ずっと頭をよぎっている。俺はどうしたらいいのか。どうしたいのか。
答えが出ない問いだ。出せない。正しく言えば、出したくない。それを弱さとするのなら、俺は今世界で一番弱い人間に成り下がるだろう。その一点でのみ人間の価値が決められるのであれば、俺の価値はそれこそ二円だ。
こうしていざ過去に向き合うとなると、心の底から吐き気がこみ上げてくるような心地になる。
いつもそうだった。俺は過去と向き合うことのできるほどの強さを持っていないのだ。実際、何度もこれまで思い出しては吐いている。あまりの気持ちの悪さに涙さえ浮かべてしまう。それだけ過去は俺にとって大きな意味を持っていた。
例えば人生を一度やり直せるとして。
それで俺の人生が変わるのか?
変わるといえば変わるだろう。悪い方向に。最初から希望を捨てていれば、その先で落ちることなんてない。既に俺はどうしようもないほどのどん底にいる。
ああ、そうだ。そうだよ。そのとおりだ。何も言えないくらい最低に、俺はどん底にいる。
いるんだ。
──そうやって、自分を型にはめて何が楽しいのだろう。
静寂。防音のこのマンションでは、独りきりになったら途端に全ての音が掻き消える。特に深夜はそうだ。何もかもが消えてしまうような心地にすらなる。
ルサンチマン。ルサンチマン症候群。幸せ者の足場がかき消えた時に笑えるやつら。俺だ。俺で間違いようがない。それだけ歪んだ心を持っている。
なぁ、笑ってくれよ。馬鹿みたいだろ。こんなどうしようもない俺がこうしてくだらないことでうだうだと悩んでいることが。
笑ってくれよ。
昔はよかった。
昔はこうじゃなかった。
俺は俺だ。でも、最初から今の俺だったわけじゃない。こうなるまでには必ず過程がある。そして、こうならないはずの俺だっていたはずだ。その可能性を否定していいはずがない。なにせ昔の俺は父のようになることを目指していたのだから。
『ハジメ。お前は賢いから、誰かのためになることをやれ。
お前を求めている人のために、最大限のことをやるんだ。父さんはこれまでそうやって生きてきたし、そうやって生きていくから』
「──ぅ、ぐっ……う、ぅぁぁ……ぁあああ」
何だよ。
なんで今さらになって、こんなことを思い出すんだ。なんでだよ。どうしてだ? いいや。なんで忘れていた? なんでお前は、お前のようなひねくれたクソみたいな人間が、半丁善悪の言葉をあっさりと受け入れられたんだ?
なんで。
なんで今さらになって。
「っ、く、くそぉ、なんで……なんでだよ……」
わかっている。これは逆恨みだ。間違いなく逆恨みである。でも。
それでも、俺は。
「なんで、もっと早くに……っ……なんで、今更っ……んぐっ、ふっ……ぅ、せめて、あの時に、会えてたら……」
きっと、俺はこうはならなかったのに。
他人任せ。自分が与えられて然るべきという、さながら餌を待つ鳥のような。そうして胡座をかいている人間に救いなんてないと知っているはずなのに、どうして俺はこうも醜いんだろう。
理性でわかっていても、衝動が口を衝く。堰を切ったように溢れ出した涙と嗚咽。喉が痙攣して、鼻が詰まって、息をするのにも一苦労だ。
「……ふっ、ぅ、ぐ、あぁ、……たす、っ、たす、けて……ぁぁ、なんっ、て、クソが……」
言葉にしてから、無性に死にたくなった。これまで慢性的に襲ってきていたその欲求。
考えることがもうつらい。
何よりも辛い。
つらい。
つらい。から。自分を殺して解放されたくなってくる。
でも、死ぬのも嫌だ。
ぐちゃぐちゃになった顔を袖で拭う。
着替えて、外に出る。
当て所なく彷徨う。
俺には女みたいな服は、やっぱり似合わない。このくたびれたジャケットが何よりも馴染む。
机に置いてあったタバコを手にとって、煙を撒き散らしながら歩く。
夜中にもなると少し肌寒さを感じる季節で、涙で濡れた頬がとても冷たい。くゆる煙が月に届く前に風に消えるのを見て、視線を下に落とした。
「最低だな、俺」少し歩くと、先程の発言が頭にまた浮かび上がってくる。「最低な俺は、いい人よりも早く死ぬべきなのに」
それなのに、いい人ばかり俺よりも先に死んでしまう。
世の中の不条理。いや違う。死ぬんじゃない。殺されるんだ。
誰に? そりゃあ決まっている。俺みたいな人間にだ。
そういうやつは、意外とどこにでもいるから。だから二人が殺される前に、俺が殺すべきだ。そう考えて自分の思考を振り払った。メンヘラの女かよ。俺はそういうやつじゃないだろう。
具体的にどういうやつかと問われたらなにも言えないが。
街を歩く。影の街を歩く。夜中ともなると蛍光灯では少しの範囲しかカバーされないようで、暗闇の中を歩いている気分になる。
歩いている。
こうしていると、子供の時の記憶が蘇ってくる。
兄の後ろを付いていった俺。父はその後ろから、俺たちを見ていた。
だから怖くとも進めていた。
今はどうだ? 歩けるか?
「……………………」
近くの塀に背中をつける。
別に怖くなったわけでもない。怖くなったわけでもないが、そのままそこで留まり続ける。
「……………………」
別に怖くないし。
「──ぇ──」
「……うん?」
何かが聞こえたような気がした。いや、聞こえた。この閑静な闇の中では音が響かないほうがおかしいのだが、わずかに響いた音が聞こえる程度。
きな臭い。
「──助け──」
今度ははっきりと聞こえた。
知るか。どうせ気の所為だ。俺が行ったところでどうにもならない。それになんでもないくらいのことでしかないだろうが。
ああくそ。
それなのになんで俺の足はそっちに向かってる。
馬鹿だ。大馬鹿者だ。好きに笑え。
と、向かった先で俺は信じられないものを見る。
倒れている複数の男。ただ一人立っているのは、どこにでもいそうな少女だ。
特徴のない顔立ち。記憶に全く残りそうもない少女。ただ、そのインパクトだけは忘れることはできないだろう。
「──アレ?」
彼女はなぜか少し離れた場所から見ている俺のほうに振り向き、はっとしたような表情をする。
「あ、アレ? もしかして、もしかしてですけど……ハピコさんでしょうか?」
「……え、あ、うん。うん?」
誰だろう。こちらの戸惑いに対して、彼女は「ああ!」と手をぽんと打って近づいてきた。
「はじめまして! 私、忠兎もぶって名前でVTuberとして活動してる者です!
善悪さんやなふだちゃんから話はよく聞いてますよ!」
「何話してんだあの二人……」
というか、忠兎もぶ。
『じぐざぐ』一期生であり、俺が完全に知らなかった相手であるはずだ。
彼女の後ろを見る。倒れ伏した男たち。いやチャラそうじゃなくてなんか黒服なんだけどなんだあれ。
忘れよう。そう思ったら、彼女が俺の視線の先を追って後ろを見た。
「ああ、あれはですね。人攫いさんみたいなものですよ」
「ひとさらい」
「ほら、私ってすごく平凡な顔でしょう? 昔からそうなんですよ。リアクションも普通とか言われちゃったし。学校のテストでは平均点ぴったりしか取ったことないですし、評定平均だっていつも3だったし……。だからよくああいう人に狙われちゃうんですよね。
いなくても変わらないって思われてるからかなぁ?
そのせいで腕っぷしだけが強くなっちゃって……」
「うでっぷし」
「ええ。ああして狙われるのは慣れてるので、あれくらいならあと十人いても余裕だったかも知れませんよ?」
お前は魔導の巨人か。
なふだは彼女のことを手放しで尊敬できるって言ってたけどちょっとアクが強すぎないかこれ。
男たちが逃げ去った後。
公園のベンチに腰掛けて、俺と彼女は話している。
自動販売機で飲み物を買って、一息を入れての話し合いだ。とはいえ俺は金を持ってなかったから、彼女に奢ってもらうことになってしまったが。
俺が飲んでいるのはあったかいココア。彼女が飲むのはコーヒー。それもブラックだ。この時間帯に飲むにはつらいものだと思うが、それでも普通に飲んでいるので、慣れているのだと思う。
「この時期は温かい飲み物がちょうどいいですねー」
「夏に放置したお茶よりはな」
温くなって、味もおかしくなってしまった麦茶は飲めたものじゃない。もったいないから無理して飲むが、好んで飲みたいわけじゃない。
けれど温くなった炭酸飲料は嫌いじゃない。もはやただの砂糖水のようなものだが、俺は砂糖水が嫌いじゃないから問題はない。
「ところで、ハピコさんはどうしてこんなところで一人歩いているんでしょうか?」
「別になんてことはないよ。ちょっと嫌なことを考えちゃっただけ。考えさせられたというべきか。
それも心構えをしてなかったからクリーンヒットだ」
ココアを飲んだ。甘ったるさが口に広がる。優しい味といえばいいのか。嫌いじゃない味だ。
だからといって好きでもない。あくまでも嫌いじゃないだけ。
違いはどこまでもある。大事な人が一人じゃないように、別にそれが特別ナンバーワンで大好きというわけではない。ただ無数に広がる嫌いよりは上に位置づいているだけ。
風が吹いた。寒気が鼻先を擽って、小さくくしゃみが溢れる。鼻を啜る音で隣の微笑ましそうな顔を無視した。
「きっと、私みたいな人と違ってハピコさんにはいろんなことが頭に浮かんでるんだと思います」
「今日初めて会ったやつの何がわかるってんだ」
「動画はずっと見てました。二人からいつも話を聞いてます。それで足りません?」
「ああ足りないね。全くもって足りない。俺ですらわからないのに、それだけしか知らない人間がどうしてわかるってんだろう」
「…………。本当にわかってないんですか?」
「わかってないよ。わかってるわけがないだろ」
わかっているわけがない。そうやって、瞼を閉じていることなんて自覚している。指摘されなくてもわかっている。やめてくれよ。そんな正論で刺してくるのは。
もともと、こんなのだって突発的な衝動でしかないんだ。そうだ。わかっている。
衝動で飛び出して、理由にもならない理由を探して。
全くそのとおり。なふだの言っている通りだ。俺のことを彼女はよくわかっている。
俺はそういうどうしようもない人間だから。
だから、どうしてもわからない。
俺には彼女がわからない。
こんな俺を、高く買っている彼女のことがわからない。
「そうですねぇー……」忠兎もぶを名乗る彼女は月を見上げた。「私にはなにも言えませんから、言いません。言っても鬱陶しいだけでしょう?」
「かもね」
「なので、二人に任せます」
足音。
それはこちらに近づいてきている。聞き覚えのある声も。
横を見ると、いたずらが成功したかのように笑う忠兎もぶを名乗る彼女。その手に握られたスマホに、LINEの履歴が映っていた。
『じぐざぐ』ライバー専用の部屋。マジかよ、普通そんなのはディスコードでやるもんじゃないのか。
会ったことのない、聞いたことのある名前が俺のことを探している痕跡。
こんな夜中なのにも関わらず。そんなこと必要なんてないのに。別に、こんなことしなくてもよかったのに。
「……なんでわざわざ探してたんだよ。こんな、俺みたいな会ったことのないやつを」
「さぁ? なんででしょうね。鏡を見たらわかるんじゃないでしょうか」
言われて、スマホのミラー機能で自分を見る。なるほど、最悪な顔をしている。今にも自殺してしまいそうだ。涙の跡まで残っていて笑ってしまう。こんなひどい顔をして歩いていたのか。
そりゃあ心配されてしまうだろう。
でも、それは会ったことのないやつを探す理由にはならないだろう。
そう訴えようと顔を上げて、
公園に飛び込んでくる姿を認めた。
「──っはぁっ、はぁっ、はぁぁぁぁあああ喉が冷たい焼ける燃える肺凍る……」
「も、もうッ無理……動きたくないです……」
真っ先に飛び込んできたのは、もう見慣れた二人。
俺を探してきたのか? なんで? わからない。どうして俺なんかを探すんだ。何もわからない。俺にはなにもわからない。
だって、そんなのとっくに捨てたものなんだから。なんでだ。なんで今さらになって。今日になって何度思ったかわからないそれ。
「あー、疲れたぁ! よかったぁ! 美人さんなんだからそんな格好で夜中出歩いちゃ駄目ですよまったくもう!」
「ご、ごめん?」
「ハジメさん……ぜぇ……はっ……ごほ……喉つめてぇ……」
「ご、ごめん」
「なーにクソ雑魚晒してるんですか先輩」
「走るの……つらい……」
大丈夫かなぁ……?
今にも死にそうな顔しているのを見ると、すごく心配になる。昔から運動は人並み程度にはできたし、体力は多い方だったからこうまで苦しんだ経験はない。
人って走るとこんな死にそうになるのか。
というか、こんなになるまで俺のために走ってくれるのか。
本当に。
全くどうして。
「そりゃあ決まってますよ」
こちらの心を見透かしたようになふだが言う。
「友人が泣いてたらどうにかしたいって思うでしょう?」
はて。
友人。
友人とは誰を指しているのだろう。
「……俺?」
「それ以外に誰がいるんですか……! え、あれ? 友達だと思われてなかった? え? え?」
「やーいやーい隣人ポジの女ー」
「それを言うなら先輩は隣人ポジの男でしょうが!」
反応に困って、横を見る。
特徴のない顔の少女は、こちらににっこりと微笑んだ。
「で。ハピコさんは、どう思っているんですか?」
「…………」
好ましくは思っている。
でも。それは、失ったときにとてもつらいから。
だから。
「あー、もう! まったく! すごくネガティブなんだから!
もぶ先輩!」
「はい。……その呼ばれ方、なんかすごく嫌な響きが……」
嫌な予感がする。逃げようと立ち上がったところを、隣に座っていた彼女が驚異的な反応で捉えた。
しっかりと極まった羽交い締めは抵抗しようにも全く動くことはない。何だこれすげぇ。
「はいこちょこちょ」
「──っっっ!?!?!?」
擽ったさに体をよじろうとして、動くこともできずに息が喉からあふれる。
「っく、ふ……!」
「センシティブな内容が含まれている可能性があります」
「っ……はなせ! やめろぉ! っぅっ、くゅっ」
「ほーらちょっとだけ元気になった! どうだ! 簡単なことでしょう!?
難しくないでしょう!? ほら! あと先輩は後でマジビンタ」
妥当。
解放されて、息を吐きながら体をベンチに預ける。
わからない。
わかりたくない。それでも俺にはまだわかりたくないのだ。
だって、それを認めてしまったら。失った時に、今度こそ立ち直れないから。
擽ったさを刺激されて、涙も自然に溢れてきた。ああ、そうだ。これは擽られたせいだ。俺が悲しんでいるわけじゃない。そういうわけじゃないんだ。
「ほら、ハピコさん! イエスかノーで答えてください! 私たちのこと、どう思ってますか!?
好きですか!?」
「…………いえす」
「じゃあ、ちょっとばかり私達を頼ってくださいよ。そんなに頼りないですか? 信用なりませんか?」
「違うよ」即答した。即答できた。「ただ怖いだけなんだよ、置いていかれるのが」
「そんなの私だって怖いに決まってるじゃないですか。先輩もそうでしょう?」
「……ああ」善悪は、実感が籠もった声で。「怖いさ。置いていかれるのは、怖いに決まってる」
「だから三人一緒なんですよ。わかりました? だから、置いていきも置いていかれもしない。横並びで歩いていきましょう」
「もし明日誰かが死んだら?」
「死にませんし死なせませんよ。ていうか死にそうな人筆頭がなに言ってるんですか全く怒りますよあーほっぺ柔らか」
「怒ってる……」
ほっぺをうりうりとされながら、俺はつぶやく。
でも、そうか。
だから二人は俺を追いかけてくれたのか。
「……尊いってやつですか、これが……」
「何言ってるんですか先輩は」
「あーあ、かわいいなぁハピコさんもなふだちゃんも善悪さんもなー!」
そう冗談のように言ってから、彼女はにっこりと俺に笑みを見せた。
「まぁ、私……というか、私達がハピコさんを探していた理由なんてそんなものですよ。意外と私、三人のコラボ好きなんですから」
「…………そんなものが、動く理由になるのか?」
「なるんですよねぇ。それにこれもまぁ、一つの思い出じゃないですか」
それでは。そう言って、忠兎もぶを名乗る彼女は去っていく。
彼女なら一人でも危ないということはないだろう。
俺は。
二人を正面から見た。
「帰りましょうか。俺たちの家に」
「アパートだけどな」
手を出した。
二人が両側からそれを握る。
そして、そのまま歩き始めた。
空を見上げる。星は見えない。けれど月は爛々と輝いている。
綺麗だと思った。そう思った。手を伸ばせば届きそうだと、今はふと思った。
思ったんだ。
横並びで歩いている。
俺は今歩いている。手のひらから伝わる体温が冷たい今には心地いい。
歩幅を合わせて歩いている。
ふと足を止めた。二人も歩みを止める。
「どうしました?」
「いや、なんでもない」
置いていかれることはない。一緒に俺たちは歩いている。
いつか置いていかれない保証はないけど、それでもこの瞬間は横並びで歩いているから。
今はただ、それだけが心地良い。
二人の腕。
誰かの腕。
俺はずっと、それを掴んでいたかった。
前回と日にちは変わってない問題
ハジメちゃんのレベルが1上がりました
性格が1上がって2になりました
カンストは65535
なにか解決したり進歩したみたいな雰囲気を見せてるけど根本的な解決じゃないから亀の歩みみたいなものです。でも一歩は一歩なのでハジメちゃんかわいい
ハジメちゃんで変換すると一歩ちゃんになるという無駄話も添えておきます
番外編をするとしたら
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過去編
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公式ライブ
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なふだちゃんお家騒動
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全部