“坊主憎けりゃ袈裟まで憎い”誰が言ったか知らないがその言葉に諸手を挙げて同意するのはランサーである。坊主というのはもちろん綺礼であり、袈裟というのは教会や十字と言ったシンボルであった。連れてこられた当初でこそ気にもしなかったが、今では目にするだけで不愉快になる。鳩尾の奥にある消化器官が見えない手で握られているかのような気分だ。それが綺礼の部屋であるなら尚更だろう。
日中でも陽の光が及ばないその部屋は、間接照明に照らされて瀟洒な雰囲気を醸し出していた。ターキーレッドのソファーにチェスナケットブラウンのローテーブル。壁には絵画が飾られ、その様を例えるなら会員制高級バーかホテルが適当だ。センスが悪くないのも腹立たしい。
腹の底にわだかまる鬱憤をぶっきらぼうな態度に変えて、アサシンとキャスターの顛末を報告し、さっさとバーサーカーの根城を探しに戻ろうとした矢先、ランサーは綺礼に呼び止められた。碌でもない事に違いないランサーはそう辟易した。
彼が仰せつかった役は偵察であったが、ある時を境にセイバー、アーチャー、ライダーの各陣営を個人レベルで監視すると言う内容に変わった。ある時期とは真也が綺礼を訪れた直後に他ならない。そして、個人レベルでの監視とは言ってしまえば人間関係の事だ。
綺礼の意図が読めなかったが仕事だと割り切り、衛宮邸に赴けば待っていたのは聖杯戦争そっちのけで繰り広げられる愛憎劇である。
“なにやってやがる、このガキどもは……”
騎士に呆れ、弓兵と騎兵に同情しているうちにキャスター戦が終結。漸く探偵業から解放かと、ささやかな開放感に浸ればランサーは水を差された、と言うのが経緯である。
「ランサー、あの男、蒼月真也に手を貸してやれ」
綺礼の新たな指示を聞いて彼は嫌気がさした。裏があるに決まっている。分かっていつつもこう聞いた。
「あの坊主に協力しろってのはどういう事だ」
ランサーは綺礼と眼も合わさない。せめてもの反抗だったが綺礼は気にも止めなかった。綺礼は姿勢正しく厳かに、立派な聖職者の形であったが、ランサーには綺礼が笑っているように見えた。綺礼が笑うなど縁起でも無い、とも考えた。
「あの男は巻き込まれてしまった被害者だ。監督役の立場上、なんの手助けも無しというのは許されんだろう」
もちろん綺礼の言葉を真に受けるランサーでは無い。
「今頃か」
「バーサーカーの拠点は未だ突き止められていない、これが問題と言えば問題だが各陣営もバーサーカー戦を契機としている以上、そのタイミングに固執する理由はあるまい。ランサー、お前とて冬木市全域を闇雲に奔走するのは本意ではなかろう」
「走るのは嫌いじゃねぇ」
「そうだったな」
犬扱いされているのか、狗扱いされているのか、問いただそうとして止めた。聞いたところで誤魔化されるのがオチだ。
「坊主への接触方法は俺に一任、って事で良いのか?」
「条件は日中にこれを着て、あの男と一緒に居るところをアーチャーのマスターに見せる、それだけだ。他は好きにしろ」
綺礼はソファーに置いてあったスーツを手渡した。
「サイズは合っている筈だ」
「用意周到じゃねーか」
「一級の誂えだ。もう少し嬉しそうな顔をしたらどうだ」
綺礼の考えそうな事だとランサーは心底うんざりした。そして悪趣味にも程がある、と心中で吐き捨てた。
「ガキどもの好いたはったに手を出すとは、大人げねえ」
「もちろん見返りは用意しよう。蒼月真也との共闘に当り全力戦闘を許可する」
「……それすらも見込みの内ってか」
綺礼はアーチャーに抱きかかえられ柳洞寺を後にする凛の様子から大体の見当を付けていた。ランサーを動かした後の展開もほぼ確信を持っていた。ランサーが放つ侮蔑の視線に笑みで返した。
槍兵が消え、その気配が感じ取れなくなった頃である。ギルガメッシュはソファーに腰掛けグラス内に波打つワインの色を愉しんでいた。
「その娘にただ見せるだけで良いのか、綺礼」
「あの娘は拒絶されても諦めきれない程に込んでいるからな。それで十分だ」
「雑種どもの色沙汰に興味も理解も無いが……あの男に入れ込んでいるのは娘だけではあるまい」
「望もうとも望まざろうとも、あの男は苦悩をまき散らす者だ。あれ程の逸材はそうはいまい。驚けギルガメッシュ。これ程の高揚感は久しく覚えが無い」
「剥き出しの感情が交わる舞台は果たして喜劇か悲劇か」
「どちらでも構わん」
「そうであろうともよ。目の前の災難をどう解釈するかは観客席に居る者が決める。眉をひそめ同情する者も居ようが、お前は笑い飛ばす側だ」
「失敬な事を言うなギルガメッシュ。私は聖職者だぞ」
「けしからん聖職者も居る者だ……時に、ランサーの言っていた黒い影とやらはどうするつもりだ」
「様子を見るほか有るまい。ランサーが仕掛けるのを戸惑う程の何か、気には掛かるがな」
「焦る事はなかろうな。その影とやらもその男の結末も自ずと結果は知れよう」
「ほう。関連がありそうな物言いだが、その根拠は何だ」
「感、我の直感だ。心しろ綺礼。此度の聖杯戦争、荒れるかもしれんぞ。前回とは比べものにならん程にな」
ギルガメッシュはワイングラスをテーブルに置くとソファーに身を横たえた。ギルガメッシュが真也の滅殺に及んだ時こそが、何かを起こすトリガーになり得るのかもしれない、綺礼はそんな予兆を持った。
◆◆◆
そこは蒼月家のリビングである。真也はソファーにもたれかかり、ただ宙を見ていた。桜は学校へ向かった。ライダーも警護のため随行した。つまり彼は家に一人だ。共闘は崩れたが、バーサーカー戦まで付き合うと凛に約束したため彼は病欠続行なのである。もっとも、もう退学してしまっても問題は無い。
“せめて最後まで見届けさせてください”
と言うライダーの希望もあり、念の為にと凛と士郎が脱落するまで顕界して貰う事にした。
「……」
“もって3ヶ月”ライダーの言葉が脳裏に何度も浮かんでは流れた。死の恐怖は数度感じた事があったが、ゆっくりと這い寄る死の恐怖は初めてだった。首を真綿で絞められている感覚。死も怖いがなにより気に掛かるのが桜である。何時どの段階で告白するべきか、それを考えると悩ましい。少なくとも聖杯戦争後にはしなくてはならないのだが。
「泣かせるだろうな……」
それを考えると気が重い。どうして黙っていたのかと詰るだろう。それを契機に嫌悪してくれれば、それはそれでありがたいのだが、その考えは余りにも後ろ向きだ。とはいえ他に手段が無いの事実である。TVの中に居るコメンテーターが色々言っているが耳に入らない。
『新都のポンペイビルで昏睡事件が発生しました。ガス漏れが原因として疑われていますが現在調査中です。患者は15名に及び病院に搬送されました。全員命に別状は無いとの事です』
彼がそれを聞き流さなければ、“本当にガス漏れか? キャスター以外の何かが生命力を吸い取っているのではないか”そう疑っただろう。残念ながら物思いに耽る彼が気づく事はなかった。
桜には友人も居るが、基本的に母である千歳に託す以外無い。蒼月真也という抑止力を失った冬木市がどうなるかそれを考えると頭が痛い。聖杯戦争とは別に士郎には伝えておくべきか、真也はそんな事を考えた。士郎が家族の為にあるというなら、冬木市の治安に無関心と言う事はあるまい。
「本当に運が無いな俺。桜が暴走する前にこの事態になってれば士郎に預ける事も可能だったのに。せめてライダーが顕界し続けてくれたなら……」
ぼやいてもどうにもならない。やれる事をやるしか無い。残りの3ヶ月有効に使うより他は無い。
「取りあえずコーヒーで飲もう」
独り言が多い事に苦笑いしながら立ち上がれば、呼び鈴が鳴った。時計を見れば午前9時である。新聞の勧誘なら追っ払おう、宗教の勧誘なら余命3ヶ月だと冷やかそう、そう玄関の扉を開ければランサーが立っていた。
「……」
サーヴァントを前にして彼が呆気にとられたのは幾つかの理由がある。殺意が無かった事、得物である槍を展開していなかった事、そして。
「なんでスーツ姿」
「何時もの形じゃ日中出歩けねーだろ」
黒茶色のパンツにジャケットとベスト。襟元から覗くパールグレイのシャツには縦のストライプが入り、タイはロイヤルパープル。ジャケットの胸のポケットにはタイと同じ色のハンカチが覗いていた。ランサーはスリムなビジネススーツを纏っていた。
ビジネスマンと言うよりは富豪のご子息である。それも温厚ではなく好戦的な野性味溢れるやり手だ。日本人の少女であれば一溜まりもないだろう、彼はそんな事を考えた。
(どこの出身か知らんけど、流石外国人。めっさ似合う……)
ランサーは狩猟犬を連想させる風体であるが、正装するだけで洗練さを醸し出すとは有り得ない。実は貴族とか高貴な血筋なのでは、と真也はそう考えた。黒髪黒眼だが欧米風の出で立ちである真也も相応に様になるが、これは勝てないと白旗を揚げた。つまり嫉妬した。言葉の節々が刺々しくなるのも無理は無い。
「何をしに来た」
ランサーはいつか見たように挑発的な笑みを浮かべていた。
「ごあいさつだな、燻ってるかと思って来てやったのによ」
「せっかくだけれど俺に用は無い。帰ってくれ」
「話がある。面かしな」
「受ける理由が無い。帰れ」
「バーサーカー戦、手伝ってやっても良い……そう言ってもか?」
真也はこのとき初めて狩猟者のような鋭い表情を見せた。そう来ないとな、とランサーは腹の底で笑った。
「一度しか聞かねーぜ。どうする?」
「……いいだろ。とにかく話は聞こう」
ランサーを家に入れるのは避けるべき、そう考えた真也は公園を指定した。それはランサーの狙いでもあった。二人はベンチに並んで腰掛けた。真也はいつものようにロングコートを羽ばたかせていた。もちろん脇の下に霊刀をぶら下げていた。ランサーは背もたれに身を預けふんぞり返っている。真也は両膝に両肘を乗せて、前屈みだ。余裕があるランサーに対し真也は神経質になっていた。自然真也の物言いは棘が付く。
「一度拒否しておいて、か。ランサー、お前何を考えてる」
「目論見なんざ有るに決まってるだろ。この際問題はバーサーカー討伐の戦力が増強できるって事だ」
「……事情に精通してそうな物言いだな。ランサー」
「まぁな。お前が聖杯を求めていない事も、お前らの共闘が瓦解した事も把握してる。日中にこんな形できたのは刺激しない為だ。なんつったか……そうTPOだ。TPO」
それは桜が学校に通っている事からの推測である。ランサーは何食わぬ顔で缶コーヒーを飲んだ。
「俺が何を考えているか分かるか?」
「信用できないって言ってるんだろ? そりゃーそうだ。逆に疑いもせずあっさり受け入れる奴なんざこちとら願い下げだ」
「ならどうして持ちかけた」
「俺らはバーサーカーを倒したい、という目的を共有してる。だがお前はマスターを狙うのは避けたい、と考えている。バーサーカーのマスターに手を掛けず、サーヴァントのみを叩く可能性、のるかそるか」
疑わしい視線で睨み返す真也を見ながら、ランサーはそろそろだと腹を括った。らしくなく心中で一言詫びた。この企みが失敗すれば良い、とも考えた。
◆◆◆
同日同時刻。遠坂邸から蒼月邸に向かうのは凛である。衛宮邸から戻った彼女は一日悩みに悩み、桜が実の妹であると真也に告白する事に決めた。彼女が今まで黙っていたのには理由がある。
一つ。今を遡る事10年前。間桐桜の失踪と間桐臓硯の殺害が同時期であった事だ。第3者の視点で見れば、誰かが臓硯を殺し桜を連れ去った、そう考える方が自然だろう。真也にとってその事実を誰かに知られる事は禁忌に他ならない。
実際凛もそう思っていた。もし出会ったならば容赦すまい、そう考えていた。だが幼い桜が2年間にわたり筆舌に尽くしがたい虐待を受けていた事を知り、それを不問にした。12年前、遠坂時臣が娘である桜を間桐に渡した事は紛れもない事実であり、現遠坂家の当主である以上彼女にもその責の一端がある。
二つ。葵が桜の存在を知れば連れ戻したいと言い出す可能性が有る事だ。それは桜と真也を引き離す事に他ならない。一つ目の理由を持ち出せば真也に拒絶する術が無い。
そして最後は桜と交わした“母さんには黙っててあげる”という約束である。
だがこれ以上隠し通す事は良くない、そう考えたのだった。凛から見れば桜は実の妹であり、真也から見れば桜は義理だろうが妹だ。同じ人物を妹と呼ぶならそれは家族の関係に他ならない。
ならば。思惑の違いだ、陣営の違いだ、固執するのは利口では無い。少なくとも前提にするのは誤りだ。士郎の身体を張った家族への想いに相応の感銘を受けた。キャスターによって見せられた幻影から、親しい人間に隠し事を作るデメリットを知った。彼女はそう考えを改めたのである。
順番であればまず桜を説き伏せるべきだが、姉と殴り合いをする程の根性を持っている。加えて士郎を斬り付ける程の強い情念も持っていた。一筋縄で行かない事は容易に想像できる。ならば外堀から埋めよう。母である葵に黙っているという約束をしたが真也に黙っているという約束はしていないのだ。今の彼は以前のような妹だけを考える存在では無い、凛の想いも汲んでくれる、そう考えた。
以上が凛の言うのが建前である。本音は別にあった。
(真也と話す。腹を割って話す。真也に桜が実の妹である事を話す。桜と、葵と、真也を改めて紹介する。そこから全てやり直し)
別れを告げられた日を思い出せば不可解な点がいくつかあった。彼が無理して笑っていたのは明白だ。彼の言う凛を傷つけると言う発言も突飛だった。何故あのタイミングでそんな事を言い出したのか考えればキャスターが怪しい。
それはキャスター最終戦直前の事。桜に1stバーサーカー戦の映像を見せた事は、ライダーとの分断に他ならない。当然真也も分断しようと考えるだろう。なによりキャスターの“坊やはお嬢ちゃんから離れたでしょうからね”この発言もおかしい。凛はキャスターに何か吹き込まれた、と考えた。彼はそのキャスターと単独で戦っていたのである。
(聞くだけだ。それを確認するだけ会いに行こう。我ながらどうかしてる。土下座すれば許してあげても良いとか。必要ないなんて嘘だ、そう一言言ってくれれば)
生活道路を歩く凛が公園にさしかかった時、ベンチに腰掛けるランサーと真也の姿が見えた。道路とベンチは直行する位置関係だった。3人の位置関係を表せば、凛、真也、ランサーの順である。つまり真也は凛に対して背を向けている。彼女の姿を確認できるのはランサーだけだ。
「なんで、真也とランサーが……」
◆◆◆
呆然と見つめる凛の姿を、視界の端に捕らえながら、ランサーは続けた。
「ただし条件が二つある。お前と組むのは今すぐって訳じゃ無い。いまバーサーカーの根城を探してるが、見つからない以上俺が居ても意味が無いからな。だから暫く離れる。今日来たのは先にバーサーカーが襲って来ても言いようにっつー事前申し合わせだ。突然手を組むって言っても、そうはいかないだろ?」
「もう一つは?」
「俺と組んだ理由を他陣営に言うなとよ。俺の雇い主は腰抜けでな、誰にも知られたくないんだとさ。事情に精通し、暗躍してるってな」
「随分と虫が良いが、どうやって皆に説明すれば良い?」
「監督役にサーヴァントは要らないかと持ちかけられた、でどうだ。いけ好かねぇ奴だって知ってるんだろ? そーだそーだ、バーサーカー戦後は暴露しても良い」
「バーサーカーがどうにかなれば聖杯を掴む目算があるって事ね」
ランサーがサーヴァントなら強気になるのも無理は無い、と真也は考えた。
「何故俺に持ちかけた。セイバーのマスターでも良いだろう」
「お前がマスターじゃない、だからに決まってるだろ」
「……そりゃそうか」
士郎にも凛にも借りがあった。イリヤを殺さずバーサーカーを倒せるならば……だがお世辞にも胡散臭い。彼は足下を見ながら暫く考えた。士郎の“お前は半分しか理解していない”という言葉が脳裏を駆け巡る。判断保留だ。彼はこう告げた。
「俺は遊撃だがライダー陣営、頭はマスターだ。協議したいから一晩時間をくれ。他陣営に話さなければ良いんだろ? 携帯を渡しておく」
もし誰にも言うなという条件だったなら彼は拒否しただろう。それは綺礼の目論見でもあった。
「んなもん使うか」
ランサーはルーンの刻まれた石を渡した。
「そいつでお前の居場所が分かる。仕事の都合上遅れるかもしれねぇが踏まえておいてくれや」
「分かった」
ランサーが立ち上がったとき凛の姿は無かった。それは綺礼の企みが成った事を意味していた。
「坊主」
「なんだ」
「気づいてない様だから言うが、今のお前はかなりヤバイ状況だぜ?」
それはランサーが出来うる最大限の警告だった。
「知ってるよ。もう散々だ俺は」
「お前は半分しか気づいてない。底は抜ける為にあるってな。覚えておきな」
◆◆◆
今の凛は理性より情動に支配されていた。好意と嫌悪。愛情と憎悪。許しと糾弾。怒りと悲しみ、それらの感情が交じり合った、例えるならスープのような物だ。
どうしたら良いのか分からない、理性は真っ白な濃霧で敷き詰められていた。悲しみは止まる事を知らない、別れを告げられた時の記憶は薄れるどころかか強くなる一方だ。忘れられる、彼女の願いはキャスターの幻術で否定された。未だ心の奥底に彼が居た。彼女は足下さえ見えない暗闇の中、無我夢中で手探りに出口を求めていた。
そんな折、彼女は士郎の言葉で僅かな希望を持った。だからこそ勇気を振り絞り一歩踏み出したのである。桜が言った様に側に居られれば、そう思った。
その状態の凛がランサーと話す真也を目撃したのである。それが夜だったなら、殺意を飛ばし合い、武器を向け合っていたのならば話は別だった。二人はベンチに腰掛け白昼堂々話しているのである。不可解な事にランサーはスーツを着ていた。当然何か意味があるだろうと思うだろう。その意味とは何だ。その状況は“二人がどういう関係なのか”という疑念を凛に埋め込むには時間が掛からなかった。
些細な言葉で救われる、些細な言葉で深く傷つく。つまり精神が不安定な時においては、受ける言葉や態度と言うものを物を過剰に評価する。口論している相手の些細な言い回しすら癪に障るのと同様だ。
生じた小さな疑惑を、彼女は瞬く間に確信と化してしまった。憎しみとなった。なぜなら真也は一度、虚偽という名の不義を凛に働いているからである。綺礼が用意するのは些細な火種でいい。炎上させるのは彼女自身だからだ。綺礼の狙いは揺れ動いている凛の心理を利用し、真也がランサーのマスターだったと誤認識させる事にあった。
後は簡単である。凛は思い出という事象に、それらしい理由を付けるだけだ。その理由に裏付けを取る必要は無い。怒りを前提とし、それを正当化する為に、好きなように解釈するだけだ。誰も彼もが行う心理反応である。
(そう、そう言う事。何時マスターになったのか知らないけれど、ずっと欺していたって事。魔術師どころか、共闘相手とも見られていなかったって事か。バーサーカー戦まで付き合うって言った事も、聖杯戦争から手を引くって言った事も嘘。桜の為の牽制では無くて、私を油断させる為、つまりバーサーカー戦を突破させるまでの保険。楽しかったでしょうね。私が手の平で踊っているのを見ているのは。おかしかったでしょうね、真也に浮かれていた私は。イリヤスフィールを殺しかけて不愉快になった事も、綾子を振って辛そうにした事も、私に動揺しているって言った事も、何から何まで全部嘘。ばっかみたい、あんな奴に喜んでたなんて)
彼女はその場を立ち去った。怒りと憎しみがこみ上げる。唇を強く握れば涙も溢れた。歩む筈の足運びは大地を壊してしまう程に強かった。
(許さない、許さない……許さない! 許さない!許さない! 復讐してやる!)
アサシンの攻撃を受け負傷し、無理に戦闘活動を続けたアーチャーは遠坂邸の結界の中だ。1stバーサーカー戦から相応に日数が経ち、最低日中は回復に努めねばならない状況だったのである。つまり、彼女に助言する存在は居なかった。
◆◆◆
自室に戻った凛は早々に復讐方法に付いて考え始めた。どうすれば良い、どうすれば真也を苦しめられる。どうすれば気が晴れる。武力による攻撃は却下だ。ライダーは未だ健在、反攻されこちらも被害を受ける可能性がある。そもそも戦闘活動で真也が苦しむとは思えない。桜を傷つければ別だが、妹にそんな事出来る訳が無い。
思案に暮れていると部屋の扉を叩く音がした。葵であった。彼女は赤いリボンを凛に差し出した。
「これ凛のよね?」
母の手にあるそれに見覚えがあった。手に取ればただのリボンでは無いと直ぐ分かった。魔女の髪を結う特別な物だからだ。
「何処にあったのよ?」
「真也さんが泊まっていた部屋に落ちていたの。あの部屋は昔凛が使っていたでしょう? だから凛の物かと思ったのだけれど」
凛は溜息を付いた。彼女がその部屋を使っていたのは随分前だ。こんなに綺麗な訳がない。
「母さんって本当に天然なんだから、」
ならばそのリボンがどうしてその部屋にある。凝視し遠い記憶を漁れば、それは幼い頃凛が使っていた物であり、桜に手向けとして渡した物だと思い出した。真也(シスコン)がお守り代わりに持ち出し身につけていたのだと、推測した。彼女はうってつけの復讐を思いついた。笑みを堪える事が出来ない。
(なんて馬鹿な奴)
凛は笑顔を持って葵に告げた。
「不思議ね。それ12年前私が使っていたリボンなの。桜に渡した物だけれど、どうしてこの家に、真也が泊まっていた部屋に在るのかしら」
葵はおぞましい程冷たい娘の笑いに戸惑っていたが、その名前を聞き及んだ途端目の色を変えた。
「……桜?」
「知ってた? 真也の妹って桜って言うの。その娘は16歳なんだけれど、私たちの桜も生きていれば16歳……これって偶然よね?」
◆◆◆
学校から戻った桜が家の玄関を開けると、最初に見た物は見覚えの無い婦人の姿だった。否、見覚えが無いと思いたかった。その若草色のワンピースは桜にとって12年前以上昔の記憶である。その婦人は金切り声を上げて、呆然と立ち尽くす兄に縋っていた。
ぞわりと悪寒が走った。その事態は桜にとってとうの昔に捨てた望みだった。そして桜が10年に渡り必死に避けてきた事態でもあった。その婦人は背後の桜に気がつくと、振り返り、喜びの表情を見せた。
「桜!」
実の母は嗚咽を漏らし泣いていた。その胸の中に居る桜は12年を隔ててすら惹かれる肉親の温もりに戸惑っていた。彼女は義兄に気づいた。彼は立ち尽くし、笑いもせず、視線すら合わさず、俯いていた。桜にはその姿が嘆いている様に見えた。絶望している様にも見えた。どうしてそんな辛そうなのかと。
“まるで今日が最後みたいじゃないですか”
桜の不安に応えたのは姉だった。桜は漸く実母の隣りに実姉が居る事に気がついた。
「もう安心よ。これで家族一緒に居られるわね」
実姉の言っている事が理解できない。桜にとって家族は千歳であり真也しか居ないのだ。
「帰るわよ、桜。遠坂の家に」
「……兄さん?」
「……済まない」
「どうして、謝るの?」
真也は義妹の怯えに応える事が出来なかった。
「私たちは法的手段に訴える用意がある」
心地よい、嬉しい声に詰られる事がこれ程辛いとは思わなかった。心穏やかになる姿に、敵視される事がこれ程堪えるとは知らなかった。それが真也の偽りない思いだった。
そこは遠坂家の客間である。初めて招かれた夜に彼が訪れた部屋だ。あの時は対等だった。友人の一歩前の関係だった。ソファーに腰掛ける凛はあの時と何一つ変わらない。なのに。今の彼女は断罪の御使い以外何者でも無い。彼は項垂れるのみだ。
「けれど私の妹の事だもの。大事にしたくないわ。桜の引き渡しに無条件で応じる事、母である葵への釈明は禁止、私の妹への説得をする事、妹のサーヴァントにも説得する事、2度と私たちに接触しない事、以上の条件を受け入れれば、間桐臓硯の殺害と誘拐に関して目を瞑る……ご不満はある?」
どうするも無い。受け入れねばお仕舞いだ。ソファーに腰掛けていた真也は立ち上がると、一歩左に移動し、両膝と両手をカーペットに付け、伏せた。頭をこれ以上下げられない程に下げきった。
「凛を欺した事、傷つけた事、不愉快な思いをさせた事は謝る、この通りだ」
真也の土下座が凛に油を注いだ。それすら嘘だと彼女は思った。
「頼む。それだけは許してくれ」
「分かってないわね、交渉できる立場だと?」
「凛」
「早く出て行きなさい、気分が悪いから。真也の顔なんて見たくないわ」
暫く頭を下げていたが、どうにもならないと理解した。
「……承知した。条件を受け入れる」
彼は立ち上がり彼女に背を向けた。見るからに消沈する真也の後ろ姿を見て凛は気分が良かった。だがまだ足りない、まだ気が晴れない、そう考えながら見送った。
桜が居る部屋の前。真也はノックをしかかった状態で硬直していた。なんと説明したら良いのか分からない。いや、説明など意味が無い。事実を告げるしかない。覚悟を決めた彼は、ノックをし扉を開けた。
その部屋はつい先日まで真也が泊まっていた部屋である。ベッドに腰掛け俯いていた桜は、真也の姿を見ると駆け寄った。彼は手を翳しそれを制した。彼はできうる限りの笑顔でこう告げた。
「良かったな。本当の家族が見つかって」
「兄さん?」
兄の言っている事が理解できない。本当の家族とは何だ。私たちの事ではないのか。
「今日から、今から、君はこの家の人間になる。違うか、戻る」
それは最も言って欲しくない人物に、最も言って欲しくない言葉だった。気が遠くなりそうだった。
「い、嫌です! そんなの嫌!」
「馬鹿を言うんじゃ無い。血の繋がりってのは大事なんだ。想像以上に深いんだ。大丈夫、少し経てばそれが当然だと思うようになるから」
これ以上桜に別れの言葉を伝える事は彼にも無理だった。部屋を出ようと背を向ければ、彼の手をか細い指が掴んでいた。振り返らなくても分かる、その手を掴む少女は泣いていた。必死に縋っていた。
「そんな事言わないで。私帰りたい。兄さんと母さんと過ごしたあの家が良い。蒼月が良い。私は兄さんが好き、捨てないで」
「済まない」
10年彼女を守ってきた優しいその手は、ゆっくりとだが確実に桜の手を振り払った。桜は崩れ落ち泣き伏せった。彼女に出来る事はそれだけなのである。
◆◆◆
部屋を出れば側にライダーが立っていた。真也には彼女の言いたい事が手に取るように分かった。だが聞く事は出来ないのだ。彼は一言謝ると彼女に背を向けた。廊下を歩く真也の行為は桜を置いていく事そのものである。それを受け入れられないライダーはこう進言した。何時もの口調であったが、懇願以外の何物でもなかった。
「待ちなさいシンヤ。サクラを攫って逃げるべきです」
「俺は偽物だ。本物には敵わない」
「今更でしょう。10年の絆を否定するつもりですか」
「良いんだよ、俺は長くない。実の母と姉が居るなら、救いになる」
「であれば尚更です。最後まで共に居るべきです」
「凛は法的手段も考えている。未成年誘拐、殺人、公になれば犯罪者だ。逃亡生活なんて長くは持たない。そんな事になればどのみち終わりだ」
ならば遠坂凛と葵を殺せ、マスター同士ならどうとでも成る、ライダーはそう言いかけて止めた。真也に出来ない事は彼女自身も十二分に分かっていた。
「分かりました」
だがそれは真也自身も予想していた事だった。短い付き合いだがライダーの考えは手に取るように分かった。
「ライダー、馬鹿な真似はしないでくれ。しないと約束してくれ」
「その要求は受け入れられません」
「頼む、ライダー、頼むから。そんな事は止めてくれ」
肩越しに見せる彼の顔は歪んでいた。涙こそ流していなかったが、彼は泣いていた。
「……サクラの事は心配しないでください」
「済まない」
壁際に立つ凛が窓を介して見下ろせば、遠坂の門を出る真也の背中が見えた。知れず笑みが浮かぶ。これ以上の復讐はあるまい。だがまだ足りない。気が晴れない。彼女が受けた屈辱と苦しみはこの程度では収まらないのだ。
気配を感じ視線を投げれば、薄暗い部屋を背景にライダーが立っていた。凛は腕を組み流し目だ。ライダーが凛に手を出せない事は、把握済みである。
凛は意外だと思った。そこに立つ騎兵はあからさまな怒りを見せていたからである。彼女の印象ではライダーは冷静と優雅、俗に言えばクールである。
その憤りは如何ほどのものか。風が無いのにも関わらず揺らぐ髪は、まるでのたうつ蛇のよう。目隠しをとれば鬼の形相が見えるかもしれない、彼女はそんな事を考えた。己の黒い髪を繰りながら凛はこう挑発気味に聞いた。
「言いたい事がありそうね」
「遠坂凛。真也に欺された貴女の憤りは理解はできます。受けた屈辱をどの程度評価するかは個人によりますから。ですが貴女に貴女の思惑がある様に、私にもあります」
「言いたい事は簡潔に言いなさい。無駄よ」
「シンヤに感謝しなさい。彼の懇願が無ければ私は貴女を殺しています」
「意外ね、もっとクールだと思ってた」
「当然でしょう? 私にとってサクラとシンヤは身内、貴女は部外者、赤の他人なのですから」
侮蔑を隠さず言い捨てるとライダーは霊体となり部屋から消えた。当然桜の部屋に行ったのだ。凛は脱力した様に壁にもたれ掛かった。カーテンの匂いが鼻孔に突くと、涙がこぼれた。彼女とてこんな事はしたくなかった。だが奥底で滾る怒りと憎しみは消えない。消し去る事が出来ない。したくないがせざるを得ない、葛藤が生み出した涙である。
「……私だって、身内になっても良いって思ってた。それを踏みにじったのは真也なのよ。許せるはずが無いじゃない」
凛の嘆きは部屋の暗がりに消えていった。
◆◆◆
自宅に戻った真也はリビングのテーブルに拳を打ち落とし、叩き割った。部屋がその衝撃で振れた。テーブルだった二つのなれの果ては倒れた。それに載っていた小皿やリモコンは床に落ちてどこかに行った。彼は笑った。笑うほか無い。どうしたら良いのか分からない。
「凛だ! 寄りにも寄ってあの凛だ!」
彼は堪らず蹲った。見えない何かに頭を踏まれているようだ。落ちていたグラスの破片を握りしめた。脆く軽い、耳障りな音が鳴ると手の平から血が流れだした。うめき声が口から流れ出す。
「殺せるはずが無い、恨めるはずが無い。好きな相手を必死で諦めれば、その彼女に全部持ってかれた。桜も、ライダーも、何も無くなった。底は抜ける為にあるって本当だ、したのか、俺それだけの事したのか、まだ足りないか、もう無いぞ、何も残ってない、強いて言えば、命ぐらいだ、しかも何時止まるか分からないポンコツだ……目的を持たない命に何の意味がある!」
床に額を打ち付けると家中が揺れた。自害するか、そう考えたとき彼の脳裏に美しい白銀の髪が浮かんでいた。柔らかい風を浴びて棚引いていた。そう、彼には一つだけ残っていた。それに気がついた彼は装備を調えると夜の冬木市に繰り出した。バーサーカーの打倒、彼に残されたのはそれだけだった。
様子を伺いに凛が桜の元を訪れれば、彼女の妹はベッドの端に腰掛け身動き一つしなかった。俯き下がった視線は大地という床の先にある地獄の釜を見ているかのようだ。桜の声に生気は無かった。凛は努めて軽快だった。
桜が消沈するのは想定の内だ。それは時が癒やすだろう、と考えた。遠坂桜が間桐桜になった時のように、蒼月桜が遠坂桜に戻るのも同じ事だ。ならば凛はその手伝いをするのみである。
「少しは落ち着いた? 殺風景だけど少しずつ揃えていきましょ」
「どうして」
「決まってるでしょ。人の心が分からない、人でなしをまともに扱う理由なんてないじゃない」
「どうして」
「ばかね、大切な妹を殺人鬼の家に置いておける分けないでしょ」
桜は顔を上げた。その真意を問う為だ。
「殺人鬼?」
「そう、知らなかったと思うけれど間桐臓硯は殺されたのよ。桜の母親……はもう関係ないか、真也の母親が殺したんでしょうね。あの妖怪を殺せるような奴なんて早々居ないから」
「私はそれで救われた。私を捨てたのは遠坂です、間桐に捨てたのは遠坂です。間桐で虐待されていた私を救ったのは蒼月です! 私は、私は幸せだったのに!」
「桜、アンタは長い事一緒に居たから勘違いしてるのよ。考えてごらんなさい、アンタは誘拐されたのよ? その人間の肩を持つのはおかしいでしょ。12年ぶりに家に帰って来れたんだからゆっくりしなさい。母さんだって喜んでる」
母という言葉からかって交わした約束を桜は思い出した。
「姉さん、どうして? 言わないって約束したのに」
「言ってないわよ。母さんが気づいただけ。馬鹿よね、アイツ。桜のリボンを持ち込んで、忘れていったんだから」
「嘘です! 12年前のリボンを見て、魔術師で無い母さんが思いついたなんて無理がありすぎます!」
「いい? 真也を犯罪者にしたくないなら余計な事母さんに言うんじゃ無いわよ?」
取り付く島が無いと凛は出て行った。彼女は、かつて桜の心臓に埋め込まれて未だ残っている物も、桜が真也の妹である事が絶対条件だと言う事も知らない。凛は桜から真也の妹である事実を奪ってしまったのである。
「……そう、姉さんは私から兄さんを奪うんですね」
トランス状態に陥った彼女の影から無数の帯が揺らめき伸びていく。その勢いはアサシンを喰らった比では無かった。桜の無意識の同意を得た大聖杯の中に居るそれは、彼女の力を存分に利用することが可能になったのである。
第一部 完!
世の中義妹どころか真妹とのイチャイチャが溢れているというのに、姉妹丼だって溢れているのに、なんだこの絶望的な展開。私はなぜこんな話にしてしまった。遠坂姉妹とのイチャらぶ聖杯戦争で良かったじゃないか……それにしてもヒロインが敵対するなんて一次作では絶対出来ない展開ですな。某ア○ーシャなんて目じゃねーZE
(*゚Д゚)・:∴カハッ
ダメージ凄いんでQK入ります。