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雲一つない空から、月明かりが降り注いでいる。
高層ビルヂングの乱立する眠ることを知らない市街地に、変哲のない三階建てビルヂングが、他の構造体の影で狭く埋もれそうになりながらこじんまりと建っている。
出入口が、金属の擦れる音を立てて内側から開かれる。その奥から、欧米風の顔立ちをした長髪の男と、深夜でありながら遮光サングラスをしている強面の男の二人が、満月の下に姿を晒した。
強面の男は周囲を警戒しながら視線を巡らせていたが、長髪の男は鼻筋の通った顔に薄っすらと笑みを浮かべており、男たちが現れて間もなくすると、正面に黒いセダンが二台停車する。
強面の男が後ろの車の扉を開くと長髪の男が乗り込み、扉を閉めた強面の男がもう一台のセダンに乗り込むと、車は緩やかに走り始める。
微かな振動に揺られながら、後部座席に腰を下ろす長髪の男は紫外線反射加工の施された窓越しに夜景を見つめている。
「どうでしたか」
運転手の男が静かに問う。バックミラーには、脚を組んで外を眺めている
「連中、初めは聞く耳を持たなかったが。最後は分かってくれたよ。誠意をもって俺が話したからな、納得していた」透き通るように白い指を撫ぜながら、爪の表面に僅かにしがみ付いていた血糊を、そっと一息で吹き飛ばして。「何でも用意する、何でも言われたとおりに従うとさ。奴ら、泣いて喜んでた。気のいい奴らだったな」
「それはそれは。ラークは?」
「使い物になってたな。あれなら、ヒト相手の護衛くらいなら問題はない。見た目もいかついし。おまえの代わりとは、なかなかいかないが」
「では、いよいよですね」
「ああ」男が満足そうに頷く。「ここからだ。必ず返り咲いてやる」
市街地の入り組んだ道路を進み、車は二台続いて、速度を落としながら大型ホテルの地下駐車場に入る。
強面の男の乗る車が、空席の駐車スペースに向かおうとしていたとき、他の車の影から不意に現れるものがあった。
引き金。
着弾。
爆発/衝撃。
強面の男の乗る車の背後、長髪の男の乗っている車の後輪部に榴弾が突き刺さり、炸裂によって破壊が撒き散らされた。爆炎が車を呑み込み、尻を蹴り上げられるように逆さまに引っ繰り返ると、駐車場を支える柱の一つに激突する。閉鎖空間に振動が反響し、慌てて急停止した前の車から強面の男と運転役の男が飛び出すと、燃料に引火して更に爆発が熾き、男たちは必死の形相で駆け寄ろうとした。
同時に圧縮された空気の抜けるような音が鳴り響き、強面の男の額が弾け飛んだ。咄嗟に運転役の男は車横に身を屈め、仰向けに斃れた男のほうを窺う。顔の半分が吹き飛び、頭蓋の中身を
運転役の男は懐から
着弾。
爆発/衝撃。
身を隠していた車が吹き飛び、運転役の男はもんどり打ちながらも人より優れた身体機能で着地し狙いをつけ、引き金を絞る。
銃声。
男の
炎が燃え盛る地下駐車場に、変わらない速度で足音が響いた。
足音が止まると、背の高い、黒いコートを纏った人物が立っている。背が高く、身体つきから男だということは判るが、白い仮面を付けているため人相を知ることはできない。
片手には
仮面の男が、運転役の男の亡骸を見下ろした。爆発の余波で俯せになった強面の男と同じく、二つの死体は見えない炎に焼かれたかのように、急速に「灰」に変じつつある。
仮面の男はシュトルムピストーレの中折れ機構を開いて薬莢を排出すると、劇的な爆発と反動をもたらす対戦車用成形炸薬弾を手際よく再装填した。
直後に車の扉が勢いよく蹴り飛ばされ、他のフロントガラスに突き刺さった。
「まったく」
燃え盛る炎のなかから、長髪の男と運転手の男が現れる。髪は焼け皮膚は溶けていたが、すぐに服も元通りに再生されてゆく。運転手の男のほうは再生せずそのままだったが、衝撃に堪えた様子はない。ちらと二つの亡骸に目を向けた。もはや灰は塵のように吹き消され、痕跡は衣服しか残っていない。
「ひどいな。やってくれたもんだ。ラークも、なにアッサリとやられてやがる。少しは根性だせよ……どこの組織なんだ、いったい?」
かぶりを振る長髪の男へ、躊躇わず仮面の男は銃撃を放った。
顔を上げ、余裕然と微笑した。
「そうか、おまえ
仮面の男は答えない。空気が張り詰めてゆく。
「マルボ」
「はい」
運転手の男が答えた。
「生け捕りにしろ」
「かしこまりました」
気配が変わる。運転手の男が殺気を放ちながら前へ出るのへ、仮面の男は躊躇わず引き金を引いた。
運転手の男はネクタイを解き、スーツのボタンを外しながら、弾道が見えているかのように銃撃を躱す。仮面の男に一歩ずつ近づいてゆく。
歩きながら、気配が膨らんだ。物理的に運転手の男の身体が
銃声が反響した。顔面へ撃ち込まれる
宙を飛翔する自動車を眼前に飛び退き、仮面の男は背後で炸裂する衝突音を聞きながら
腕力のみならず脚力も獣と化して肉薄した人狼が、猛然と拳を振り下ろした。屈んで躱された一撃が勢い余ってコンクリート面を陥没させ、危うく粉砕を免れた仮面の男は、後退した
人狼は、しかし鋼鉄に匹敵する筋線維の塊である巨腕でダメージを防ぎつつ、薙ぐように振り回した。
車両と激突し、ライトバンがきりもみしながら宙を舞う。
肉体性能で不利を強いられる仮面の男は、掴まれないよう動き回りながら射撃で応戦。常に片方の足が床に着く独特の歩法で獣の五指をすり抜けるが、弾着の痛みをものともせずに猛打する人狼を突き放すことができない。盛大に落下して大破する車。飛び散るテールランプ。
人狼は更に踏み込んで左で
人狼が一気に肉薄すると、仮面の男は素早く銃を後ろに捨て太腿に取り付けてあったナイフを引き抜いた。振り下された強烈な拳を
人狼は追撃はせず、指骨と指骨の間にめり込んだ刃片を引き抜くと、母国語で口汚く罵っている。
仮面の男は折れたナイフを鞘に戻し、SOCOM-Mk23を拾って
長髪の男は観賞の態を取り、懐から取り出したフィリップモリスにオイル・ライターを近づけた。爆発と鳴動。混じ入った絶叫。煙を吐いた長髪の男が髪を掻きあげながら顔を上げると、五発の銃声が轟いた。
人狼が、煙を立てながら倒れ伏すところだった。
「はあ?」
横たわった人狼の片腕には、黒い布がまとわりついている。仮面の男の着ていた防弾防火処理の施された外套。今は男は着ておらず、防弾服姿になっている。
長髪の男が目を離した隙に繰り広げられたのは、生死を分ける一瞬の攻防だった。
柱を背にした仮面の男が、まず右腕の怪我を偽装して相手の油断を誘った。人狼の大振りを躱しざま瞬時に内側に踏み込み、庇っていると見せかけていた右手で脱ぎ捨てたコートを投げつける。意表を衝かれた人狼は視界を奪われて布を剥がそうとするが、そのときには仮面の男はホルスターからシュトルムピストーレを引き抜き銃爪を絞っていた。コートを振り払った人狼の眼前には仮面の男ではなく着発信管式榴弾が迫り、炸裂。咄嗟に両腕で庇ったものの.45ACP弾とは比較にならない火力が破壊的音響を伴って人狼を呑み砕き、遮蔽物である柱に飛び込んで爆発から逃れた男は、直撃してなおも倒れず人体の形状を保っている
轟音。空薬莢。大脳をぶちまけた人狼が、今度こそ背中から
長髪の男は、唖然としていた。仮面の男は用心するように、斃れた人狼に更に二発撃ち込む。起き上がることはない。また吸血種と違い、こちらは灰になることはない。
「おいおい、嘘だろう?」
長髪の男が、大きくかぶりを振った。
「そりゃないだろうが。そいつは俺の、右腕なんだぜ? その辺の奴らとは」抜け殻の衣服を煙草を挟んだ指で指し示しながら、少し声を上擦らせて言う。「その辺の雑魚どもなんかとは違う、替えの利かない、俺がのし上がるのに必要な右腕だったんだ。それを、おまえ。こんなところで」
「残念だったな」
仮面の男が、ぼそりと言った。
静かな声だったが、アラートの響く地下駐車場にあっても、それは長髪の男の動きを止めるのには充分過ぎるほどの効果があった。
口を動かしかけた長髪の男の
凄絶な弾雨がけたたましく列を為し、反応の遅れた長髪の男に鋭く衝き刺さる。反動を完全制御された
流れてきた炎上車の煙と硝煙が溶け合って薄れ、血の海に着地した煙草の煙が音を立てて消える。
仮面の男が倒れ伏したものに近づくと、車の影から、小柄な体型の人物が現れた。仮面の男が人狼の攻撃を捌き続ける間も身を潜め続けていたその人物は、仮面をつけ、男と同じように黒い外套を纏っている。
「悪いわね、いいトコ貰っちゃって」
声からして、女だということが分かる。空になった湾曲型弾倉を捨てて新しいマガジンを
「ちょっと煙たくなってきたし、そろそろ結界を解いて此処から離れないと」
仮面の男の視線の先では、長髪の男が横たわり、
「どうし――」
仮面の男が、女を押し飛ばす。
銃を構えようとした瞬間、仮面の男の腕が捻じれ、千切れた。
激しく血が噴き出す。