真也と別れた日から桜はずっと伏せっていた。もちろん伏せるだけではなく、眠る時間が多くなり、更にはそれが加速度的に悪化していった。つまりは衰弱である。大聖杯の中に居るそれから伝わる呪いの影響もあったが、兄に掴んだ手を振り払われた、置いていかれた、二度と会えない、それによって生じた心理的衝撃が彼女にとって相応の物だった、と言うことだ。
桜は葵に対し姉に対し。要望も言わない、不平も言わない。幾度となく問いかけても、その口が心を告げる事はなかった。食事にも手を付けず、ライダーに頼んで漸く少量の流動食を食べる程度である。血色が悪い、毛髪と肌に張りがない、頬も痩け始めていた。肺活量の低下、呼吸も浅く、狭い。今ではベッドの上で身を起こす事すら難しい。今の状況を、つまり遠坂に戻った事を拒絶する事は彼女の出来うる最大の抵抗だった。
桜の傍らで腰掛けるのは葵である。ベッドに横たえる娘の手を握る彼女はただ憂いを湛えていた。幾度となく話しかけても、その娘は悲壮な笑みを浮かべるだけだ。一歩引いている、心を開いていない事は明白である。だが葵はその理由にとんと見当が付かない。
「せっかく帰って来られたのに……」
凛は一日に一回、顔だけ見ると立ち去るのみである。二人は言葉を交わさず、視線すら合わせない。何故だ、もう会えないと諦めていた家族が戻ったというのに、この家には悲壮感しかない。何かが欠けている。とても大事な何かが。目を瞑り寝ている娘の手は、冷たく、細い。
ノックの音が二回響いた。扉が開けば現れたのはライダーである。 彼女はトレーを持ち、手ぬぐいと、桶を持ってきた。それには僅かに熱めの湯が入っていた。彼女は長い髪をうなじで結い上げると、葵に構う事なく毛布を捲り、桜の身体を拭き始めた。葵に許可を取る必要すら無いと語っていた。黙々と淡々と見える騎兵の手は、最大限の配慮と気遣いが籠められていた。それを認めた葵は胸のつかえを吐き出す事にした。桜という共通の、大切な存在を持っている以上、仲違いする必要が無い、彼女はそう思ったからである。
「ライダーさん。私たちは何かを間違っているのでしょうか」
ライダーは手を止めずに桜の世話をしている。話しかけるなと言わんばかりだ。だが葵とて退けないのである。
「何か知っているのであれば、教えて頂けないでしょうか。ライダーさんが私たちの事をよく思っていない事は承知しています。まだ短い間ですが、お伺いするところ、ライダーさんの桜に対する想いは疑っていません。ですが私もこの子の親です。想いで劣るつもりはありません」
ライダーは手ぬぐいを湯につけると、それに浸し絞った。その絞り方は少々過剰で、葵にはそれが苛立ちだと理解した。
「遠坂葵。貴方は優しい人物です。ですが、無垢すぎます。自分には関係ないところの悲劇を見て悲しんでいる。今風に語ればテレビに映る飢餓を哀れむようです。己は安全な所に立ち、さも悲哀を共有している様な態度、悲嘆に暮れている態度、その性質殺意すら沸きます」
ライダーは葵に目もくれない。ただ桜の世話をしていた。葵は毅然と立つと、強い口調でこう問い返した。
「それは、どのような意味でしょうか」
その言葉は聞き流せない、そう語っていた。子を思う気持ちを侮辱されたからだ。
「私にそれを語る事は許されていません。真実を知りたいならばご当主に聞くと良いでしょう」
ライダーのその物言いは“何かがある”と言っている様なものだ。葵は桜の額に手を添えると、一言「失礼します」と言い立ち去った。
◆◆◆
「あまり虐めないでね」
「目が覚めましたかサクラ」
「頭の上で喧嘩されてまで寝ていられる程無神経じゃないの」
桜のその声は掠れ弱々しい。瞼すら開いていなかった。数日前世話をするしないで兄と言い争った人物とはとても思えない。ライダーは主に悟られぬ様、憂慮の相をとった。桜がうっすら開けた瞳には、窓越しに見える晴れた空が映っていた。
「今何時?」
「昼を少し回った頃です。ゼリー飲料を入手してきました。これなら食べやすいですし、喉も通りやすいでしょう」
「どうやって買ってきたの?」
「それは秘密です」
「そんな事したらいけないんだからね」
「お金は置いておきましたから」
「お金って、どこから?」
「遠坂凛の財布からです」
桜はくすりと笑った。桜はライダーの濡れタオルに成されるがままである。
「兄さんはどうしてるかな」
「家には居ないようです」
「行ったの?」
「昨夜、覗いてきました」
本音を言えばもっと早く行きたかったのだが、桜が心配で動けなかったのだ。当初、凛が桜に何かしでかす、そう考えていたからである。少し時間が経ち、その可能性は低そうだとライダーは判断した。凛は桜を見ておらず見ている者は真也のみである。これも彼女の判断を後押しした。
今時点ライダーも頭が冷えていた。凛のあの怒り様は過剰ではないか、虚偽の告白以外に要因があるのでは無いか、と考えた。だがライダーから見れば兄妹を引き裂いた事には変わりない。真也の時間は刻々と迫っているのである。どうにかせねば、と思うが何の案も浮かばない。“サクラ、シンヤと共に逃げませんか?”と幾度となく繰り返し進言したが、“それはダメ。兄さんとお母さん(千歳)が犯罪者になっちゃう”と首を縦に振らないのである。
「また独断行動をしているに違いありません」
「うん。兄さん、行動力あるから」
「また一人でしょう」
「そうだね。兄さんは一人で何でも出来ちゃう人だから」
「ずっとああなのですか?」
「そう。兄さんの役に立ちたい、とはずっと思ってきたの。でも兄さんは私よりずっと頭も良いし、強いし、行動力があるから。無理に付いていくと足手まといにしかならないし」
“姉さんなら、役に立つんだろうな”彼女はその考えを掻き消した。認める訳には行かないのである。
「私はずっと待ってるだけだった。ライダーは良いよね、一緒に戦えるんだから」
「戦いとは剣を持つ事のみではありません」
「それは分ってる。けれど、危ない時に傍らに居られるのってとても幸せだと思うよ」
「シンヤも戦い以外の生業を持っていれば、良いのでしょうね。パン屋とかどうでしょうか」
「兄さんは料理は苦手だから」
「シンヤは器用です。その気になれば容易でしょう」
「それはそれで困るかな。兄さんが料理できる様になると私のできることが減っちゃう」
ふと、ライダーは思った。凛と桜を失った真也はいま何をしている? 何が残った? はたと気づけば蒼月邸に置いてあった、あの男物のスーツは一体何だ。真也の物かと気にも止めなかったが考えてみれば妙である。スーツを取り出しリビングに放置する理由が分らない。着替えるなら自室だろう。そもそも真也には少々大きい様に思えた。どこかの誰か、が訪れかが脱いでおいていった、そう考える方が自然だ。
それは一体誰だ。何故真也に接触した。真也に接触し、利益を得る者。今の状況に利益を生じる者。今の状況とは真也の孤立を指し示す。一般人なら良い、一般的な魔術師なら良い、真也はサーヴァントと張り合う程の存在である。それは彼の最大の特徴だからだ。その真也を孤立させた、それが持つ意味は何だ。
凛はアーチャーを失った。残りのサーヴァントはセイバー、バーサーカー、ランサー、そして彼女。ライダー自身に願いはない。勝利にも執着しない。それはセイバー陣営も知る事実だ。この兄妹が無事になるなら今すぐ消えても構わない。誰かが彼を孤立させ、他の誰かの意向に関わる事無く、意図通りに操り戦わせようとしている……ライダーはそう考えた。“シンヤは戦っているかも知れない”ライダーはそうは言わなかったが、深刻めいた己のサーヴァントの姿を見た桜はそれを察した。
「ライダー、兄さんを助けてあげて」
「私を行使することはサクラに負担を掛ける事になります。控えた方が賢明でしょう」
「最近変なんだ私。時間感覚がバラバラで、朝起きたと思ったら、いつの間にか夕方で、これから寝るんだと思えば、もう昼だったり。一日の長さも日によって、あっという間に終わったり、延々に続きそうだったり。ライダーと昨日話した事と一昨日話した事と、順序が判らなかったり」
「それはいつからですか?」
「兄さんに置いていかれちゃった日から。怖い夢も続いてるの。人を襲う夢、人を殺しちゃう夢。その夢の中では私は何時も血に濡れていて、それが愉しいって思ってる。この間は先輩たちとても怖い顔で私を見てた。私を殺そうと襲ってきた。ああ、私はきっと悪者なんだなって。仕方が無いかな、って。みんなから沢山の物を奪って笑っているから。ライダーは私が前に居た家の事を知ってるよね? 何をされたのかも」
「……はい」
「夢だけじゃない。間桐の家に居た頃の事をよく思い出すの。暗くて、痛くて、苦しくて。助けてって、ずっとずっと叫んだのに、赦してって何度も謝ったのに、あの人(臓硯)はずっと笑っていた。違うかな、私のなれの果てを楽しみにしていた。兄さんが居なくなった途端思い出すなんて、わたしって本当に弱いんだなって。会えないと思っただけで、こう成っちゃうの」
ライダーはそっと毛布を掛けた。
「もし兄さんが死んでしまったら、私はそんな怖い夢しか見なくなって、何時しかそれだけになって、今の私が消えて、夢の私が現実になる。私はきっと兄さんに嫌われちゃう。そんなのはいや」
「シンヤはサクラを嫌いなどしません。万が一そうなったらシンヤは蘇ってでもサクラの味方になるでしょう」
「それは嬉しいかな。でもだめ。そうなった私たちはお母さんに殺されちゃうから」
「……チトセの事ですか? シンヤを倒せる程の腕前なのですか?」
「兄さんが手も足も出ないほど強いの。多分バーサーカーより強いかな。お母さんはあの人の様に、どうしようも成らなくなった人間を殺す仕事をしてるから、もし私たちがそうなったら、お母さんはどんなに嫌でもそうせざるを得ない。家族同士で争うなんて、殺し合うなんて、そんなのしたくない。させたくない。だからお願いライダー。私たちの為に兄さんを守って」
“共に死ぬならそれはそれで幸せだ”桜はその思いを飲み込んだ。意を決したライダーは立ち上がる。
「サクラがそう言うのであれば。何かあれば令呪を使って呼んで下さい」
◆◆◆
日付が変わり、未だ陽も昇らない冬の朝である。薄暗い遠坂邸のロビーに続く階段を降りるのは凛であった。足下など見えないが17年歩いた家なので目を瞑っていても足を踏み外す事はない。赤いタートルネックのシャツに黒のミニスカート、黒のニーソックス。その上にやはり赤のハーフコートと、ゴールデンイエローのマフラーを首に巻いていた。その朝は士郎らと共にアインツベルンの城へ向かう日だ。彼女がこれ程早く起きる事は滅多にない。正直なところ眠気は残っている上、身体も頭も半分寝ている。幸いな事に衛宮邸には自家用車がある。車内で僅かばかり寝られるだろう。
階段を降りきったところで、待ち構えていたのは葵だった。寝間着の上にショールを羽織っていた。千草色の、丈の長いワンピースは彼女の何時もの姿である。何故待ち構えている事が出来たのか、そう考えた。そういえば早朝に出発すると昨夜伝えた事を思い出した。何用か、そう葵の前に立てば、何故だろう、穏やかな母の割には何時になく鋭い眼差しだった。面倒事だと凛は直感で悟った。きっと桜の事に違いない。
「忙しいの、帰ってから聞くわ」
「凛。貴女、真也さんになんて言ったの? 」
凛の足がピタリと止まった。真也の事だとは夢にも思わなかったのだ。
「だから、帰ってからにして」
「こんな早朝から出かけるなんて、大事なことなのよね? だから今引き留めたの。凛はいったい何をしたの?」
「別に。お互いの立場に基づき、ただ理性的に要求を示しただけ」
「その要求って何?」
「何が言いたいのよ」
「桜が帰ってからずっと引っ掛かってる事があるの。真也さんとのこと、あれ程大事にしてたのに、そんなに冷たくなるなんて。手のひら返し。そう、ひっくり返ったみたい」
「当然でしょ? 理由は話したわよね?」
「ええ、聞いた。良心と呵責の無い人。人を傷つけることに罪悪を感じない人。10年前、間桐臓硯さんを殺して、桜を攫った人の子供。でもどうして、そんな人に桜があそこまで懐くのか、私はそれが判らない」
「桜は臓硯殺害を知らなかった、だからでしょ。何食わぬ顔で育てて長い間暮らせば、例え犯罪者相手でも情は沸くもの。よく聞く話じゃない」
「子供を攫う事件をインターネットで調べてみたの。強制労働だったり、いかがわしい事を強いたり、臓器目的とか、」
嫌悪で、柔らかな表情が歪んだ。口に出すのもおぞましい、と言う意味である。
「人身売買という意味で、養子という事もあるのよ」
「それなら尚更おかしいわ。ならどうして10年も育てるのよ。子が欲しい家庭なら、幼い頃から一緒に居たい、そう思うはず。凛、貴女は何か隠しているわね?」
凛は背を向けたまま歩きだした。
「もう行くわ。待ち合わせをしてるから」
この時葵はしばらく違和感として感じていた矛盾を理解した。
「凛と話していて気づいたのだけれど、 欺されたというのは本当なの?」
凛の足が再び止まる。背は向けたままだ。
「何よそれ。赤の他人を信じて、娘を疑う訳?」
「嘘をついて告白した、その懺悔が嘘なら、真実は何?」
「なによそれ」
「真也さんから聞いたの」
「いつ?!」
溜らず振り返れば、咎めの表情を向ける母がそこに居た。
「真也さんがお寝坊したときよ」
「な、なによそれ。私には言わず、母さんには話したって事?!」
溜らず怒りがこみ上げる。
「言いなさい、凛」
「話す理由なんてない。プライベートな話だわ」
「それほど深刻に考えていては説得力ないわよ」
「なんの説得力よ」
「やっぱり気づいていなかったのね。凛、貴女は魔術師であろうと無理をしている」
「馬鹿な事を言わないで、私は魔術師なんだから」
「嘘を仰い。つい先日までとは大違いよ。真也さんと会う前より悪化してる。それ程思い詰めている娘を母である私が、はいそうですかと見過ごせる?」
「私は思い詰めてなんかいないわよ」
「なら桜に対する接し方はなんなの」
「……」
「真也さんが頼ってくれないと嘆いた凛が、同じ様に一人で抱えるつもり? 母として言うわね、全て話しなさい」
口を強く結び、視線は下がり気味。その仕草を見て葵はやはりそうかと悟った。凛はぽつりぽつり話した。桜が臓硯によって虐待されていた事。余所の家の魔術であるから詳細は分らないが、髪と瞳の色が変わる程に相当に過酷な魔術処理を受けたであろう事。殺害とはいえ事実上助け出した事。桜の明るい性格から、立ち直らせる為に尽力を尽くしたであろう事。
その上で桜を取り返し、その対応をした事。それは、桜の引き渡しに無条件で応じる事、葵への釈明は禁止した事、桜への説得をする事、ライダーにも説得する事、2度と遠坂に接触しない事、以上の条件を受け入れれば、間桐臓硯の殺害と誘拐に関して目を瞑る、と言った内容だ。想像していたとは言え、葵はその真実に呆れるほかない。怒りすらも沸いてきた。ライダーのあの態度も納得だ。
「凛、二人に謝りなさい」
「いやよ」
「何を意固地になってるの。凛も間違っている、そう思っているのでしょ?」
「どうしてそんなに肩を持つのよ。娘が欺されて辛いのに。母さんだってもう忘れなさいって言ったじゃ無い」
それは真也が遠坂邸を出た時の事である。引き留めた葵に対し、彼は謝罪してその家に背を向けた。
「そうね、真也さんは凛では無く妹さんを選んだ。母親の立場ならもう言うべき事は無いけれど、その妹さんが桜(娘)だったのよ。私(母)が放っておける分けないでしょうに。だからこう言うわ。私も一緒について行くから謝りなさい」
「母さん、もう遅いわ。真也はもう敵なの。私たちは倒すべき間柄になってしまった。なにより真也はもう私を赦さない。私は全部奪って殺そうとしたんだから」
「凛が羨ましいわ」
「どこが!?」
「私は時臣さんと喧嘩らしい喧嘩なんてしなかったから」
「喧嘩じゃなくて殺し合いをしたの、私たちは」
「真也さん、抵抗した?」
「……」
「ほら見なさい。それは殺し合いとは言わないわ」
一拍。葵はぽつりぽつりと語り出した。それは色褪せつつあったが、彼女にとって大事な記憶、思い出である。
「10年前の私は、魔術師の家だからとそれを免罪符に何でも従っていた。いえ、考える事を放棄していた。今になって思うのだけれど、もし喧嘩が出来たなら、あの人は生きていたかも知れない。桜も養子に出さずに済んだかもしれない。尤もこの場合、こんな事には成らなかったのだけれど。良い? 遅いなんて亡くしてから言う言葉よ。後悔の無い人生なんてないけれど、失ってさえいなければ何度でもやり直しが出来る。もうダメだと諦めさえしなければ。謝ってきなさい。私の感だけれど真也さんは簡単に赦すわね。だって桜と同じぐらい凛を大事にしてるから」
「そんな筈ないわ。話したたでしょ? 真也の言うことは全部嘘。私に告白したのも嘘」
「好きな娘を捨ててまで妹を選んだのに、その妹をああも簡単に手放した、それは何故? それは凛も大切だったから、そうは思わない?」
「そんなに肩を持つ程気に入ったのなら母さんにあげるわよ」
葵は人差し指を顎に添えて、その未来図を考え始めた。母のその態度に流石の凛も慌てた。
「ちょっと、」
「凛にとっても桜にとっても良い落とし所?」
「父親なんて冗談じゃないわよっ! 大体年齢を考えなさいよ! 17よ、真也は17歳!」
「真也さんには女としてみられている様だし」
「……うそよね、それ」
「実際にそう言われたから」
凛と桜。どちらが葵に似ているかと聞かれれば桜の方が近い。ルックスではなく雰囲気の話だ。凛はそうだろうとは想ったが、その未来予想図に気が気では無い。葵は慌てふためく娘の態度に笑みを浮かべた。
「どうでも良い人の事なら、考えもしないし悩みもしない。まだ時間があるわ、よく考えなさい。でも遅くなるほど選択肢は減る、悪化する。出来る事ならお互い素直な立場で話し合う事が大切よ」
「ばっかじゃないの」
ズカズカと乱暴に歩くその仕草は苛立ちを隠さない。扉が閉るその隙間、葵はこう告げた。
「気がついてる? 凛は、真也さんって未だ名前で呼んでる。許せないほど好きなら、一歩踏み出すだけね。それは貴女次第」
凛は何も言わず扉を閉じた。ただ怒りを堪える表情だけは見えた。それは葛藤している証拠だ。言うべき事は伝えたと葵は、取りあえずはと安堵した。それはそれとして。
「凛があそこまで激情家だったとは一体誰に似たのかしら。いえ、気が強いと言えば強いのだけれど」
ふと、縁深い少年の顔を思い出す。葵はパンと両手を打ち合わせた。とても良い事を思いついたと言う意味である。
「そうね、そうよ。それはそれとして、真也さんにも申しつけないといけないわね。うちの娘をたぶらかした事は事実なのだから。全て終わったら食事に招いてお説教しましょ」
とても困った顔をするに違いない、それを思い浮かべると心が躍る。そして4人揃って食事するシーンを思い浮かべば、凛と桜が笑っていた。葵は欠けているものが何か、漸く悟ったのである。
同時刻。桜に宛がわれた薄暗い部屋で立つのはライダーであった。気配を感じ、窓を見れば外出する凛の姿が見えた。この早朝に外出だ。何かがあるとライダーは悟った。彼女は寝息を立てる桜に一言断って、追う事にした。彼女の胸元に光るのは試験管の様な硝子瓶である。それは蒼月家の霊薬、治癒薬だ。かつて真也が遠坂家に身を寄せていた頃、凛が無断に持ち出した物であり、ゴミ箱に捨てられた物だ。それを偶々見つけた彼女は回収したのである。妙な胸騒ぎにそれを持参する事にした。だがそれでは霊体化できない。実体のまま追跡しなくてはならない。細心の注意を払わねばならない難しい追跡劇を彼女は強いられる事になった。
◆◆◆
陽が昇り空が赤色から白色に収まった頃、真也の乗るタクシーは止まった。そこはアインツベルンの城へと続く、森への入り口だ。周囲に民家はなく勿論人通りもない。降り立てば郊外の割には意外にしっかりした2車線の道路だ。彼は土建屋の友人から、地方に仕事を回す為のバラマキの結果だ、そう聞いた事があったが、どうでも良い事だと直ぐに忘れる事にした。そこには町中では見られない濃い朝靄が立ち籠めていた。真也は財布から一万円札を取り出すと、タクシー運転手に渡した。それは料金メーターが示す料金の3倍だ。
「おつりは要りません」
「口止め料、の割には随分としけてるが高校生なら仕方が無いか」
タクシーの運転手は真也の知り合いだった。ロータリーに並ぶタクシーは本来前から乗るのが決まりだが、早朝に未成年が森へ向かうなど怪しい所の話ではない。無理を言って知り合いであるその運転手Kに頼んだのだった。
「早朝に無理を聞いて貰った謝礼です。豪勢な昼食を楽しめますよ」
「見渡す限り葉っぱしかないこの郊外で帰りはどうするつもりだ」
「歩いて帰って、適当にヒッチハイクでもします」
「馬鹿な真似するつもりじゃないだろうな」
「いやだな、俺がすることは何時だって馬鹿な事ですよ。この10年そうだったでしょ?」
「確かにお前は喧嘩に明け暮れる不良だったが、自分本位の行動はしなかったからな。どうしてか今回ばかりは違う気がしてならない。お上さんと桜ちゃんは知ってるのか?」
「これはKさんの良く言うけじめって奴です。俺の自分本位の行動なんですよ。だから二人には言っていませんし、知りません」
「言っても聞かない、止めても止めない面だ」
「その通りです。俺はKさんに手荒な真似をしたくない、何も聞かないでください」
Kは溜息をついた。
「まるで悪役の台詞だ」
「かも知れません」
「お前が万札なんて出すから釣りはない。用意しておくから“後日取りに来い”」
そう言うとKは車を走らせた。真也は彼の配慮に頭を下げた。森の入り口に向けて歩き出し、地面がアスファルトから砂利になった頃、ランサーが真也の隣りに立っていた。同じように歩いていた。霊体状態で同乗していた事を知るのは二人のみである。右を見ても森、左を見ても森、何時しか完全に森の中だ。立ち籠める朝靄は、淀み、行く手を誤魔化す様に漂っていた。渡り鳥並みの方向感覚を持つ真也だったが、正確な道を知るランサーが居なければ相応に難儀しただろう。森に入って暫く経った頃、魔術的な意味での結界に触れたが、何の反応もなかった。この森の主も待ちわびていると言う事だ。準備を整えた敵陣に乗り込むというのに、この二人は案外だった、否、何時ものやりとりだ。
「優男とハイキングか、いけてねえ」
背負った槍で肩をトントンと。ランサーはさも気が乗らないと言わんばかりである。真也はしかめっ面だ。
「誰が優男だ。これでも冬木の羅刹って呼ばれた事もある修羅だぞ修羅」
ランサーは鼻で笑った。
「良いか? 修羅ってのは戦に突っ込んで、殺しまくって、死んだ事に気づかず、死してなお戦を求める、バカヤロウのこと事だ。お前がそんなお上品かよ」
「悪かったな、頼りなくて」
「見込みは少々外れたが、情の無い人間と殺りあっても詰まらねえからな。良しとしてやる」
軽薄な笑みを浮かべていたが、その身体を織りなす筋肉は張り詰めていた。まだ見ぬ戦いに思いを馳せている様だ。それはバーサーカー戦を指しているのではなかった。
「なんだそれは」
「つれねえな。初めてやり合った時にそう言ったろ。“もう一度やり合う時までに制限(ギアス)をどうにかしておけ”ってな」
「そういえばそんな事を言ったかもしれない、が。諦めろ、制限は外せないんだ」
「諦めちゃいないぜ。真也、お前に喰らった一太刀、今でも夢に見るからな」
「嘘つけ、サーヴァントは夢なんて見ないだろ。寝ないんだから」
「それだけインパクトがあったって事だ。ったく、間抜けなネズミかと思えば、サーヴァントとやり合うクズリ(イタチ科)だったとはな。ま、それ位でないと世の中面白くねえが」
「ランサー。お前の聖杯への願いは何だ。金、女、って訳じゃ無いだろ。何故不要な戦闘を望む」
「不要じゃねえよ。俺の望みは死闘。全身全霊を以て命を掛けた戦いを望む」
「なら、お前は酔狂だな。痴情のもつれに敢えて首を突っ込んでいる」
「酔狂、ね。これをそう呼ぶなら、酔狂も悪くねぇ」
二人は獣道を塞がんばかりに横たわっている朽ちた巨木を易々と飛び越えた。
「なぁ、ランサー。正しいと思った行動が、間違ってたってこと有るか? それが取り返しの付かない事だった事があるか」
「あぁあるな。数え切れないぐらいだ。つか、数えた事すらない」
「お前は気にしないのか。それともどうやって折り合いを付けてる」
ランサーは肩に乗せていた槍を掴むとその穂先を天に向けた。
「俺は誰かに命を預けた事はあるが、この槍を誰かに預けた事は一度たりとも無い。自分で決め、自分で奮い、自分で殺した。良いか、殺すってのは、相手の命、人生、尊厳、全てを奪うって事だ。だから俺は手を抜かない。全身全霊を以て、相手を打ち砕く。最大限の敬意を以て、目を背けず、打ち倒した敵のちり様己が魂に刻む。だから背負える。辛いからと目を背けるなんざ最悪の所行だ。奪った命を背負えないなら、そいつは向いてねえって事だ。とっとと武器を置き、鍬か筆に持ち替えた方が良い。それも生き方の一つだろ」
「向いてない奴がしてしまったら、せざるを得なかったら、どうしたら良いと思う」
「酒を呑んで、歌でも歌って、忘れた振りをするしかねーんじゃねーの」
「最後の最後で台無しだ」
「うるせえ。知らない事を答えられるか。どうしても辛ければ、泣くのも良い、酒に逃げるのも良い、誰かに慰めて貰うのも一つだ。でもな人生ってのは幸も不幸もついて回る。自分のしくじりだろうと、誰かにはめられようとも、本意で無かろうと、それから目を背けるな。お前の人生は、他の誰のものでも無い。お前のものだからだ。己の命に、生き方に、責を背負うから、自由に出来る。だからお前の物になる。それを生きるという。どういう結末だろうと、投げ出すんじゃねーぞ、坊主。生まれは選べずとも、生き方は選べるんだからな。背負えるならお前はここで止まって、馴染みのお嬢ちゃんの元に帰っても良い。誰も責めはしねえよ」
「判っているのか? したい事が判っていても、それが出来ない事もある。それは言うほど優しい事じゃない。やりたい事ができる、それを成し遂げる、それは一つの才能だ……そうか。そういうお前だから、お前は英霊になったんだな」
ランサーはまたもや軽薄な笑みを向けた。真也はまたおちょくられるのだとうんざりとした顔で身構えた。
「心配すんな。死闘や悲壮は、どこかの誰かが適当に脚色して、歌や詩になって伝説になる。英雄なんざそんなもんだ。不運続きで死にそうな目に遭っても、未だしぶとく生きてる真也なら、案外いけるんじゃねーか? 別れた女に殺されかかる程の、だらしない男がヘラクレスを倒すなら格好のネタだ」
「まぁ、知らない誰かが、語り継いで、背びれ尾ひれついて、英雄譚になったら確かに痛快だな」
「ただし真也の場合ぜってえ喜劇だがな。それは保証してやる」
「ったく。そういうお前はどうなんだ。悲劇か、喜劇か、どちらだ」
「クー・フーリン」
真也は思わず聞き返した。耳を疑った。まるで告白されて聞き直した位の間抜けだとは思いつつ。
「ま、ここまで脚を突っ込んだんだ。伏せるのも義理がねえだろ」
「ランサー、お前のお陰で良い案を思いついた。乗るか?」
「搦め手は趣味じゃねえが、お前が頭だ。好きしろ」
「なら行くか。ハイキングも飽きてきた」
「いいぜ。駆けるのは嫌いじゃねえし、それが戦場に向かうとなれば文句はねえよ」
二人は笑みを浮かべると掻き消えた。森を疾走する二人は木々を駆け抜ける疾風である。その森に住まう、どの獣よりも速かった。その速さは士郎らを引き離すのに十分だった。
つづく!