さあ、信長はどんな天下の舵取りをするのか……
その日、京の都から随分装飾が鮮やかな、一言で言ってしまえば雅な屋根付き馬車が数台出発した。
町人は随分と見惚れ、きっと中には相当位の高い人が乗っているに違いないと誰もが思った。
それもそのはず、中に乗っていたのは日ノ本の頂点である、天皇。
事の発端は、信長が征夷大将軍の官位譲渡の儀式を築城が完成したばかりの安土城で行いたいという意向を天皇が飲んだことである。
天皇が京から出るのは極めて異例なことではあるが、信長は、天皇専用の部屋も作ったため是非お越しくださいと言ってきたので天皇はそれを許諾した結果となる。
横には、現征夷大将軍である足利義昭公も乗っている。
道中は多少長くなるだろうが辛抱してほしいと御付きの者からは言われていた。
「……しかし、あれじゃな、儂は信長が征夷大将軍になるとは思わなかった」
「そうなのですか?」
「うむ。征夷大将軍は武家の位としては高いが朝廷での官職としての位はあまり高くはない。果たして、信長がそれを望むものかとな」
「成程…。正親町様はそうお考えになっていたと」
「そうじゃな。武士の台頭によって公家の時代も終焉を迎えた。あの男が天皇を大事にするかは未知数じゃった。…延暦寺の件もあるしな」
「……あれは私自身が逆賊として討伐を命じました。正親町様がお考えになることではないかと……」
「そうじゃったな。政権を武士に渡す……それはつまり武士がその先、少なくても百年はその時代を動かすということじゃ。これでますます公家衆は肩身の狭い時代になるわけだ」
「…………」
征夷大将軍になってほしい、そう頼んだのは他でもない横の義昭である。果たして、自分の判断は間違っていたのか、何度も考えた。
しかし答えは出なかった。結局、義昭は自身が自由になることだけを望んだのだ。この度の譲位は公家衆にとどめを刺す行為になるかもしれない……。
「まあ、お主がそう苦しむことはない。お主は充分に頑張った、儂はそう信じておるよ」
「勿体ないお言葉であります」
義昭はとりあえず一安心した。
「……儂もこのところ体調が悪い。これが、儂の最後の仕事になるかもしれん」
「なんと……」
「お主と同じ、儂も腸に一物抱えているようだ。お主との違いは、……もう長くはないかもしれない、ということだ」
「そんな事を……」
「出来れば、信長に譲位の依頼を出しておきたいのだ。
「信長は、受けるでしょうか?」
「儂は受けると考えておる。あくまで、希望的なものではあるがな」
「遂にこの時がきたか……」
安土城天主、織田信長は安土城の最も上部で琵琶湖を遠眼鏡で見ながら気を落ち着けていた。
ここまで来るのは長かった…。
だがそれにも増して辛いことが何度もあった。
安土に拠点を移して以降、信長は織田家を中心に大々的な構造改革を行った。
その一番目に行ったのが、家臣であった佐久間信盛や林秀勝の所領の没収だった。
結局、最後に頼りになるのは力のある親族だ。そして土地は有限であり、貴重なものだった。だから何としてでも所領の没収と親族への分配はやらなければならないと信長は考えた。
だが、当然佐久間らは反発する。
「そんな……我々が何をしたというのですか!?」
「提案に乗らなければお前たちは追放だ。文句は言わせん」
「織田家の為に尽くしてきた結果がこれだというのですか!? 私は納得がいきません!」
「落ち着け、林。信長様にはどうやらお考えがあるようだ」
「佐久間様!?」
佐久間はそろそろ家老の座を降りるのではないかと噂されていた。それだけに此度の所領没収には何か一言あるようだ。
「聞かせていただけますかな? 信長様のお考えを……」
「言わぬ、と言ったらどうじゃ?」
「それでも聞きとうございます。ひょっとしたらこれが信長様への最後のお願いになるかもしれないのですから」
「…………」
信長は一呼吸置いた。
「……儂は、これほどまでに日ノ本の国が荒れたのは、つまるところ幕府に大きな力がないからだと考えた」
「ほう……」
「室町幕府初代将軍は所領の大盤振る舞いをしてしまったと言われている。それゆえに乱世の世、詰まるところ、国盗りの世は始まったのではと考えた。
しかし土地は有限だ。所領には限りがある。それを儂の息子たちに分配しなければ、新しく出来る織田の幕府も大きな力を持てず、再び国は荒れる。そう考えたのじゃ」
「成程。確かに理屈は通ってますな。その為に、何としてでも一部の家臣の所領を奪わなければならなかった、と……」
「そんな……他に方法はなかったのですか!?」
林秀勝は信長の言葉にまっこうから反発する。
一方で、佐久間信盛は冷静に場の空気を読みながら信長の言葉を聞いていた。筆頭家老の座は伊達ではない。この程度の言葉、自分の中で咀嚼できねば今の地位には付いていない。
「佐久間よ。儂の言葉は伝えた。さあ、どうする?」
「…………ふむ、分かりました。この佐久間の所領、信長様にお渡しいたしましょう」
「佐久間様……!」
「林よ。おまえの憤慨する気持ちも分かる。だがここは儂と運命を共に出来ぬか?」
「そ、それは……」
「昔、誰かが言っておりましたなあ。信長様の強さは、どこまでも非情になれることだと。敵にも、味方にも……」
「……!」
信長は覚えていた。あの時は頭に血が昇ってはいたが、その言葉、しかと頭に焼き付いている。
「私は信長様の敵にはなりたくありません。ですが、これが縁の切れ目です。私は織田家から追放ということでよろしいですかな?」
「う、うむ……。じゃが佐久間よ、お主これからどうする気じゃ?」
「そうですなあ、安土の城下で団子屋でも開こうと考えております。隠居先にはいい判断かと」
「わ、私は、正直、まだ納得はいきません。ですが、信長様の敵にもなりたくありません。……是非もなし、です。私も追放をお願いします。城下で呉服屋でもやりますかな。はぁ~」
こうして、武士から商人に鞍替えすることを決めた佐久間と林は追放という名目で所領を没収された。
ここは信長本来の非情さが出た形になったわけだが、信長は佐久間のあの言葉が耳から放れなかったという……。
(……横溝)
そして構造改革2つ目が、明智光秀の隠居の薦めであった。
それはお互い良き日和の中、庭を見ながら始まった……。
「……よい日和ですなあ、信長様」
「うむ、まあな……」
信長は正直、この言葉を光秀に伝えるべきかどうか迷っていた。しかし、ここは奥歯を噛み締めて耐えてでも伝えなければならないと考えた。
「光秀よ……」
「はい……」
「……お互い、年を取ったものじゃなあ」
「……ですな。私も、髷を結えなくなって久しゅうございます。なのに、所領の丹波の民達はそれはもう我が儘でして。なんとか治水工事に勤しんだりして緊張をほぐすほかありません」
「……。お主は、このままでいいと考えておるのか?」
「はて……? 私は与えられた仕事に勤しんでおるだけですが」
はぐらかすような言葉だった。光秀の言葉に何が含まれているのか、信長は計りかねていた。
ここから先はあまりに辛いことを話すことになる。
「……光秀よ」
信長が光秀の肩をがしりと掴んだ。
「……お主、また倒れたそうじゃな」
「おやおや、信長様には隠し事はできませんなあ」
「もし、儂がお主に隠居を勧めたら、お主は受けるか?」
「……難しい問題ですな。息子が成人するまでは死ぬわけにはいきませんが、果たしてそこまで生きられるかどうか……」
「なら、なおさらじゃ。隠居せよ。これは儂の命令だ」
「……信長様。私は死ぬまで織田家の武将であると以前伝えた筈です。それでも私は不要と申されますか?」
「これは、お主を思っての事じゃ。これ以上、老いて朽ちるお主を儂は見たくはない。息子に対しても最大限の加護を与える。その条件で今の地位を降りてはくれぬか?」
光秀にとっては、とても難しい提案だった。
今、首を縦に振れば老後の待遇は手に入る。だがその代償として、家老の座と、自身の追放が付いてくる。
自分はお役御免ということか、それとも……、
「……私は今の座を降りた方が信長様には都合がいいと?」
「……嫌な言い方をするな。……そうじゃ」
「…………」
光秀は、覚悟を決めた。
「……分かりました。命に寄って隠居させていただきます」
明智光秀、この時引退を決意する。
「お主はこの後どうするつもりじゃ?」
「そうですなあ……。丹後の細川殿の元へ寄り添おうかと思います。あの方なら私を受け入れてくれるかと。ああ、細川殿には丹波の増領としておいてください。細川殿も喜ぶでしょう」
「分かった。委細、そのようにする」
「それと……、信長様に提案が」
「なんじゃ? 申してみよ。大抵の無理は聞くつもりじゃぞ」
「では……、牢獄にとらわれた横溝殿、彼を出獄させる気はありませんか?」
「……! そ、それは……」
「あの方と戯れている信長様は、いつも楽しそうでした。私にはそう見えましたぞ」
光秀は去っていった。
(横溝……あやつか……)
そして最後に手を打ったのが、渡人・横溝由紀の入獄だった。
それは謙信と愛と三人で仲良く安土の城下に訪れて間もない時であった。
岐阜城下の町民たちは誰もが別れを惜しんだ。
それと同時に、老人のような姿となった横溝が放つ悲壮感には皆が複雑な気持ちであった。
土産を多く渡され、元気でな、と抱き合い、横溝一向は岐阜を後にした。
そしてここが安土か、ここが俺の新しい居住地か、と色々考え、初日は謙信と愛で鍋を囲み、団欒を楽しんだ。
それから間もなく、である。
渡人・横溝、謀反の疑いあり。安土の城の方で入獄させる。これが安土から来た信長の兵による通達だった。
当然、隣人である謙信と愛は強く反発した。横溝殿がそんなことをする筈がない。これは何かの間違いだ、と。
しかし通達を聞いた横溝は冷静であった。やはり、この時が来てしまった、と。
横溝は謙信と愛に言った。これから信長は天下取りではなく天下の為に動かなくてはならない。その時に、不死身の家臣など邪魔でしかない。信長は、邪魔者を放置するほど甘い男ではない、と。
だがそれを聞いてもなお謙信たちは反発した。あなたはわたし達にとって大切な家族である。それを奪われては生きてはいけない、とまで言った。
横溝は謙信を抱き寄せ、ただ一言こう言った。有難う、と。謙信は涙を浮かべた。愛も泣いた。
配下の者に、横溝は、準備は出来た。連れて行ってくれと言った。
謙信は毎日でも返してくれるまで安土城に行くと強い想いで言った。横溝は笑った。
「ふう……」
横溝は便を済ませ、一呼吸置いた。こんな時代である。ウォシュレットなどあるはずもない。和式の便座には慣れたが、牢獄の便所にするのはまだ慣れない。
ただ、便を土にするというトイレの習慣があるからまだ良かった。日本でヨーロッパのようにペストが流行らなかったのはひとえに厠の存在に会った。
もし日本がヨーロッパの都心のように出した大便を窓から捨てていれば、疫病の頂点である黒死病が蔓延し、日ノ本の国は大混乱に陥り、戦どころではなかっただろう。
「…………あのベルサイユ宮殿にもトイレはないらしいからなあ……」
食事は乾いた飯に具のない味噌汁、おかずが一品。粗末なものである。そういえば、クリムゾンの所持者は食事を満足に与えられない状況に陥ったらどうなるのであろう。
そのままやつれて死を迎えるのだろうか。自分で試してみるのも、この際悪くはないか、横溝はふとそう考えた。
(今日も謙信たちは俺を連れ戻そうとここに来ているのかな……迷惑かけるのは嫌だな……)
「クリムゾンよ、おまえは俺をどうするつもりだ……?」
ホルスターに入れられたクリムゾンは紅く輝くことなく、静かに眠っていた。
なお、一度自殺を試してみたが、結局、脳がはじけ飛んでその後再生しただけだった。あの時は痛かったなぁ。横溝はふと思い出した。
「まあしょうがない。もはや俺はお役御免だ。天下の舵取りは信長が行う。俺は見守るのみ……。餓死でもすれば終われるかもな」
(信長……お前さんの事、嫌いじゃなかったぜ)
話も佳境に入りつつあるのにまるで盛り上がりませんね。
マアコンナモノダロウ。