凛と真也が人知れず冬木を救った、その翌日の早朝である。
綾子がいつもの様に起きて、いつもの様に朝食を食べ、いつもの様に学校に来て、いつもの様に脚を弓道場に運べば、桜の機嫌が悪かった。ぱっと見た限りいつもの彼女だったがどす黒いオーラを放っていた。射場に立って構える姿は見るからに硬く、射ればその矢は見当違いの方へ飛んでいった。残心もへったくれも無い。
「今度は何?」
そう綾子が桜に話しかければ。
「なんでもありません」
作った笑いにも影が差す。士郎のことで真也と喧嘩をしたのだろう、綾子はそう断定した。
「今度は何したの」
そう聞いても桜は頑として答えなかった。
(今回は長引きそうね)
桜と士郎の一件、その真意を問いただそうと思ったが保留にした。真也が先だ、兄貴が動かない事には解決しない、それは長年の経験から分かりきっていた。何よりあのシスコンはまためそめそとしているに違いない。そう2年B組の教室に赴くと彼は居なかった。おやと首を傾げた。
「蒼月君なら来てないよ」
真也のクラスメイトがそう話しかけてきた。
「何で私に言うのよ」
「美綴さんがB組に来る理由ってそれ以外無いじゃん」
「ただの腐れ縁だって」
「私は何も聞いてないよ」
ニヤニヤ顔が腹立たしい。不本意一杯の顔でその場を後にした。またサボタージュに違いない。桜を押しつけて遊びに行くとは言語道断、文句の一つでも言ってやらねば気が済まない。武者の様に厳めしく廊下を歩けば、はたと気づく。
(桜と喧嘩してサボリ?)
それは今までに無い展開だった。彼は桜と喧嘩をすると大抵意欲を無くすからである、遊びに行くなど考えにくかった。はてな。綾子が立ち尽くしていると男子生徒に話しかけられた。自称 穂群原学園 独立愚連隊(ラウンド・ナイツ)筆頭組長のA君である。その名称に意味は無い。恰好良さそうの単語を組み合わせて使っているだけだ。
「美綴、真也しらねーか?」
綾子は戸惑った。てっきり一緒にサボりだと思ったからだ。
「それが来てないのよ。Aも知らないの?」
「なんだ。せっかくアレを持ってきてやったのに」
「アレ?」
「椎名ユナのAブ、」
「なに、それ?」
「……アニマルビデオ。じゃ、じゃーなー」
綾子の鋭利な眼光にびびったA君はそそくさと立ち去った。絶対堅気じゃねーな、と捨て台詞も忘れない。バカは放っておいて問題は真也(バカ)である。桜と喧嘩、そのうえ学校休み。サボリかと思ったらそうでは無いらしい。何故だろう、嫌な予感がする。
「美綴さん、蒼月君のことなんだけど何か知ってるかな。桜ちゃんも知らぬ存ぜぬだし、家に電話したんだけど連絡取れないし」
という大河の相談に血の気が引く綾子だった。
(思いあまって首釣ってるんじゃないでしょうね、あのバカ)
そんな馬鹿な、でも否定できない。なぜなら彼は重度のシスコンだからです。
◆◆◆
綾子には蒼月兄妹を長年見守ってきたという自負があった。半生と言っても良い程だ。だもので、ここで死なれては夢見が悪いと、彼女は授業をサボって蒼月邸にやってきた。目の前には見慣れた白い北欧風の一般住宅が建っていた。門の前に立ち見上げれば、その家から瘴気があふれ出していた。ぐるぐると渦巻く姿は鳴門の渦潮そのものである。
冷や汗一つ。
ピンポンと呼び鈴を鳴らす、返事が無い。もう一度鳴らす、やはり出ない。彼女は鞄から鍵を取り出して家に入った。なんと言うことは無い、家を空けがちな千歳から2人を頼むと預かっていたのだった。
扉を開ければ薄暗い室内。2階へと続く階段から陰鬱な空気が流れ降りてくる、まるで冷蔵庫から漏れ出す冷気の様だ。玄関を見れば彼の靴があった。真也入るよ、と返事を期待せず家に上がれば予想通り返事は無い。部屋の前に立てば扉の向こうから何とも言えない気配が漂ってくる。その様は地球を貫通する素粒子のよう。
(うっわ……)
一瞬帰ろうかとも思ったが、彼女は意を決し開けた。そこは異空間だった。カーテンは深く閉じられ陽の光は入ってこない。当然電灯すら点いていない。目が暗みに慣れると部屋の影が見えてきた。机の影、椅子の影、鞄の影、ベッドの影、こんもりと膨れあがる布団の影。言うまでも無く真也のうずくまる布団である。
どうしたものかと綾子は立ち尽くす。
“立ち去れ”
だものでその声が真也の物(こえ)だと理解するのに時間が掛かった。
“ここは生きとし生けるものの赴く場所では無い。早々に立ち去るが良い”
掛け布団とマットレスの間から双眸が光っていた。彼女はそれがどうして蒼いのか知らなかったがどうでも良かった。どちらかと言えばその姿が気になった。彼女にはそれがモンスターに見えた。ホラー映画調のハードなものではなく子供向けアニメに出てくる様な物だ。強いて言うなら、どら焼きお化け。挟まれた餡子の部分に眼がくっついていた。滑稽である。
「アンタね……」
“蒼月真也は死んだのだ。今其方が見ているモノは残留思念という亡霊にしか過ぎない”
呆れて物が言えない。それどころか腹も立ってきた。
“立ち去るが良い、我が我で居られるうちに”
彼女はおもむろに掛け布団を掴むとひっぺ返した。そこには薄着で包まる少年の姿。どうしてか分からないが彼は目を瞑っていた。因みに。彼はTシャツにトランクス姿である。綾子はもう見慣れた姿だと気にしなかった。
「ばっかじゃないの!」
彼女は腕を強固に掴んで引っ張った。彼は慌てて眼鏡をつけた。
「愚かな人間よ! 世界樹が泣いているのが分からぬかっ!」
「心配してきてみれば元気そうだねバカ真也! さっさと着替えな! 学校行くよ!」
彼はドスンと音を立ててベッドから床に落ちた。頭から床に落ちた。
「おぉ、なんと言うことだ。イデアが、イデアが崩れる……」
「わ、た、し、はっ! お、こっ、て、る、の、よっ! 皆勤賞お釈迦にした対価がそれか!」
彼女は真也の首に腕を回し、力の限り締め上げた。
「綾子、済まなかった! 調子に乗った! だからそれ止めてっ! ぐぇぇぇ!」
部屋に悲鳴が満ちたあと、男女の荒い息の音がそれと取って代わった。コブラツイストと卍固めの後である。真也は仰向けでぐったりしていた、綾子は両手足を床に突いて辛うじて身体を支えていた。落ち着いた彼女は乱れた髪を整えた。シャッとカーテンを開ければ部屋が明るくなった。窓を覗けばベランダに立つ隣の家の主婦と眼が合った。綾子が愛想笑いで返せば“まったく最近の娘は慎みがないわね”と盛大に呆れられた。全くもって腹立たしい。
「で、今回はどうしたのよ」
「誤解なんだ」
「誤解?」
「家の用事で朝帰りしたら、もうぷんぷんで。そしたら置き手紙一つ。早朝からなんの断りも無く士郎の家に行っちゃって。朝食の準備もなく弁当も無く夕飯も無く……おにいちゃんは、おにいちゃんは見捨てられたのです。めそめそ」
「朝帰りとは穏やかじゃないけれど原因はそれだけ?」
「その用事に相方がいて、それが女の人だったのが気にいらにゃい、あひゃこ、いはい」
綾子に抓られた。
「ほー、へー。女の人と朝帰り」
「ふぃはっていふは、やはしいきょとはしへない」
誓って言うがやましい事はしてない、と彼は言っていた。気が済むまで抓ると彼女は立ち上がる。暴れて下着の肩紐がずれたのか、その挙動がおかしい。
「ほら、私から言ってあげるから早く仲直りしてよ」
「綾子、それはもうしてくれなくて良い」
「……は?」
胡座をかき見上げる昔なじみの姿。彼女は二人の関係が動き出していることを感じた。
◆◆◆
蒼月桜は人妻っぽい、と言うのが穂群原(ほむらばら)学園生徒の共通認識であった。大人しく薄化粧、料理も出来てグラマーとくれば無理も無い。なによりちょっとした仕草が男子生徒をくすぐるのである。もちろん其れには訳があった。もともと見目麗しい娘である、彼女にお近づきになりたいという生徒は相応居たが、兄が怖いので遠巻きに見るのみ。自ずとその劣情的な視線が身体に絡む。全身に走るむず痒さが“見られている”結果だと身体が理解するのにさほど時間は掛からなかった。色香に昇華したという事である。
そんな桜が繁く男に家に通っているという噂はあっという間に広まった。それが蒼月真也の天敵、少なくともそう思われている衛宮士郎なのだから尚更だった。
だもので。真也がひとり廊下を歩けば馬鹿話に花が咲く。
A君が言う。
「桜ちゃんにとうとうカレシ出来たんだって?」
「まだカレシじゃない」
B君が言う。
「あの衛宮だって言うんだから驚きだぜ」
「俺も驚いている」
C君が言う。
「通い妻ってどういう事だよ」
「宿泊はしてない」
D君が皆に言う。
「1分もあれば十分だろ」
「早漏かよ、お前」
“わはは”とやはし立てれば鬼が顕れる。ギンッと睨み付ける眼力は殺意の一歩手前であった。
「「「おぉっとぉ!!!」」」
冷たく鋭利な刃物で首筋をなぞりあげる感覚、彼らは一斉に飛び退いた。
「真也をからかうのは命がけだぜ……」
「妹はヤクネタだって言っただろ」
聞いた話をまとめて頭を傾げるのは綾子である。
桜は早朝でかけて士郎の家に行く、弁当も無い、夕食の準備も無くなった、夜は士郎が家まで送る様になった。会話も無い、挨拶も無い、なにもない。偶に顔を合わせば無言で避けられる。徹底していた。
実は前にも似たような事があった。桜が勇気を出して買ったホットパンツを真也が廃棄したのである。当然彼女は激怒し無視作戦は一ヶ月に及んだ。桜は根に持つ方なのだ。朝帰りが切っ掛けなのは間違いない。おかしくは無い、けれども何かが違う。
「良い機会なんだよ。幾ら大事でもいつか兄と妹は離れるし。ちょっと前倒しになっただけさ。わははははは」
乾いた真也の笑いが耳に付く。あぁもう、本当にもう、綾子は達観した様に桜を屋上に呼び出した。意思確認のためである。いつもそうであるように、今日もまた其処はガランしていた。空にある雲も流れが速い。雲の隙間から青い空も見えたが、まだら模様ですっきりしない。現れた桜は俯き加減で視線を合わさなかった。
「なんの用ですか美綴先輩」
綾子は単刀直入にこう聞いた。
「士郎と付き合ってるって聞いたんだけど、本当なの?」
「……綾子先輩には、」
「関係ないなんて言ったら叩くからね。何度あんたらの仲裁をしたと思ってるのよ」
「……」
綾子は腕を組んで咎める態度だ。
「まだ付き合っていません。先輩は気づいていませんから。私が押しかけているだけです」
「ならほどほどにしておきな。真也が心配してる」
「兄妹であればこれぐらいが普通です」
「普通じゃ無いね、やり過ぎだ」
「私たちは少し近すぎました。美綴先輩だって昔からおかしいって言ったじゃないですか」
「血が繋がってないなら、おかしくは無いさ。社会的な話はともかくだけど」
桜は顔を上げた。目を開き驚きを隠そうともしない。
「真也に昔アルバムを見せて貰ったことがあるのよ。10年以上前の桜の写真が無くてね、当時は何のことか良く分からなかったけれど、そういう事なんだろ?」
「……兄さんは私を女の子としてみていません」
「辛いからって? そんな動機で人を好きになろうなんて、」
「衛宮先輩にも良いところは沢山あります。それを知らないのに勝手なこと言わないでください」
「桜、よく考えなよ。逃避の結末は後悔だけなんだから」
「告白することも諦めることもできない綾子さんに言われたくないです」
このとき初めて綾子から労りの表情が消えた。
「なら……桜は構わないんだね。真也に誰か特別な人が出来ても」
千歳の助言、舞弥の願い、士郎の笑顔、兄の背中、己の決意、全ては混ざり合い良く分からない色になった、ただ濁っていた。ぴしりぴしりと亀裂が大きくなる。
「……構いません」
「そう」
そう言って桜はその場を後にした。誰も居ない屋上で綾子はこう宣言した。
「ならもう遠慮なんてしないから」
◆◆◆
それは昔の話である。いじめというものはいつの時代でも何処の街でも存在するが当時の冬木市は酷かった。第4次聖杯戦争の影響で10年前から数年に渡って悪影響を与えたのだった。それは災害の爪痕であり聖杯の痕跡でもあった。子供の世界も例外で無く、乱暴を働く子供も多かった。
当時の綾子と蒼月兄妹は同じ学区で、彼女はいつも真也の喧嘩を見ていた。相手が武器を持っていようが、複数名であろうが構うことなく突入し蹴散らした。妹を守る兄の姿、それはヒーローみたいで格好良いと幼心にときめいたりもした。
そう、過去形である。
蓋を開ければ桜以外とんと無関心な子供だった。誰かが虐められていようが怪我をしていようが、我関せずと通り過ぎた。希に理解できないと見つめていた。
元来の正義感の強い幼い綾子は、彼への落胆と反発心もあって率先して喧嘩を仲裁した。弱者を助けようとした。三つ子の魂百までと言う奴である、穂群原(ほむらばら)での生き方を見れば想像に難くない。
ある時。真也がいじめの現場を遠巻きに見ていると綾子は助けに入った。殴られた痛みを堪えながら、表情一つ変えない同年代の真也にこう突っかかった。
「何もしないならどこかに行って。それとも見ているのが楽しい?」
彼は助けなかったことを非難されている、そう気がついた。
「そいつは他人、助ける義務は無い。それにただ泣いていただけだ。助けが欲しいなら、どうして助けてと言わないんだ? 話はそれからだろ」
弱者だろうと助けを求める責は追うべき、それは千歳が施した理屈の結果である。
「泣いている声を聞いてなにも思わないの?」
桜は妹、守るべき対象だった。でも彼らは他人である。一人助けたら二人目を助ける線は何処に引く。二人目を助ければ三人目も助けるのか。四人五人とどんどん増えていけば、いずれ助けた者同士が争い合う。その時はどうすれば良い。
答えを持たない彼は頭を捻りながらそのまま立ち去った。転機は直に訪れた。正義感をかざすタイプは目立つうえ鼻につく。程なくして綾子はいじめの対象となった。彼女が救った子すらそれに荷担した。それでも綾子は助ける事を止めなかった。ただ影で泣いていた。真也はそれを知っていたが何もしなかった。
暫く立ってのことである。一人で桜を守ることは難しいと悟った彼は協力者を作る事にした。綾子にこう持ちかけた。
「交換条件。美綴が桜を守ってくれるなら、俺は美綴を守る。どう?」
眉一つ変えない能面は彼女の苛立ちを誘った。同情、共感、憐憫、そんな感情は持ち合わせていない、そう言わんばかりの態度だった。
「なによ、それ」
「俺が見る限り、美綴は俺のやり方が気に入らないみたいだ。でも人間関係はギブアンドテイクが基本、協力すればお互いの納得する結果が得られる」
「納得なんてしないわ。お断りよ、そんな打算的な生き方」
彼女は文字通りその手を振り払った。
「私はアンタが嫌い」
彼はずっと考えていた。彼女の正義感は理屈で分かる、彼女の行いは社会的に見て正しいことだ。悪いこと、間違ったことはしていけない、だれもがそう教えられるから。ならどうして正しいことしている彼女は辛いのか、何故泣くのか。
どのような立派な行いでも、必ずしも見返りがある訳では無い。どんな高潔な精神も、何の見返りも無いといつかは折れる。それは人間の順応性の一面でもある。だからその行いを続けたいのであれば、自分で報酬を与えなくてはならない。もしくは与えてくれる人を用意する。綾子にはそれが居なかった。
真也は綾子の有り様が壊れてしまうことを勿体ないと思った。なにより桜を守るのにうってつけだ。正義感の強い娘なら虐めることもしまい。
彼は一計を案じた。
ある時を境に綾子へのいじめはぴたりと止んだ。いじめの主犯格が闇討ち脅迫されたのだった。証拠は何一つ残っていなかったが、綾子にはそれが真也の仕業だと分かった。
「余計なことをしてくれたわね。こんな事をしたってアンタの言うことには従わないから。分かってない様だから言うけれど、いじめの対象が他に移るだけよ。それともアンタは新しい犠牲者を助けるの?」
「助けないな」
「ならなんで助けたのよ」
「俺が美綴を選んだから」
「ふざけないで。そんなの迷惑、そんなの嬉しくない、今すぐボコった相手に謝ってこい」
「でも美綴はもう泣いてないだろ。それともまだ辛いのか?」
「………」
彼女は何も言えなかった。
人間というのは決して公平では無い。彼女に真也の様な力があればまた違った結果になっただろう。どうして独善的な人物にあのようなことが出来るのか、彼女はそれを妬んだ。だが。彼女は悩みに悩んでその提案(現実)を受け入れた。
“私だって泣くより笑っていたい”
という事である。程なくして綾子は蒼月の家に出入りする様になり、二人を見続けることになった。大人しかった桜は次第に元気になり、いつの頃からか二人の力関係は逆転する様になった。
“お兄ちゃん嫌い”
“めそめそ”
その都度二人の仲を取り持った。翻訳ももうお手の物である。
2人は仲が良かった。彼女が眉をひそめる程良かった。特に不安だったのが桜でいつも真也の後を付いてきた。綾子と真也が揃ってテレビゲームに興じれば、桜は二人の間に割り込んできた。
桜が真也を男としてみている事に気づいたのは必然だった。それは綾子にとって。二人を見る事が苦痛になった時であり、桜を大切にしてきた真也の思い10年分、それが彼女自身に向いたら、そう思う様になった時でもある。
ある時やっかみと期待を込めて綾子は真也にこう言った。
「彼女でも作ったら?」
「桜に守る者が現れるまでおにいちゃんはがんばるのです。それまでは彼女なんて作りません」
「だから、桜の健全な成長のことを言っているのよ」
「それだと守るものが居ないじゃ無いか。その間どうするんだ」
「彼女が居ても守れば良いじゃない」
「ばかだなー。まだ見ぬ彼女の立場になって考えろ。自分のカレシが自分より妹を大切にするなんてドンダケ虚しいか。不和の元だ」
「それだと桜に好きな人が出来ないって言ってんの」
堂々巡りである。
「仮に桜に好きな人が出来たらどうする?」
「認めない、認めないけれど、桜が選んだ相手なら仕方ない」
「その時になったら?」
「その時だな」
真也はこんな事も言った。
「綾子こそどうなんだ。美人なんだから引く手数多だろ」
「私を美人だとか言う物好きはアンタだけよ。それにどこかの誰かが危なっかしいからね、そいつに彼女ができるまではお預けだ」
「俺の何処が危なっかしい」
「真也は桜のためなら死んでも構わないって顔してるし」
「いや、おにいちゃんだし」
「変」
「……おにいちゃんだし?」
「変」
「そっか、なら頼んだ。綾子」
「勘違いしないでよ。手に負えないと分かったら見限るからね」
「おぅ、肝に銘じておく」
彼女はため息をついた。
◆◆◆
時は現代に戻り穂群原の弓道場である。弓道衣を纏った後輩たちが熱を入れて弓を引いていた。それを見ながら綾子は深々とため息をついた。
「どうしてあの真也(バカ)はあそこまで言ってるのに気づかないのよ……」
買い物デートなど幾度となくしたし、ムードに欠けるが食事に誘って貰ったこともある。プレゼントされたこともそうだ。だが女友達の域を超えていないのは明白だ、その現実に難しい顔をして唸った。
ただ彼がそういう事をする相手は綾子だけである、桜の面倒を見ているその対価、とはいえ脈はあるとも言えよう。だが綾子にとってそれは当たり前の事になっており、彼女は気づく事が出来なかった。
(桜はあれで現実的な女だから気が変わる可能性がある。なるべく早くはっきりさせたいんだけど、)
桜の同意を取り付けたとは言え突然のことでどうしたらいいのか分からない。もやもやとした綿菓子が頭に浮かぶが一向に形にならない。今更デートしたところで新鮮味も無い。彼氏彼女の定番イベントは既に済ませてしまっている。強いて言えばアレが残っているのだが。
(流石にそれは……)
破裂する風船の様に頬を染めてから、もう一度ため息をついた。がっくりと頭も垂れた。
「美綴さんがため息なんて珍しい」と声を掛けたのは大河だった。
「ええ、まぁ、ちょっとありまして」
「ひょっとして恋の悩み?」
瞬く間に頬を染める綾子であった。何か言おうと思うが心がばらばらで言葉にならない。そんな綾子に穏やかな笑みで返す大河だった。悪魔の囁きか、天の采配か。狙った様に真也がやってきた。「綾子いる?」と手近な部員に声を掛ければ、「美綴先輩、旦那さんがきましたよー」と冗談でからかった。桜がちらと綾子を見たが何も言わなかった。「あ、は、はぁぁぁぁぁっ?!」と声を荒らげるのは綾子である。先輩をからかうな、と怒鳴ろうとしたら「旦那さんですよー」と真也が大声で道場の外から茶々を入れる。(ひ、人の気も知らないでっ!)微笑ましいやら、おかしいやら、そんな部員たちの視線を浴びて、綾子は両手両足を乱暴に振って詰め寄った。
「何しに来たのよ……」声をありったけ力ませるが、顔が赤くては説得力が無い。
「……顔が赤いな、風邪か?」
彼はお約束のツッコミを入れる。内心“初奴め役得役得”とご満悦だった。剛胆な立ち振る舞いの中に見える一片の可憐さ。花を愛でる云々という彼の悪癖である。
「おかげさまでね、何しに来たのよ。用事が無いならさっさと帰って」
「なら手短に。礼を言いに来たんだ、今日はありがとう助かった」
頭に上った血が一気に下がる。其処にはいつもの格好良い綾子の顔があった。
「もう立ち直ったわけ?」
「いんや、認めるのに暫く掛かりそうだけど。それでもだいぶ楽になった」
「そう。いつまでも愚図って貰ったら困るから私としても助かる」
「用件はそれだけ、それじゃまた明日」
背を向けた彼を綾子は引き留めた。
「それだけ?」
己の肩越しに、彼はじっと綾子の顔を見た。次いで真面目な顔で歩み寄った。夕暮れを背景に向かい合う女の子と男の子の出来上がりである。思わず胸を高鳴らす綾子だった。おぉと覗いている弓道部員から声が上がる。彼は真面目な顔でこう言った。
「綾子、君はとても美しい。まるで鮮やかな花をつける百日紅(サルスベリ)の様」
盛大にすっころぶ音がした。とても響いた。目新しさも何も無い、いつもの展開だった。悲しんで良いのか喜んで良いのか心持ちの落ち着かない綾子であった。彼女は鉄拳を撃ち込んだ。
「いい加減それ止めてって言ってるだろ……」
それを受け止めた真也は笑い顔でこう言った。
「可愛いがいい? それともべっぴん?」
「言うなって言ってんだっ!」
「悪い男に騙されないよう慣れさせようとしている、俺の気遣いが分からぬか。と言うかいい加減慣れなさい」
「アンタねっ! 女の子に可愛いとか言うのは特別だろっ!」
真也は帰宅途中の三枝 由紀香を偶然掴まえた。
「三枝さん今日も可愛いな」
「ありがとー」
ほにゃっとした日向のような柔らかな笑み。幾度となく言われて彼女も慣れた物である。“ほら、コレが模範解答だ”と言わんばかりの自慢げな態度。綾子は身体を震わせた。ふるふると振るわすその怒りは雷鳴か、はたまた荒波のうねりか。
「手当たり次第口説いているのかっ!」
綾子は真也を追いかけた。
「なんでそうなるんだ! 褒めただけだろ!」
真也は綾子から逃げ出した。
「そもそもなんで百日紅なんだ! ハイビスカスとかサルビアとかあるだろ!」
「横文字なら良いって訳じゃ無い! そもそも百日紅は意外と綺麗な花なんだよ!」
「意外って何だ意外って!」
少年の背中を追いつつ綾子はどうやって告白させようか、その思案に暮れた。
まずは気づかせないと、話はそれからだ。
それから積極的に距離を詰めて周知する。
真也を追い詰める。
桜の代役というのが気に入らないけれど。
身の回りの世話から攻めるのが王道か。
恋敵(てき)は居ない筈だが悠長にしていられない。
随分この機会を待ったんだから絶対逃がさない。
明日からどうしよう、笑みを隠せない。
真也が凛の家に呼ばれた、綾子がその話を聞いたのは翌日の事である。
つづく!