fate/little bitch ~煉鉄の小悪魔~ 作:七草探偵事務所
「アルテラ様!」
この時、トリムマウの行動は全く以て良識に従っていたといって良い。
エルメロイ家の至上礼装、
アルテラが居るはずの部屋に飛び込んだトリムマウがまず認識したのは。ベッドでまだ静かに眠る小麦色の肌の少女。トリムマウは、その疑似的に作成された人格に確かな安堵を感じた。
そう、安堵。極めて人間的な安堵感である。トリムマウはそれを感じたことに特段の感慨も抱かず、素早くアルテラの身体を抱えた。
「トリム?」
トリムマウは、静かに唇に指を添えた。本当はちゃんと話を聞きたいところなのだが、時間的余裕はない。せめて頷きだけを返して立ち上がったトリムマウは振り返って、
「おやおや、ここに居たか」どろりと溶けるような、緋のような目が銀の肌を炙った。「化け物がお飯事とは愉快な光景だ」
この時代の不似合いないで立ちの男。1世紀ローマの瑞々しく乾いたオリーブ色の風土と、そのコート姿は全く以て乖離を感じる風采だった。
だが、それは後付けの印象に過ぎない。
何をおいても、まずトリムが明晰に感じたのは敵なるものへの直観だった。
敵意すらない、傲岸の具現とでもいうべき佇まい。燃えるような目の下で蠢く口唇。毒々しく色づいた唇から覗いた歯は、獣性を滲ませた人間の低劣さの表徴とでも言うように、尖っていた。
トリムマウの行為は、ここにおいても全く以て合理的の一言に尽きた。居室に現れた正体不明の人物に対して、物語であればその名を糺すこともあるだろう。だが、今まさにトリムマウがただ中にいるこの世界は、フィクションでもなんでもない事実。分断された歴史を舞台にした
「アルテラ様、無礼をお許しください!」
発言と動作は同時だった。
アルテラを抱いた右手の上腕が脱落。液状した
その時の彼女の速度は、敏捷値にすればB、瞬間速度も考慮すればB+に相当する。疑似サーヴァントの依り代に選ばれたライネスに付随して召喚されるトリムマウの性能は、サーヴァントのそれに匹敵する。殊にライネスは自身の戦闘能力を並の人間まで落とすことで、その分のリソースをトリムマウに割き、その性能をさらに底上げする。トップサーヴァントには及ばないが、そのすぐ後ろに追従するだけの性能は維持する。
それはただの事実。慢心など一切ない、客観的現実。そしてサーヴァントとは、最上位の
およそトリムマウが男の懐に飛び込みまで、1秒未満。いやその半分もない。残った左腕を刀剣に変化させると同時、最後に踏み抜いた右足を瞬時に液化させる。滑り込ませた銀の液はさらに変化し、無数の杭となって襲い掛かった。
コートの男はそれを回避。ただ、その回避は決して見てくれもよくなければ素早くもない、凡夫のそれだ。問題なく処理できると踏んだトリムマウは、文字通り手刀と化した左手をコートの男の脳天へと振り下ろした。
剣が体躯を貫く。あまりに手応えのない残心。腕を伝った衝撃は、まるで水を切ったような感覚である。
噴き出す体液、飛び散る血潮。地面にべたりと延びたそれは、人間のそれではなかった。
「アルテラ、様?」
汞のメイドゴーレムの胸部から、何かが生えている。
虹が渦を巻くような、異様な何か。見ようによっては剣に見えなくないだろうか、その謎の物体はあっさりとトリムマウの胴を突き破っていた。
静かに、剣が引き抜かれる。彼女に痛覚はないが、引き抜かれるたびに意識が断線していくような感覚は、疼痛に似ている。それもかなりの激痛。悲鳴を漏らさなかったのは、彼女の人工知能にその感覚と音声の紐づけが成されていないだけだった。実際のところ、いわゆるその激痛の度合いは人間であれば発狂するほどのものだった。 トリムマウが味わったその激甚を人間的言語に置き換えるなら、何かが、浸潤するようだった。
差異化。同質性を維持したまま、別なものになっていくという極限の事態。彼女の知る人物の言語表現を借りれば、彼女の疑似人格にクラッキングをかけられているかのようなもの。焼けるような何かが自らに溶けあっていく感覚に、トリムマウが耐えられたのは実に1秒だった。というよりむしろ1秒で事態の全てを了解して、彼女は迅速に自らの機能を停止させた。
管制システムたる疑似人格、トリムマウの機能停止は、月霊髄液そのものの活動停止と同義だ。形状の意地すら不可能になった水銀の塊は、床へと広がっていった。
その銀水を踏みつけるコートの男。鼻白らむような一瞥は、明らかな軽蔑そのものだった。
「二流貴族の魔術礼装如きが、つけあがるな。だから没落などするのだ」
コートの男───レフ・ライノールの言葉は一度強く踏みしめると、それで、格下相手の軽蔑は終わりだった。男の認識は既に別に移っていた。獣そのものですらある眼光が舐めつけたのは、肥沃な土の色をした肌の少女だった。
「トリム? なんで──」
自らが握るそれ───極彩色に蠢動する奇怪な剣と銀の水溜まりを見比べるアルテラは、混乱のただ中にいた。何故トリムマウはあんな様になっているのか。何故自分はこの意味不明な剣を持っているのか。そして何故、自分はこの剣でアルテラトリムマウを貫いたのか。何故だけが脳髄の中を占める彼女の首根っこを掴み上げたレフは、ただただ色を失った目で少女を睨みつける。
「誰の仕業か。あの小賢しい疑似サーヴァントの手筈か、あるいは共謀か。アヴィケブロンではないな、大方あのうさん臭い眼鏡か。このタイミングで出てこないところを見ると、それも朽ちたということか? 二流らしい、憐れな末路だ」
ぎち、と軋む片腕。首を捻じ切らんばかりの膂力にアルテラは悲鳴を上げなかった。上げなかったわけではなく、上げられなかった。気道と声帯を押しつぶすようなそれで、彼女は呼吸すらままならなかった。口腔内の唾液腺と目じりの涙袋から透明な液を吹き出したのは、崩壊した精神が物理的に漏れただけのことだった。
そんなアルテラの悲しみ───他者を害したという、未曾有の自責とその相手が身近なものだったという二重の悲哀───などレフには全く以てどうでもいいことである。むしろ、それは好都合だった。アルテラに掛かったなんらかの魔術的措置───忘却の魔術を解くには、メリットはあれどデメリットはない。
───元より、その算段はあるのだが。身もだえする少女を締め上げる左手とは別、もう一方の手を開けば、そこには怖気が奔るほどの金色が鈍く煌めいていた。
金色の器、
鋭く、斬れるような吐息が部屋を裂く。出せないはずの声が漏れるほどの、無と同位の純粋な痛み。喉を握りつぶされることなど比較にもならない激痛に全身を硬直させながら痙攣する少女の身体を、レフは塵か何かのように床に放り捨てた。
「目を覚ませ」
痙攣する少女の躯体を足蹴にしながら、どこまでもレフ・ライノールに理性や良識の様子はない。その獣の目にあるのは底なしの非-人間性。昆虫じみた、感情の無い冷たい蔑視。
「人間のフリなどさっさと辞めて本性を現せ。
「何を、している?」
ネロ・クラウディスがその場に乱入したのは、その時だった。
※
ネロ・クラウディウスがその場に遅れたのは、いくつか事情があった。
ローマへのゴーレム強襲の報を受けた彼女が成すべき行動は、一つしかない。帝国臣民の生の保護のため、あらかじめ備えていた避難警報を報知。前線指揮を執ることで滞りなく避難を進めながらゴーレムの撃破を同時進行。指揮系統が確立し、どちらも自分がいなくても問題ないと悟ってから、彼女は宮廷へと舞い戻った。
この間、実に1時間程度。尋常ではない指揮能力である。事前に司馬懿と敵強襲時の対応を構築していたにしても、迅速である。放蕩の限りを尽くした暴君ネロにはそぐわない堅実さだったが、ある意味にしてこれは実情に近い。政策レベルにおいて、ネロ・クラウディウスの治世は安泰そのものであったと言う。彼女の愚かたる所以は皇帝らしからぬ私事にこそあるが、外政・内政どちらも高い水準であった。故にこの対応は、偶然ではなくネロという皇帝の手腕である。
宮廷内部の業務処理を終わらせたのちは、再度陣頭指揮を執るつもりだった。自らの自室に戻ったのは、私的な感情ではなく、きっとそこに居るであろうトリムマウの助力を恃むことが主眼だ。ゴーレムとの戦闘において、トリムマウの力は極めて重要であり、だからこそネロは自らの自室に、勢い飛び込んだ。
そうして、彼女が目撃したのは全く以て理解の埒外の光景だった。
「これは手間が省けた。獲物が向こうからやってくるとはな」
鰐のように口角を上げる。外套姿の男。妙な形状の帽子の下では下種な嫣然が浮かんでいたが、それに感情など欠片もないことは見て取れる。
下劣に歪んだ口唇に対して、その眼差しは全く以て無感動だった。なまじの人間など、その眼差しだけですくみあがるだろう。実際、それはある種の魔術にも等しい。原初において、魔術とは即ち眼差すことと同意である。対象に干渉するための、原初の出力機。それが眼差しなのだから。
だ が、ネロにはその程度の脅しは全く無意味だった。彼女自身が上位の魔力資質を持つが故か、あるいはその激烈な気質が故か。レフ・ライノールの放った呪詛の眼差しを毛ほども意に介さず、ネロは歪な剣、隕鉄の剣を構えた。
「応えよ、外道。さすれば楽に死なせてやろう」
翡翠の目に、いつもの軽快さはない。大らかさ・朗らかさのない、むしろそれは暴虐ですらある沼色の目。
「貴様は今、このローマで……余の部屋で何をしていた? 何をするつもりだ」
レフはたじろいだまま、舌打ちした。如何にも嫌悪的な表情のまま鼻を鳴らした。
「
「なるほどよくわかった。つまり、惨たらしく殺していいんだな、貴様……!」
ネロの動きは早かった。生身の人間だというのに、それはサーヴァントにも匹敵するほどの速度である。俊敏というよりは豪速といった様相のそれは、実際レフにはどうしようもなかった。
狙いは左の肩口から右の腸骨まで、一刀両断するほどの剣閃。隕鉄の剣『原初の火』の鋭利さは、当然人間の身体など問答無用で轢断し得るものだ。そして反応できても躱せないレフは、その一刀で死ぬはずだった。
だが、そうはならなかった。赤く燃えるような剣が肉を抉るより遥かに早く、虹光が颶風すら伴って間に割って入った。
叩き付けるように振り下ろす原初の火。それを迎撃したのは、掬い上げるように振り抜かれた虹光の奔騰だった。
瞠目するネロ。金獅子の鬣の如くに猛っていた髪が静まり、暴君そのものと化していた沼色の目が静かに翡翠の煌めきを取り戻していく。むしろ瞋恚は鳴りを潜め、ただ繊細な混迷が身体を縛った。
不定の虹剣を手に鍔競り合う少女。風采は何もかもあの子と同じだが、ネロと同じほどの体躯となった少女の紅い目が、さくりとネロの懐を貫いた。
乾坤一擲、などという溜めはない。つばぜり合ったまま、濃い土色の肌の剣士が一歩踏み込む。ただそれだけでネロの身体は毬のように弾き飛ばされ、床に叩きつけられた。
げほ、と咳き込んだネロは、ふと何かに気づいた。だがそれが何なのか考える暇などとてもなく、躍りかかった虹剣が一刀を振り下ろす。
回避は不可能だった。サーヴァントならともかく、ネロは生前の姿、即ち生身の人間である。技量はともかく、耐久力はサーヴァントのそれには遥かに劣る。体当たりに紛れての腹部への強かな殴打は、生身のネロにはあまりに耐え難い。さらにその剣の一筋は尋常な速度ではない。とても、一瞬でネロが身を躱す余裕などなかった。
故に、
「ネロ!」
その回避はネロのそれではなかった。
唐突に飛び込む赤銅の影。あわや虹剣が胴と足を泣き別れする寸前、飛び込む様にネロを抱きかかえたその人物は───。
「り、リツカ!? 其方いつの間に」
「後ろに剣を振って、早く!」
皇帝となって後、ほぼ唯一といって良いほどの命令だった。だというのに、ネロは吸い込まれるように背後に剣を振り抜いた。ほとんど脊髄反射といって良いほどの太刀筋。高速の横薙ぎに振るわれた剣は、ほぼ同じタイミングで襲い掛かった虹剣の剣戟に重なった。
思いがけぬ反撃に、弾かれるように飛び退く黒影。その合間に立ち上がったネロとリツカは、二人して汚泥のような息を吐いた。
「大丈夫?」
「うむ、なんとか」
「そういう意味じゃなくて」
「む、いや」
「だよね」
軽く、リツカがネロの背を叩く。叩くと言うより撫でるようだ。小柄なネロより少しだけ大きいだけのリツカを見上げた。ネロより一回り若いはずなのに、温和な顔の奥底に不敵な泥濘を潜ませている。
「おやおや、誰かと思えばオルガマリーのお飾りじゃないか」
レフはこの時、意外に表情を綻ばせた。無論、昔馴染みを歓迎する表情などでは一切無い。対するリツカは、それを無視。言語的会話など端からするつもりもなく、ただ穏和な顔のままに外套姿の男を無視する。
「リツカ、アレはお前の」
「皇帝陛下、今はアルテラのことを。下衆のことは後でいい」
「あ、あぁ」
表情も何も変わらない。だというのに何故か感じる鋭さ。槍のような刺々しい鋭さを感じ、ネロは言葉をしまった。
何より、リツカの言う通りだ。あの男が何者であるか。それよりも、遥かに大きな問題が、ある。
「アルテラ───」
ひりつくような呟き。翡翠の目は、怯えるようにその剣士を見定める。
羊毛のような髪。肥沃な土を思わせる褐色の肌。背丈は随分延びているが、それ以外は間違いなくアルテラだった。
「見ない間に大きくなったね、成長期かな?」
「リツカ、貴様なんという」
「そうでも言ってなきゃ腐りますよ」
さらりと言う。この土壇場で軽口を言う精神性はネロも持っているが、今この瞬間はその余裕がない。
いつの間にか、リツカの手が淡くネロの手を握っている、剣を持った手に重なった未来からの使者のそれは、酷く繊弱さすら感じさせた。
「暴君と人でなしの人情ごっこか、愉快すぎて反吐が出そうだ」
「私は化け物と対話して、交流を持つほどお人好しじゃあないんだ」
やっとのレスポンスだったが、これもにべもなかった。怒気に顔を赤くするのも一瞬、レフは吐き捨てるように言葉を漏らした。
「ベリルの言う通りだな。人の心がわからない、大量殺人者」
そうして、レフは顎でしゃくる。微かな頷きは返答だったのか、それとも別だったのか。レフの前に割り込んだアルテラの目は、明らかに正気ではない。
「宝具を解放しろ。このローマごと、そこな暴君を葬り去れば終わりだ」
剣を、掲げる。虹の如き螺旋の剣。その突端で天を衝くばかりの構えの直後の動作は、理解の外だった。
軽やかに、剣を回す。刀身を下に、柄頭を天に。
「
掲げた剣から赫焉が天へと上る。天井を貫いてソラに昇る赤い閃光が到達したのは衛星軌道。光が拡散するや魔法陣へと変形していく。
「対城、宝具───」
「アルテラ!」
ネロのそれはほとんど悲鳴だった。何を言うべきか、何が言いたいかすら不定のまま迸った声に、アルテラは完全な無反応を返しただけだった。
だが、悲鳴を上げたのはネロだけではなかった。
その背後に控えていた男───レフ・ライノールの爬虫類じみた顔に張り付いたのは、明確な恐怖と焦燥だった。
「ば、馬鹿な!? それを使えば貴様も───いや、私も!」
「『
星珖が、突き立った。