図太いなぁ、と思う。鼻先の寝顔に、決戦前夜の緊張は感じられない。流石に2度も死地を潜れば、一般人とは言え肝も据わるということなのだろうか。緊張のし過ぎで何もできなくなるよりは、立派なことではあるけれど。

 ───微かな、空白感。再度、S状直腸あたりで鬱勃と擡げる非心理学的-存在論的情動に身動ぎする。所在(ありか)も不明なら由来(しゅってん)も不明なその気持ちをなんと名付けるかクロは知っているが、その特権的行為を行う主体性はない。あるのはただそれを愉しむ受容性だけの持ち合わせであり、そしてそれに逃げることは立派な女子力であることも、よく知っている。

 クロはこの時、既にそれを十分に感受していた。だから、ベッドから抜け出る。実利的にも、魔術回路の調律は済んでいる。

 そろりそろり。音もなくシングルサイズのベッドから、抜け出す。特に微動だにせず布団にくるまるマスターを一瞥してから、クロは無意味に、窓を開ける。

 無風。この日は、海も凪いでいる。雲一つなく、人も既に居ない港町。窓から見下ろす町並みの果てには、黝い海が痙攣するように波を打っている。海面に張り付く朱い月は、宙から堕ちた血の雫のようだった。

 「眠れないの?」

 半ば、その声を予想していた。いや、予想というよりは期待だった、だろうか。

 「そういうジャックだって」

 窓のすぐ上。

 屋根の上に、ちょこなん、と白髪の少女が座っていた。

 「殺人鬼は夜行性でしょ? 吸血鬼だってそうだもの」

 にへら、と少女は笑う。なるほど確かに、白昼堂々殺人を犯すものも居まい。いや居ないとはないけれど、それは亜流であって本流ではないだろう。夜霧に紛れる殺人こそが王道だからこそ、白日の下の殺しが異彩を放つと言うだけの話だ。意外にも、クロはそんなレトリックに素直に納得した。でも吸血鬼は関係あるのかな?

 「お兄さんは寝てるの?」

 「呑気にアホ面さらしてるわ」

 「らしいね」

 けらけら、と笑う白髪の少女。外見相応の無邪気さを自然に装う殺人鬼は、「ねぇ!」と屋根の上を跳ねた。

 「わ!」

 クロがぎょっとしたのは、無理もない。ふわ、と視界に黒コートが過ったかと思った瞬間、鼻先に、逆さまのジャックの顔があったのだから。

「喉乾いたから、紅茶(おちゃ)淹れてよ」

 むぎゅう。

 ジャックの手が、クロの頬を挟み込む。

 「私、あんまり料理とかは得意じゃないんだけど」

 「そうなの? 執事(バトラー)みたいだけど」

 「偏見よ、それ」

 むぎゅむぎゅされながら、クロはほろ苦く微笑する。邪気の無い顔をする、年下そうな女の子の顔。その顔に妹のような姉のことを思ったわけではないけれど、それでも「年上のお姉ちゃん」気質を刺激されたのは間違いない。待っててよ、と一声残してむぎゅむぎゅ攻撃から逃れると、寝ぼけた記憶のままに部屋の隅の補給物資を漁る。

 お菓子だのなんだのとティーパックは大抵ライネスが徴発……もとい接収しているが、それでも必要最低限だけはこちらに譲ってくれている。でも紅茶なんてあったかな、と思いながら探していると偶然見つけるパックの箱。あったあった、と言いながらささっと小型ガスバーナーとクッカーで湯を沸かす。イリヤスフィール(アインツベルンの傑作)なんだから魔術の一つも使って火を熾せばいい気はするけれど、クロは全く以て現実主義者だった。ただそれだけの結果を求めるならば、魔術を使うなんて全く以て徒労であることをよく承知していた。ある意味、傑作機故の経済観念だったかもしれない。

 ともあれ、湯を沸かすのにさして時間はかからなかった。深夜に部屋の隅で湯を沸かす、という奇行に妙な愉悦を感じていたのは、クロだけではない。いつの間にか隣に並んでじっとヤカンが白い煙を吐き出す様を眺めるジャックの顔も、疾しいことに興じる喜悦に歪んでいた。

 「んー沸かしすぎた。流石にペットボトル1本は多かったかしら」

 「これ食べたい」

 「夜中にジャンクフードとは中々剛毅ね」

 そんなことを言いながらも、クロも喜々としてカップ麺を漁ったりする。少女は今更に思い出したのだ、自分がサーヴァントであるという事実を。流石サーヴァントだ、夜にいくら食ってもなんともないぜ───というわけだ。

 ───降霊科(ユリフィス)、特に召喚科の教授陣が効いたら卒倒しかねない物言いである。仮にも人理の守護者、最強のゴーストライナーの在り方を感謝する理由が、夜中のジャンクフードであるとは如何なものか。ちょっとだけクロもそんな風なことを思わないでも無かったが、やはり彼女は現実主義者である。ありがたがるものはなんでもありがたがってなんぼなのだ。突っ走るときは、機雷原を突っ切る勢いで行くべきだ。

 「どっちがいい、ジャック?」

 「これ」

 「えーと、ピリ辛レモンヌードル? なぁにこれぇ」

 「250円て高いの?」

 「まぁカップ麺なら妥当じゃない?」

 変なドラゴンが描かれたカップ麺を凝視しする。王者の鼓動やら天地鳴動やら仰々しいキャッチコピーのカップ麺に首を傾げながら、ともかく蓋を開けて沸き上がった湯を注ぐ。蓋をしめてきっちり3分。蓋からの匂いは結構うまそうで。

 そうしてカップ麺とティーポッドを持って、いそいそと屋根へと上がる。相変わらずトウマは鼾をかいて寝ている様子だった。

 って。

 「もういいかな?」

 「あっ、待って! まだ」

 「アツゥイ!?」

 「言わんこっちゃない。ほらこっち向いて」

 べったり口元についたスープを適当なタオルで拭く。むー、と不満そうにしながらも、それでも味自体は満足なのか。今度はふーふー冷まして啜ると、ふんふんと鼻を鳴らした。

 クロは、さして料理に拘らない。手が込んだものはそれはそれで美味しいけれど、自分の手でそれを生み出そうとはあんまり思わない。彼女の家の手作りの料理に比べれば格落ちだけれど、それでもコンビニ飯は結構おいしいということをよくわかっている。

 互いに無言。無心でカップ麺を食い尽くし、クッカーセットのコップに紅茶を注いで互いに飲む。ほわー、と二人して脱力めいた嘆息を吐いて、顔を見合わせて顔を綻ばせた。

 「紅茶は良いね、いい」

 などと、ジャックは英国紳士みたいに宣う。クロはあまり実感もなく、適当に淹れた紅茶を飲む。味はともかく、あったかい飲み物は確かに心に良いな、と思う。本音を言えばコーヒーの方が好きなのだが。

 緩慢な、時間。原初の帳にも似た、幽かな夜。互いに特に何か意義のある言葉を交わすでもない、束の間の静寂。

 だから。

 「ねぇ、本当に、いいの?」

 ジャックのその言葉もやっぱり、何か価値のある発話ではなかった。

 クロはおよそ5秒、沈黙した。答えに窮したわけでもなく、また不快を惹起させたわけでもなかった。

それはある種の、前-存在的な判断停止(エポケー)。現象学的還元の手前か彼方で隠れる倫理性を前に、クロはただ、吃った。

 「別に、いいんじゃない」

 だから、彼女が応えられたのは精々それだけだった。散文的な応答は、感情という人工物(人間性)を全く以て欠如した現-存在的なものだった。

 「ごめん」

 「そうね。でもいいわよ」

 それで、会話は終わり。さして情動の尾を引くわけでもなく、白髪の少女と銀髪の少女はその会話を繰り延べる。

 「ごちそーさま」

 「早いわね」

 「ごはんは腹八分目ってトリムが言ってた」

 「健康的」

 「でも紅茶は別腹だって」

 「うーんこの英国面」

 そうして再開する、とりとめのない会話。夢幻にも似た、無形の言葉たち。

 なんのことはない、それは不確定の、時間性。

 

 ※

 

 もう寝るわ、とマスターのベッドにもぐりこむ少女を見送って、ジャック・ザ・リッパーは彷徨い始める。

 夜の海から昇ってきた霧が、港町に横たわっている。夜霧の散歩者となった少女は、破綻した良識で恋慕する。

 そう、それは恋慕に近い。夜の開けない天に見上げれば、朔月が獣の目の如くに閃いている。

 ―――だから、きっと大丈夫。所詮は幻想でしかない心配など、見当違いでしかないのだと思い知る。仮にあの子は受肉した真性の無に至っても、きっと―――……。

 「私は此処にいるよ」

 益体のない、それは。

 「君もきっと、この世界に偏在()るんだろうね」

 望郷にも似た、理性の吐瀉。




大分終盤に入ってきたかと思います、今後ともご愛顧のほどよろしくお願い致します。
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