「コールレイン大尉はもうお会いになりましたか?」
事務仕事の傍ら、ある部下がゼファーに話しかける。仕事中の上司に雑談を振るというのは規則やしきたりの面で考えればよろしくない事だが、これにはきちんと理由があった。
ゼファー・コールレインは暇なのである。ゼファーは極めて優秀な
普通ならばその時点で、この縁故主義がのさばる帝国では、士官として不適当という名目で昇進を弾かれるだろう。だがしかしここは改革派筆頭たるチトセ・朧・アマツが隊長を務める裁剣天秤である。実力主義のお題目の元、高い功績を挙げたゼファーには当然昇進という名の褒美があった。
褒美として昇進したはいいものの、事務仕事に向かないという事情には対処しなくてはならない。結果、事務仕事が得意な隊員に仕事を手伝ってもらうという形式に落ち着いた。
最初はゼファーにもきちんと仕事が回っていたが、次第に手伝う部下たちが最終チェック以外のすべてを自分たちでやったほうが早いという事に気づき、口裏を合わせて権限上問題のない範囲ですべて行うようになってしまった。
そして、暇している上官への気遣いに話題を振っているわけである。これでは完全にお荷物のダメ将校だが、部下たちはゼファーを決して見下してなどいない。ひとたび鉄火場に出れば鬼神のごとき活躍をし、誰もが不可能だと思われた作戦を単騎で成し遂げる様を見てきているため、むしろ事務の時間くらい休んでほしいという思いやりであった。
「あ、ああいや。会ってない」
とぎこちなくゼファーは答える。彼は今、猛烈に居心地が悪かった。部下たちに仕事を全部放り投げ、暇しているだろうと気遣いをされている状態に、猛烈な自己嫌悪を抱いていたのだ。
しかし落ち込んでばかりはいられない。あまりくよくよしている訳にもいかず、会話を続ける。
「しかし、アマツのお嬢様が裁剣天秤に来るってのはマジなのか? 確か潮家の―――」
ゼファーが名前を思い出せないでいると、部下がすかさず答えた。
「ミヅキ・潮・アマツ少佐ですよ。
その内容にゼファーは顔をしかめる。貴種で女で最前線で無双するタイプ。間違いなくチトセと同類だろう。チトセが二人に増えた図の事を考えれば、眉間の皺も増えようものである。
「しかし、このタイミングで少佐が転入となると、俺はてっきり副隊長職に就くもんだと思ってたが、違うのか」
「ええ、朧隊長は次の副隊長の指名はまだされていませんね。先代の朧様の死から間もないですし、副隊長の交代はまだでしょう。それに、次期副隊長は―――」
部下が言葉を止める。
「どうした?」
「いえ、出過ぎたことを言いました。仕事に戻ります」
そういって部下は言うのをやめてしまった。
話し相手の無くなったゼファーは、その少佐の事を考えてみる。
潮の家といえば、確か朧とは違い武官の家ではなかったはずだ。そんな深窓の令嬢が軍に志願した、それも最前線となれば相当な理由があったはずである。しようと思えば弾丸の飛んでこない銃後での業務を希望する事もできたはずだし、前線でさえ護衛を引き連れて《武功》を立てることも可能だったろう。
だが、裁剣天秤に転入するとなるとそんな腑抜けは許されるはずがない。そういう血統の優遇にモノを言わせた行動は隊長たるチトセが最も嫌うものだからだ。
となると、自分の力で文句なしの武功を挙げられる人物という事になる。やはりチトセタイプの人間なのだろうか? おとなしい大和撫子が好きなゼファーからすると、どうしてもため息が出る話ではある。
尊敬こそできるが、そういう真に高貴な存在は、同時に自分の不出来さを見せつけられるようで苦手だったのだ。
その時、コンコンというノック音共に、硬質な男の声がした。
「失礼します」
入ってきた男は貴種の血を連想させる黒髪と、感情を感じさせないぶっきらぼうな表情をした男だった。その独特な雰囲気に、ゼファーはある名前を連想する。
ムラサメ。この新西暦において、真の貴種たるアマツを守るため、武の従者として存在してきた一族の名である。
だがその考えは、次に入ってきた人物を見て吹き飛んでしまった。
腰まで届く濡れたような黒い髪。白磁の肌と、宝石のような瞳。それらを引き立てる
「失礼します。来月よりこの裁剣天秤に配属される。ミヅキ・潮・アマツと申します。本日はご挨拶に参りました」
そのいかにも深窓の令嬢然とした雰囲気に、この部屋の誰もが彼女と、転入予定の軍人貴族を一致しかねていた。
しかし無視するわけにもいかず、この部屋の中で一番階級の高いゼファーが返答する。
「いえ、ご丁寧にどうもありがとうございます。しかしですね、朧隊長はこの部屋でなく、この階の突き当りの―――」
きっとチトセに挨拶しに来たのだろうと、そう考えたゼファーの言葉を遮るように、ミヅキは言った。
「いえ、朧隊長にはもう会ってきましたわ。私は単にこれから共に戦うことになる皆さまに挨拶をしに来ただけですので。お気遣いいただきありがとうございます、コールレイン大尉」
「あ、いや―――」
ゼファーの脳内は混乱する。挨拶周りだと? 少佐が? アマツの令嬢が? それに名を名乗った覚えも無いのに氏名階級を把握しているのは一体何故だ? まさかこの人はチトセの審美眼に叶う
一瞬、返答に困っていると、おそらくムラサメだろう従者の男が言う。
「潮少佐。そろそろお時間ですので」
「ああ、お騒がせして申し訳ございません。転入手続きが済み次第、また顔を出させていただきますので。失礼しました」
そう言うとミヅキと従者の男は部屋を出て行ってしまった。しばらくして部下たちがミヅキ・潮・アマツという人物に対しての感想を話し合っている中、ゼファーは、また意識の高い人物が入ってきそうだと頭を抱えていた。
†
ミヅキ・潮・アマツの訪問から数時間後。業務終了時間となり、ゼファーは一人喫煙室へと向かった。別に煙草を吸うためではなく、一人になるためである。裁剣天秤には喫煙者がいないため、実質空き部屋と化しているのだ。そこでようやく一息つこうとしていたわけである。
だがしかし、今日は珍しく先客がいた。しかもしっかり、煙草を吸っている。
喫煙者の隊員がいたのかとゼファーが顔を見ると、先ほどのミヅキの従者の男であった。
「どうも」
男は短く挨拶する。階級章を見るに男は大尉である。同じ階級故かやや砕けた態度であった。
「どうも。しかしアンタ、こんな所で油を売ってて良いのか? 」
護衛だろうその男が、煙草を吸うために対象から離れるとはとんでもない事だろうと暗に指摘すると、男は苦笑して言う。
「まあ名目上は、ですよ。俺なんかが居なくても何とかできますよ。というか、家の方を納得させるためにくっついてきてるだけで。そもそも護衛など必要ないですし」
初見とは違い、意外ととっつきやすそうな人物である。変わり者のアマツには変わり者の従者が付くものなのだろうか? ムラサメとしてはずいぶん感情豊かである。
「ムラサメのアンタから見ても、潮少佐は凄いのか?」
「ええ、主だという色眼鏡抜きにしても凄い無双ぶりですよ。それに、俺はムラサメじゃないです」
意外な言葉に、ゼファーは聞き返す。
「ムラサメじゃないのか。黒髪でアマツの護衛ときたからてっきりそうかと」
「いやまあ、血筋がそうなのは否定しませんよ。両親も、そのまた両親もムラサメの血筋です。まあ所詮、ムラサメというブランドから外れた規格外の粗悪品にすぎませんけどね」
ひどい自己否定の言葉。確かにムラサメは一族に生まれようと、剣の腕を認められなければムラサメを名乗る事を許されないと聞く。ならば確かに、ムラサメの剣を履修した落伍者が居てしかるべきである。
その自己嫌悪も、アマツの護衛という名目上、他のアマツの護衛として行動している本物のムラサメに出会う事は多々あるだろう。そうなれば、不良品と自分を思い込むのも納得のいく話だった。
「コールレイン大尉も大変だと聞きますよ。当代の朧様に取り立てられたと。何というか、煩わしい事も多いだろうに」
スラム街出身でアマツの懐刀をやるのは、血統主義の最深部とかかわる事でもある。自分を卑しい血の成り上がり者としか評価しない人たちの中で過ごすことになるのはつらいだろうと彼は暗に言う。
「まあな」
ゼファーの短い返事の後、二人の間には沈黙が流れる。
言ってしまえば弱音や愚痴など幾らでも吐けるゼファーだが、ほぼ初対面のこの男にどれだけ襟を開いてもいいものかとしばし考える。
だがしかし、才能があり努力を惜しまない主を持ち、自分は血統も才能も欠ける立場にあるという似た境遇に、ゼファーは共感を感じずにはいられなかった。
「何というか、苦労するな。お互い」
「ああ、お互いに」
なるほど、この男は同類だと。この男も裁剣天秤に来てくれるなら、少しは楽になれそうだと思い、手を差し出しながら言う。
「そういや、名前を聞いてなかったな。俺はゼファー・コールレインだ。あんたは?」
男は苦笑しながらゼファーの手を握って言う。
「悪いね、名乗り忘れてた。リュウセイだ、リュウセイ・コノエ」
善良な