明くる日の衛宮邸。桜は敷地の外回りを清掃していた。塀の外を手際よく軽快に掃除に励んでいたが、その表情は重苦しい。有り体に言えば仏頂面だ。兄が訪れた事を昨日知った桜は一晩経っても不機嫌さが収まらなかった。
“ライダー、兄さんにこっそり会ったの?”
“こっそりではありません。セイバーたちも会っています”
“どうして言ってくれないの?!”
“サクラは買い物に”
“知ってたら行かなかったのに!”
“知っていれば私も止めましたが”
“酷い!”
“安心して下さいサクラ。明日来る予定です”
“……何時頃?”
“そこまでは把握していません。ただ事前に電話を掛けると言っていました”
というやりとりが昨夜有ったのだった。
(ライダーも気が利かない。時間を聞いておいてくれれば色々準備が出来るのに)
その準備とは、一日の予定を済ませておくという意味であり、タイミングが合えば料理を用意するという意味であり、身繕いしておくという意味であり、下着を変えておくという意味もあった。
“久しぶりだから、ひょっとして或いは”
あの自制心の塊の様な兄も妹を我慢できないかもしれない、と桃色妄想を膨らませばあり得ないと涙を流す。ピタリと手に持つ箒が止まった。ふと思い返せば兄とはもう何日も会っていない。声すら聞いていない。これ程離れたのは初めてだった。二人は修学旅行の時ですら毎日電話し声を聞いていたのだった。友人に呆れ返られたのも良い思い出である。
共闘を結び衛宮家に寝泊まりする様になり、慌ただしい日を送っていた桜であったが、異なる環境にも慣れ考える余裕が出てきた。考えてみれば。今兄は何をしているのだろう。大船に乗ったつもりで居ろ、と言っていた以上何らかの行動をしているはず。桜は兄の実力を知っていた。サーヴァントとも渡り合う以上滅多な事は無い筈だ。
ならば女関係は? 桜は兄が重度のシスコンだという事を知っている。まず無いとは思うが万が一という事もあり得る。それは綾子という意味であり凛という意味でもあった。不安になった。付け加えれば。自分には無頓着な兄であるから不健康な生活を送っているに違いない。桜の世話焼き願望がムクムクと膨れあがる。
(ご飯どうしてるのかな。コンビニとか牛丼で済ましちゃうから、明日にでもご飯作りに行こう……)
昼間なら問題ないはずだ。許可も下りるはず。
「あの御免なさい」
我に返った桜の前に女が立っていた。その女は黒のブラウスにベージュのタイトスカートを纏っていた。一枚羽織る防寒具はデニムのジャケット。見るからに品の良い若奥様であった。陽にかざせば青く見える長い髪はプラチナブロンド。20代後半の、ライダーに負けず劣らずの美しい女だった。絶世の美女とはこういう人を言うのだろう、と桜は思った。そして桜は。その女が強大な魔力を擁し、それを隠し、一般人を装っていた事に気づく事は無かった。
嫉妬を覚えつつも桜は努めて笑顔である。
「はい、何でしょうか」
「郵便局を探しているのですが迷ってしまって」
衛宮邸は住宅街でも奥の方にある。不可解だとは思いつつも、迷ったのならそう言う事もあるのだと桜は納得した。
「ここをまっすぐ行くと広い通りに出ます。それを下ると商店街にでます。商店街を坂に向かって登るとすぐ見つかると思います」
「ありがとうございました」
「いえ、大したことじゃありませんし」
その女は意味ありげにじっと桜の顔を見た。居心地悪いと桜は身を竦めた。
「あの、何か?」
「人違いであったなら申し訳ないのだけれど、貴女は蒼月桜さん?」
「どこかでお目に掛かりましたでしょうか」
桜の表情に警戒が浮かび上がる。彼女はライダーを呼ばんと令呪を意識した。
「あなた方ご兄妹は冬木で有名ですから。私はつい最近越してきたのですけれど、近所の方に話を聞くと必ずあなた方の事を耳にします。特にお兄さんの武勇伝は退屈しません」
そう言う事かと桜は愛想笑いだ。
「お騒がせします。ですが兄も最近は温和しいので、」
大目に見てあげて下さい、そう続けようとした桜にその女はこう続けた。それは桜にとって呪詛の様に聞こえた。
「でも、これでお母様も一安心でしょう。やはり兄妹ですから他のパートナーを見つけるのが正しい道」
「……それはどういう事でしょうか?」
「ご存じないのかしら? お兄さん、遠坂さんの家に居候しているそうですよ。とても仲睦まじくてご近所でも婚約も近いと評判で」
「嘘、嘘です。だって兄さんは私をずっと守るって、」
「御免なさい。ただの噂だから気にしないで」
桜の中でピシリと何かが割れた。その女は呆然と立ち尽くす桜に一言詫びると立ち去った。
(宗一郎様、私を窘めて下さい。ほんの二つ三つ石を投じるだけで、彼らは連鎖的に瓦解してしまうでしょう。余りにの脆さに私は浮かれています……)
その女、キャスターは笑みを浮かべていた。
◆◆◆
凛は幾つかの理由で頭を痛めていた。
一つは膠着状態である。キャスターもアサシンも一向に見つからないのだ。イリヤスフィールが回復するまでに戦力を整えなくてはならないと言うのにその手がかりすら掴めない。聖杯を求める以上戦いは必須。それすら無く、接触すらしてこないのであれば、何かを狙っている、と見るべきだろうが見当も付かない。
キャスターとバーサーカーが同盟を組んだ、考えたくないシナリオであったが、その可能性は低い様に思えた。バーサーカーはセイバー、アーチャー、真也の3人がかりですら倒せなかった相手である。キャスターがまともな思考の持ち主であれば、バーサーカーと組むのはあり得ない。凛らを倒した後バーサーカーと戦う事になるからだ。
(そもそもあの苛立たしい程、高慢ちきなイリヤスフィールが他の手を借りるとは考えにくいわね)
もう一つは桜である。家政婦紛いの扱いを受ける桜を見て、凛は舞弥の策略だと直感で思い至った。士郎に常識人で居て欲しい舞弥から見れば魔術師は避けうるべき人種だ。魔術師の娘である桜とは距離を置こうとするのは当然だろう。だが凛にとって曲がりなりにも妹である。扱き使われるのは面白くない。どうにかしたいと思うが当の桜が納得している以上どうにもならない。
なにより桜が舞弥から牽制を受けているの原因はただ一つ、それは好意である。牽制が共闘に直接関係がない以上、凛に口を出す理由が無いのだ。共闘はあくまで暫定的な関係であるゆえ事を荒立てては意味が無い。
そして最後はセイバーである。
(何考えてるのよ、この剣の英霊は……)
セイバーは数日前から突然甲斐甲斐しくなった。当初から面倒見が良い性格だとは思っていたが、その世話の焼き方は異常である。
当初。士郎へのぎこちない接し方から、桜への牽制という意味で舞弥の差し金かと思ったが、最近は単に接し方が分からなかっただけではないのか、と凛は思う様になった。つまりセイバーの、士郎への接し方が自然なのだ。
凛はちゃぶ台に肘を突いてセイバーを見た。
セイバーは座布団の上にぺたりと座り、士郎の側を片時も離れない。少なくとも凛の見る範囲ではそうだった。召喚された時に見た硬い鋭い表情では無く、温和な笑みである。都合よく見れば保護者、素直に評価すれば恋人のそれである。セイバーの守ろうとする気配が士郎を覆っているのが凛には見て取れた。溜息が出た。
(これが演技なら大したものだわ。アカデミー賞間違いなしね)
万が一セイバーが“そう”なのであれば桜にとって伏兵も良いところである。姉の目から見ても桜は美少女に該当するが、それでもセイバーは凛が敗北を認めた程に美しかった。そのセイバーに慈しみの表情を向けられれば大半の少年など為す術もなかろう。凛が衛宮家に魔術指南に来る様になり数日目。桜の余りの不憫さに付き合っている事を未だ話せない凛だった。
(衛宮君はどう思ってるのかしらね)
じっと士郎を見詰める凛の表情は複雑な心境を表していた。第3者から見れば彼女のそれは非難している様に見える。士郎と視線が合った、彼は慌てて目を逸らした。頬も赤い。
つまりはそう言う事である。士郎は未だ凛に淡い想いを抱いていた。言い出せぬまま終わるだろうと半ば諦め掛けていたそれはアーチャーの指南で自信と期待を持った。更に腕を上げ実績を積めば、と言うのが彼の算段である。
彼の思いを悟った凛の胸中は複雑だ。好意を向けられるのは悪い気分ではないが、凛自身は彼氏持ちである。それを公表すれば話は早いのだがそれができない。士郎から告白されていない以上振る訳にも行かない。桜が告白すればまだ良いのだが、その素振りすら見せない。
(どうしろっていうのよ、この状況……)
凛が呻いているとセイバーは立ち上がり凛の隣りに腰掛けた。セイバーは澄まし顔だったが、凛には不愉快さが混じっている事に気がついた。
「何かご用かしら?」
凛も澄まし顔で湯飲みを啜る。セイバーも同じだ、湯飲みを手にしていた。
「遠坂凛。前にも言いましたが必要以上に煽る恰好はやめて頂きたい」
「ちゃんと脚は隠してるわよ」
「前より卑猥では意味が無い」
凛はニーソックスではなく黒ストッキングを穿いていた。黒いそれが放つ淡い光沢に、足を崩して座る姿勢と、撓む太腿が混じり合えば、困惑的な曲線を描き出す。ミニスカートの組み合わせは眼に毒である。士郎は思わず見とれていた。
「えーみーやー君? どこを見ているのかしら?」
士郎は慌てて目を逸らした。
(シロウにも困った物だ)
セイバーは溜息一つ。凛が言う。
「衛宮君にはセイバーも桜も居るでしょ。穿いてくれと頼んでみたら? 言っておくけれど“私は駄目よ”」
その言い回しに、ちゃぶ台に向かいじっとしていた桜の身がピクリと振れた。士郎は言う。
「セイバーも桜も家族みたいな物だ。そんな事は頼まない」
「まだ言ってるのね、そう言う事」
「何が言いたいんだよ」
「なんでもないわ」
意識していては説得力など無いだろう。凛は呆れを隠さなかった。セイバーはこう言った。
「私は剣です。必要以上の感情を持っては困る。ですがまぁ、士郎の好意はうれしい」
その声が弾んでいた事にセイバー自身気がついていなかった。セイバーは続けた。
「繰り返しますがもう少し落ち着いた恰好にして頂きたい」
「……今まで黙ってたけれど、貴方が言う?」
凛は半眼である。その目は反則だろうと語っていた。
セイバーはセーラー服姿だった。漆の様な真っ黒な生地に、襟にはホワイトのラインが走っていた。胸元には紅色のリボンが華を咲かせていた。スカート丈は膝頭、黒いソックスとの間に見える脚の肌が生々しい。金髪少女が日本の制服を着るだけで、もはや言うべき言葉は無いのだが、彼女はダークグレーのカーディガンまで装備していたのである。
失敬なとセイバーは異論を語る。
「スカートの丈が違うでしょう。そもそもこの服装は由来のある学徒の正装と聞きましたが」
物はいい様だ、と凛は思った。
「遠坂凛、よもや私のマスターを籠絡しようなどとは」
「安心しなさい、そんな気は毛頭無いから」
「良いでしょう。但しシロウからは距離を取って頂きたい」
「ねぇ、セイバー。貴女のそれって本当に演技?」
「何が言いたいのです」
二人は鼻先が触れんばかりに近づいた。士郎に聴かれない様な小さい声量である。
『衛宮君に本気になったりはしないわよね?』
『馬鹿な事を。私はシロウの剣だ、そんな訳が無い。そもそも私は女を捨てている』
『なら良いけれど。ところでその服どこで入手したのよ』
『舞弥からもらい受けましたが、それがなにか?』
凛はとある魔女の話を思い出した。ある国の王女が魔女と恐れられ、罵られ、本当の魔女になってしまったという話だ。
(セイバーはどういう理由か分からないけれど女を捨ててる。そのセイバーに女としての振る舞いをさせて、それを呼び起こそうとしているって事か。久宇舞弥の考えそうな事だわ。姑息というか悪知恵が働くというか、何というか……)
それは環境が人間を変えるという意味である。舞弥の狡猾さは見習うべきかも知れない、凛はそんな事を考えた。
(……桜も気の毒に)
講義が終わり凛の帰宅時間となった。玄関に立ち扉を開ければ夕日が見えた。いつもの様に士郎が見送りで立っていた。士郎は靴べらと格闘する凛を暫く見守っていたが、我慢できないとこう言い出した。
「俺頑張るから」
「なによ、改まって」
「ただ言っておきたくて」
「……別に良いけれど」
いつもの様に玄関を出て、扉を閉めた。いつもの様に石畳を歩き、門の外を出ようとした凛を待ち受けていたのは桜だった。彼女は片腕で身を抱きしめ、俯き加減で凛を見詰めていた。その胸中は不安だ、凛はそれを感じ取った。
「珍しいわね、何か用?」
「……」
先日から姉の様子がおかしい、と桜は感じていた。材料は幾つかあったが、大きな物が二つ。何かとポリシーを持つ姉がニーソックスからストッキングに替えた事、いつもと変わらぬ不遜さの中に幸せオーラを放っていた事。姉の変化に訝りつつも漠然としていて良く分からなかったが、今朝、見知らぬ人物からの噂を聞いてそれは確信と変わった。
沈黙を続ける妹に、凛は眉を寄せた。
「言いたい事があるなら早く言いなさい。まだ言うべき事が纏まってないならその後にして」
桜の前を凛が通り過ぎかかる。
「兄さんに何かしましたか?」
凛は足を止めた。桜は俯いたままだ。日没の光りが二人を包んでいた。
「そんな事より折角の真也の計らいなんだから、ちゃんと掴まえなさい。桜が上手くいかなかったらお釈迦でしょ。大変そうだけれど」
「兄さんに何をしたんですか」
「変な事を聞くのね。それじゃ」
凛はどうにか誤魔化そうとしたが桜はそれを許さなかった。
「……兄さんと付き合ってるなんて嘘ですよね?」
言わない事と嘘をつく事は別である。これまでかと、心中で桜に謝って凛は告げた。
「告白された。OKした」
「嘘です」
気まずそうに目を逸らす姉の姿を見て、桜はそれが事実だと悟った。
「いま私の家に居る。心配しなくて良いからね」
凛が言いきる前に桜は倒れた。その様はゼンマイが壊れた人形の様であった。
◆◆◆
桜が倒れた事はセイバー陣営に相応の衝撃をもたらした。凛との経緯を知らない彼らは当然疲労だと考えた。手荒に扱いすぎた、その反省のもと舞弥は士郎の懲罰期間を前倒しで解除した。セイバーは牽制を止めなかったが桜に相応の気遣いを見せる様になった。
そして夜。その日の巡回は見合わせとなった。母屋と離れを結ぶ廊下を歩くのはライダーである。手には士郎の作った夕食が乗っていた。彼は見舞いを申し出たが、凛とのやりとりを聞いていたライダーは刺激したくないと慇懃に断った。
彼女が桜に宛がわれた部屋の扉を開けるともぬけの殻だった。
「……サクラ?」
桜が寝ていたであろうベッドに手を触れるとまだ温もりがあった。抜け出して間もない、と言う事である。何処に行ったのか、待つかそれとも探すか、そう迷っているライダーの視界に白い何かが映った。それはボトムのインナーだった。部屋の隅に脱ぎ捨てられていた。
「……!」
察したライダーが部屋を飛び出すと、士郎の部屋に向かう桜が居た。足取りは覚束なく、心の拠り所を失っていた。幽鬼の様であった。
「サクラ、まだ起きてはいけません」
「……」
「部屋に戻るべきです」
「……いいの」
「こんな時間に“そんな恰好で”衛宮士郎の部屋で何をするつもりですか」
「ライダーには関係ない」
ライダーは桜の行く手に立ち塞がった。
「落ち着きなさいサクラ。自棄になってはなりません」
「もう後が無いの」
「駄目です。サクラは冷静さを欠いています」
「……離して。令呪を使ってもいいんだから」
桜の様を見れば、狩猟者に追い詰められた兎である。サーヴァントであるライダーには令呪を持ち出されては為す術がない。彼女は主を見送るのみであった。
士郎は自室の机に向かい悩んでいた。ペンを持ちわら半紙に書き記す事は魔術に関してである。図象化してみれば、凛から教わった事とアーチャーから教わった事が微妙に食い違う。魔術の行使とは無色の力である魔力に、手続きを用いて意味を持たす事に他ならない。その手続きとは呪文であり、印であり、魔術刻印、そして礼装であるのだが。
「何か違う」
士郎が成す投影という現象にはその手続きが無い。強いて言えば自己暗示なのだが、その様な簡易な方法で投影が何故できるのかが不可思議だった。わら半紙に手の汗が移る頃、士郎はペンを机に放り投げ畳の上に寝そべった。どれほど考えても答えなど出てこない。だが凛に聞く訳にも行かない。
(アーチャーに聞くしか無い、けれど)
聞いても答えを与えてくれるかは非常に疑わしい。拒否されるのは構わないが、辛辣な嫌みと皮肉を効かされるのは御免被る。アーチャーに対しては感謝はしているが、馬鹿にされるのはやはり面白くない。手足を広げて大の字、士郎が渋い顔で唸っていると、襖越しに声をかけれらた。
「先輩……居ますか?」
桜であった。時計を見れば夜の10時。こんな夜更けにどうしたのかと訝しがった。そして身体はもう大丈夫なのかと心配になった。
少し迷ったあと士郎は桜を招き入れた。桜が倒れた事は彼にとって憂慮する事であったが、それ以上に責任を感じていた。彼はセイバー陣営の頭なのだ。つまりは責任感である。流石に、今回ばかりは真也に詫びを入れなくてはならない、そう痛む頭を堪えつつ士郎はこう聞いた。
「桜。身体の様子はもう良いのか?」
彼の目の前に正座する桜は俯き目も合わさない。いつもはほんのりと赤みがかっている健康的な表情からは血の気が失せていた。瞳は濁っていた。見からに様子がおかしい。部屋に戻らせるべきだ。彼が口を開き掛けた瞬間、桜はふらりと立ち上がりこう告げた。
「先輩、私としませんか?」
精気の欠いた声だった。死人でももう少しまともな声だろう、彼はそう思った。
「するって、何をさ」
桜はスカートを捲り上げた。その中に見えるべき下着は無く陰部を露わにしていた。展開の不可解さと、その困惑的な光景に彼は声を出せなかった。
「良いですよ好きにしても。いえ、先輩の好きにして下さい」
桜はそのままの姿勢で歩み寄った。彼女のそれは彼の鼻先まで近づいた。戸惑う士郎に焦れた桜は全ての衣類を脱ぎ去った。年齢不相応な艶やかな肢体を少年の部屋で晒した。己の胸を揉み上げれば、指の隙間から白い肉が溢れた。
「どうですか、大きさは。少し自信があるんです」
「……服を着るんだ。今の桜はおかしい。ライダーを呼んで来るから」
「馬鹿な事を言わないで下さい先輩。ここまでした女の子に恥を掻かせるつもりですか」
桜は士郎を押し倒した。彼の目の前に違和感を感じる程に蕩けた少女がいた。触れ合ってはいなかったが、体温が感じられる程に距離が近い。触れずとも見るだけで、柔らかみが想像できる肢体だった。放つ香りが鼻孔を突いた。垂れ下がる髪はメトロームの様に波を打ち、彼の理性を揺さぶった。
「さ、せんぱい。溶け合いましょー」
場違いの様なそれでいて当を得ている様な、桜の誘惑だった。唇が触れかねん程に近づいた時である。
「シロウ! 無事ですか!」
襖が勢いよく開くと其処にセイバーが立っていた。髪は結っておらず肩に掛かっていた。それは湿り気を帯び纏まっていた。彼女はバスタオル一枚であった。入浴していたところを飛び出したのである。むろんライダーの一計だ。叫ぶ桜は鬼のよう。
「邪魔をしないで!」
「シロウから離れろ! この泥棒猫!」
セイバーは士郎を抱きかかえると桜から引き離した。その様は奪い返す様である。そうはさせぬと飛びかかろうとした桜にセイバーは踏み込んだ。鳩尾に拳を突き立てられた桜は身体をくの字に曲げ気を失った。
◆◆◆
真也と出会った頃の幼い桜は感情の起伏が乏しかった。最初は乏しいながらもそれなりの反応があったのだが徐々に大人しくなっていった。大人しすぎていた。何か能動的な行動をすれば罰せられる、そう思い込んでいた。ただ言うことだけを守り、何かを愉しむでも無く、悲しむでも無く、淡々と日々をこなす有り様であった。
“桜を任せた。日中はお前に任せるが夜は必ず一緒に居ろ”
そう言い残し千歳はいつもの様に仕事に赴いた。家には桜と彼のみだ。桜は千歳の言いつけを守って家の仕事をする。学校にも行くが友達とも遊ばず作らず、まっすぐ帰ってくる……それが桜の全てであった。用事も済ませれば部屋の隅で蹲りじっとしていた。時折思い出しては怯える様にその身を震わせていた。
当時の真也は桜を守るべき者だと認識していたが、その距離を計りかねていた。守ると言う事は妹の敵を滅ぼす事。それには己の腕を磨く事。そう考えた彼は何かの影に怯える桜を一人部屋に残し、ひたすら庭で鍛錬に励んでいた。木刀を持ち風神流の型をなぞる。桜と食事を共にするが互いに無言。それが終われば桜は無言で食器を片付ける。
“妹の扱いが分からない”
己に苛立ちを覚えながらも彼は鍛錬に明け暮れた。
当時、桜と彼は同じ部屋だった。桜は就寝時、必ず枕元に電気スタンドを置いていた。彼がどうしてだと聞いても桜は答えなかった。言いたくないとも言わず、秘密だとも言わず、ただ押し黙る。正直なところ寝にくいと彼は思っていたが妹の好きな様にさせた。
それから数日たったある夜の事。時間は草木も眠る丑三つ時。スタンドの電球が何の前触れも無く切れた。なんと言う事も無い、電球が寿命を迎えただけである。これでようやく熟睡できる、そう思った彼は愚かしい思い違いをしていた事に気づかされた。
最初はヒューヒューという音だった。何の音だと彼が布団から這い出ると、妹の呼吸の音だと思い至った。次に妹はガチガチと歯を鳴らし始めた。明らかに異常だ、そう感じた彼は桜と名前を呼んだ。反応が無い。もう一度名前を呼んだ。反応が無い。そのうち布団の上からでも分かるほど震え始めた。布団の上から妹を揺すると途端に飛び出した。畳に爪を立て、四つん這いで逃げてゆく。その様はまるで怯える動物だった。壁を背にして後ずさっていた。
眼は見開き、充血し、瞳孔も開いていた。口は大きく開き、唾液が垂れるのも気にしていなかった。フラッシュバック。あまりにも強烈な体験をした為、記憶と共に感情も呼び起こす心理的現象。直感的にそれに思い至った彼は暴れて怪我をする前にと、桜の腕を握った。
桜は捕まれた自分の腕を見ると暴れ出した。恐怖そのものを体現した様相で、少なくとも6歳の子供がしてはならないという形相だった。耳をつんざく信じられない悲鳴、いや、絶叫が響き渡る。
彼には妹のその姿が6歳の子供のそれであると結びつけられなかった。体などどうなっても構わないと言わんばかりの力で暴れた、のたうち回った。桜は蟲は嫌だ、蟲は嫌だと何度も繰り返した。もちろんそんな物は居なかった。だが桜には見えていたのである。忌まわしき記憶としてだ。
“嫌だ嫌だ。ごめんなさいごめんなさい。許しておじいさま許しておじいさま”
彼は千歳が言っていたことを思い出した。桜は魔術師であり祖父である間桐臓硯から4歳の頃より2年間。筆舌に尽くしがたい虐待を受けていた。外法で作った蟲に体中を犯され改造されていたのである。
その時彼は漸く妹が怖がっている事に気がついた。忘れてはならなかった、その蟲を取り除いたのは他ならない彼だったのだ。暗闇と肌を這う蟲の感覚、解放された今尚、桜の心を蝕んでいるのだった。彼は桜の両肩を掴むと、
“蒼月桜!”
と大きな声で呼んだ。桜はビクリと身を震わせ大人しくなった。
“桜。これは桜の名前だ。自分で名乗るんだ”
“まとう、”
“その娘はもう居ないだろ。桜、自分の名前を言うんだ”
“でも”
桜は間桐で虐待された。蒼月に来てまた虐待されることを恐れた。だからお客として慎ましくあろうとした。
“良いか桜。桜はもう蒼月桜なんだ。だからもう辛いことは思い出さなくていいんだ”
“もう怖いのはいや”
“俺だって嫌だ。だから俺が桜の怖い事から守る”
“そんなこと誰にもできない。おじいさまは怖い人だから”
千歳が間桐臓硯を殺した事を桜は知らない。永遠に知る必要が無い事だからと伝えていなかった。桜は大人の都合で連れてこられたと思っていた。またか、また捨てられたのか、と諦めていた。桜の諦めた表情を見て彼はふんぞり返った。
“ふふ、桜よ。蒼月を、うちの家を馬鹿にしちゃいけない。虫使いの死に損ないなんて眼じゃないね。あうとおぶがんちゅー”
“でも、”
“良し。なら証を立てよう。桜、庭に行くぞ”
彼の家には広めの庭が有りその一画に巨大な岩があった。3人の大人でようやく一抱えできそうな大きな岩だ。彼は木刀を持ちその岩の前に立った。パジャマ姿の桜は縁側でおどおどしていた。夜空の月が落とす陰、庭木や岩の陰、夜の闇を恐れていたのだ。
彼の声は桜の怯えを振り祓うかの様である。
“そもさん”
“せ、せっぱ”
“紙は切る。粘土は千切る。鰹節は削る。では岩は?”
“……割る?”
彼は魔力を練り上げ、集中し、木刀に乗せた。アストラルの蒼白い光が迸る。上段に構え、まっすぐ打ち下ろした。岩を左右真っ二つに切った。ゴロンと大きな音がした。
目を丸くする桜は声も出せない。彼は妹を招き寄せ断面を見せた。それは鏡の様な滑らかな断面、とまでは行かないが紙のような一様の表面だった。紙やすりの表面が適当だろう。彼は自慢げである。彼が力の違う使い方を初めて知った瞬間でもあった。
“斬る、だろ?”
“すご……”
“今のは風神流の技だ。桜、俺は木刀で岩を断つほど強いんだ。母さんはもっと強い。二人で桜を守る。まだ怖いか?”
桜は彼が掲げる木刀を見ると、怖いのか安心したのか首を小刻みに横に振った。
“さあ桜。もう一度聞くぞ。桜の名前は?”
“……あ、蒼月桜”
彼は良しというと桜を抱き上げた。桜は慌てふためいた。
“お兄ちゃん、自分で歩ける”
彼は笑った。それは彼にとって初めての笑みでもあった。
“な、なに”
“初めてお兄ちゃんと言ったな?”
桜はそのまま俯いてしゃべらなくなった。部屋に帰った二人は一緒に寝た。怖くない怖くないと彼は夜通し言い続けた。
“俺が桜を永遠に守る”
幼い真也が桜に誓った絶対の安心。それは彼女を立ち直らせるのに必要不可欠だったのである。時は戻り現代の衛宮邸、その離れ。ベッドの上で魘されるのは桜だった。今の全ての状況は彼女が発端だ。自分が悪いと分かっていた。それでもこみ上げる悲嘆と恐怖はどうにもならなかった。
“嘘つき……”
毛布にくるまれ嗚咽を漏らすマスターの姿を見て、ライダーはある決意をした。
つづく!
【型月3年H組 昼メロ先生!】
さくら「それでは授業を始めます、」
しろう「桜!」
さくら「今更なによ!」
しろう「俺が悪かった」
さくら「馬鹿っ! 寂しかった!」
せいばー「この泥棒猫……」
さくら「お、お母様!」
麻婆神父「聖杯戦争やれよお前ら」
当初(リメイク前)はこんな半分ギャグのコンセプトでした。登場キャラクターの認知能力は下げた方が明るくなるんだろうな……リアル志向を取り入れすぎると駄目ね。