ここは何処だ、士郎はそんな事を考えた。
足下には草が生い茂り透明な風に靡いていた。それは剣の様に尖って鋭かったが、揺らぎには優しさが感じられた。見上げる空は群青色で星が幾つか瞬いていた。満天の星々を仰ぐ様な、圧倒的される美しさはでは無かった。だが、道端に咲く華の美しさとはこう言うことを言うのだろうな、彼はそう考えた。夜か、昼か、良く分からない。明るくもあったし暗くもあった。
見渡せば草原。空と大地の境に彼女は立っていた。鞘に収めた剣を大地に突き立て凜々しく立っていた。目を凝らせば丘の上に立っていただけだったのだが、そう見えた。彼方から溢れるまぶしい光を浴びて、彼女は厳かである。傷だらけの鎧も、敵を見据える鋭い面持ちでさえも、美しく見えた。それがとても自然で、翔んでいるのかと錯覚する程である。
光が差した。
雪の様な白い肌と、水の様な蒼い瞳、そして紛う事なきこんじきの髪は宝石の様に輝いていた。
“あぁそうか、夜明けだ。夜明けならとても彼女らしい”
彼はまばゆい光りに包まれ、目が覚めた。
「う……」
士郎はまどろみの中見た夢を思い出していた。彼が夢に見た彼女とはセイバーだったと理解した。最初の疑問は剣だった。彼は風の結界で隠されるセイバーの剣を見た事が無い。だが夢のセイバーが持つ剣とは違う一振りだ、彼はそんな確信を持った。
“カリバーン”
どうして剣の銘が判ったのか不思議でならなかったが、それ以上にあんな夢を見たのか判らない。少女が登場する夢は初めてでは無かったが、ここまで明確な夢は異常だ。
だがとても気分が良い、否、心地良い。誰かに側に居て貰い、その誰かに守られるという感覚は言葉では言い尽くせまい。そういう意味では舞弥も同じだが彼女は一歩退いた場所に立っていた。守られてはいるが側に居るという感覚は乏しい。随分贅沢な夢だ、そう思いながら瞼を開ければそこにセイバーが居た。
(……)
眉尻は穏やかに下がり、薄紅色の唇は艶やかに光っていた。流れる金色の髪は頬に掛かり、水の様に滑らかだった。寝息を立てるその様は、日頃見せる彼女からはとても想像が出来ない無防備な寝顔だった。
彼が感じる彼女の細い肢体は、柔らかく温かかった。かって舞弥から与えられた温もりを思い出した。ぼうと見詰めること数分間。彼はおもむろに手を伸ばしその頬に振れてみた。柔らかい感覚が、彼の神経を刺激する。
「んぁ……」
悩ましい声に薄れつつあった夢が強烈に塗り直された。現実を把握するにつれ、鼓動が暴れる、脂汗がでる、目も血走っていたかも知れない。同じ寝床。士郎の腕の中に身を寄せるセイバーは現実だった。
「¥!$*@!!!!!!」
彼は大声で叫んだが、なんと言ったのか彼にも理解出来なかった。
◆◆◆
早朝。未だ暗い空を仰ぎながら、衛宮邸の台所に立つのは、桜である。葱を切る包丁の音、味噌汁をかき混ぜるお玉の音、慌ただしく動きつつも軽快であった。
士郎が先のバーサーカー戦の罰として家事全般を禁じられた為、替わって彼女が任されているのである。台所仕事もその一つだ。家事全般は慣れているうえ嫌いでは無い。だが。何故一人でこなさねばならないのか、彼女はそれが不満だった。
セイバーは家事が出来ない、料理以外は出来るはずの舞弥は何かと理由を付けて手伝わない。セイバー陣営とは共闘の間柄だ、共闘とは共に戦うという意味だ、対等ではないのか、これは対等では無い、桜はそんなことを考えた。桜の不満は脳裏に浮かぶ一節に集約されていた。
“姑(舞弥)小姑(セイバー)にいびられる嫁”
桜と士郎の接する時間を減らす、全ては二人の距離を必要以上に近づけない舞弥の企てである。不満とはいえ甘んじて受けるより他は無い桜であった。凛から魔術の手ほどきは受けているものの大した事は出来ない。状況が停滞している以上、自然暇な時間が出来る。
身体を動かしていた方が楽と言えば楽だ。一応とは言え舞弥とセイバーには感謝される。手伝いたくても手伝えない士郎には申し訳なさそうに謝罪される。なにより兄に置いていかれたと言う事実を忘れることが出来る。渋々なのだ。士郎を支える事は転じて聖杯に繋がるはずだ、彼女は自分に言い聞かせてせっせと家事に勤しんでいた。
つんざく様な士郎の悲鳴が聞こえたのは、桜が手のひらに乗せた豆腐を包丁で切っていた時である。危うく指を落としかねない悲鳴に桜は駆けつけた。
その信じられない光景を見て彼女は言葉を失った。士郎はTシャツにスウェット姿で壁と畳の境に腰を下ろしていた。見えない手に押され壁にピタリと押しつけられている様な彼を見れば、後ずさり飛び退いたのが見て取れる。
それは良い。100歩譲ってその奇行に目を瞑ろう。問題は士郎が寝ていたであろう布団に居る娘である。彼女は敷き布団にぺたりと座っていた。士郎が飛び起きた結果、掛け布団はあらぬ所にある。幾らその娘が白人だとは言え、白いシーツを背景にすれば肌色は嫌と言うほど目に付いた。その娘は全裸であった。
これはどういう事だと、士郎に詰め寄れば彼は青い顔で知らぬ存ぜぬと言い張った。
怒りがこみ上げる。それ相応の恥ずかしいアピールもしてきたというのに、彼は全く気がつかなかったというのに、つい先日やってきた娘にあっさり手を出すとは勘弁ならない。桜がどうしてくれようかと身を震わせていると、先手を打ったのはその娘だった。
その娘、セイバーは舞弥に指導された内容を思いだし、掛け布団をたぐり寄せた。胸元を隠す。その様は事後そのものであり、加えて桜にはNTRに見えた。士郎が服を着ている事などどうでも良くなった。
「これで判ったでしょう。桜、貴女はお邪魔虫なのです」
脈絡もへったくれも無い、抑揚も無い棒読み発言であったが桜には効果は十分である。何を言っているのかと士郎は声を荒らげたが二人の耳には入らなかった。
「ど、どう、いう、ことで、でで、すか? せんぱい?」
「いやだから、俺も、さっぱり!」
「桜、私とシロウは身内です。口を挟まないで頂きたい」
(み、身内?!)
そのセイバーの発言は桜を大いに揺さぶった。もちろん身内で関係を持っても良い、と言う意味である。そんな事よりも問題はこの状況だ。それはそれとして桜は詰め寄った。
「何を言っているんですか! セイバーさんは先日召喚されたばかりの余所者じゃないですか!」
「私とシロウは誓い合った仲だ。桜とは違う」
桜には“私とシロウは(将来を)誓い合った仲だ”と聞こえた。
「シロウは私のマスター(主人)。共闘程度の仲で大きな顔をして貰っては困る」
「しゅ、主人っ!?」
理解が追いつかず桜が硬直していると、セイバーは舞弥から宛がわれたポシェットを手に取った。彼女は四角いフィルム状のパッケージを取り出した。そう、それは“うすうす”のアレである。セイバーはその隅を口にくわえると四つん這いでシロウに迫った。
「シロウ、んー」
セイバーの振る舞いは、作業的、棒読み、行為の意味すら分かっていない大根役者であるが、士郎には効果が抜群だった。無理も無い、全裸の美少女に迫られて意に介さない高校生はナニかがおかしいのだ。桜は身を震わせた。否定するどころか、拒否するどころか、今にも受け入れかねない士郎の姿を見て桜の血管は切れた。
「先輩のっ! ばかぁぁぁぁぁっ!」
桜は兄に好意を持っているが、兄妹故に結ばれないと嘆いていた。好きな相手に好きだと伝えてはいけない、だが毎日顔を合わさなくてはならない。辛く苦しい時間を何年も過ごした。助けを求めてもがく折、怖い兄に臆しない士郎に出会った。士郎に受け入れられれば兄から離れられる。彼女はそう考えた。
ところが士郎は凛に向いていた。彼女なりの精一杯の誘惑もしたが気がつかない。士郎に告白すれば良いのだが、拒絶されれば全てが終わりだ。士郎にも近づけず、兄からも離れられず、動けず立ち止まっていたところ聖杯の事を知った。聖杯はどのような願いも叶える事が出来る。
だが桜の願いはどちらかと結ばれたいのではなく、助けて欲しいだった。彼女は願いを考えた時それに気づいてしまった。
その理由とは。
桜にとっての身内とは千歳と真也のみである。と言ったところで血の繋がりがないのは彼女も知るところだが、このまま離れてしまえば他人になってしまう。そうなったら彼女は何処の誰になるのか。遠坂に捨てられ、間桐では道具として扱われ、蒼月からは自分から離れれば。
桜は本来一つであるべきルーツがバラバラで極端すぎた。彼女は個としてのよりどころが不安定なのだった。間桐で受けた致命的な虐待を癒やすには絶対の安心と拠り所が必要であり、それを与えたのは真也であったが、それは激しい歪みを生んだ。血の繋がりがない桜には“真也の妹”という前提が絶対になってしまった。
簡単に言えば。士郎と結ばれる事は血の繋がりがない以上妹ではなくなる。兄と結ばれる事もまた妹でなくなる事を意味する。
これを正す事など不可能なのである。彼女が聖杯を求めた理由だった。真也がもう少し桜の自立を促すように接していれば、ここまで拗れる事はなかったが絶対の安心を与えるという意味に置いて、それが成立しない。
とはいえ。彼女は一人で生きていける程強くは無い。士郎の側に居れば彼を求めるし、兄の側に居れば兄を求める。決断出来ない。それが良くない事だとは承知しているがどうにもならない。
(駄目だな、私って)
パスを通じてそれを悟ったライダーは、それでも二人は共にあるべきだと考えた。兄妹以上の関係になれずとも、血が繋がらない以上相応の幸せを得る事は出来る。人生に苦しみはついて回る、なにより幸せとは育むものだからである。やはり真也を説得しなくてはならない、ライダーはそう考えた。
好都合にもセイバー陣営は桜を牽制していた。ライダーから見ればセイバーと士郎の距離が近い事に異存はない。桜と士郎の距離を近づけない様にする、これも良い。問題は真也を説得する事のみ、だったはずだが予想外の事態に直面した。桜の境遇である。桜は扱き使われていた。
例えばある日の早朝。朝食の準備に追われる桜に舞弥はこう言った。
「桜さん。朝食の準備が終わったら、家の掃除と庭の掃除と洗濯とお買い物をお願いしますね」
と言う舞弥は満面の笑み。
「えっと、私一人でですか?」
桜は笑顔で戸惑った。
「私は銃の訓練に山奥へ行きます。セイバーは温存しなくてはならない魔力を費やしても士郎を鍛えなくてはいけない、手伝えないのは心苦しいのだけれどお願いね。そうそう、罰は罰だから士郎が手伝うと申し出ても断って」
桜の時間は空いている、それを見越した上でのぐうの音も出ない見事な舞弥の采配である。一重に、桜と士郎の時間を割く為であった。
「……判りました」
食料の調達も同様である。買い出しに出かけようとした桜に舞弥は声を掛けた。
「桜さん、お米も買ってきて下さいね」
「2kgでいいですか?」
「10kgでお願いします。ほら、沢山食べるでしょ? セイバーも“桜さんも”」
「……はい」
桜は身体の大きさに見合わずよく食べる為、それを突かれたのだった。彼女は張り裂けん程に食料を詰め込んだ大きなビニール袋を両手からぶら下げて、肩に米袋を担ぎ、商店街から衛宮邸まで歩いて帰った。その女子高生の様は悲痛さよりたくましさを感じさせ、町内のおばさま達には好評だったのだが別の話である。桜は力が強かった。
そしてそれは掃除の時。パタパタと手際よくこなす桜を尻目に、舞弥は窓枠を指でなぞった。その指には埃が付いていた。
「桜さん、申し訳ないのだけれど丁寧にお願いします」
「あの、性格が変わっていませんか?」
「御免なさいね。私は埃っぽいのは駄目なの。体調管理は重要だから協力してね」
「判りました……」
桜は全く信じていなかったが、舞弥の体質など調べようが無い。彼女は泣く泣く受け入れた。極めつけが洗濯の時である。桜はそれを見て目を丸くした。落雷でも受けたかの様に呆然と立ち尽くしていた。彼女の足下にある物は大きな桶と洗濯板である。彼女とて現物を見るのは初めてであった、とても驚いた。それ以上に驚いたのが衛宮家に存在する事であり、この文明社会でそれを使用しなくてはならない不可解さに苦悩した。舞弥は言う。
「御免なさいね、桜さん。洗濯機が壊れてしまって」
「……もう好きにして下さい」
「そう言って貰えると助かるわ。新しいのが届くまでお願いします」
故障は全くの偶然であったが、桜の余りの運の無さに舞弥も同情した。付け加えれば桶の水は冷水だった。真冬である。舞弥はお湯を使ってもいいと申し出たが桜は突っぱねた。“気にしませんと”と意地になった。桜はハラハラと泣きながら身を切る冷たさと格闘していた。
もちろんライダーも黙って見るつもりは無く桜を手伝おうとした。だが料理は出来ない、食器を洗えば割る、洗濯ではシャツを破る、彼女は余り器用では無かった。荷物を持つにもその姿は人目を引きすぎた。騒ぎになり買い物は遅れに遅れた。散々だった。好意だけ貰うという迫力ある桜の笑顔を見たライダーは、敗残兵の様に引き下がるのみである。
ゴシゴシと洗濯板と格闘する桜の様は、鬱憤を晴らすかの如く。気配を感じて視線を上げればそこには士郎の姿。彼は心苦しそうに立っていた。
「あ、先輩ー」
「桜、手伝う。手伝わせてくれ」
セイバーがどこからともなく現れた。理由は簡単である、士郎と桜を監視している為だ。
「駄目ですシロウ。シロウは罰を受けている身、雑事は桜に任せて鍛錬の続きをしましょう」
「でもだな、」
「どうしてその罰を受けたのか、その理由を思い出して下さい」
士郎は苦悩の表情を見せた。桜に家事を押しつけている事もそうだが、真也を斬り付けそれを黙っている事が何より辛かった。言いたくても言えない。謝りたくても謝れない。義理と人情に挟まれ立ち尽くす士郎をセイバーは引き摺っていった。桜はセイバーの言う罰が何の事か見当も付かなかったが、それどころでは無かった。うふふと笑いながら洗濯に明け暮れた。ヒュウと木枯らしが吹いた。そして夕飯どき。この時ぐらいは会話ができると桜は考えていたが甘かった。
「あの、先輩、」
「桜さん、今日の夕食は塩辛い気がするけれど、気のせい?」
舞弥は澄ました顔で何となくそう感じる程度の味付けを指摘した。
「ご、ごめんなさいぃぃぃ?」
箸を持つ桜の手は憤りで震えていた。もはや表情も取り繕わない。
「そんな事ないと思うけれど……」
余計な事を言わせまいと、フォローしようとした士郎にセイバーは寄り添った。
「ささ、シロウ。唐揚げです、あーん」
ライダーは砂糖の瓶をを舞弥に差し出した。
「舞弥、差し出がましいですがこれをお使い下さい」
思惑と怨念が渦巻く衛宮家の居間。士郎はバーサーカー戦以前に倒れてしまうのではないか、そんな事を考えた。
一日の終わりである深夜。桜に宛がわれた離れの客室にはプチプチと何かを潰す音が鳴り響く。彼女は部屋の床の上に正座で、背を丸めて俯いていた。髪が垂れ下がり表情が見えない。表情が見えないのは髪に隠れているからであり、決して影が差しているからでは無い。影で塗りつぶされた顔に二つの目玉だけがギョロリと乗っていた、その様な幽鬼に見えるのも気のせいだ。もしくは夜の町を世界の外側から覗く超常の存在、その眼に見えるのも誤りである。
プチ、プチ、プチ。
彼女はエアークッションを持っていた。俗に言う“プチプチ”である。何かを潰す音とはそれだった。一つまた一つ丹念に潰していく。空気の溜った粒を、押して歪ませる。たるんでいたビニールの皮が張り詰めるその様は、人が苦しむ様に見えた。まるで許容以上の何かを強引に詰め込まれて、のたうち回っている様だ。
押す、押す、押す。
乾いた音を立てて弾けた。断末魔の声にしては物足りないと思ったが、少し気が楽になった。
「……」
舞弥の手のひらを返した様な扱いが腹立たしい、私が何をしたと言うのか。セイバーの正妻めいた振る舞いが苛立たしい、後から出てきておこがましい。
プチ、プチ、プチ。
セイバーの振る舞いは言うまでも無く舞弥の指導である。当初でこそ辿々しかったセイバーの演技も徐々に板に付いてきた。その様な事は露知らない桜には、恋を知らない無骨な剣の英霊(セイバー)が何とか気を引こうと奮闘しているその過程に見えた。
(先輩も先輩です……)
もっとも気に触るのが士郎である。セイバーに言い寄られて、一応は拒絶するものの形だけだ。だが凜々しさのみを見せる彼女が世話を焼く様は、著しい認識の差異を呼ぶので無理は無い。俗に言うギャップ萌えである。人目が気になる士郎は桜をチラチラと見たのだが、桜から見れば気にするなら拒否しろよと言いたくもなる。桜はエアークッションを雑巾の様に絞り上げて、それを亡き物とした。ブチブチと連なる音は悲鳴のよう。
「うふふふふふふ」とはもちろん桜だ。
「……」とはライダーである。
ライダーは桜の日常を見て胸を痛めたが手の打ちようが無い。桜を手伝う事は士郎との距離を推し進める事に他ならない、だが何もしない事は境遇を放置する事になる。目を盗んで蒼月の家に帰ればもぬけの殻だった。連絡も無くあの兄はどこをほっつき歩いているのか、ライダーはそう文句を言おうと決めた。
◆◆◆
凛は夢を見た。始まりはグール戦の時、彼に助けられたのは事実であったが礼は言わなかった。私も相応の労力を払ったのだからお互い様だと考えていた。衛宮邸で士郎を待っていた時の事、待てないから愉しませろと我が儘を言った。バーサーカー戦の時、死にかけたところを助けて貰ったが何も言っていない。告白されたが自分の都合で返事を先送りした。そのくせ彼の都合を考慮せず家に来る様強引に仕向けた。ハンバーグの件も思い出すと顔から火が出そうだ。帰宅時間に遅れた事は彼女自身の選択であり、そもそも一報入れれば済んだ話だ。彼の都合を考えず、こちらの要望を押しつけたのみである。それ以上に我慢できないことが綾子との一件だった。彼は10年越しの綾子では無く凛を選んだ。その結果辛い思いをしている。
“私のするべき事はなんだ。私は彼の何だ”
そのとき凛の奥深いところで一つの音が鳴った。撃鉄の音に似ていたがもっと軽い。だが繋いだ物はとても大きかった。それは接点機であった。動き始めた回路は彼女自身想像だにしない物だった。もちろん魔術回路では無い。
凛がベッドの上で起きあがると不思議な事に朝の不快感が無い事に気がついた。倦怠感も無く妙に頭がスッキリしている。室内は冷え込んでいたが不可解な事に気にならない。習慣でショールを手に取り羽織ったが無くとも問題は無かった。カーテンを開けると明けの明星が見える、日の出までには暫く時間を要するだろう。彼女は顔を洗い、髪を梳き、身繕いを済ませると台所に向かった。彼が目を覚ますまでにはまだ時間がある、だがもう失態は許されない。彼女は白を基調とし赤のチェックが入ったエプロンを身につけると、腕を捲った。「んっ」と自然に声が出た。気合いは十分である。
ここ数日の真也の就寝は遅い。夜の警戒の為というのも勿論あったが、綾子の一件で生じた疑問に支配されていた。答えの出ない問答を繰り返し眠れない。床につく頃には空が白み掛かっていた。
凛が彼の部屋の前に立ったのは7時頃。もう陽も完全に昇り、雀が囀っている。ノックしようとしたが“まぁいいか”と彼女は扉を開けて部屋に入った。彼の部屋は客間では無く、かって凛が使っていた部屋である。理由は明瞭、客間はフロアが違うからだ。凛と葵の部屋から距離があってはいざという時に駆けつけられない。鍵も内側から掛けられるが掛かっていなかった。そのベッドは以前凛が使っていた物、そう教えればどのような顔をするのか彼女は少し気になった。
真也はベッドの上で膝を立てて毛布にくるまっていた。寝ていると言うよりは休憩しているにしか過ぎない、彼女はそう溜息をついた。休める時に休むのもプロだ、後でそう苦言を呈する事にした。シャッっとカーテンを開ければ、纏う装備もそのままである。流石にブーツは脱いでいたが、霊刀はベッドの直ぐ脇に立てかけてあった。事が起これば即座に引き抜く事が出来る状態である。遠坂邸に張り巡らされた結界を信用していないと言わんばかりの態度であった。完全なものなど無いがいつになく神経質だ、彼女はそう思った。そして凛は“それを解きほぐすのは私の役目”とベッドに両手と両膝を立てて彼に近づいた。ギシリとマットレスが音を立てた。
真也は気配を察知する事に関して自信があった。事実そうだった。例え身動きできない程疲弊していようと感づく事が出来る。千歳との訓練がそれを証明していた。であるから、この状況に陥った事は彼にとって異常であり危機感を持つ事であった。凛は彼の額に唇を添えていた。手で前髪をかき分ける念の入り様である。
「……」
余りの事態に彼は言葉が出せない。
「おはよう、目が覚めた?」
彼の寝起きは基本的に良い方だが、渋面は隠せなかった。何のつもりだ、何を考えている、そんな事をしても対価は払わない、色々言葉は浮かんだが取りあえずは憤りを引っ込めた。
「挨拶の前に一つ聞きたい。君は何をしている」
「もちろん、真也を起こしに来たのよ」
「ノックして起こせば良いだろう。或いは声を掛けて起こせば良い」
凛は真紅のタートルネックシャツに黒のミニスカート、いつもの恰好と思いきやニーソックスでは無く黒のストッキングを穿いていた。そういえばそんな要望(戯言)を言ったかも知れない、わざわざ応じるとは義理堅い娘だ、彼はそう思った。彼はどちらにも性的嗜好は持ち合せていなかったが、ベッドの上でその恰好は刺激が強すぎた。大問題であった。彼の心中どこ吹く風、凛は少し変だった。
「私に寝顔を見るって特権を享受させてくれても良いでしょ」
「何の特権だ」
「もちろん“彼女” 本当はキスがしたかったけれど、ファーストキスはちゃんと確認し合いたいし」
凛は何時ものあっけらかんとした表情かと思いきや、随分穏やかである。それこそ恋人を慈しむ様だ。何を言っているのかこの娘は、彼は余りの軽率ぶりに呆れるより腹が立ってきた。
「……何度も言うけれど男の部屋に押し入るなんて、軽率だぞ」
「朝よ?」
「そういう問題じゃ無い。同じベッドの上だ」
「分かってる」
「分かっていない。押し倒されても文句は言えない行動だぞ、それ」
「良いわよ」
「……何を言ってる、君は」
「だから良いわよ? そうね、今からだと母さんに感づかれるかも知れないから、朝食の後にして」
起きがけに交わす会話としては余りにも刺激が強すぎた。少し身を退いた凛は膝立ちである。腰を少し浮かせていた。ギシリとマットレスが悲鳴を上げる、長く黒い髪が揺れた。
「あのな、当面お預けって言ったのは何処の誰だ」
「ごめん、あれ訂正する」
「……へ?」
「私だって、望んでる」
落としどころ無く、落ち着き無く。そのか細い手は髪、唇、下腹部、を触れた後、自身の胸元に組んで置かれた。視線は俯き加減で頬を染めていた。薄紅色の唇は強く結ばれていた。いつもは閉じられている脚は開き気味である。可憐であっても躍動さを印象づける、凛にしては酷く劣情的だった。彼は思わず唾を呑んだ。羞恥と期待に身を焦がす、発情した女の子の姿である。朝は性行為に適している、彼はどうでも良い知識を思い出した。理性を煽りに煽る凛の振る舞いに彼は衝動を辛うじて抑えた。彼の顔は真っ赤である。
「どうしてもって真也が言うなら、その、今でも良いけれど」
「凛は経験無いだろ、相応に痛いはずだぞ」
「判ってる。だから、その、できるだけ優しくして」
「落ち着け。良いから落ち着け」
耳をくすぐる声だった。凛は自身の身体を抱いていた。不安を隠すようにも見えたし愛撫しているようにも見えた。
「……」
「……」
呆けた様に見つめ合うこと数刻。凛は意を決した様にスカートのホックに指を伸ばした。その行為が何を意味するのか、それを悟った彼は慌ててこう言った。
「待った、朝食にします」
「……そう。もう用意が出来てるから早く来てね」
物足りなさそうな表情を隠す様に凛は身を翻した。黒く長い髪がふわりと舞った。部屋を出て行く彼女の背中に真也が「おはよう」と言えたのは奇跡であった。
「はい、おはよう」
返した笑顔のなんと魅力的な事だろう。彼はベッドから転げ落ちた。暫く動けなかった。
◆◆◆
凛は朝が弱い。加えて朝食を食べない。使用人が来るのは朝を少し過ぎてから。であるから一人で簡素な朝食を取るのが葵の習慣であった。だが数日前から一人の少年がやってきたので、せっかくだからと葵が朝食を振る舞う様になった。
今日もそのつもりで葵が台所に赴けば凛が立っていた。白く清潔なテーブルクロスの上に手際よく料理を配膳していった。トーストにオムレツ、サラダ、コーンスープにヨーグルト。ありふれたものだが、配膳といい彩りといい、非常に気を使っている事は十二分に見て取れた。
「母さん、おはよう」
「おはよう、凛」
「母さんの分もあるから座ってて」
「そう、ありがとう」
これはどうした事かと葵が戸惑っていると、テーブルに真也が座している事が見て取れた。朝の挨拶を交わして腰掛けた。対面の少年も困惑を隠さない。凛が離れたタイミングを伺って、葵は失礼かと思いつつもこんな事を聞いてしまった。
「真也さん。凛に何かしましたか?」
「それが全く心当たりがありません」
「本当ですか?」
「妹に誓って言います。心当たりはありません。逆にお聞きしたいぐらいです」
妹に誓うという変わった言い回しが気になったが、単に仲が良いのだろうと葵は聞き流した。寝起きに受けたダメージを引き摺る真也は青い顔だ。
「ご当主はこんな性格では無かったと」
確かにそうだがそう言われると母の立場上反論もしたくなる。
「凛は気立てのいい娘です。取っつきにくいのが難点ですが」
取っつきにくいのはコミュニケーションを図る上で致命的だろうと彼は思ったが、葵に反論など出来ないので素直に謝った。ただ。
(気立てがいい事と甲斐甲斐しい事は似て非なるものだろう)
“甲斐甲斐しい”それは今の凛を的確に表す評価であったが、そう評した彼自身信じられずエプロン姿の凛を呆然と見るのみである。
カチャカチャと朝食を進める。凛は終始笑みを絶やさない。営業スマイルではなく自然な笑みだった。凛の視線は常に彼に向けられていたが、不思議と不快感は無かった。それが非常に落ち着かない、ギリギリとストレスが溜る。彼は凛にこう言った。取り繕う為である。
「今日は外出します。戻りは夕方の予定です」
「聞き込み?」
「それも有るけれどバーサーカー戦の予行演習もしたいです」
「そう」
凛は手伝いたかったが、生憎と衛宮邸に用がある。渋々断念した。彼は遠回しに聞く事にした。
「凛は朝が弱かった筈です? 今日は、どういった、風の吹き回しで?」
葵はぎこちない聞き方に吹き出しそうになった。その娘は母親の前でとんでもない事を口走った。
「母さんの手料理はもう食べさせたくない。私のを食べて欲しいって……ひょっとして迷惑だった?」
葵の手はピタリと止まった。不安を隠さない凛の姿に彼は度肝を抜かれた。ぎこちなく返答する真也は人形のよう。そう、口がカクカクと動く腹話術のアレである。
「そんな事は無いでス」
「よかった。私にだって彼女の意地も自覚もあるの」
「うん、ありがとウ」
「要望が有ったら言って、出来るだけ尊重……叶える」
ひょっとして未だ夢の中なのだろうか、それとも死んでしまったのか。目の前の凛と彼の記憶にある凛がどうしても重ならない。認識のズレを正そうと、無理に重ね合わせれば反発し衝撃を生んだ。その衝撃で身体の力が抜けた。“からり”彼はナイフとフォークを落とした。
「真也、口に合う?」
「はい、とてもオイシイデス」
実際の所、味など分からなかった。
「ごちソウサマデシタ」
「はい、お粗末様」
「でカケマス」
「待って。見送るから」
彼は柱に額をぶつけた。極めつけが玄関である。凛はおもむろに手を伸ばすと、彼の頬に添えた。指で目ヤニを取った。
「はい、OK。身だしなみはしっかりね」
「イッテキマス」
「行ってらっしゃい。気をつけて」
彼は躓いた。そのまま石畳にダイブした。凛は慌てて駆け寄った。どうしたのか、どうもしていない。怪我をしていないか、していない。家の軒先で騒ぐ二人を見つつ、葵はしみじみと物思いに耽る。
(凛ったら完全にスイッチ入ったのね。あんな娘が見られるなんて長生きするものだわ。あの人が生きていたらどう思うかしら)
凛は乙女回路臨界運転であった。
つづく!
【桜の悩み】
ごくごく簡単に言えば、好きと言っても良いし、愛してると言っても良いですが。恋人同士の行動をしても、夫婦生活の行動をしても、兄妹の枠は崩せませんのですべて真似事にしかならないという訳です。妹系エロゲでよくある“妹じゃ嫌です”ってフラグが回避出来ない。いっやーつらいわー。でも、子供を作っても兄さんって言うのはそれはそれでアリかもし、れ、ません?……ナイナイ
【凛】
ホロウであったデレ凛を自分なりに味付けしました。※ホロウのデレ凛はほんの少ししか出ません(PC版に限る