「玄米が欲しい?」
「ああ……」
もはやすっかり岐阜城下の顔なじみになった横溝であるが、今日は行きつけの万屋に相談にきていた。
この時代、米は既に精米されて売り出されているのが殆どで、あの白く輝き、湯気立つ炊きたての米こそ庶民の有り難味の源であった。
しかし米屋を幾つか回ってみたが、米俵の中身は全て白米であった。
別にチーズを買いに行くわけでもないのに、色々難儀するのがこの時代である。
こうして何とかならんもんかと足を運んだのが、かつて仕事を紹介してもらった万屋というわけだ。
「……ない、こともないんですがね」
「本当か!?」
「ええ、米屋はともかく、農家には精米作業を面倒くさがる奴もいましてね。そんな半端物がたまに出回ることもあるんですよ。確か、うちにも数本……」
「買う!」
「ええっ!? 本当ですかい!?」
「俵ごと買う。売ってくれ!」
「……ま、まあ買うってんなら準備しますし、どうぞお買い上げ有難うですけど」
「サンキュ、恩にきるぜ」
「さ、さんきゅ? ……まったく、渡人の考える事はよく分かりませんなあ」
横溝にとって、玄米は主食だった。これさえ食べればビタミン、ミネラル、食物繊維を豊富に取り入れられるため、毎日健康、かつ快便。
大学時代からよく食べていたものだ。なくては困る。
「なんだ、今日も足を運んでくれたのかい?」
「おお、大旦那か。まあね。ちょいと欲しいものがあってな。買い付けにきたわけよ」
「大旦那、この渡人さん、玄米が欲しいって言ってきましてねえ」
「玄米? あの茶色い白米の紛い物呼ばわりされてる、あれか?」
「そう思うのはこの時代のお前さん方だからさ。玄米食べてりゃ毎日健康でいられるぜ。1度試してみな」
「はっはっは、機会があったらね。ところでこの前は味噌を買いに来てたっけ」
「そうなんだよ。この時代、味噌は一家に一つちゃんと熟成させたものがあるらしくてな。俺も試してるんだけど、まだまだ時間がかかるからなー。
味噌蔵から直接買おうかと思ったんだがまだ熟成が足りないからって言われて売ってくれなかったんだ。ひょっとして俺、袖の下でも要求されたのか?」
「その可能性はありますねえ。美味い味噌を作る味噌蔵ほど融通がきかないってことはよくありますよ」
いつの世も得体の知れない者とプライドの高い者は相容れないものらしい。
「まあその腹いせとして、たまり醤油をたっぷりと貰ってきたけどな」
「たまり醤油?」
「味噌作る過程で出来る上澄みだよ。いずれこれは塩、味噌にならぶ日本食になくてはならないものになると思ってる。
……いや待てよ、せっかくだから自分で作ってみるのもいいな。塩だろ、小麦だろ、大豆だろ、あとは軟水と麹菌があれば……いけるじゃん!」
(ふっふっふ、せっかくだから醤油を始めて作った創始者になるのもいいなあ。幾つかの試行錯誤はあるだろうが、ふふっ、楽しみが増えたな)
「……大旦那、何か渡人がなにやら企んだ顔してますよ」
「あんまり言ってやるな。俺たちとは考え方が違うんだ」
確かに考え方はこの時代の人間とは異なるだろう。だが、横溝は気さくな性格ではあった。
挨拶されれば挨拶で返すし、困ってる人を見れば何とかしようとする。こういった性格も大学時代に培われたものだ。
高校時代までは他者を省みない、自分さえ良ければいいし、趣味も偏っていた。しかし、このままではダメだ! 将来この性格で必ず苦労する時がくる!
と、そういう理由からの猛特訓が横溝の性格を大きく変えた。
それはやはり将来社会人になるのだから明るい性格の方が受けが良いからという打算的な計画もあったし、
テニスサークルではなくテニス部に入っていたのも運動をやっていない人間と差を付けるためだった。
まあそれなりに優しい両親の元で育ったので根は優しい性格なのかもしれない。おかげでこの戦国の世では苦しむ事多々であるが。
「それじゃ、台車借りるぜ」
「へい、毎度有難うございます。次回もご贔屓に」
横溝は重い米俵を乗せて、信長から貰った家へと去っていった。
「さて、と……」
横溝は重い米俵を降ろし、転がし、台所まで持っていく。
「~♪ ~♪♪」
ファミコン初期の魔王『元祖西遊記スーパーモンキー大冒険』を口ずさみながら。
ここでの生活もだいぶ板についてきた。洗濯、掃除、自炊、その他もろもろ。
最初のうちは慣れずに洗濯板を使った洗濯は練習用に雑巾でやってみたが、あっさりボロボロにしてしまったし、
掃除も思うようにちりとりにゴミが入らなかったし、
自炊もご飯を美味く炊けずに粥にしてしまったりと難儀したが、今では随分慣れた。
庭は畑に改良した。長桶を逆さまにして頭をくりぬきコンポスト代わりにし、生ごみと枯れ葉を片っ端から捨てるといい感じになってきた。
植えているのは素人でもできる根野菜が殆どだ。肥料も多く必要になるものばかりではあるが。
さすがに家庭菜園に人糞は使えなかった。ともかく、収穫が楽しみではある。
たまにはカレーが食べたくなるがこの時代では流石に無理だった。
「後やっぱ肉が食いたいなあ。鶏肉はたまに売っているが高くて流石に手が出しにくい……。卵も欲しいなあ、鶏でも飼うか……」
岐阜城から幾ばくかの給金を貰っている者とは思えない男の愚痴であった。
そうそう、岐阜城といえば先日こんなこともあった。
「おお、絶景かな、絶景かな、岐阜の城下は見事であるぞよ、ってね」
その日は晴天に恵まれ、せっかくだからと登った岐阜城の天主から双眼鏡で見下ろす城下もまた見ごたえがあった。
「……あなたが、殿の言っていた渡人さんですか?」
「ん?」
振り向くと上質の着物に身を包んだ、少々おっとりとした性格が滲み出ている女性がいた。
「こうしてお会いするのは初めてですね。始めまして、織田信長の正室、帰蝶と申します。濃姫とお呼びしても構いませんよ」
「おやまた、これは噂の通り、日ノ本史上一の美女ですなあ。改めまして、横溝 由貴です。よろしく」
「あらあら、ではお由貴さんと呼べばよろしいですか?」
「……横溝でいいです」
「ではそのように。……あなたには殿が随分とお世話になったようで、1度お話をする機会があればと思っていました。特に、市も……」
「お市さんか、先日長政殿のところに顔を出したが、お互い吹っ切れたみたいだな。いい顔をしていたぜ」
「そう……」
帰蝶は改めてお辞儀をした。
「あなたには感謝しております。市は長政殿と心中するつもりだったと聞いております。それを止めてくれただけでも、感謝の言葉もありません」
「……俺は別に、いらない血を流すのはナンセンスだと思ってるだけだ。武家の弔いなど知らん」
「なんせんす? と、とにかく、二人を生かしてくれたことは感謝しております。
ただ流されるだけで妻として矢のように飛ばされ、最期は折れて散ってしまうものかと私は気が気でなりませんでした」
「信長は許してはいないだろうがな」
「……そうでしょうね。殿も二人は二度と城の敷居を跨がせるかと言っておりましたし……」
「あなたも苦労するでしょう。あんな短気で根に持つ冷血漢の妻なんて」
「ふふふ……、それは言いすぎです。ああ見えて、お優しいところもあるんですよ」
「あなただけにでしょう」
「いや、そんな」
「ほう、だれが短気で根に持つ冷血漢なのだ?」
「そりゃ勿論……て、げえ!? 信長!?」
帰蝶との話が弾む直前だった。信長が黒ずんだ眼をぎろりと向けて歩いてきた。
「貴様、最近姿を見せぬと思ったら、わしの帰蝶を口説いておったのか? いかん。いかんぞ。帰蝶はわしの妻だ。誰にもやらんぞ」
「あらあら、殿ったら。ふふふ……」
「おやまあ、愛されてるねえ」
「ふん、はぐらかしおって。また首を斬りおとされたくなければ戦の時以外は大人しくしていることだな」
「はいはい、こう見えて結構殿のことは敬っているんだぜ。何も逆らうことはしませんよって。ギャルゲじゃあるまいし、女だって口説きませんよー」
「くっ、渡人という者は信用ならんわ。……ところで話は変わるが、お主の手に持ってるそれは何だ?」
「何って、双眼鏡だけど」
「ほう、それはどのように使うのだ?」
「んー……これは実際に使った方が早いかもなあ」
百聞は一見にしかず、と簡単に説明する。こちら側の眼に両目を置き、遠くを見るように促す。
瞬間、信長は飛び跳ねた。
「こ、こ、こ、これは何だ!? 遠くのものがまるで近くにあるかのように見える。これはとんでもない技術だぞ!」
「殿、何やら面白そうな物ですので、私にも使わせてくださいな」
横から帰蝶が双眼鏡を取ろうとしている。
(まあ眼鏡はともかくこれが普及するのはまだまだ先だからねえ。それまではオーパーツだよな、これは)
「気に入った! お主、これをわしにくれ!」
「ええ、くれっておい、俺も使いたいんだが……」
「……浅井長政」
「は?」
「あの時、お主にはこれは貸しだからいつかは返せと言ったよな? ならば今この場でそれを返せ」
「ええ!? 人の命がそんな物と引き換えでいいのかよ!?」
横溝の突っ込みも、もっともではある。
「もし、これが完成し、織田家で独占し、戦で使うようになれば……これがあるのとないのとでは大違いではないか! うむ! 決めた 決めたぞ!」
「……まあこれは凄い代物ですこと。城下の人々があんなに近くに……」
横から帰蝶が取り上げ、城下を見下ろしていた。
「……ああもう分かったよ。好きにしてくれ」
いい年した天下取りを狙う男が、双眼鏡一つで駄々こねられたら笑い話にもならない。横溝は仕方なく承諾した。
「早速、城の工房に直行じゃ。善は急げだ。お前も付き合え!」
「はいはい、分かったよ。こんな姿、他の家臣の者に見せるなよ」
「ああ、そうがんきょうが、何処かへ……もっと見ていたかったのに」
唯一、そこへ取り残されたかのような帰蝶は何処か寂しげであった。
「これが、ネジなのですか……なんとも、小さな……」
ここは岐阜城一階に設けられた。特製の工房。鉄砲の分解もかつてここで行われた。ここには熟練の鍛冶師でないと出入りすら敵わない。
「ああ、ここの十字の凹みに同じような大きさの十字の凸型のネジ回しを差し込むことで初めてネジが回る仕組みになっている」
「種子島銃を分解したときも驚きましたが、これを分解するのはいささか時間がかかりそうですなあ」
「できるか?」
「その十字の凸型の細いネジ回しを作るところから始めますし、なにより、これは種子島銃よりずっと小さいですからな。時間はかかるでしょう」
「出来る限り早く頼む。何ならこの研究に残り時間を全て費やしても良い」
「分かりました。殿の仰せのままに……」
「まあ頑張ってくれ。君なら出来る! 君だから出来る!」
「渡人に応援されるのもなんですが、分かりました。とにかくやれることはやってみましょう」
「中々ままならぬものよなあ……」
「そりゃあ、俺が来た時代と今とじゃ技術が違いすぎるからな」
「わしはそこに追いついてみせる、と思ってるのだがな」
「そりゃあ夢追い人ってものだぜ。殿」
「ふん……、武士が夢や野望を追って何が悪い」
信長と横溝との関係は今のところ問題はない。だが、それがやがて溝ができ、二度と埋まらない事を横溝は内心知っていた。
それが、織田信長という男なのだということを。
一方、信長は横溝と顔も合わせず散歩していた。銭だけでは技術の差は埋められぬものよなあ、と考えながら。
銭。そう、銭である。大判小判がざっくざく、とまでは言わないが、織田はこの当時どこよりも銭だけは持っていた。
浅井を攻めていた時の間者にしてもそうだし、それ以前の岐阜城の再建をするにも莫大な銭が掛かるはずなのに、信長はそれをやってのけている。
例えば当時、織田家は港湾都市である津島などを支配下においており、伊勢半島や三河半島へ行き来する船便に手数料を徴収していた。
これは領内の安全保障と権利確認を記した朱印状の発行のためである。
この伊勢湾水運は織田家に莫大な収益をもたらす。
こればかりではない。楽市楽座令を奨励して自由に商売をさせて更に銭を流通させたし、関所も撤廃した。
もっとも、これらは都合のいいところをパクっただけであり、関所撤廃は今川家も以前から始めていたのを真似しただけなのだが。
……とまあこんな調子で信長は銭をそりゃあもうたらふく持ち、経済を発展させることだけは何処よりも早く成功した。
その金で朝廷に数千貫も献金したり、神社の修理費用として更に数千貫も寄付したりしていたので信長は朝廷関係者や権力者には特に受けが良かった。
室町13代将軍足利義輝に会うために上洛したときも、金銭的援助は惜しまなかった。
……なお、銭とは別問題が生じて、結局室町15代将軍義昭とはやがて対立することになったのだが……。
(今は他の家臣も将軍家や領地の統治で忙しい。朝倉を攻めたいところだが、今は、ダメだな。もう少し様子を見て好機を見定めるしかないか)
(あーこの前奮発して買った鳥のささみ部分は美味かった。もっと頑張って仕事続けなきゃな。あの頃の棟梁は元気かな?)