明くる日の朝。台所に向かう桜は鼻歌を聴かせスリッパをパタパタと鳴らしていた。その彼女を柱の陰から覗くのは士郎である。彼には桜が何事も無かった様に振る舞っている、そう見えた。だが彼はそう思わない。疲労で倒れたのは良い、良くないが良い、だがどう接して良いのか、それが分からない。つまりは桜が士郎を誘惑した件である。彼が唸っているとライダーが縁側から手招きしていた。とにもかくにも朝の挨拶だ。
「おはよう。ライダー」
彼女は頷きを挨拶代わりにして、開口一番用件を切り出した。
「衛宮士郎。無理は承知で言いますが、昨夜の事を忘れて下さい」
「そうしたい。その為にも説明して貰えると助かる」
「月のものです」
彼女はもっともらしい嘘をついた。
「……は?」
「ですから月のものです」
「……あー」
士郎は思い当たる節があった。それと性欲が関連すると言う事である。だとしても桜の行動が極端ではないかと思ったが本人に確認する訳にもいかず、その一件を忘れる事にした。
「分かった。忘れる」
「助かります。衛宮士郎」
硬いライダーの態度に彼はかねてからの要望を伝えてみた。
「ライダー。そのフルネームで呼ぶの止めないか?」
「何故でしょうか」
「確かに俺らは陣営が違うけれど、必要以上に硬くする事も無い、と俺は思う」
彼女は昨夜真也に伝えた事を思い出し、少し考えた後こう答えた。
「理解は出来ます。では衛宮と」
「出来るなら下の名前で呼んでくれると嬉しいんだけど」
「……分かりました。では士郎と」
「あぁよろしく頼む、ライダー」
桜以外どうでもいい真也はこの様な事気にしないのだろう、ライダーはそう考えた。事実、彼はセイバーに名前で呼ばれなくても気にしない。それは彼女の目から見てもとても寂しい様に思えた。
「士郎。一つ伺いたい事があります」
「なに?」
「シンヤは人間関係を意図的に構築しています」
「知ってる。学校での人間関係も打算で作ってるからなアイツ」
「そうでしょうね」
「それが自分の損得ならまだ良いんだけれど、桜を基準に置いてるからな。喜怒哀楽も作る程の徹底ぶりだし……そーか。ライダーもそれに気づいたか」
「それを知っていて何故普通に接するのですか」
「嫌ってるから」
「理解ができません」
「嫌ってるならこれ以上嫌いようが無いだろ。だから臆面なく言い合える」
「……なるほど。シンヤが唯一感情をぶつける相手、と言う事ですか」
「なんか嫌な言い方だな」
ライダーは少し笑みを浮かべた。
「士郎。これからもシンヤの敵でいて下さい」
「そこは味方とか、友達って言うんじゃ無いのか」
「シンヤをたたき直すにはそれ位激しい方が良いようです」
「ライダー、真也と何かあったのか?」
「ええ少し。士郎とセイバー程ではありませんが」
「やっぱりそう見えるか?」
「はい、そう見えます」
「セイバー、何時の頃からか変なんだよな」
彼は困惑の印として髪をかき上げた。
◆◆◆
そのセイバーは舞弥の部屋に居た。部屋の中心に立ち、肌を晒すセイバーに舞弥はある物を宛がった。セイバーは舞弥の指示通り、それに腕と脚を通していく、というよりは為すがままであった。セイバーは舞弥の持つそれが下着の類いだと悟ったが、余りに面妖さにたじろいでいた。彼女の心中どこ吹く風、舞弥はこう呟いた。
「そう。桜さんはもう士郎に近づかないと」
「はい。そう言質を取りました」
「裸で迫って拒否されれば普通は脈が無いと諦めるわよね」
「後悔を?」
「残念とは思うわよ。本当に」
真実は異なるが、彼女らにはそう見えたと言う事である。仕方が無いと舞弥がセイバーを姿見の中に誘えば、彼女は頬を染めて冷や汗を一つ流した。その表情は硬い、引きつっていると評しても良い。
「舞弥、この下着はいかがわしさを感じるのですが、」
舞弥の瞳が鋭く光る。それは智略・謀略を巡らせる軍師の様。セイバーはレースの下着を身につけていた。純白で柔らかなフリルをあしらっていた。
「これぐらい普通よ」
舞弥はお構いなしだ。
「ですが、これを私に着せてどうしろと」
「別に見せる必要は無いの。士郎と居るとき意識してくれれば良いから」
「はぁ」
セーラー服から取って代わって、白の襟付きブラウスを纏い、首元には紺のリボン。それと同じ色のスカートを纏った彼女はどこぞのお嬢様である。ただその下に纏う下着が問題で、ごわごわする、食い込む、こすれる、彼女は初めて知る感覚に戸惑い身を捩らせた。全ては舞弥の策略だ。
(その、なんというか。変な気分に、)
幾つかの思惑が渦巻く衛宮邸。いつもの時間に凛がやってきた。桜の調子はどうかと伺えば平常運転である。否、それどころかいつも以上に明るかった。真也と何かあったに違いない、おっかなびっくり問いただせば桜はあっけらかんと笑って言った。
「遠坂先輩。兄さんをお願いしますね」
「……は?」
思いも寄らない発言に流石の凛も呆気にとられた。
「……それは仲を認めるって理解して良い訳?」
「ええ構いません」
「どういう風の吹き回しよ」
「私は今まで通りするだけです。彼女という立場は譲りましたけれど、妹の立場は譲りませんから」
雲行き怪しい展開に凛の表情が険しくなる。
「ごめん、何を言ってるのか分からない」
「世話をするのは私って事です」
「あのね、そんな事成立する訳無いでしょ」
「私が二人の仲を認める条件です。嫌なら良いですよ、認めないだけですから」
妙に威圧のある桜の笑顔に気圧される。
(桜になんて言ったのよ、アイツ……)
兎にも角にも。帰宅次第問いただそうと決意する凛だった。その桜に食料の調達に出かけようと士郎が声を掛けた。桜は何食わぬ顔で付き従った。二人を見送るセイバーは不満顔だ。
「なぜシロウは私でなく桜を連れて行くのか」
セイバーはその容姿故非常に目立つ。察した凛は意地の悪い顔であった。
「あら、ひょっとして焼き餅?」
「何を馬鹿な」
セイバーはいつもの様に不愉快さを示した。だが内股を意識する様に片足を寄せ、身体を抱く様に腕を組むその姿には艶があった。セイバーの佇まいに凛は閉口するしか無い。
(セイバーをこの短期間でここまで変えるなんて、あの女、変な薬品でも使ってるんじゃないでしょうね……)
時が経つ事数刻。縁側に腰掛けるライダーはセイバーの姿を追い意識を左右に振っていた。セイバーは庭を何度も往復していたのである。最初は不満顔であったが、徐々に懸念の相が浮かんできた。立ち止まり門へ視線を走らせれば主は姿を見せず。辛抱強く待つ事1分。まだ現れない。
「遅い!」とセイバーは言う。
「サクラと士郎が出発してまだ30分と経っていません」とライダーが事務的に答えた。
ライダーの助言が耳に入らない。また数度往復し、ピタリと止まる。
「シロウは無事だろうか。不安だ。まさか事故に」
サーヴァントに襲われている、と考えないところ重傷だ。ライダーは事務的に答えた。
「落ち着くべきです」
この剣の英霊は歩き方に艶めかしさがある、ライダーはそんな事を思った。もちろん 下着の効果だった。
「ライダー、貴女はシロウの昔を知らないからそう悠長な事が言えるのです」
個人的感傷を隠す事もしないセイバーに言う事は無かろうとライダーは沈黙を続ける事にした。右往左往するセイバーが止まると、妙な怒気を漂わせてライダーに詰め寄った。
「……ライダー。いつからシロウと?」
「先ほど申し出を受けましたが」
憤りに身を震わせるセイバーであった。
「なんでさ」
それが士郎の率直な意見だった。彼は自室で正座。見上げればセイバーが腕を組んで見下ろしていた。怒っている事は聞くまでもなく見て取れた。桜を連れて買い物から戻れば、彼は待ち構えていたセイバーに連れ去れたのである。
「シロウ」
「はい」
「この際言っておきますが、優しさも度が過ぎると不実と見なされます」
「ごめん。意味が分からない」
セイバーはシロウの頬を抓った。もちろん舞弥の指南である。
「痛い、セイバー痛い」
「男女的な意味で気が無いのなら、必要以上の気遣い親密さは避けるべきでしょう」
「何のことだよ」
「ライダーに名前で呼ばせている事です」
そんな事かと彼は堂々とこう言い放った。
「仲間にも色々あるって確かに聞いた。なら逆に色々な人を仲間って呼んでもいいだろ?」
彼女はたちまち頬を膨らませた。なぜこの主は自分の憤りを理解してくれないのか、と彼女は苛立った。辛抱強くこう告げた。
「女というのは基本的に自分を特別扱いされたい、その願望を持っています。それは1000年経っても変らないでしょう。皆の王子様ではなくて誰かの王子様というのを心がけてください」
「……セイバーの事か?」
「私は騎士ですから」
「???」
士郎はセイバーの言っている事が理解できなかった。なぜライダーに名前で呼ばれる事と女性の扱いを指南されるのかが、繋がらない。セイバーは戸惑う士郎を立たせて彼の手を掴み寄せた。
「さ、私を相手に演習です。手を取り腰に手を回し抱き寄せて下さい」
「あの、展開に理解が追いつかないんだけれど」
「経験上言いますが、男らしさというのは重要です。優しさも結構ですが時には荒々しく行くのも必要です」
訳が分からずされるがまま、士郎がセイバーの腰に手を回すとそれに気づいた。彼女のブラウスは白色で、下着がうっすらと透けて見えた。気まずそうに視線を逸らす彼の視線で、それに気づいた彼女は堪らず座り込んだ。ぺたりと座り、身を抱き寄せる様に蹲っていた。頬を染め視線を逸らす様は恥じらう乙女そのものである。いたたまれず士郎は髪を掻いた。
彼女の奏でる声はか細かった。
「私をはしたない女だと思いますか?」
「舞弥さんに何か吹き込まれたろ。どうして引き受けたんだ」
「その前にシロウ、向こうを向いて頂けませんか」
彼は腰を下ろした。片足を立てて肘を乗せた。彼の背後に柔らかい気配があった。彼女もまた腰を下ろし、揃えた両膝を抱きかかえていた。
「切嗣の話です」
「オヤジの?」
「シロウが切嗣の息子だと知ったとき心配がありました。理由は今でも良く分かりませんが私は土壇場で切嗣に裏切られました。ですからシロウも裏切るのではないかと」
「そう思ってて何故?」
「あの男とシロウがイリヤスフィールの事で争った時に気づいた事があります」
士郎は黙って聞いていた。
「私は国を守るという大義を免罪符に少数を切り捨てた。いえ、少数というのは私の誤魔化しですね。為政の基準で考えれば相応の人数しょう。100や200では済みません。あの男は必要な事だと冷徹にイリヤスフィールを切り捨てようとした。それは私も同じだと気がつきました。
昔私は人の気持ちが分からないと言われ、見切りを付けられた事があります。確かにそうです。国を動かすのは人、人形には人は付いてこない。シロウを見てそれに気づいた」
「俺のどこを見てそう考えたんだよ?」
それは士郎が全てを投げ打ってでもイリヤスフィールを助けようとした事であった。言い争う士郎と真也を見てどちらが正しいのか、そう彼女は疑問に思った事が始まりだ。
「秘密です」
彼女は立ち上がり士郎の前に前屈みで身を寄せると、彼の唇に人差し指を添えた。もちろん舞弥の指南である。
「ですから、私もシロウに気づいて貰いたい、そう思っています。それには私がこうする事が最良だと信じています。答えは言いません。自分自身で気づいて下さい。ですがそのためなら私は尽力を尽くしましょう」
「セイバーは今でも良くやってくれてる」
「ですから尽力を、です。短い間ですが覚悟して下さいシロウ」
彼女の手が士郎の頬に触れた。
「あのさ、セイバー近いんだけど」
「はい」
「分かってやってるだろ……」
「シロウはとても可愛いですね。舞弥の気持ちが良く分かります」
艶のある微笑みに、何も言えない士郎であった。それを襖の隙間から見ていた凛は呆れ顔である。昼食の用意が出来たと伝えに、わざわざ足を運べばこっそりと逢瀬に励んでいた、彼女にはそう見えた。
(やっぱり、身近な方がいいのね。遠くの高嶺の花より、近くの……)
セイバーの方が格上である。不愉快さを隠さず彼女は居間に戻っていった。二人が冷めた昼食を食べる羽目になったのは言うまでも無い。
◆◆◆
彼は炎に巻かれていた。息苦しいが無理に吸えば肺が焼かれてしまう、だが息を止める事などできはしない。暗い。何も見えない。目が開けられない。纏わり付く炎が肌を刺す。無理に目を開ければ目玉が焼かれる。炎にまかれ、煙に塗れ、堪らず逃げた。ひたすら逃げた。どれほど走ったのか、どこをどう走ったのか、気が付けば高台に立っていた。
辛うじて息を吸えば卵の腐った匂いがする、咳き込んだ。瞼を開ければその匂いが眼球を刺激した、涙が止まらない。
薄目に見る空は雲が敷き詰められていて蓋がされている様だった。炎の照り返しで鈍く赤く光るその様は、石綿か炭の様に見えた。視線を下ろせば地平線は何処までも続き、終わりなど無いように思えた。好きなだけ走れるとみるか、どれだけ走っても終わらないとみるか、彼には後者に思えた。
見下ろせば燃えていた。町と人が燃えていた。至る所で炎が暴れる様は悪魔が踊っている様である。立ち上る噴煙は天に昇る事はなく、逃げ道を失った様に同じ場所を彷徨っていた。炎に炙られた人の魂が、苦しさに追い立てられてのたうち回っていた。誰が蓋をし、誰が炎を点けた? 誰かが“それはお前だ”と罵った。見れば足下に骸が転がっていた。この事態を止めようとした者たちだ。彼らは彼が滅ぼした。直世界が終わる、彼自身の命も尽きる、彼女の手によって。
“どこで間違えた”
意識が戻った。額にひんやりとした感覚があった。華奢だったが柔らかい。真也はその手を握り返した。
「大丈夫ですか? 魘されていましたけれど」
「最近悪い夢が続いてる」
「どんな夢ですか?」
「良く覚えていない、全部無くなる夢だ。でも俺は止まる事が出来なくて、」
瞼を開ければ桜ではなく葵だった。
「……」
寝起き一発目に葵は刺激が強すぎた。彼は堪らずベッドの上で“ごろり”と転がり床に落ちた。側に立つ葵とは反対側の、壁とベッドの隙間である。彼女が急ぎ回り込めば、彼はカーペットに這いつくばっていた。寝ぼけたのだと葵が慌てて駆け寄れば、彼は制止する様にこう告げた。
「何故でしょうか」
「何故とは何故でしょう」
「なぜ葵さんがここに居るのかという意味です」
「私の家ですから」
「そう言う事では無くてですね。目が覚めたらどうして葵さんが居るのか、と言う事です」
「魘されているようでしたので」
扉はウォールナットの木製で厚く重い。廊下からベッドまで相応に距離があった。廊下から聞きつけるには無理がある。
「嘘ですよね」
「はい。強いて言えばそんな気がしました」
彼が遠坂邸に戻ったのは真夜中も良いところである。青い顔で戻ってきた彼は堪らず寝てしまったのだった。それは桜が倒れた事であり、ライダーに吸われた事でもあった。彼は桜の決断など知るよしも無い。
朝になっても彼が起きてこない。連日の警備が祟ったのかと凛と葵の二人はそのまま寝かす事にした。そして昼。凛の事で話をしたい、そう思っていた葵は昼食を理由に起こしに来たのだった。ノックをしても返事が無い、呼べど叩けど返事が無い。何気なくノブに手を掛ければ鍵が掛かっていない。のほほんと部屋に入れば魘されていた、という流れだった。
彼は突っ伏したままである。
(女の人はこれだから怖い。良く分からない理屈で行動する……)
デレた凛を思い出せば心臓が痛くなった。例えでは無く肉体的な意味での痛覚だった。葵に悟られる訳には行かない。失礼かと思いつつ、突っ伏したままこう告げた。痛みで歪む顔を見せない為である。
「取りあえず着替えます。席を外して頂けないでしょうか」
掛け布団にまみれる彼はTシャツにパンツ一丁だった。起き上がれない理由は朝の生理現象である。
「手伝いましょうか」
「いえ、お気遣いだけ頂きます」
「私は構いませんが」
「私が構いますので」
葵はいつもの様に遊びたい衝動に駆られたが、彼の様子がおかしい事に気づいた。
「昼食の用意が出来ています。いらして下さいね」
「はい、直ぐに行きます」
その日の昼食はカレーライスだった。ライスとカレーが一枚の皿に盛りつけられていた。彼は意外だと思った。レストランの様にライスとルーが別皿の方がなんとなく遠坂家らしい。テーブルの向こう側に座る葵はいつもの様に笑っていた。食事の話題として適切では無いと思ったが、繰り返されては叶わないと彼はこう進言した。
「良家の奥方が男の部屋を訪れるなど不用意ではありませんか?」
「もう昼ですけれど」
あくまでマイペースな彼女に、彼のリズムは乱される一方だ。
「時間的な意味ではありません。私が礼儀を知らない人間だったならどうするんですか」
「つまり、私を手籠めにすると? 私はもう若くありませんが」
「そう思っているのは葵さんだけです。俺から見ると十分にそう言う対象です」
「あら♪」
「……照れるところじゃありません」
彼は常々凛と葵から原因不明のストレスを感じていたが、それでも遠坂家に居座ったのは、一重に桜の為である。それは耐えるべきだと考えていた。耐えなくてはならないと考えていた。だが、その前提が崩れてしまった。
次の説明は彼の主観である。
桜が苦しんでいる以上凛との振りはお仕舞いにするべきだ。だが今の段階で暴露すれば共闘の致命傷になり得る。それでは桜の願いが叶わない。最低バーサーカー戦までは関係を維持するべきだ。だが桜が苦しんでいる。判断が付かない。
この状況で葵に煽られた彼のストレスは最高潮に達した。それは彼の許容量を超え、あふれ出した。彼はもう隠し続ける事が出来なくなった。それは罪に耐えられなくなった事に他ならない。
彼は切り出した。とうとう切り出してしまった。
「正直に言います。俺は以前からご当主や葵さんに、とても動揺しています。自分でも信じられない程です」
「性的な意味でしょうか」
「……精神安定的な意味です」
彼は一つ息を吸い、丹田に力を籠めた。
「俺はこの家に来るつもりはありませんでした。それでも来たのは一重に聖杯戦争を勝ち抜くため、つまり打算的な判断です。必要が生じれば葵さんに危害を加えるかも知れません。過度な信用はなさらないでください。葵さんも魔術師の家の人間なら理解して頂けるはずです。俺は遠坂家にとって余所者に過ぎません」
「……」
葵は真也の告白に違和感を感じていた。彼の発言は“自分を信用するな”と言っている事に他ならない。だがその発言の意図が分からない。真也の張り詰めた表情は追い詰められている証だ。自分の行動に耐えきれ無くなったのか。何らかの罪を犯しそれに藻掻いているのか。葵は思い切ってこう切り出した。
「凛に何かしましたか?」
彼は答えられなかった。ピタリと挙動を止めるその仕草は肯定だと言っている様なものだ。
「まさか、娘を手籠めに」
「してません、する気もありません、そもそも物理的に不可能です」
「……それはどういう意味でしょうか」
告白した娘に性的欲求が無いなど不自然極まりない。後の祭りである。誤魔化す事は出来ないとたっぷり悩んだ後彼はスプーンを置いた。
「俺は、絶えず最善の行動を取ってきました」
「ハッキリおっしゃって下さい」
「ご当主に告白を」
「好意をお持ちなのですよね?」
「それは在ってはならない事です」
「……」
葵はますます混乱した。話を聞く限り弄んだと判断しても良いのだが。なら、何故いま悩む。懺悔まがいの事をする。寄りにも寄って母親である。“それは在ってはならない事です”という発言も不可解だ。まるで誰かに好意を持ってはいけないと言わんばかりである。
目を瞑り静かに考える様は、判決を下す裁判官の様だった。彼は視線を降ろしたまま上げなかった。
「誰かとお付き合いした事はありますか?」
「ありません」
「好きになった人は?」
「居ません」
彼女は真也の形を見た。俯いているがその姿は何度も見ていたので容易に思い出せた。
「不思議です。恋人が10人居てもおかしく無さそうです。何故ですか?」
「……妹が居ます」
「妹さんが大事?」
「はい」
腑に落ちた。
「妹さんを守る為に、凛に告白を?」
「……はい」
真也は洗いざらい話した。妹が養子だと言う事、前の家で虐待を受けていた事、桜に出会う前の自分、その後の生き方、そして桜と士郎と凛の関係。因みに間桐の名前を出さなかったのは、この話に関係ないからである。
(なるほど……)
「以上です」
「お話しは分かりました」
ここまでだと、彼は覚悟した。追い出されるのは当然、罵倒は彼女のイメージに合わなかったが罵られる事は間違いあるまい。引っぱたかれるかも知れない。だがそれでも構わなかった。罪には罰が必要だ。罰を受ければ手打ちとなる。だが葵はそれをしなかった。その結果彼は今以上に苛まれる事になった。
「美味しいケーキがありますが、ぜひ付き合って下さい。気分も紛れます」
「……あの、怒らないんですか?」
「Aをしましたか?」
「してません」
「B?!」
「してませんたら」
「……ま、まさかC」
「聞く順番が逆です」
彼は表現が古いと思ったが指摘はしなかった。
「何もしていないなら、特に言う事はありません。好きなのに好きになってはいけないなど、私に言わせればずいぶん可愛らしい関係です」
彼は顔を上げた。その表情は知りたくない事実を知ってしまい打ち拉がれている様だった。強いて言うなら知らない罪を突きつけられた罪人である。
「……今なんて、言い、ました、か」
「真也さんは凛への好意に気づいていなかった、と言う事です」
「……」
「何とも思っていない相手に苦しむ訳がありませんし」
「……気のせいだったなら、謝罪します。何故そこまで俺の肩を持つのですか」
「私は真也さんの事を気に入っています」
「そう思われる心当たりがありません」
「ご存じないと思いますが、凛は家に帰ると真也さんの事しか話しません。前も今も」
「悪口ですね」
「いえ、ただの不満です。駆け引き、打算無しの不満です。娘が貴方を連れてきた時も驚きましたし。遠慮無く言い合いをするところなど目を疑いました」
それはグール戦の後日、真也が刀を受け取りに行った時の事である。言い合う二人を葵は目撃していた。
「真也さんを泊めると聞いた時も驚きました。冷静な娘をあそこまで感情的にさせたのは、驚きを通して感心します。真也さんは遠坂の人間と相性が良いようです。私も、まるで何年も前から知っているかのような気がします」
「……」
葵が何を言っているのか彼にはとんと理解が出来なかった。
「真也さんは生い立ちを伺う限り誰かに甘えた事はありませんね」
彼は全て一人でやってきた。己を鍛えるのも自己の意識形成ですら一人で行った。守るべき桜に甘える事など無かった。幼い桜には絶対の安心が必要だった。誰かに甘える、弱い兄など許されなかったのである。それに気づいた幼い真也は、そうあろうと己を作った。残念な事に、彼はその人格を作り上げてしまった。
「凛に甘えてください。弱さを見せてあげて下さい。それは切っ掛けとなるでしょう。凛の為でもあり真也さんの為にもなります。それに今更です。私から話す事は出来ませんが、今更だと凛もそう言います」
一拍。彼女は少し強い口調でこう言った。
「ですが、娘と深い関係になってしまったら。覚悟を決めて下さい。妹さんでは無く、凛を一番にして下さい。好意があるか分からないなど許しません」
「惚れるより慣れろ、ですか」
「はい、とても相性がいいと思いますよ」
笑顔で昼食を続ける葵に彼は笑顔を作った。打ち拉がれている彼は左手首のリボンが無い事に気がついていなかった。
◆◆◆
遠坂家の窓を見れば女の影があった。その女は覚束ない足取りで外出する真也の姿の見ていると堪えきれず“あはは”と笑い出した。その女はキャスターであった。葵に暗示を掛けていたキャスターは、凛が外出した頃を見計らい堂々と侵入し、巧みに隠れていたのだった。
「宗一郎様から聞いた話と随分違うわね。狂人かと思えば随分可愛らしい坊やだこと」
ソファーに腰掛ける葵を見ると笑みを浮かべた。彼女は採光の欠いた瞳で意思が感じられなかった。まるで人形の様である。キャスターは葵から真也の告白を全て読み出したのであった。
「予定とは異なるけれど良いでしょう。交渉相手が狂人から一般人に変わるだけ」
キャスターは葵の顎を掴んで持ち上げると愉快そうである。
「遠坂葵と言ったかしら。貴女は優しいわね、娘(凛)想いのいい母親だわ。だけれど愚かすぎる。娘(凛)を思うのなら坊やを追い込むべきでは無かったわね。せめて罰を与えるべきだった。誰かが無意識の呵責に気づかせればあの坊やは己自身に罰を与えてしまう。それが娘(凛)の為になるかしら? まぁだからこそ、この機に便乗させて貰うのだけれど」
キャスターは葵を操った訳では無い。彼の部屋を訪れたのも問いただしたのも許したのも全て葵の意思だ。真也は葵に逆らえない、これを知るキャスターは葵を操り情報を聞き出そうと画策すれば、手を煩わす必要も無かったと言う事である。
「それにしても滑稽ね。坊やの妹が自分の娘だと知ったらどう思うのかしら。貴女の言動は娘(凛)を選んで娘(桜)を捨てる事と他ならないのに。2回も親に捨てられるなんて不憫だこと」
キャスターはもう一度笑うと姿を消した。
つづく!