fate/little bitch ~煉鉄の小悪魔~ 作:七草探偵事務所
悪魔が降臨してより、まだ1分弱。変化が起きたのは、その時だった。
既に、ケテルマルクトは死に体だった。腕は捥げ、剣は砕け、顔は半分が削げていた。腹は抉れ胸は穿たれ足は砕け、あと一撃で天に召されるのは誰の目にも明らかだった。
放たれる爪の一撃。無造作に放たれながら、対軍宝具にも勝る、想像を絶する破壊力。既に瀕死の|人類《ひと」にそれを防ぐ手立てはなく、あと1秒後には死んでいるはずだった。
それでも反撃を繰り出したのは、果たして意地だったか。掬い上げるように放たれた剣は、されど、あっさりと爪に砕かれ───。
無かった。
いや、むしろ、逆だった。苦し紛れに過ぎなかった黒曜石の一閃は繰り出された爪を破砕したばかりか、そのまま悪魔の前腕を切り落とした。
踏鞴を踏む怪物。隙とばかりに裂帛の剣戟を撃ち込めば、気勢のままに悪魔の胴を切り裂いた。
偶然や気まぐれではない。ケテルマルクトの剣は紛れもなく必然性を以て、地獄よりの悪魔の肉を切断したのだ。
どろり、と傷口から青い血が滴る。怯むように嗚咽を漏らす悪魔は甲高い絶叫を一つ漏らすと、ぐずりと身体がずれた。
3対の翼が、捥げる。反吐のような腐臭を放ちながら下顎が腐り落ちる。赤い大蛇の首が落ち、吐瀉物の如くに傷口から肉片が零れ落ちた。人間ほどもある巨大な眼球が眼窩から外れると、音を立てて地面に転がった。
自壊。ジャック・ザ・リッパーの霊基は、急速なまでに崩壊を始めたのだ。
自明の結末だった。いかな人類史の守護者たる英霊、その現身たるサーヴァントとて、所詮は霊長種たる人類の延長上の存在者にすぎない。人間に過ぎない英霊の身でできることには限度があるのは必然であり。ジャックのそれは、その限度をあまりに逸脱したものだった。
神の玉体そのものに匹敵する神秘など、如何にサーヴァントとて手に余る。にもかかわらずそれ自体に変化するなど、到底耐えうるものではない。
だが、ジャックはそこに至ってしまった。人理定礎崩壊という拡散状態のせいだったからか、あるいは相対してしまったのが始原の獲物だったからか。それとも、別な要因によるものなのか。原因は不明だが、ともかくジャック・ザ・リッパーはその意図を遥かに逸脱し、予測を乖離した。
崩壊する肉体。自我などあまりにも容易く消し飛ばす疼痛の嵐。渇いた咆哮を悲鳴のように迸らせた悪魔には、もう、戦う気力などありはしなかった。
故に。
その一撃は最後のダメ押しであり、自然的野蛮さ以外の何物でもなかった。原初の巨人は既に死体と化していた悪魔の霊核へと、仮借なく黒曜石の剣を突き立てた。
失楽は、そこで終わりだった。足元に広がっていた魔の饗宴は灰と化し、再び青々とした草花が茂り始めた。肉体は損傷を極めているが、楽園さえ戻れば修復される。700mに及ぶ巨躯の死骸。巨人の足に絡みつき、膂力の尽きた剛腕が泥の躯体にしがみつく腐肉も、いずれ楽園の肥料へと変わっていくだろう。その時こそは、楽園は完全なものとなるはずで───。
全き不意に、巨人は肌を粟立てた。
鋭角に研磨された正体不明の殺気。胸を抉るようにそれは、ただ、純粋なまでの絶殺の意思だった。
身を躱さなければ死ぬ。既に神そのものとなり果ててなお、惹起する畏怖。恐怖は先ほども感じたが、二の足を踏んだのはそれが初めてだった。
身を翻しかけた人は、だが、腕にのしかかった重量で全てを悟った。
腕をつかんで離さぬ腐肉。脚に絡まる大蛇の遺骸。それらを謀と理解したが、既に遅すぎた。
飛来する殺意。収束する絶殺への専心。まるで蚊が皮膚上に止まるほどの感触すらないそれは、人間用の
※
アサシンにとり、その決断は決断と呼ぶべきものですらなかった。
決断とは意志的なものであろう。あるいは先駆的というべきか。どちらにせよ、そういった意志的なものが世界を動かすという実存主義的な、あるいは量子力学的な話を、アサシンは露ほども賛成しなかった。あるのはただの合理性のみであり、世界は法則に対して従属的立場にあるものだし、またあるべきだと思う。
全ては合理的なのだ。あの少女ではなく自分が切り捨てられた方が、あの巨人を打倒するに有利であり、結果とすればベンサム的幸福に適うものだ。サーヴァントなどという人理の影法師など、死んだところで誰の不幸にもならないのだから、むしろ積極的に切り捨てられるべきなのだ。アラヤに使嗾され、抑止の守護者として消費されることと、なんら変わらない。良識や理性が出る幕はなく、アサシンの自己犠牲は機械的合理性に基づいた判断でしかなかった。
だから、多分、それは気の迷いのようなもの。何故かあの褐色の肌の少女が死ぬと思った瞬間に、判断も何もなく身体が動いてしまって、助かった少女の姿に一滴程度、感情以前の蠕動を惹き起こしたのは、抑止の守護者なんぞになりながらも捨てきれない甘さと余分に過ぎないのだ。相変わらずの自分の無能を今更に呆れることもなく、アサシンは柄にもなく、まぁ世の中夢を織る機械だってあるんだから、と言い訳する。
らしくないな、と思った。今回の召喚は、往々にして、らしくない。なんでさ、と思わないでもないが、詮のないことだろう。
不意に浮かび上がった、それは泡のような存在者。自我と非-自我の境目、無意識にすらなり得ない拡散した身体性。自らの認識のままにそのタイミングが来たことを理解して、アサシンは芥子粒ほどの精神を起動させる。
「『
停滞破却。取り込まれる速度が加速度的に増していき、残った精神など津波の前の笹船のようなものだった。
「───4倍加速」
その一小節が最後のキー。同タイミングで
突き刺さった短刀を基点に作動した宝具の神秘は、巨人の魔術回路を切断しながら嗣いでいく。加速度的な侵襲は当然のように
崩壊の寸前、意識に登った光景は、きっと断末間際の妄想でしかなかった、恐らくは。
酷く、蒸し暑い、どこかここではない時制。
健やかに焦がれた肌の少女の貌。
ぎこちなく身を竦ませたアサシンは、あの時と同じように、幼稚な自分の理想を思い浮かべた。今思い返すと本当にガキ臭くて嗤うべき戯言でしかない、蒙昧な言説。
なりたかった自分には程遠い。間違いだらけの道だったような気がする。錆びついた鉄心のような呪縛は、もう身動きすら許してくれないけれど。
その夢を追いかけたことだけは、間違いなんかじゃ───。
───あるはずのない妄想。連続して延長し続ける世界の隅で、偶然発生した出来事。子供じみた平和論に、小麦色の少女は、笑っ
※
500mの巨体が倒れ込む。
朽ちた神樹が地面に砕けるように、酷く緩慢で厳かな崩御。足元で萌えはじめた新芽は灰色に変わり果て、それの死を嘆くように穂先を垂れていた。
そうして、巨人は滅ぶ。断末魔すらあげない、無音の抱擁。せめて海に抱かれて消えたことが、最後の祝福だったのだろうか。あるいは、その逆なのか。トウマには、よくわからなかった。
街の、中。
街路の一角。トウマは弓を構えた少女の背を、痛ましく見つめていた。
500mの大質量が激突したせいか、巻き上がった海水が降り注いでいる。驟雨のように肌を打つ雨の、その果て。
あ、と思った。
「虹―――」
独語独り言にも似た呟き。身動ぎした少女は、恐る恐る顔を上げた。
「雨で良く見えないけど」
髪を、かきあげる。髪から水を絞り出して、佇立するしかない少女の手を取った。
行動もなく、発話もなく。ただ、冷たい指先が繊弱に握り返した。
一応ですが、「笑っ」は誤字脱字じゃないです