日が完全に暮れた。何の脈絡も無く、何の意味を持たない場所に姿を現したそれは何時もの様に真也の気配を探り、その後を辿った。真也の気配は何処であろうと感じ取れる。髪の匂い、汗の匂い、肉の匂い、血の香り、それは生物の証。足音、筋肉繊維の鳴動、骨の軋み、それは動物の痕跡。鼓動、魔力の振動、魂の色、蒼月真也という存在。宿主の無意識に深く刻まれた、真也の妹という概念がそれを可能にするのである。宿主を操る、それを目的とする筈のそれもその影響を強く受けていた。加えてメリットも多い。真也の側には高い確率でサーヴァントが存在する。なにより死体である可能性も大きい。魔力を欲していたそれは嬉々として真也を追った。
激しい剣戟と魔力の奔流が満ちる場所に近づけば真也の姿は既に無かった。消えた後だった。落胆したがサーヴァントは見つけた。残念な事に死体では無かったが、まぁいい。直接喰らうとしよう。蠢き、捕らえようと影を伸ばせば、そこに凛が立っていた。黒い影は彼女の背を認めたのである。
◆◆◆
戦闘終了後。ランサーと真也が逃げた方向をぼうと見ていた士郎はセイバーの声に我に返った。
「これから追撃ではなく追跡をかける。みんな、俺らは倒すんじゃなく捕らえるんだ。相手は負傷している、挑発、陽動、強襲、積極的戦闘は控える事」
彼は3人にそう告げた。渋々ながらも皆が同意した事を確認し、出発を意味する号令を出した、その時である。それは何の脈絡も無く、予兆も無く顕れた。
それは何かだった。表現したいが残念な事に適当な言葉が当てはまらない。それは彼が今まで見聞きした、どの生き物に似ていないからだ。地球上における生物の系譜、系統からも外れている様に思えた。それ以前に、生き物かどうかも怪しい。それはただ黒く、立体感が無い。重さも、密度すら感じさせない。強いて言えば現実世界に顕れた一枚のポリゴンが近いだろうか。だが不可解な事に、セイバー陣営の4人が4人ともそれの正面を見ていた。異常だ。皆の立体感、位置感覚が狂い始める。3次元に住む人間が2次元の住人を見るとこの様な感じなのではなかろうか、士郎はそんな事を無意識に思った。ビデオゲームという意味でポリゴンという概念を持っているのは士郎だけだった。
未知との遭遇か、であれば刺激的な行動は慎むべきだ、彼はその考えを消し去った。彼の直感がそれは仇なすモノだと告げていたからである。凛とセイバーは魅入られたように動かない。舞弥も同じようなものだ。どうする、と彼は悩んだ。選択を誤ると壊滅する、その予兆があった。
それは突然激しく蠢き始めた。黒い無数の帯が、打ち上げられるロケットの噴煙の様に戦慄き始める。それは警戒する動物の行動にも見えた。士郎には怒っているように見えた。一瞬、影で作られた人のカタチが見えたような気もした。まるで凛の姿を見て隠れたかの様だ。目にするのも汚らわしい、そう言わんばかりである。無数の帯がピタリ止まると、それは音も立てず、一瞬で数十メートルもの地面を走った。それは凛に向かっていた。
「セイバー!」
怒号の様な士郎の叫びで我に返ったセイバーは、凛に向かって疾走。彼女を抱きかかえた。士郎は投影開始、投影対象“カリバーン” それは今の彼の持つ最大の武器だ。様子を見るなど悪手、彼はそれを感じ取った。風船掴む様な仕草の両手、その間に稲妻が迸る。無数の帯は有線ミサイルの様に誘導し、セイバーと凛を狙い続ける。凛とセイバーが死ぬビジョンが彼の脳裏に走った。焦燥が募る、投影完了時間を考慮すると際どい。セイバーに抱かれた凛はそれを察して宝石を投げつけた。
「4番!」
その帯は宝石を綺麗に絡め取ると内包する魔力ごと喰らった。
「うそ!」
士郎は凛の時間稼ぎに感謝した。投影完了、カリバーンを不可視のカタパルトに装填、射出準備。それは1stバーサーカー戦の折、アーチャーが撃った“カラドボルクⅡ”の再現だ。見聞きした不完全な情報を参考に射出行程を独自に組み上げた。つまりはオリジナル。基本をアーチャーによって刻まれた彼はそれが可能なのだ。己の中で何度かシミュレートもしていた。セイバー監督の下、射出直前まで実演した事もある。ただし問題が一つ。実際に撃ち出すのは初めてだ。それでも悠長な事は言っていられない。士郎は矢継ぎ早に行程を走らせた。―――目標補足(ターゲット・マーク)、射軸確保(ライン・クリア)、弾頭種“選定の剣(カリバーン)”―――
「射出(ガン・ブレイジイング)!」
撃ち出されたそれは一瞬で音速を超え黒い影を掠めた。発射時の反動想定が甘く、狙いが逸れたのだ。だが雷雲の如き魔力の奔流に晒されたそれは、驚いた様に身体を震わすと消えた。映画のフィルムが切れたかの様に消えた。静けさが戻っていた、そう気がついたのは何時の頃だろう。影など初めから無かったのだ、そう言わんばかりの静けさの中、最初に声を発したのは士郎だった。
「みんな無事か」
セイバーは頷くと凛を降ろした。凛は大丈夫だと手の平を向けつつ、影が立っていた場所に歩み寄ると、その場所のマナがこそぎ落とされている事実に気づく。
「何あれ」
凛に呟きに応える者は誰も居なかった。
◆◆◆
影が何なのか凛にも見当が付かない。心当たりも無い。分かっている事は得体の知れない何かが冬木市に存在している事のみだ。聖杯戦争に関わるモノなら良いが、そうでは無いなら冬木の管理者として見過ごせない。士郎は凛の進言を受けて冬木教会に赴く事にした。彼とて冬木に住まう者だ、異常は見過ごせないのである。
それは教会へ向かう坂を登る途中の事。妙に落ち着かない舞弥にセイバーがどうしたのかと話しかれば舞弥は「冬木教会の神父はあの言峰綺礼よ」と答えた。セイバーは「前回のマスターが今回の監督役? その男が教会に居るのですか? 」と驚きを隠さない。凛が「そ、おまけに元代行者。昔は相当な腕前だったらしいわ」と続けると、セイバーは「遠坂凛がなぜ知っているのです」と慎重な表情だ。凛は「兄弟子でもあるから」と素っ気なく答えた。どうでも良い事だと言わんばかりである。もちろんセイバーは「きな臭いですね」と警戒の色を隠さない。「きな臭いと言われれば、否定のしようが無いわ」と凛は肩を竦めた。
その会話を聞いて思案に暮れるのは士郎である。綺礼が切嗣と戦った事は舞弥から聞き及んでいたからだ。どのような立ち位置で顔を合わせるか、悩んだ上で相手次第だと腹を括った。舞弥の呟きはが独白するかの様だ。
「正直会うのは気が引けるわね」
綺礼に負わされた傷が疼く、知れずそっと手を添えた。アインツベルンの城でアイリスフィールと共に戦った記憶を思い出す。士郎は良く分からないという顔である。
「何でさ」
「私も戦った事があるの」
それは因縁と言う事だ。士郎は二人にこう告げた。
「舞弥さんとセイバーは外で待っててくれ」
「しかし、シロウ」
「二人も気分的に良くないだろ。俺も会わせたくない」
教会に到着すると、舞弥は凛と士郎を見送るのみである。
「士郎。言峰綺礼は切嗣と戦った相手よ、十分気をつけなさい」
「分かった」
凛と士郎が教会の扉を開ければ、立派な礼拝堂が待ち受けていた。想像以上の厳かな雰囲気に満たされていた。気にも止めず祭壇に向かう凛の後を士郎が追えば其処に綺礼が立っていた。まるで訪れるのを悟っていたかの様である……事実待ちわびていた。何故なら黒い影と真也に関わりがあるだろう事は、真也自身から聞き及んでいたからである。ランサー戦を経たならば士郎らが遭遇する事は予想できた。綺礼はランサー戦を視覚共有で見ていたのであるが、もちろん二人はその様な事を知るよしも無い。綺礼は士郎に一瞥を投げたが気にしなかった。彼は士郎より優れた娯楽を愉しんでいるからだ。綺礼は何時ものように尊大な調子で、だが何時も以上に機嫌良く、こう凛に問いかけた。
「この夜更けに騒がしいと思えばアーチャーのマスターとはな。それに加えて連れ人有りか」
「セイバーのマスターなのよ、彼」
「そうか」
「何よ、随分機嫌が良さそうじゃ無い。気味が悪いわね」
「私とて人の子だ。おかしくは無いだろう」
「どういう冗談よ、それ」
「母君は元気かね?」
「ええ、いつも通りよ」
「それは結構だ。それで用件を聞こうか。リタイアで保護を求めてきた訳ではあるまい」
「負けたわよ」
それは綺礼も初耳だったが眉一つ動かさない。真也はランサーに伝えたが、その時知覚共有をしていなかったのだ。
「そうか。それは残念な事だな。亡くなった師も早い脱落に残念がっているだろう。いや、無事で良かったと喜ぶかもしれん」
聖杯戦争は漸く中盤、セイバー、ランサー、バーサーカー、ライダー、とまだ4体も残っている。名門の参加者としては成績が悪い。綺礼は哀れみも悔やみも見せず、淡々としていた。凛にはそれがありがたかった。
「保護を求めにきた、と言う訳ではないなら用件はなんだ。手短にしてもらえると助かるのだがな」
「綺礼の嫌みを聞きに来たんじゃ無いの。気になってる事があるのよ」
「聖杯戦争に関してなら、特定の陣営に荷担は出来ない。どうしてもと言うなら見返りを要求するが」
「そんなこと知ってるっての」
凛が黒い影の事を手短に伝えれば、綺礼は眉一つ動かさない。もちろん彼女は訝しがった。
「目撃情報は初めてだが、その情報は既に得ている。目下調査中と言うところだ」
「綺礼が動いているって事は、そう言う事?」
「聖杯戦争に関わるかは今のところ断定が出来ないが、異端の存在であれば見過ごせないからな」
「被害は?」
「初期は生命力を吸われ昏睡する程度だったが、徐々に酷くなり今ではまるごと喰われている。先日は3世帯、14人一斉に喰われた」
「サーヴァントの仕業?」
「断定は出来んが、サーヴァントではないだろうと言う意見がある。霊体は物体への影響力を持たないという原則を考えれば自ずと導けよう。実体を持たない何かが生命を、この場合人間の事を指すが、それを喰うという事象を考えるとその原則と矛盾する。私も同意見だ」
「誰よ、綺礼に意見する酔狂な奴って」
「蒼月真也だが。凛が聞いていないのか?」
「……真也は信用できないわよ」
「さて。遺体の状況や、入手した現場の検分記録を見る限り、報告内容との齟齬は見当たらない。少なくとも“嘘は言っていない”と思うが」
己に言い聞かせる様な凛の姿を見て、綺礼は満足そうにこう続けた。
「命を喰らうサーヴァントは過去にも居たが残るサーヴァントは、セイバー、ランサー、ライダー、バーサーカーの4体。マスターが目の前に居る以上セイバーではなかろう。ランサーは3騎士の一人、その様な搦め手を使う英霊は召喚されない。強いて言えばライダーとバーサーカーだが、」
沈黙を守っていた士郎が初めて口を開いた。
「それは有り得ない」
「君はなんと言ったかな?」
綺礼は敢えて聞いた。
「衛宮士郎」
「では衛宮士郎。何故そう思う」
「姉さんはそんな事しない」
1stバーサーカー戦はランサーを通じ綺礼も知っていた。従って、イリヤと士郎が義姉弟と言う事も知っていた。イリヤが一方的に士郎を狙っていた事も。綺礼は思わせぶりな視線を士郎に投げた。つまり綺礼は、切嗣、アイリスフィール、イリヤスフィール、舞弥、セイバー、士郎の関係を知っていると言う事だ。愉しくて堪らない。
(衛宮士郎。お前がイリヤスフィールの遺恨を逃れた、この意味に気がついているのか? お前達は知らず。己の善(身内・仲間)を守る為にあの男を敵(悪)に仕立て上げようとしている。規模は違えど、これではまるで拝火教の悪魔だな)
綺礼は3回目の聖杯戦争でアインツベルンが召喚したサーヴァントがそれだった事を思い出した。そして。それが前回の聖杯戦争で生まれ掛けた事も思い出した。綺礼は続けた。
「確かにアインツベルンはその様な不完全な英霊は使役しまい。ではライダーだが」
「それもちがう。桜はいま遠坂の所に居る」
「なぜ、蒼月真也の妹が凛の家に居る」
「遠坂の実の妹だ」
士郎のその発言は兄弟子なら知っておくべき、という判断であった。
「ほう、あの蒼月桜があの遠坂桜だったとはな。なるほど、そう言う事か」
「いいでしょ、そんな事は」
余計な事をと、凛は不愉快さを隠さない。
「よくは無いだろう。師の令嬢である以上、私とて無関係ではない。彼女は覚えていないかもしれないが、幾度と会った事がある。昔の話だがな」
綺礼は桜の属性が架空元素・虚数と言う事を思い出した。時臣から聞いていたのである。それ故養子に出された。間桐の魔術が吸収と束縛だと言う事も思い出した。桜の髪と瞳の色は間桐の証だ。相当に過酷な魔術処理を施されたであろう事も察しが付いた。
つまりあの影は桜の生み出したモノ、その可能性がある。だが桜自身はその様な真似はしまい、一般人を襲う理由が無いのだ。また如何に素質はあろうと、訓練を受けていない以上その様な芸当は出来まい。では誰がしでかしている。影の出現タイミング、桜が遠坂に戻ったタイミング、桜が身を置いたマキリの聖杯への執着、臓硯の性質、聖杯の中身に居るモノ……それは仮定に過ぎないが、綺礼は愉快で堪らない。企みに値する価値は十二分にあった。凛は綺礼の笑みが気になった。今にも声を出して笑い転げる、それを必死に堪えている様に見えたからだ。
「であるならば、召喚されたサーヴァント以外の存在と言う事になる。それはそれで困ったものだが」
士郎が言う。
「真也が何処に居るか、アンタには心当たりはあるか?」
「知らないのか“お前たち”が。妹と共に居ないのであれば、もはや生きてはいまい。奴は妹の為だけに存在する者だからな。もし。共に居ない上で死んでいないのであれば、つまり妹の為だけの存在では無いならば自ずと知れよう。奴には闘争しか残っていまい」
「アインツベルンの城……」
綺礼と士郎の会話そっちのけで、凛はある疑念に囚われていた。全ては桜の為だけの行動だった、その筈だ。だが綺礼はそうではないという。桜の為だけの存在では無い、というならばそれは何を意味するのか。関係ない、今更だ、そう浮かんだ疑念をすりつぶした。答えを出す前に、考えるのを止めた。何故なら凛は当事者であり、綺礼は当事者では無い、その筈だから。何よりもう後戻りなど出来ないのである。凛の心中察する綺礼は笑みを浮かべた。士郎が言う。
「言峰神父だっけ? 一応礼は言っておく」
「構わんよ。聖杯戦争に関わらないのであれば、私とて冬木に身を置く者だ。住人を荒らす簒奪者は看過できん。だが急がねば成らんな。手を打つのが遅れるほど事態は悪化する。手遅れになっては目もあてられん」
「案外良い人だな、アンタ」
今度こそ綺礼は堪えきれず、小さく笑いを溢した。教会を出た士郎はセイバーと舞弥に合流し、交わした内容を伝えた。真也を追う、つまりアインツベルンの城に向かう事が決定した訳だ。兎にも角にも今晩は解散である。覚束ない足取りの凛に士郎はこう言った。
「俺らは明日姉さんの所に行く。真也が迫ってるなら行かないと……遠坂?」
「あ、うん、何でも無い。黒い影の為にここに来たのに、夜が明けたらバーサーカーの根城。展開が急だわ」
「真也は負傷している。今晩は流石に無理だろうけれど明日は分からない。俺らは明日の朝に出発するけれど、遠坂はどうする?」
「行くわよ。責任があるんだから」
「遠坂、その言葉忘れるなよ」
士郎らが立ち去り静まりかえった礼拝堂。サンタクロースのプレゼントを心待ちにする子供の様な綺礼に対しギルガメッシュは不愉快さを隠さない。
「綺礼、愉悦はここまでだ。小聖杯の破壊など見過ごせん」
「急ぐには当たるまい。あの男は小聖杯を殺せないだろうからな」
「ほう、その根拠は何だ。貴様、何を考えている」
「連中に伝えた通りだ、それができるなら一人ではいまい」
「雑種の考えなど読むにすら値せん。だが役者の格を考えれば我が動くにこれ以上の舞台はない。あれは我の物だ」
それは許可を求めているのではなく、宣言だ。
「構わん。好きにするといい、ギルガメッシュ」
「次の娯楽を見つけたと言う事か。ま、程々にしておけ。好物も喰らいすぎれば不愉快となろう」
ギルガメッシュが立ち去り、今度こそ静まりかえった礼拝堂で、佇む綺礼は予言者のよう。
「“此度の聖杯戦争は荒れる”そう言ったのはお前だったな。肉親に対し裏切りを働いた者が囚われるカイーナの環。その環は第九圏 裏切者の地獄“コキュートス(嘆きの川)”にある底も底だ。心するが良い英雄王、お前とてその環に引き擦り落とされるかもしれんぞ」
◆◆◆
刻を遡る事数刻前。ランサーは適当な場所でルーンを刻み真也の傷を塞ぐと、再び移動した。血痕を絶ち、追跡を封じる為だ。だが、困った事に真也の脇腹にある銃創が塞げない。無理に癒やしをかければ癒着してしまう。腹部に撃ち込まれた弾丸を摘出する魔術など、近代を過ぎないと存在しない。理由は簡単、神話の時代に銃など存在しないからだ。つまりランサーには癒やせない。
二人がやってきたのは廃屋の敷地内である。そこは人通りが相応にある道路と面しており、裏を掻くという意味で隠れるには打って付けだ。ただその結果一般人に発見されては意味が無い。真也はコンクリート製の塀によってもたらされる死角に潜む事にした。ランサーは真也をゆっくりと塀にも垂れかけさせた。さてどうする、ランサーは悩んだ。
「凛ってさ、桜の実の姉だったんだ。この間初めて知った。納得だ。揺れるはずだ」
「無駄口叩くな。体力を消耗する」
脇腹の穴も問題だが、血も足りない。真也が携帯する治癒薬は体力もそれなりに回復できるが弾丸を摘出しない以上使えない。加えてこの真冬に屋外、体力は消耗する一報だ。だが腹の銃創に、加え血だらけ、衣服は切り刻まれ見るに堪えない。ホテルは使えない、通報されるのが落ちだ。凛が追っている以上、家には戻れない。監視されてるとみるべきだ。ランサーは無駄だと思いつつこう聞いた。
「しけこめる女とかいねーのか?」
「いないよ、誰も居ない。止血だけして、明朝、明るくなったら弾を摘出。その後塞ごう。治癒薬があるから、出血と体力は何とかなるだろ」
「食い物とか包まれるモノを調達してくるわ」
「その前に、その辺の低い木を3本もってこい」
「何の呪いだそれは」
「風よけと、カモフラージュだ。小さい頃からよくやる手なんだよ」
真也の言う通り敷地内にある木を三つ抜いて、真也に被せるとランサーは消えた。塀の向こう側には人の往来がある。コンクリートの壁を一枚隔てたその暗がりに、血だらけの怪我人がいるとは思うまい。朽ちた門を通り、覗く酔狂な人間など居ないのだ。
(それにしても凛、容赦なかったな……)
容赦なく魔術を奮ったその姿を思い出すと、自然と笑みがこぼれた。
(そう、出会った頃はあんな感じだった。今のキツイ方が良いと思うのは何故だろう。俺が変えてしまったのか。それとも元々ああいう資質があったのか。戻れるなら、戻れた方が良い。魔術師ってのはそうじゃないと、何かと不便だ……)
凛に聞けばなんと答えるのか、知りたいとは思ったがその内考えるのを止めた。もはや意味が無いのである。意識が混濁し、無意識との間を漂っていると、ガサリという妙な音が聞こえた。彼には何の音か理解できなかった。だから。
「こんなところで何やってるのよ」
綾子が被せた枝木を手で避けて、彼を覗いていた事実がしばらく認識できなかった。山越に麓の村を覗くダイダラボッチに見えたのは彼だけの秘密だ。
「……どうしてこんな場所に居る」
「どうしてって、探してたから」
「馬鹿を言え、偶然で見つけられる場所じゃないぞ」
「……真也の匂いがした?」
綾子は既に懐かしさすら感じる、コルク色の穂群原(ほむらばら)学園服だった。端正なその顔が困惑に染まっていた。ライトブラウンの髪がさらりと揺れた。
「そんな説明で納得するか」
「その枝」
「枝がなんだ」
「昔やった隠れんぼ。木の枝を3本折って、隠れ蓑にする、それって真也がよくやった隠れ方。ほら、抜いた後が3つ有る。朽ちた門から丸見えだ」
それは幼い頃共有した記憶である。そんな馬鹿なと、真也は認めない。
「偶然、偶々、それを見たってのか」
「一度登校した桜がまた休んだ。衛宮も遠坂も休みっぱなし。“桜の見舞いに”アンタの家に行ったらもぬけの殻で。違和感を感じまくり。なんて言うか、そう悲壮感みたいな奴。桜と真也の何時も使う靴が無くて、リビングの片付け方も何時もと違う。その上見慣れない男物のスーツもあった、から」
リビングはキャスターが片付けた。スーツはランサーが置いていった物である。
「から?」
「妙な胸騒ぎを感じて。ずっと探してたのよ。真也の隠れそうな所を片っ端から全部」
話し方がおかしいのは、綾子自身接し方が分からないからだ。そう、彼女にとって振られて以来の再会となる。有り得ない、そう思った彼は後頭部を塀に打ち付けた。ふらつきながらも立ち上がった。
「綾子、今から大事な事言う。回れ右して家に帰れ。綾子は何も見なかった、全部忘れろ、いいな? 綾子には俺に関わる理由は既に無い、だろ?」
「……そうしてほしい?」
「そうして欲しい」
「そう」
少しだけ寂しそうな表情を浮かべ、立ち去ろうとした瞬間である。
「嬢ちゃんは真也の知り合いか。コイツ、怪我してるんだが匿ってくれねぇか?」
見知らぬ怪しい男の突然の登場に驚いたが、怪我という言葉に綾子は囚われた。真也は忌ま忌ましさを隠さない。
「ランサー、貴様……」
「安心しな、マスターは客人を迎える準備で一杯だ」
綺礼は今か今かと士郎らを待ち構えている、と言う意味だ。
「何よその怪我」
暗がりに目が慣れれば、真也が酷い有様だと気がついた。
「転んだ」
「もう少しまともな嘘をつけ」
「なら絆創膏くれれば良い」
「病院に行く怪我だと思うけれど」
「それは無理なんだな」
「なぜ?」
「警察沙汰は避けたいんだ」
中学時代、綾子がよく聞いた彼の台詞である。
「家に来て。手当てするから」
「なぜ」
「怪我人なら仕方ない」
「気にするな、そう言ったぞ」
「気にしない関係なら警察に通報するよ。もしくは今ここで大声を出しても良い」
「……」
ぐうの音も出ない真也だった。
◆◆◆
幸いな事に美綴の家は無人だった。母親はパート、弟は遊びに新都へ行っている。手当をする、と半ば意地で真也を家に招き入れたは良いものの、判断を間違えたのでは無いのか、そう憂慮する綾子であった。そこは美綴邸の浴室である。狭くも無いが広くも無いユニットバスだ。浴室を暖める為、熱めのシャワーは出しっ放し。湯気が籠もる。白色のその浴室は、血の色に染まっていた。
床に敷いたバスルーム用のマットレス、その上に真也は全裸で仰向けだ。目のやり場に困るので腰にはタオルを掛けてある。綾子にとって彼の裸は初めてでは無い。小さい頃から何度も見た事があり、最期に見たのは中2だった事を思い出した。当時の真也は全く動じなかった。綾子が動揺を忘れるほど、桜が大騒ぎした事を思い出した。だがそれは問題では無い。重要な事は、その彼の脇腹に穴が開いて、血が漏れ出している事だ。彼女はこれから腹にある異物の摘出をしなくてはならないのだ。
(私を振った男が私の家の浴室で、全裸で、脇腹に穴が開いていて、血だらけで、何なのこの状況……)
「んじゃ、嬢ちゃん。始めるぜ。用意は良いかよ?」
「え、あ、はい」
ランサーが槍で真也の腹を切り、加熱消毒した鉄の菜箸で綾子が取り出すという算段だ。
「真也、麻酔無しだが良いな」
「やってくれ」
「……いいの?」
「麻酔を使うといざという時動けない」
いざとは何だ、そう疑問に思ったが聞くのを止めた。どうせ碌でもない事に違いない。真也は綾子が用意したタオルを噛んだ。ランサーはゲイボルクを顕現させた。これは悪夢か現実か、綾子には訳が分からない。そもそもこの青タイツの男は誰だ。彼女の心中露知らず、ランサーは精密機械の様な動きで真也の脇腹に穂先を突き立てた。
「……っ」
真也の顔が苦痛に歪む。その槍の鋭利な刃は一分の乱れなく、無駄無く、腹を切開した。血があふれ出す。綾子は念入りに消毒した指で傷口を開くと、そこにあるのは初めて見る人体の内部である。余りの生々しさに吐き気を催した。箸を持った手が震えた。手元が狂い、箸先が腹の内部を突くと、痛みで真也がうめき声を上げた。
(そ、卒倒しそう……)
だが今は駄目だ、取り出してから卒倒しよう、彼女はそう腹を括った。唇を強く噛んだ、泣き出さない為である。だが瞳からはボロボロと涙があふれ出した。綾子が何度か腹の中を箸で突き、真也が何度かうめき声を上げた後、彼女はそれを摘まみだした。鉛を銅合金でコーティングした金属の塊が、箸から抜けて浴室に落ちた。甲高い落下音を立てると、それはコロコロと転がっていった。瞳から採光を消し、綾子はそのまま失神した。ランサーが彼女を支えると、ルーン文字を真也に刻み、傷口を塞いだ。ランサーが真也に言う。
「……どうすんだ、この状況」
「俺が部屋に連れて行く。ランサーはこの部屋の血を念入りに流してくれ」
「この嬢ちゃん、半裸だな」
綾子は下着姿にバスタオルを捲いていた。ランサーはにやけ顔だ。
「茶化すな。お前にやらせる訳にはいかないだろ。流石に」
「俺の女に触るなってか」
「ハタくぞ」
真也は気怠さを堪えながら全身の汚れと血を洗い流すと、身体を拭き、スウェットに袖を通した。それは綾子が持ってきた、彼女の弟である実典の物だ。彼は綾子を抱きかかえると、そのまま2階に上がっていった。
綾子は自室のベッドの上に寝かされている事に気がついた。オイスターホワイト色を基調とし、若葉色のカーテンでアクセントを付けた自室だ。寒々しいか、清潔感があるか、どう評価するかは人によるだろう。弟には女の部屋ではない指摘された部屋であり、真也にはシンプルで良いと評価をされた部屋だ。彼女がむくりと起き上がると、部屋の隅に真也が座っていた。胡座を組み壁にもたれ掛かり、じっとしている。瞑想しているようにも見えたが、意識がある事は直感で分かった。沈黙が訪れた。何を話して良いのか分からない。話しかけたのは綾子が先だった。
「あのさ、」
「ごめん」
「……なによ、突然」
「迷惑を掛けた事、助けて貰った事、そして、」
彼の指し示す指の先、それは部屋の隅だ。透明なビニール袋があり、それには綾子が付けていた下着が入っていた。ふと己の姿を見れば、Tシャツ一枚である。恐る恐る、襟首に指を差し入れ中を覗けば案の上だ。怒りが沸いてきた。
「真也。濡れてたわよね、私の身体」
「はい。拭かせて頂きました」
「風邪引くものね、ベッドも濡れるし。仕方ない」
「仰る通りでございます」
「ま、下手に下着に手を付けず、Tシャツ一枚で済ませたのは褒めてやる」
「お褒めにあずかりまして光栄です」
綾子は怒り笑いの様相で、人差し指をクイクイと動かした。その指はさっさと来いと言っていた。彼は不可抗力だとは思いつつ、立ち上がり頬差し出した。例えるなら不承不承、苦虫を噛み潰した様な顔だ。綾子は怒りと羞恥で頬を染め、涙を浮かべ、振りかぶった。その直後。その部屋にとても良い音が響いたという。
◆◆◆
スウェットに着替えた綾子は自分の机に向かい、摘出した金属の塊をコロコロと指で弄んでいた。頬杖を突く。彼女にはそれに関する知識は無かったが、想像は容易い。ふと見れば腐れ縁の少年は部屋の中央でおにぎりを頬張っていた。それは彼女が拵えた物だ。他には卵焼きと、豚汁もあった。彼女は非難めいた目である。
「何これ」
「おばさんにバレてないか? さっきパートから帰ってきただろ」
「靴は隠したけれど、多分バレてる。何これ」
「俵おむすびって変わってないな。桜は三角だし」
「早々変わらないって。何これ」
「卵焼きは味が変わった?」
「卵焼きじゃ無くて、だし巻き。何これ」
「えーと、」
「いい加減吐け。これ弾でしょ?」
彼はごちそうさまと一言述べて箸を置いた。
「聞かないでくれ。綾子を巻き込みたくない。図々しいのは百も承知してる。直ぐ出てくよ。忘れてくれればそれで済む話だから」
「……」
彼女は机に突っ伏した。頭も抱えた。関わるべきではない、深入りしてはだめだ、どう考えてもまともでは無い。この腐れ縁は、昔から法律に触れる際の事をしてきたが、今回は極めつけだ。幽霊の様に文字通り消える、だが実体を持つ槍を持った男。切り刻まれた衣服に、銃創。直ぐに追い出す、もしくは警察に通報だ。悩んだ。悩みに悩んだ。出した回答は理屈では無かった。
「終わった、私の人生終わった。正真正銘ロクデナシに台無しにされた……」
「過去形にするにはまだ早いぞ」
「確定ってことよ」
彼女はおもむろに立ち上がると、真也に歩み寄る。振りかぶると拳を打ち下ろした。それは綺麗に彼の左頬を打ち貫いた。真也は避けもせず、堪えもせず、為すがまま。大の字でごろりと寝転がる。
「……怪我人だぞ」
「うるさい! この最低男! せめて一発殴らせろ!」
綾子は跨がると左右の拳で殴り始めた。
「一発じゃ無い」
「一発で足りる訳無いだろ!」
「女の子はせめて平手打ちにするべき。グーパンはやめれ」
「だまれ! この女の敵!」
右、左、右、左。それは拳、否、想いの応酬である。彼女のその手が赤く腫れてきた頃、嗚咽を漏らし始めた。ぽつりぽつりと涙が、真也の頬に落ちた。
「何やってるのよ、アンタ。振られてたくさん泣いて漸く落ち着いてたのに、また現れて。見捨てるにも怪我してるし、撃たれて、たくさん血を流して、放っておける訳無いじゃ無い……」
臆面無く泣きじゃくる幼なじみに、彼はただ済まないと謝るのみである。彼を見据えるその表情には未だ涙を湛えていたが、何時もの調子が戻り始めていた。
「そう、自覚あるのね。私を利用してるって自覚が」
「もういいのか」
「罪を自覚してる奴を殴ったら、そんなの自己満足。違う、子供の喧嘩だ。話せ。許してやるから事情を全部話せ。話さないなら死んでやる」
「滅多な事を言うな」
彼女は立ち上がり、机の引き出しからカッターナイフを取り出すと、躊躇いもなくその手首を切りつけた。血があふれ出す。真也は目を剥きつつもこう叫んだ。
「ランサー!」
◆◆◆
真也の綾子象は唐竹を割った様な性格、その筈だった。ところが桜に負けず劣らずの深みを持っていた。真也はただ驚くのみである。追い詰められた彼は渋々話しだした。凛も桜も士郎も魔術師である事、聖杯戦争の事、桜と凛が姉妹である事、怒らせて取り上げられた事、狙われている事、寿命の事、全てである。彼女には神秘を見られている、ランサーであり、手首の傷を塞いだルーン魔術もそうだ。だから敢えて全て話した。嘘だと怒り出すなら好都合。だが10年顔を合わせた少女は戸惑いつつも、真也の顔を見るのみである。疑っていない事は明白だ、ただ突飛な真実をどのように受け入れるか、困惑していた。
「あのさ。俺が言うのもアレだけど、荒唐無稽と思わないのか」
「唇を強くつぐむ、ほんの少し唇を舐める、右肩を僅かに上げる、首を右に少し傾げる」
「なんだそれは」
「真也が嘘をつく時は大体これをやる。少なくともアンタは嘘をついてない」
彼が出来る事は項垂れ、ただ謝る事のみである。その行為はこの期に及んでまだ信頼していない証だったからだ。
「……ごめんなさい」
「ふんっ」
ランサーは翌朝、落ち合う場所を真也に伝えどこかに消えた。もちろん綺礼に知られない為だ。もちろん、気を利かした。その部屋の灯りが消えたころ時計を見れば夜の10時だ。これほど早く床につくのは彼にとっては久しぶりだった。彼女は仰向けで天井をぼうと見ている。彼は背を向けていた。その距離は拳一つ分ほどだ。彼女はパジャマを摘まみこれ見よがしに意識させた。
「触ってみる?」
「触らない」
「あ、でも。ただじゃ駄目ね。愛してるって言った触らせてもいい」
「出来ない」
「アンタね……嘘でも言いなさいよ」
「そこまで恥知らずじゃない、つもりだ。それに。もう嘘は懲りた」
呼吸の音だけが聞こえる。とても静かだった。
「前に来たの何時だったか覚えてる?」
「最後に来たのは小6の時だ」
「帰るところを同級生に見られてからかわれて、真也は気にしなかった。私だけが意識してた」
「そう。俺は気にしなかった、気にも止めなかった。ただその後桜に告げ口されてとても難儀した」
「はは、そりゃ大変だったろ」
「思い出したくない」
呼吸の動きすら感じられる距離だ。
「桜が運動会でハードルで転んで、泣いて、真也がそれをバットで壊した」
「良く覚えてるな」
「止めた私も巻き添えで怒られたから。先生に拳骨喰らった真也は、のほほんとして、私だけ必死に謝ってた」
「俺だって謝ったさ」
「一言だけだったろ」
綾子は寝返りを打つと、彼に背を向けた。
「秘密基地を作った事もあった。放棄されてたバスを改造してベッドを作って、そのまま寝てしまって、気がついたら朝だった。散々怒られた」
「小6だ。傷物にされたと勘違いした親父さんにボコボコにされた」
「早合点したと、あの後お母さんにボコられたんだけどね。知ってた? アレ、謝りに来た千歳さんにお父さんが見惚れてた事も一因だ」
「見た目は良いからな、お袋」
「千歳さんが真也に対し一歩引いてるのはどうしてよ。桜は普通なのに」
「俺も知らない」
二人は背を向け合っていた。
「なんで遠坂と別れたのよ。私が言うのも何だけれど、あれだけの優良物件無いよ」
「俺は凛を傷つけてしまうから」
「なによその理由。その程度で諦められる好きだった訳?」
「精神的な話じゃない。物理的な意味だ。あの時の俺は、凜を殺してしまいかねなかった。だから別れた。ま、今となってはどうでもいい話だ。でも綾子は、遠坂じゃ無いから。だから綾子には応えられない」
「知ってたわよそんな事。今日殺されるかもって毎日思ってた」
「……なんで?」
真也は思わず振り返りたくなる衝動を抑えた。ただ突飛な発言に身体が緊縮した。
「桜の為なら死んでも良いって奴が、他人の命を気遣う?」
「なんで?」
「私が半端な気持ちでアンタの面倒見てたとでも思ってた訳?」
「いや、それおかしいだろ」
流石に聞き流せず、彼は身を起こした。その少女は背を向けたままだ。今更聞くなと不愉快さを隠さない。
「そうよ。真也に選んだって言われた時、それを受け入れた時からもうおかしいのよ私は」
「桜も重い娘だったけど綾子もそうだったのか。もっとさっぱりしてると思ってた」
「気がつかないのはアンタだけよ」
それ程の事を同い年の少女にしてきたのかと、彼は項垂れるしかない。ベッドの上で胡座を組んだ。ギシリとマットレスが音を立てる。
「桜って養子だったんだ。凛の実の妹だよ、先日初めて知った」
「桜じゃない桜と同じ匂いのする女の子、か。シスコンには刺激が強いわ」
「全くだな」
「……ひょっとして未練がある訳? ここまで嫌われて」
「未練ていうか、なんというか。向こうが嫌ってるだけで、俺は嫌ってないし」
「……それ失礼すぎじゃない?」
「何が」
「アンタね、今の状況分かってる?」
「女の子の部屋で寝てます。夜です」
「母親の暗黙の同意まで取り付けて、ここまでお膳立てされて、他の娘を第一に考える訳?」
「……変だよな、やっぱり」
起き上がった綾子の表情は、さも不愉快だと言わんばかりだ。唇を尖らせ拗ねている。
「あったまきた。ほら、もういいから。エッチしよ。怒らないから」
「無理です、やめれ」
綾子がおもむろに脱ぎ出せば、ボトムのインナーのみである。カーテンから漏れ入る夜の灯火、闇夜に浮かび上がるその肢体は、幻想さを感じさせた。彼女は寄せてあげて、もみ上げた。嬉し恥ずかしの体である。
「どう? カップサイズは桜には及ばないけれど、遠坂よりはあるのよ? 責任とれとか言わないから、ほら。触ってみ」
残念ながら彼は動揺すら見せなかった。腕を組んでふてぶてしい面構えである。
「良いか、綾子。俺が善人になったと思ってるなら大間違いだぞ。何も変わってない。桜だけだった俺に凛が追加されただけだ。余り挑発すると酷い目にあう。必要だって判断すれば、孕まして捨てることだって出来るんだ」
「俺はワルだぜ、だなんてガキか」
「ワルって言い方随分古いな」
「粋がる前に、嘘をつく時の癖なおしな」
「善処する、だから服を着ろ」
「アンタそれでも男?! 乙女がここまでしてるのに!」
「これでも義理を立ててるんだよ。あと声が大きい」
「二人に?」
「綾子にもだ。出なきゃこれだけしんどくない」
「しんどいんだ」
「だから、寝て良いか? 少しだけ」
「いいよ。わたしができるのはそれ位だ」
「ばか言え、とても嬉しかったさ」
真也が寝息を立てた頃、これ位は許されるべきだと、綾子は寄り添った。
◆◆◆
カーテンの隙間から見える空は未だ暗い。陽が昇るまでまだ数刻必要な冬の朝。その少女は気配に目覚めた。薄目に映る馴染みの少年の姿は、彼女が初めて見る顔をしていた。直感でこの少年が何をするのか悟った。
「何をする積もりか知らないけれど、真也、アンタ、生きてかえってくるのよね? 」
SWAT風の礼装を装備し終えると、その少年は何も言わず霊刀を手に取った。
「私の本心を言うよ。ここに居て。匿ってあげるから」
「すまん。それはダメだ。その願いは聞けない 」
「どうしてよ。残り短いならゆっくりすれば良いじゃない。10年間桜の為だけに生きてきて、遠坂の為に辛い目に遭ってる。まだ辛い目に遭うつもり?」
「凛だけじゃない。もう俺は引き返せないから。それに、ただ待つのは趣味じゃ無い」
綾子は身を起こした。
「嘘だね。真也は、遠坂を辛い目に遭わせたから、必要以上に罰を受けないといけない、そう考えてる。真也の筋書きはこうだ。全部倒して真也が残る。その上で聖杯を手に入れない。桜も願いがない以上、それが可能。聖杯は誰も手に入れなかった。遠坂の敗北も意味が無い。なぜなら勝者が居ないから。その後、ランサーさんのマスターも倒して、誰にも真相を語らず、悪人のまま死ぬ、どう?」
真也は身体を止めた。それは図星だ。
「なぜ」
「遠坂が桜だったら、って考えれば簡単さ」
「幼なじみがこれほど厄介だとは思わなかったな」
「聞きな。いい? すれ違って肩がぶつかった、人を跳ねた、この二つが罰が同じだと思う? おかしいわよ。殺され掛かってまでなんで? 昔から一緒だった桜はともかく、遠坂はつい先日でしょ? 洗脳されたって自分の命の危険が迫れば考えを変える、少なくともとっさには。親だって子に殺され掛かれば、反射的に自分の命を守る。生き物なら当然の行動。惚れた弱みって言うけれど、自分が原因だとしても、常軌を逸してる。けど真也は狂ってない。狂った奴ってのは求める為にその良識、常識、タガが外れた連中の事を言うから。真也が狂ってるなら、遠坂を殺してでも自分の者にするね。にも関わらず、それを受け入れ耐えている。真也にとって遠坂の血ってなに? お姫様に仕える騎士だって、もう少しまともさ」
「なんでだろうな。自分でも良く分からない」
綾子は深々と溜息を付いた。腕を組んで、やっていられないと言わんばかりだ。
「分かってはいたけれど、ここまで頑固、意固地だとは思わなかった。あーもう。真也の精神構造、人間業じゃない。手に負えないってこの事だわ」
「俺も呆れてる」
一つ深呼吸。彼女は決意を伝える事にした。
「10年付き合った奴に“迷われる”と寝覚めが悪い。遠坂姉妹は引き受けた。アンタが二人にこだわってるように、私も真也にこだわってる。なにがあっても私は真也の味方で居てやる。これだけは忘れるな」
「さっぱりした性格でいてくれたなら楽なのに」
「真也の躊躇いになれたなら本望だ」
「俺にとって綾子に会えた事は幸運だったんだな、ありがとう」
「もし、無事に戻れたらさっきの続きをしよ。私に溺れさせてやる」
「戻れたらな」
叶う事など無い、だがせめてもの気遣いを彼は口にした。そう言うとその少年はその部屋の窓から姿を消した。音も無く、気配すら立てず、消えた。初めからその部屋に居なかった、そう言わんばかりだ。無音の室内。彼女は黙ってクローゼットからロングコートを取り出した。それはキャスター戦の時、真也が綾子に羽織らせた物である。節々が裂け、破れている。血痕も残っていた。あの真也が怪我を負う程である、相応の修羅場だった事は想像に難くない。つまり助けられた。流石の綾子もこの事実がなければ、彼を見捨てただろう。
「最期まで桜の為だけだったら良かったのに。ほんと嫌な奴」
何も求めない。せめて帰って欲しいと願いを込め、彼女はそれを強く抱きしめた。
◆◆◆
未だ薄暗い冬木市の住宅街。雀たちが囀るにも今しばらく時間が掛かる、そんな頃。冬木大橋へと続く十字路で槍兵と落ち合うと、彼は立ち止まる事無く歩き続けた。
「急ぐぞ、ランサー。士郎たちが追ってくるかもしれない」
「あの嬢ちゃん、えらいカッカしてたが、お前何をした。孕まして捨てたか」
「するか。10年越しの娘に告られて断っただけ」
「……あー」
純粋、一途という意味である。
「あーってなんだ」
「いい女じゃねえか。もったいねえ」
「俺がマトモだったなら、そう思うんだろうな」
遠坂の血だけに反応するという意味である。ランサーはその良い訳がましい態度が気に入らなかった。
「女を泣かせてる自覚があるなら直せ。俺には気に入らない奴が三ついる。戦に手を抜く奴、女を大事にしない奴、そして臆病者だ。真也、お前は全部だ」
封印と、凛から離れた事と、綾子一人すら背負えない、と言う意味だ。
「気に入らないなら、降りてもいい」
「仕事は仕事だ」
ほんの少しだけ、その身体は軽かった。
つづく!