遠坂邸を出た真也は物言わず歩いていた。ただ手足を大きく振り、徒歩よりは強歩に近い。目的を持った歩みではなく、ただ歩いていた。処理できない内に溜る鬱憤を、大地を蹴るという動作で晴らそうとしていたが、とても追いつかない。目の前に電柱が迫る。彼は左拳を打ち込んだ。その衝撃で電柱が音を鳴らした。まるで音叉のようである。何事かと通行人が視線を投げたが、そこには電柱に拳を添えている少年が居るだけだった。
「あれが他人に対する接し方か。まるで桜のよう……」
桜と葵の姿が重なった。非常に似ていた。凛以上に桜に似ていた。佇まい、抑揚、何気ない仕草などそっくりだ。見れば見る程似ているところが分かる。桜に説教されたようで非常に堪えた。葵の宣告を思い出す。
「なるほど、なるほど納得だ。シスコンが妹以外の娘に好意を持つなんて、無理がありすぎる。痛むはずだ……どうする」
どうするも何も無い。凛を選ぶと言う事は桜を捨てる事に他ならない。桜を思い出せ。凛と付き合っていると聞いて倒れた桜を思い出せ。当たり前の選択だ。それに今更だ。今更過ぎる。だが何故悩む。悩む理由などお前に無い筈だ……内に生じた葛藤で心臓が痛み出した。まるで掴まれ握りつぶされたような痛みだった。
「答えを示しましょう」
彼の神経が瞬時に切り替わる。背後の声に振り返れば紫のローブが漂っていた。顔は見えず影すら無い。彼は幻だと察しを付けた。
「キャスター」
「その通り」
「何の用だ」
「あら、酷い。共闘の為に声を掛けたというのに。私を探していたのでしょう?」
彼はキャスターに向き直りコートの内、左脇にぶら下げる霊刀を意識した。何時でも抜刀できるように姿勢を変えた。彼は警戒を隠さない。
「事情は知ってそうだ。このタイミングで現れた、と言う事は悪巧みの準備が整ったって事か」
「準備など当然でしょう。貴方なら、何の考え無しで会うかしら」
「いいだろ。キャスター、お前はどこに居る」
「キャスターである私が本拠地を明かすと思って?」
「ならせめて姿を見せろ。ダミー相手に契約など結べるか」
「学校で待ちます。穂群原(ほむらばら)学園と言ったかしら」
「貴様……」
「あら、怖い顔。応じるも拒否するも貴方の自由よ。但し一人でいらっしゃい。仲間を呼べばどうなるか、は敢えて言わないわ」
ローブの影にある口元が笑みの様に歪むと、その幻は消えた。
柳洞寺を本拠地に置くキャスターにとって真也はある意味鬼門だ。サーヴァントを阻む結界は彼には効果が無い。山道に門番もいるが、避けて通れば役に立たない。本拠地が明るみになれば、何時どこから襲われるか分からないという脅威に晒される事になる。居場所を隠す事は必須条件だった。
ダミーで共闘が締結できれば話は簡単だが、真也の指摘した通り相手にされないだろう。いたずらに時間を過ごし、バーサーカーに回復時間を与えるのは彼女とて望むところではなかった。
だが自身を晒すには保険が必要だ。真也に掛かれば支援魔術が無くともキャスターなど一溜まりも無い。そこで彼女は学校に目を付けた。学校というのは限定された空間だ。日中でも第3者の出入りが少ない。つまり校内に居る人間のみどうにかすれば目撃者はどうにでもなる。
「どう考えても罠だよな」
数日ぶりの穂群原(ほむらばら)の校門の前に立ち、彼は思案に暮れた。キャスターの狙いは何だ。わざわざ閉鎖した空間を狙った以上、一般人を無差別に襲う事は良しとしない、そう見る事はできる。だが。
「全校生徒を人質に取ったと見るべき、か」
どうする、と彼は悩んだ。一人で来いとのご指名だ。士郎たちに知らせば、キャスターが凶行に走らなくても、この機会はご破算。焦り始めていたのはキャスターだけでなく真也もまた同様だった。共闘が結べるかどうかは別にして、何らかの手がかりは欲しい。
「~~~っ」
それなりに悩んだあと、彼は仕方が無いと誘いに応じる事にした。彼は装備を確認した。平時の装備で礼装では無い。長袖シャツにデニム。ロングコートを羽織り、コート内には霊刀が一本。治療薬が3本、腰のポーチにに収められている。装備を調えて戻る時間は無い。せめてライダーには伝えるか、そう考えて断念した。ベッドの上で死人の様に伏せる妹の姿を思い出せば、サーヴァントの行使は避けるべきだ。
意を決して一歩踏み込めば、運動場に人の気配は無い。静まりかえっていた。木枯らしが吹きグラウンドの砂が舞った。運動場に手を添えれば符陣の気配は感じられない。屋上、木陰、建物の隙間、怪しい人影も無し。狙撃の心配は無いと彼は校舎に向かった。
校舎に一歩足を踏み居れば、香の匂いがした。彼には何の匂いか分からなかったが魔術に関わるものだと察しを付けた。程なく倒れている生徒を発見した。見渡せば1人や2人ではなかった。全校生徒が同じ状況だろうと予想をつけた。彼は近くの男子生徒に掛けより、首筋に手を添えると気を失っているだけだと気がついた。ただ衰弱が相応にある。
この事態を収めるのにはキャスターを抑えるのが肝要だ。彼は階段を駆け上り2階に上がれば、おびただしい数の敵が待ち構えていた。
それらは生物の骨格を持っていたが、肉も内臓も血も無く、むき出しだ。ただ、有機的な構造体の至る所に鋭利な隆起があった。牙か棘に見えるそれらが存在するのは、構築する時に功性の思念を受けた結果だとどこかで聞いた。ざっと目を走らせれば、4本脚、4本脚だが直立しているタイプ、小型、大型、多種多様な魔法生物たち。共通するのは動物型のみと言うことだ。それらは竜牙兵であった。
彼は詰まらなさそうな顔である。
「ドラゴン・トゥース・ウォーリアってか。漫画で見た奴より随分ダサいな」
ただ廊下を埋め尽くす程の数を使役する以上キャスターの能力は侮れまい。その数は100か或いはそれ以上。
(さてどうする)
契約と言いつつこの対応は不可解である。狙いは他にある、と見るのが肝要だ。だが彼に考える余裕は与えられなかった。一体の竜牙兵が襲ってきた。抜刀。刀身が鞘走り、魔力の迸る証として光りの粒が宙に舞った。一閃、飛びかかる大型犬の様な竜牙兵を切り裂いた。それは砕け、幾つかの関節で構成される別の何かになった。術式が生きているのか、小刻みに動いていた。
陽炎の様に現れたキャスターのダミーが告げた。
『最上階最奥の部屋で待ちます』
「そんなベタなプロットを今時出したら編集者に怒られるぞ」
階段は1階から3階まで繋がっている。そのまま3階に向かえば挟み撃ちにされ恐れがあった。時間指定はされていない以上、2階を殲滅させるのが確実だと彼は判断した。
無数の竜牙兵が迫り来る。彼は右手に霊刀、左手に鞘を持ち、切り込んだ。右手の霊刀の一振りで、飛びかかるカンガルー型の竜牙兵を切り裂いた。左手の鞘で飛来するコンドル型の竜牙兵を叩き落した。目の前に居るラプトル型の竜牙兵を霊刀で唐竹に切り裂いた。そのまま鞘を肩に乗せる様に、背後に突き立てた。その鞘の先端はゴリラ型竜牙兵の肋骨に入り込み、彼は一本背負いに似た動きで投げつけた。それは複数の竜牙兵と衝突し砕けた。
チンパンジー型、馬型、トリケラトプス型、多種多様の動物型竜牙兵が怒濤の様に押し寄せてくる。これではまるで博物館だ。
一閃、一閃、一閃。一刀を振るう毎に竜牙兵が残骸と化した。例え大型であろうと一体一体は脅威では無い、彼にとっては軽い一撃で砕くことが出来るからだ。だが数が多い。厄介なのが小型動物タイプだ。ハムスターの様な複数のそれによじ登られ、食らいつかれた。痛みが走る。払おうとすれば、目の前に中型以上の竜牙兵が迫り、彼に払う暇を与えない。
彼は小物を無視し大物を狙い続けた。何時しか、身動きが取り難くなる程に小型竜牙兵に取り付かれた。目の前に弩弓の勢いで突進してくる竜牙兵が居た。イノシシ型だ。彼はそれを敢えて受けると吹き飛ばされた。その威力は凄まじく彼は背後の竜牙兵の群れに突っ込んだ。転がり、滑り、壁に叩き付けらる様はボーリングの様。ダメージと引き替えに、叩き付けられた衝撃で纏わり付いた小型竜牙兵を打ち払い、背後に迫る竜牙兵の群れを薙ぎ払った。
舞い散る骨の破片が収まった頃、彼は立ち上がっていた。唾と共に血を吐いた。
「来いよ。ストレス溜まってたんだ」
真也の声に応じるかの様に竜牙兵の群れがにじり寄る。小型竜牙兵が真横に並び、牙をならすその様は昆虫の触角のように見えた。有機的に動くという意味である。彼は笑みを浮かべていた。
「お前らもお遊戯しに来たって訳じゃ無いんだろ? 踊るなら踊るで、やるなら全力だ」
竜牙兵が怒濤の様に押し寄せた。その様は津波の様。
「そう、こなくっちゃ、なぁっ!」
彼は踏み込んだ。彼にとって竜牙兵は脆いが数が多い。一振りに一体ではキリが無いと彼は戦術を変えた。群れに突っ込み敢えて喰らい付かせた。身体をドリルのように強引に回す。四肢に喰らい付く竜牙兵を巻き込みながら、右手の霊刀と左手の鞘を打ち振るった。霊刀を10時から4時の方向へ振るい、鞘を7時から1時の方向へ振るう。回転連舞。回転力を加えたその左右二振りと、巻き込んだ竜牙兵すら刃とし、竜牙兵の一群をなぎ払った。
間髪置かず、跳躍。“天井に着地”し、霊刀と鞘をクロスさせ小ぶりなTレックス型の竜牙兵に向けて、その身を砲弾替わりに打ち込んだ。Tレックス型の破片が弾丸の様に飛び散り、他の竜牙兵にダメージを与えた。それらは機動力を激しく落とした。酔っ払いのように動く物、壁を転がるように動いてみる物、地を這っている物、転倒と起立を繰り返す物。彼はゆらりと立ち上がれば事務的にそれらを砕いた。駅員が切符を切るかの様な単調な動きだった。
校舎の端にある階段まで教室一つ分。立ちふさがる竜牙兵は籠城する兵士の様だ。それは追い詰められているという意味である。彼は全身から血を流しながら、それでも歩みを止めること無くそれらに向かっていった。
◆◆◆
それから数刻経った。廊下には竜牙兵のなれの果てと、荒い呼吸の音があった。なれの果ては廊下に敷き詰められていた。呼吸は視界を埋め尽くす程である。彼は壁に背を預けもたれ掛かっていた。二階の敵性勢力は掃討した。これより進撃作戦第2段階である。額から流れる血を拭うと、彼は階段を上がっていった。
3階も盛大な迎えがあると思えば、拍子抜けだ。ただ立ちふさがる様に一体の竜牙兵が立っていた。それは2本の脚を持ち、骨盤と脊髄を介して大きな頭蓋を支えていた。頭蓋には目玉が収まる窪みが二つあり、上あごと下あごはかみ合っていた。右手にはブロードソード、左手にはラウンドシールド。人型の竜牙兵である。
それは何かに命令された様に真也に駆け寄ってきた。素早く隙が無い。その腕前は一流どころの剣士が相応だろう。楯をかざしながら剣を鋭く打ち下ろす竜牙兵の腕を彼は切り落とした。高速重心移動。軸足を変えて、竜牙兵の側面に身体を滑らせると、移動に使った脚力を一刀に乗せて竜牙兵を打ち砕く。
彼の背後に迫る刃があった。これは陽動かと、彼はそのまま回転を続けその影を切り裂いた。その影は身長162センチ程の少女型。栗毛色のさっぱりしたボブカットで、穂群原(ほむらばら)の女子生徒の制服を着ていた。鋭さの中にも大らかさを持ち合せた顔立ち。それはブロードソードを持った綾子だった。彼女は9時から3時へ走る、真也の真一文字で真っ二つになった。支えを失った上半身が床に落ちた。それは台に乗った花瓶が落ちるかの如く。残った下半身は数歩歩いた後、崩れ落ちた。
「あ……」
彼は眼を見開き立ち尽くした。何が起こったのか理解が追いつかない。それは事実だと理解していたが、受け入れたくないと心が拒否をしていた。彼は霊刀も鞘も落としはしなかったが、力が抜け掛かっていた。綾子の骸は色を失い塩の像と化した。そして崩れ、ただの塊となった。それはキャスターの術が生み出した高精度の傀儡である。彼女は桜の記憶から美綴綾子という存在を嗅ぎ付け、襲い、詳細なデータから親でも見間違う程の外観を持つそれを作り出したのだった。それは彼女の仕込みである。
「な、な、なん、で……」
彼には見抜くことが出来た。精度が良いとは言っても所詮は外観のみ。呼吸もしなければ、帯びる魔力も道具の様に少なく硬い。だが彼は切り捨てた。確認する必要が無かったのである。なぜなら彼にとって妹以外の全てのモノは等価値だからだ。剣を持って向かってきた以上、妹でない以上、彼は例え綾子であろうと切り捨てることが出来るのだ。イリヤスフィールを切り捨てた様に。それは彼にとって死の宣告に等しかった。
立ち尽くし俯き歯を食いしばる。霊刀と鞘を握りしめた。
「そうか、そうかよ。俺はこういう奴か」
彼は無人の廊下を、再奥の教室に向かって歩き出した。
(済まない、綾子)
あれ程居た竜牙兵は一体も居なかった。もう役目は済んだとばかりに、否、必要は無いと言わんばかりである。
(済まない、凛)
キャスターは2階で真也を疲弊させ、体力と集中力を削った。3階では人型竜牙兵を一体だけ配置し、相応な品だと警戒させた。簡単に打ち倒せば見かけ倒しだと思うだろう。それは隙となり、その隙に傀儡を宛がった。綾子が本物か、偽物か、彼にその対処する余裕を与えない為である。全ては彼に自覚させる為の罠だった。
「……引き際だ」
キャスターは“お前は凛を傷つける、綾子以上に傷つける”と彼に突きつけたのである。真也が凛に対し揺れ動いているのは彼女が桜の血縁だからだが、彼はその様なことを知らない。ならば綾子と同じように凛にも出来る、と考えるだろう。
彼がその教室の扉を乱暴に開けると、彼から見て反対側、窓の側にキャスターが立っていた。笑みを浮かべるその女は綾子を抱いていた。指をその首元に添えていた。何時でも殺せるというポーズであった。
それを見た彼は目を細めた。今にも飛びかかり斬殺しかねない勢いである。
「調査済みか。魔術師は辞めて会計士になったらどうだ。そのマメさなら物になる」
「言わなくても分かっていると思うけれど、この娘は本物よ。剣を捨てなさい、異端の魔術師さん。それとももう一度この娘を死なせてみる? 坊やの様な人でなしに10年付き合って捨てられたこの不憫な娘を」
彼は剣を床に置くと、教室の隅に蹴飛ばした。気づいてしまった以上もう出来なかったのである。控えていた一体の人型竜牙兵が彼ににじり寄る。
「鞘も捨てなさい」
従順な真也を見てキャスターは満足そうな笑みを浮かべた。
「ホストの割には客の扱いがなってない」
「この状況で剛胆なこと。とても打ち拉がれているように見えないわ」
「用件を話せ。手短にだ」
「良いでしょう。無駄は私も好まないから……私と手を組みなさい」
キャスターがそう発言した時、厚かましいにも程がある、彼はそう思った。どこの学校でも見られるパイプと木板で構成されたシンプルな勉強机。キャスターはそれに腰掛け、脚を組み、優美に振る舞っていた。それに対して彼は直立不動だ。身動き一つしなかった、否、出来なかった。人型の竜牙兵が彼の首筋にブロードソードを突き付けているからである。加えて上から目線、極めつけが人質である綾子を絶えず視線に収まる様にしている、彼の苛立ちははち切れんばかりであった。
「その魔眼があればバーサーカーとて易々倒せる。けれどその点を突くのが難しい。だから坊やは手数を増やそうと仲間を探した。私なら魔眼に影響を受けない支援魔術がつかえる、なら私と坊やだけで十分ね」
「人目に付くのは御法度、それを破った貴女と組めと?」
「坊やはそんな事は気にしてはいけない、妹以外の価値を持ってはいけない、そういう人間よね?」
「……」
「坊やにとって悪い話では無いと思うわ。セイバーのマスターに願いは無い、だがセイバーにはある。アーチャーのマスターはー勝利を狙っていて、共闘はバーサーカー戦まで。そのバーサーカー相手ではセイバー、アーチャー、坊やの3人がかりでも倒せなかった。私と組めば、強力な支援魔術にライダーも居る。私は妹さんの身を保証する」
キャスターはこれ見よがしに綾子を突きつけた。キャスターの術が発動し、綾子の表情が苦悶に歪む。キャスターは真也にメリットを提供し、綾子をその一押しとしたのである。真也は睨み付けたままだ。
「さて、返答は?」
「……良いだろ」
キャスターは苛立たしさを感じる程の笑みを浮かべた。
◆◆◆
1stバーサーカー戦を遠見の魔術で偵察していたキャスターは当初士郎たちが考えた様に共闘するべきだと考えた。だがセイバー、アーチャー、ライダーの同盟に加われば後からやってきた陣営という枠に陥る可能性があった。影響力、発言、扱いという意味である。それは屈辱的だった。なによりバーサーカー戦後の事を考えれば手の内を晒すことは避けたい。直接的な攻撃力に劣る彼女にとって情報は命だ。
苦慮していたところ真也の魔眼を知った。彼がバーサーカーの岩斧を切り落とした件である。当然彼女はそれを入手するべきだと考えた。幸いにしてイリヤスフィールは負傷し時間的な猶予があった。彼女はまず情報を集める事にした。
幸運にも士郎たちの関係は、思惑が交差する微妙な力関係で成り立つ脆い物だった。だがキャスターの暗躍が知られれば結束に影響を与えるかもしれない、これを考慮し極秘裏に行動した。
桜を襲いその記憶を読んだ。桜はもともと遠坂家の人間で凛を姉に持ち、葵を母に持つ事が分かった。そして兄と士郎の間で揺れ動いている事と、その兄が常軌を逸するシスコンであると言うことが分かった。
桜の記憶から遠坂家を辿り彼女らの情報を集めようとしたが、駆け出しの桜と異なり一流魔術師である凛を襲うことは不可能だ。そこで葵に目を付けた。彼女の記憶から、真也が遠坂家に居る事を知ったが、キャスターは桜の記憶にある真也像からそれは牽制だと考えた。
狙い自体は簡単である。桜以外の全てのモノは等価値、その真也に士郎たちと組む事以上のメリットを提供すれば容易に寝返るだろうと踏んだ。
だが問題が一つあった。桜は士郎を追っている、本心はともかくそう行動している。桜の同意を取り付けねば真也は納得しまい。桜に士郎を諦めさせる、これが最初のステップだった。桜の記憶から士郎に無理に迫っている事が容易に知れた。そこでキャスターは桜に、凛と真也が付き合っていることをリークし動揺させた。真也には桜に会うよう幻術を用い仕向けた。
彼女のシナリオは次の通り。凛と真也が付き合っている事を知った桜は追い込まれ士郎に迫り拒絶される。そうなれば桜は兄しか残らないが、“苦しみから逃れる”という聖杯への願いは残ったままだ。その状態で真也が衛宮家を訪れば、共闘が自壊するのを待つのみだ。真也が桜を士郎に預けたのは、桜が士郎に好意を持っている、そう考えているからに他ならない。結果セイバー陣営とライダー陣営は分解、真也もアーチャー陣営を離脱、後は共闘を持ちかけるのみ、その筈だった。
ところが。桜が妹でも良いと言い出したのだ。挙げ句の果てに聖杯は要らない、最後まで共闘の責任を負うとまで言い出した。キャスターは慌てた。葵を使うか、真也が不義を働いていることを凛に伝えるか、幾つかのプランが浮かんだがとにかく真也の情報が必要だった。
改めて目を向ければ真也がおかしい。凛への告白は牽制だったはずだ。妹以外どうでも良い彼にとっては偽りの関係だ。凛に理想的な恋人を演じる事が出来たはずだ。だが、とてもそうは見えない。キャスターは嘘が誠になったのかと推測した。姉妹だから似ているから、そうなったのかと考えた。
葵への独白で真也が揺れ動いている事が判明した。予定変更である。交渉相手が、妹だけに価値を置く狂人から、一般人に変わっただけだ。つまり人質という手段が有効になった、と言うことだ。ただ今のままでは不安定だった。キャスターは条件を確定したほうが好ましいと考えた。幸いにして桜は決断を真也に伝えなかった。つまり彼は桜と凛に挟まれ追い込まれていた。それは弾けんばかりに膨らんだ風船の様なものだ。後は些細な切っ掛けがあれば良い。膨らんだ風船は爪楊枝の一刺しで容易に割れる。
キャスターは桜の記憶から綾子を辿り、襲った。彼女を元に精密な傀儡を作った。そして本人を人質にした。実際に殺すつもりが無かったのは、男に捨てられた娘、と言う似た境遇もあった。
◆◆◆
いざ真也をおびき寄せれば面白い様に事が進んだ。彼は思惑通りに彼女の足下に這いつくばっていた。彼は人型竜牙兵に両足と利き腕を切り裂かれ倒れていた。満足に動くのは左腕のみである。綾子を人質に取られた以上抵抗が出来なかった。
彼女は笑みを浮かべた。気が晴れた。女を弄んだ男に天誅を下したのだと清々しかった。戸惑いも呵責も持たない異常者、利用するだけ利用し始末しようと思っていたがこれはこれで気分が良い。
這いつくばる真也は竜牙兵に頭を掴まれ、顔を持ち上げられた。その顔には苦悩、戸惑い、落胆、不安、失望、負の感情が見て取れた。キャスターは心底嬉しそうだ。
「御免なさい。出来ればこの様な真似はしたくなかったのだけれど、坊やは怖いからこうでもしないと安心できないのよ。でもまぁ安心しなさいな。契約が滞りなく結ばれた暁には、癒やしてあげるから」
「……左手が残っているけれど?」
「それはこれの為よ。左腕も潰したらペンが持てないでしょう?」
彼女は一枚の用紙を取り出した。彼は呻いた。心底うんざりしたようだ。その用紙自体ではなくそれを持ち出したキャスターの性格にである。
「自己強制証明(セルフギアス・スクロール)……」
「その通り♪」
それには“真也がキャスターの軍門に降る。桜は聖杯戦争期間中はキャスターの仲間としての義務を負い、その対価として、桜を尊重し安全を確保する、桜に聖杯を与える、桜の願いを叶えさせる”と記されていた。
「あとで妹さんにもサインを頂くとして、異存はあるかしら」
「一つ付け足したい」
「あら、ご不満?」
「そこに記されているのは、妹の義務と対価だろ。俺の分が無い」
彼女は肩をすくめた。彼の図々しさにだ。
「随分欲張りな要求だけれど、自分の取り分が欲しいという事ね。ま、良いでしょう。全ては等価交換が基本。魔術師である私がそれを疎かにしては本末転倒だわ。それでご希望は何?」
「貴女が欲しい」
「……は?」
余りにも意外な発言で彼女の声がひっくり返った。
「愛する必要は無い。聖杯戦闘期間中、貴女と身体の関係を持ちたい。調べてるなら性的に限界だってのも知ってるんだろ?」
「い、妹さんはどうするつもり?」
「それを貴女が聞くか。俺をこうしたのは他ならない貴女だぞ」
彼の狙いはキャスターの見極めである。容易に応じればビジネスライク、益がないと分かれば直ぐ切り捨てられる恐れがある。拒めば、相応のプライドが見込め多少なりとも信用できる。彼はそう目論見を立てたが、実際の所どうでも良かった。フードは目深に降ろされ顎しか見えないそのキャスターは絶世の美人と聞いていたがどうでも良かった。彼はただ勘弁ならなかったのである。彼はペンと証書をキャスターに投げ返した。
「……」
キャスターは戸惑った。この様なことは想定外だ。魔眼は欲しい、だがその様な要求は受け入れられない。キャスターは寡黙で誠実な人を好む。少なくとも真也はその対局に居る存在だ。複雑が事情が無ければ、損得無しで殺してしまっても良い程である。その様な相手に自ら進んで身を差し出すなど彼女の矜持が許さない。なにより宗一郎が居る以上浮気に他ならない。だがしかし。
彼女がペンと証書を持ち葛藤している隙に、彼はポーチから治癒薬を収めたガラス瓶を取り出し飲んだ。真也は立ち上がる事すら出来ないと警戒を怠っていたキャスターは、それに気がつかなかった。竜牙兵には待機を命令してしまっていた。
「……お断りよ。このままサインなさい。それが嫌なら死んで貰うわ」
証書から視線を外したキャスターの前に真也が立っていた。慌てて呪文を唱えようとしたがもう遅い。彼は印を組もうとした彼女の両手を右手で掴み防いだ。引き寄せそのまま床に押し倒した。
床に打ち付けられた衝撃で痛みが走るがそれ以上に嫌悪感があった。彼女はこの状況をどうにか覆すべく、時間を稼ぐ事にした。暴行を働く男に対し暴れることは逆効果だ。彼女は経験上それをよく知っていた。
「私はお前の様な軽薄な男は嫌いよ」
だがその声は震えていた。彼はキャスターが悪女なのか魔女なのか純情なのか、判断に迷ったが、どうでも良い事だと直ぐ忘れる事にした。彼の声は抑揚無く事務的だ。だが斬り付ける直前の様に鋭い顔だった。
「全くもって俺も同感。では先ほどの“身体を”ってのは止めにする。その代わり“個人の関係に於いて互いに裏切らない”ってのに変更したい」
「そんな契約内容、」
「そうね、婚姻みたいだ。なら自己強制証明は使わず互いの手を開かして条件を詰めるしか無い。Win-Winってやつ。真名は?」
「お前を信用しろと?」
「それはお互い様だろ。貴女は裏でこそこそやってたんだ。それ位で無いと割が合わない。それも嫌だというなら、」
真也の双眸が光った。眼鏡越しでも十分に感じられる程深みのある蒼だった。彼の左手がキャスターの首に食い込んだ。
「悪いけれど死んで貰う。綾子を知ってるって事は桜の記憶を覗いたろ。凛との事を知ってるって事は、葵さんの記憶を覗いたな? この二つだけで殺す理由に十分だ。桜の幻影を使って、桜自身をも利用して、そう仕向けた。そして俺の内を暴いた。実に巧妙な心理戦だと思う。称賛に値するよ。俺は、俺が他人の心が分からない人でなしだって事が良く分かった。この教訓は生かす。それを教えてくれた貴女には感謝の言葉も無い。説教して貰えなくなったら人間お仕舞いだからな。
でもさ。そう見えるか分からないけれど、ハッキリ言って腑が煮えくりかえってる。残念だけれど、拷問とか知らないし、生きたまま切り刻むなんて趣味じゃ無い。でも殺すだけじゃ気が済まない。君に屈辱を与える方法はこれ以外思いつかないんだ。今から君を犯す。安心してくれ。フードは取らないから顔を見ない。名前も聞かない」
ローブの首元を掴むと下腹部に向けて切り裂いた。紫色の布きれが舞った。キャスターの唇が恐怖と憤りで歪んだ。彼に性欲は無かった。ただの復讐である。
「何処の誰かのまま、ただ捌け口になってくれ。その後消滅させる。大丈夫。痛みは無いから。貴女が人間だったなら大問題だけれど、俺らは聖杯戦争の参加者だ。覚悟はしてるんだろ? 人道騎士道誇りとか言える立場じゃない事は理解していると思うけれど」
キャスターは逃れようともがき暴れ出した。どうにか呪文を唱えようとあがいた。せめて一小節の隙があれば糸口を作れる。それを察した彼は彼女の横隔膜と打とうとして止めた。その代わり手の平を露わになった鳩尾に添えた。何をと、不可解に思ったキャスターは突然得体の知れない衝撃に襲われた。
「きゃぁぁぁぁ!」
それは身体の芯を、全神経を、ペンチで潰し切られた様な衝撃だった。
「どうだ。己の体内にあるオドが謀反を起こす感覚は?」
「か、は、」
「どうしてって顔してるな。答えたいけれど俺も知らない。ただ出来るって事実があるだけ。暫く魔術は使えないだろ、身動きも出来ないだろ、じっとしてる事だ。何時間掛けても気が済むなんて事はないだろうから、適当なところで切り上げる」
キャスターは眼を見開き、瞳は針のよう。喘いでいた口は真空でも吸いそうな程だ。彼女は目尻から涙、口から唾液を垂らし、男の名を呼んだ。それは助けを求める声だった。真也は暫く悩んだあと手を離し、キャスターから離れた。
「やめた。その人の所に帰ると良い」
事態が飲み込めない彼女は、とにかく起き上がると、床に蹲りその露わになった身を覆うように抱きしめた。屈辱を隠す為だったが、それ以上に不可解だと彼を見上げていた。
「なぜ?」
「誰かを思うのは人としての最後の一線、お袋の言葉であり家の家訓だ。キャスター、貴女は実にやり手だよ、たった一言で俺のその気を削いでしまった」
「甘い坊やだこと。私が改心するとでも?」
「誰かに助けを求めて幸運にも助かって、この期に及んでまだ減らず口を叩くか。貴女の悪女願望も大した物だ。だが貴女には向いていない、素直になると良い」
「何も知らずぬけぬけと」
「確かにそうだ。君がどんな可哀想な人生を送ったのか、そんなこと知ったこっちゃない。納得が出来ないなら理由を提示しよう。
実際の所、バーサーカーの脅威は除かれていない。共闘の可否を俺の一存で決めるのもアレだ。君に縄を付けて皆の元へ引き摺っても良いんだけれど、そんな真似をしたら悪女に成り切れない君は侮辱されたと納得しないだろ。そもそも契約ってのはWin-Winだ。仕切り直しって事。
それに殺さないだけ。殺そうと思えば殺せる。興が失せたと言ってる。俺の気が変わらないうちに消えてくれ。言っておくけれど次は無い。そうそう、君が幻術を使う事、暗躍していたこと、葛木宗一郎をマスターにしている事は周知するから」
「殺せるけれど、殺さないだけ、それは本当かしら」
「それ以上の挑発は命に関わるぞ」
「良いでしょう。貴方からは、妹さんからも手を引きます。ですがその判断は後悔に繋がるでしょう」
「貴女の負けず嫌いも、極めつけだな」
真也はロングコートを脱いで、綾子に羽織らせると彼女を抱き上げた。そんな権利など無いと承知していたが、真冬の教室に寝かしておくのも酷だ。償いなどにはなりはしない、そう言い聞かせながら、綾子を保健室のベッドに寝かせると彼は学園を後にした。
◆◆◆
自宅に戻った真也が自室で装備の手入れをしているとチャイムが鳴った。時計を見れば、帰宅後飛んできた事は想像に難くない。彼は姿見に映る己の形を見た。身体の汚れは落としておいた。襟付きシャツに、スラックス、整髪料は使っていないが悪くない。小洒落た恰好だ。ジャケットを羽織ろうとして、其処が室内だと彼は気づいた。悩んだ上でそれをベッドに投げ捨てた。待たせるのは失礼だ、最大限の敬意を彼女に払わなくてはならない。
玄関の扉を開けると凛が立っていた。頬が赤く、髪も乱れ気味で、息も切らしている。怒っているかと思ったが、その表情は不安一色だ。彼女は息も切れ切れに“どうして”と彼に聞いた。彼は笑顔に努めた。笑顔が適当かどうか分からなかったが、他に表情を思いつかなかった。
「取りあえず上がってくれ」
リビングに凛を招くとテーブルに付くよう誘った。彼は言う。
「コーヒー、紅茶、ココア、何が良い?」
「……コーヒー」
「インスタントだけれど」
「それでいい」
互いに一口飲めば、少しは落ち着くだろう。少なくとも慌てふためいた状態でそれを切り出したくは無かった。しばしの沈黙が訪れる。目を伏せて唇を強く結ぶ凛の、その胸中に宿る不安は如何ほどのものか。彼女が耐えられず見上げれば、真也は手の平を向けて制止した。
「凛の聞きたいことは分かってる。その前に仕事の話をしたい」
「……分かった」
「キャスターに襲撃された。追っ払ったけれどね」
彼女は眼を見開き驚いた後、声のトーンを落とした。
「どうして連絡してくれなかったの」
渡した宝石は使わなかったのだと落ち込んだ。理解はしていたが実際にそうされると辛いものは辛い。
「1人で、というご指名だったし狙いは俺だった。キャスターは俺らを分断しようと暗躍していた。そして穂群原(ほむらばら)で戦闘をした。大量の竜牙兵を繰り出して手こずった。キャスターのクラスらしく魔術は強力って事だな。敵兵力を沈黙させた後、言峰神父に後始末を頼んだ。俺との話が済んだら直ぐに士郎の家に戻って皆に話した方が良い。マスターは葛木宗一郎、本拠地は柳洞寺が臭い。あの女、キャスターの事だけれどかなり質が悪い。俺が言える事じゃないけれどね」
「分かった」
彼は一つ呼吸を置いて、姿勢を正した。彼の目の前にはコーヒーカップを口に運ぶ途中の彼女が居た。
「ここからが本題だけれど。凛……俺と別れてくれ」
彼は深々と頭を下げた。カップを口に運ぶ凛の手は止まっていた。そうかも知れないと彼女は思っていた。衛宮邸から家に戻れば、彼の部屋はもぬけの殻だった。葵は何も言わずに首を振った。
「……理由を聞かせて」
その声は震えていた。堪らずこう聞いた。
「料理がまずかった? 我が儘だった? 嫉妬深かった? 迷惑だった? 髪型? 罵った事? 高慢だった? それとも男の子たちを弄んだ事?」
彼は全て否定した。彼女の挙げた、彼女が欠点だと思っている事は全て彼にとって喜ばしい事だった。
「君は良い奴だ。魅力的だし、尊敬もしてる。素質があって、努力を怠らず、気が強くて強い自分を持っている所なんて最高。君には良い男が現れる、俺が保証する。居なかったら世の中が間違ってるんだろ。俺がまっとうなら君を幸せにできた。でも俺は違う。だから言うよ、俺を信用するな。
イリヤスフィールを殺しかけて、綾子に泣かれて、凛の家に行って、気がついた事がある。俺は桜が絡むとタガが外れる。どうやら俺はおかしいらしい。俺はきっと君を傷つける。綾子の様に、或いはそれ以上。煩わせて悪かった。許して貰おうだなんて思って居ない。だけれどもう欺し続けることが出来ない。あの時、士郎の家からの帰り道、凛に告白したのは、嘘だ」
彼は頭をもう一度下げた。これで終わりだと思った。罵られて当然、ガンドを喰らっても文句は言わないつもりだった。だが凛は真也の想像を上回っていた。
「……知ってたわよそんな事」
彼は慌てて顔を上げた。その表情は驚きを隠さなかった。
「真也が桜の為に告白したって気づいてた」
氷室鐘の話。迫っても拒絶する事。桜を心配する様。そうではないかと凛は思っていた。それを知った彼は声が出ない。なんで、うめき声のような音を出すのが精一杯だった。
「それでも嬉しかったから」
凛は面を上げると真也を真っ直ぐに見詰めた。それは嘘偽り無い彼女の思いである。
「気づいていないかも知れないけれど、今の真也は不安定なの。放っておけない。考え直して。別れるなんて言わないで。私は真也の隣りに居たい」
決意が鈍る。嬉しさの余り正直泣きそうだった。だが彼にはその資格が無い。綾子を斬り捨てた時の絶望が、斬り付けられる程に明瞭に浮かび上がる。彼は首を横に振った。
「凛の助けは要らない、俺は一人でやっていく。俺はそうしてきたし、そうしなくてはならない。もう、俺に関わらないでくれ。凛の人生を台無しにしたくない」
どれ程の時間が過ぎたのか。少なくとも手元にあるコーヒーが冷めて冷たくなっていた頃、彼女は盛大に溜息を付いた。腕を組んでやってられないと、不愉快さを隠す事も無かった。拗ねているように見せたのは、彼女の最大限の譲歩であり気遣いだった。
「あー、もう、分かったわよ。押しつけは私も好きじゃ無いしね」
「済まない」
彼はもう一度頭を下げた。
「アンタ、大きな魚を逃がしたわよ」
そう言った彼女はいつか見たように、初めて見た時のように、尊大な笑みを浮かべていた。
「知ってる。ただ俺に凛は大きすぎた」
「桜の方は任せなさい。動きがあり次第連絡するから。でもその後は敵同士だから覚悟しなさい」
「凛、君は桜を殺すか?」
「怒るわよ」
「なら俺はもう降りる。バーサーカー戦までは付き合うけれどその後は関知しない」
「どういう風の吹き回しよ。シスコンのアンタが」
「義理と人情のその折衷案、そう思ってくれ」
「そう、まぁ良いわ」
桜が理由では無いなら、幾らか気分が楽だった。少なくともシスコンという呪縛からは外す事が出来たのだから。玄関で靴を履く凛に真也はこう告げた。
「俺の手が居るなら遠慮無く言ってくれ。あとキャスターは高度な幻術を使うから気をつけろ。多分葵さんも何かされてる」
「分かった」
彼は「それじゃ」と言った。彼女は「さよなら」と言った。玄関の扉が閉る、その隙間、最後の瞬間に見えたのは彼女の笑顔だった。
(弄んだ相手を笑って見送るか……)
本当に大きな魚だったんだな、思った時にはその扉は閉っていた。彼がリビングに戻れば二つのコーヒーカップがテーブルに並んでいた。これは最初で最後であったのか、と理解した彼は、心臓の痛みを堪えようと手で押さえた。
「骨身に染みるってこの事だな。魂をがんじがらめに縛られて、手も足も動かせない感じだ。どれほど望んでも、永遠に満たされない、絶えず渇き続ける感覚。どれほど喘いでも息苦しい感覚が続く。永遠に終わらない様だ。これはキツイ。そう、そうか、これが罰か……痛ぅ」
凛を騙した。凛を悲しませた。凛を失った。その精神の軋轢は、魔術を発動させ、激痛となって彼を襲った。
「がぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」
彼は心臓を抑えながらリビングをのたうち回った。テーブルを蹴飛ばし、ひっくり返した。二つのコーヒーカップが、宙を舞い、落ちて、割れた。その傷みは永遠に終わる事が無いように思えた。彼はそれが相応なんだろうなと、受け入れた。
蒼月家の門を出た凛は暫く歩いていてが、徐々に足を速めた。強歩、早足、何時しか駆け出していた。前がよく見ない、溢れて何も見えない。だがこみ上げる声だけは堪えないといけない。
(泣かない。私は泣かない。遠坂凛は泣いてはならない)
“意地を張るのが遠坂凛だろ。なら張り通せ”
いつか聞いた彼の声を思い出した時、とうとう堪えきれなくなった。その声に何事かと人々が振り返る。彼女は臆面もなく涙と嗚咽を溢していた。泣いていない、泣いていない、と何度も繰り返しながらその家を後にした。声にならない声を聞いたのはアーチャーだけだった。
つづく!
しろう「チャンス到来?!」ガタッ!
さくら「元鞘?!」ガタッ!
しんぷ「私の出番が来たか!」ガタッ!!
凛の“そんな事知ってた”展開を予想されていた方いらっしゃるでしょうか。葵の説教はこれの伏線でした。ぶっちゃけ。真也に酷い目に遭わせようとすると誰かが泣くという。この凄まじい設定です。ご意見ご感想お待ちしております。そろそろ話しますが、綾子も凛もまだ出番があります。ドロドロはまだまだ続く。
ぶっちゃけ。別れのシーンは手が震えました……いてぇ、胃が痛ぇ。