胡蝶様に甘やかされすぎて鬼殺がままならない一般隊士のお話 作:エミュー
しのぶちゃんの母性に甘えたい(切実な願い)
「なんだか申し訳ないなー」
蝶屋敷のとある一室。
座布団の上に正座する胡蝶しのぶは自身の膝の上から発せられた気の抜けた声に藤色の瞳を向けた。
申し訳ない、と言いつつも、罪悪感の欠片もない呟きに眉を寄せると、声の主である男性は「だって……」と続ける。
「他の隊士は柱稽古で血反吐を吐き散らかしながら頑張ってるのに、俺だけ皆の憧れ胡蝶様の膝枕で甘やかされてるからさ」
とは言うものの、彼はしのぶの膝枕をしっかりと堪能している。
程よい肉づきの太腿は生地の分厚い隊服の絝の上からでもわかるほど柔らかい。こんなにも細いのにどこにそんな柔らかさが備わっているのだろうかと不思議になるくらいに。
加えて甘くていい匂いがするので、気を抜けば意識が吹き飛んでしまいそうだ。とても心地よい。
口元が緩み、今にも涎を垂らして眠りこけそうな青年の表情を見て、しのぶは毒気の無い声で姉が弟を諭すかのような柔らかな声音を振りかける。
「そう思うのでしたら、まずはそのだらしない顔をどうにかしてください」
「ふあぁ」
しのぶの細い指が青年の黒髪を梳き、指の腹がそっと頭皮をなぞる。慈しむような優しい手付きで頭を撫でられ、背筋から脊髄にゾクゾクと甘い痺れが迸った。
意図せずして発せられた声はしのぶの言うようにだらしないもので、とても彼女以外に聞かせれるものでは無い。
「そうやって胡蝶様が俺をダメにするんだ〜」
「ダメな自覚があるなら改めてください」
「幻滅しました?」
「今更でしょう。もっとだらしない
入隊こそはしのぶの方が数年早かったものの、二人は同い歳で、よく任務を共にこなしていた。
「ずっと……一緒でしたから。木更くんの良いところも悪いところも全部知ってますとも」
「かれこれもう二年はこうして甘やかされてるわけですか」
「それなのに男女の仲はまるで進展していない。不思議ですねー」
「ほんとですよ。数多の誘惑に打ち勝った良識的かつ紳士的な俺の忍耐力の強さが成した神の御業ですね」
「そういうのなんて言うか知ってますか?『ヘタレ』と言うんです」
「あれ、その口ぶりから察するに、俺のこと誘ってたんですか?」
「さあどうでしょう。ご想像にお任せしますよ」
そうやって完全に否定しないところが彼女の狡いところだ。
しのぶの言うように、二人は恋仲ではない。
二年以上もこうして甘え甘やかされの関係を持っておきながらである。
意地悪ば対応にむっとした木更はしのぶの膝の上でひっくり返り、彼女の腰に手を回して両の太腿の間に顔を埋めた。
女性特有の柔らかさを余すことなく堪能し、額ぐりぐりと押し付けると、さすがのしのぶもくすぐったかったのか、木更の頭を掴んで動きを止めるように促す。
「まったくもう。少し気を許せばすぐに調子に乗るんですから。どうしたんです、そんなに甘えて。男が甘々になっても気味悪いだけですよ」
「あとどれだけ胡蝶様とこうして一緒に居られるのかなって」
「………、」
お館様が予見した竈門禰豆子を巡る大きな戦いは近い。
鬼の出現がぴたりと止んだこの状況はまさに嵐前の静けさであると言えるだろう。
そしてしのぶの毒の研究も最終段階に入っている。命に代えてまで果たしたい復讐の為の準備が。
しのぶは木更と一緒になることよりも、姉の復讐を選んだのだ。
木更はそのことについて特に哀しむことはしなかった。
姉の仇討ちだけを考えて生きてきたしのぶだ。
姉の口調を模して、立ち振る舞いを模して、鬼への憎悪と怒りを押し殺し、姉が語っていたという鬼と仲良くする夢で己を偽り塗り固め、そうして出来上がったのが『蟲柱』胡蝶しのぶだ。
そんな彼女の決意を否定することは、最愛の姉を喪いそれでも前へと進もうとするしのぶ自身の全てを否定する事になる。そんな権利も権限も、たとえ神様にだってありはしない。
当然神様でもなく夫でもなくそもそも恋仲ですらない木更がしのぶの生き様を否定することなど出来る筈も無く。
「今言うことではないかもしれませんが、木更くんへの想いは大事にしてるんですよ?」
「本当に?」
「本当です。大切な人ですから」
「胡蝶様って大切な人を効能も分からない新薬の実験台にするんですね」
「ふふふっ。あれは惚れ薬ですっ」
「一週間も厠に篭れば恋心も一緒に出し切っちゃいますよ」
なんて軽口を言い合える仲。
しのぶにとって木更は素顔を晒せる数少ない理解者で、木更にとってもしのぶはそういう存在だ。
「あ、雨降って来ましたね」
木更の声で窓の方を見れば、いつの間にか雨が降っていた。
降りしきる雨音に耳をすませば、すぐ近くから聞こえてくる互いの息遣い。
近いようで遠いような、もどかしい心の距離感。
不思議な関係だなと、しのぶは思う。
「そう言えば中庭に洗濯物を干しっぱなしでした」
「あーはいはい。どうせ俺に取りに行けって言うんでしょう」
「察しのいい助手が居てくれていつも助かってます」
「心にも無いことをすぐそうやって………」
渋々立ち上がった木更は重い足取り扉の方へと歩く。
部屋を出る直前、木更は振り返らずに声を発した。
常よりも低く、力の籠った声音だった。
「しのぶ」
名を呼ばれたのはいつぶりだったろうか。
不意打ちに名を呼ばれ、心臓が跳ね上がる感覚を覚えた。動揺を悟られぬように努めて冷静に「なんでしょう」と返答すると、少し間を空けて。
「俺はしのぶと生きる未来を諦めてないから」
決意を込めた言霊だった。
それと同時に木更の両耳は真っ赤になっていて、慣れないことを口にした羞恥が今頃全身に巡り回っているのだろう。
逃げるようにして部屋を出ていった木更を見て、しのぶはくすくすと笑った。
「そういうところがヘタレなんですー」
背中に突き刺さる声に心を打ち砕かれそうになるも、木更はぐっと堪えて中庭へと向かう。
しのぶの目的──姉の仇討ち。そのこと自体を否定するつもりは無い。
けれど、しのぶのが死ななければならない未来は否定する。
我ながら矛盾しているかもしれないが、木更にとってしのぶは大切な人で、絶対に失いたくない人だ。
「……雨強くなってきたなぁ」
窓の外を見れば、いっそう勢いをました雨が横殴りに壁を叩く。
そう言えばと、思い返してみれば、しのぶと初めて会ったのもこんな雨の日だったような気がする。
あれはそう、確か二年と半年前のこと────。
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「もしもーし。聞こえますかー?大丈夫ですかー?」
強力な鬼との戦闘を終え、致命傷を負った木更は地面に力無く横たわっていた。
満月を背に、蝶のように軽やかに地に降り立つしのぶは、降りしきる大雨に濡れてもなお美しかった。
これが水も滴るいい女というやつだろうか。
「だい………丈夫に………見えるなら……病院行けよ……」
「あらあら、上官に向かってそんな口聞けるならまだ大丈夫そうですね」
会話するだけで寿命が縮むのではないかと思うくらいしんどいので、虚ろげな眼差しでしのぶを見上げた木更は声を発することをやめた。
「もうすぐ隠の皆さんが来てくれます。あいにく私は人一人も満足に運べないか弱い乙女なので、一先ず雨風を避けた場所で応急処置をしましょうね」
「ちょっと失礼」と言うや、木更の両脇に腕を差し込み、極力優しく引っ張って木の下で雨を凌ぐ。
慣れた手付きで傷の手当てを施していくしのぶの手腕を見事と言う他ない。
「はい、終わりましたよ」
「……どうも」
ぐったりとした表情で横たわる木更を見て、しのぶは何を思ったのか、木更の頭を小さな掌で優しく撫で始めた。
「えらいえらい。よく頑張りましたね」
か細い指が雨に濡れた髪を梳く。
妙な母性を発揮された木更は驚きよりも心地良さが勝り、気づけば規則的な呼吸を繰り返しながら爆睡してしまっていた。
「世話が焼ける人ですねぇ」
もし自分に弟がいればこんな感じなのだろうか。
もしかしたら姉は自分と接する時、こんな感じだったのだろうか。
姉のことを思い浮かべては────やめた。
頭を降って思考を脳の外に追い出したしのぶは、木更が風邪をひかないように自身の羽織を被せ、隠の到着を待った。