その日の岐阜城は朝から慌しかった。
「報告します。朝倉領の一向一揆、前田利家様の果敢な攻めで無事退けられました」
「…………」
「報告です。南近江の一向一揆ですが、佐久間信盛様が鎮圧しました」
「…………」
「ほ、報告します……。伊勢長島で起きた一向一揆ですが、滝川一益様が出陣して一揆に攻めかかりましたが、その……大変申しにくいのですが、返り討ちにあいました」
「…………」
「一向一揆はそのまま尾張領に攻め込み、信興様のいる小木江城まで攻め込みましたが、明智様が盛り返し、何とか退ける事に……信長様?」
「うぬぬぬ……一揆! 一揆! 一揆! 何処もかしこも一向一揆! もううんざりじゃわい!!!!」
信長の寿命が、5年は減った。
「苦労してんな、信長」
「……横溝か」
そこへ現れたのはもはや馴染みの『渡人』、横溝 由貴である。
「そうカッカすんなよ。寿命が縮むぜ。ほら、深呼吸だ。リラックスリラックス」
「わしを馬鹿にしておるのか貴様は? まったく、儂の苦労も知らんで……」
「分かるさ。一向一揆の『いろは』ぐらい。すぐ暴徒になって、焼く、壊す、殺すは当たり前、統率も取れていなくて滅茶苦茶やる集団だろ? まあ最近は統率する組織が現れ始めているようだがな・・・」
「成る程、大体の知識は持っているようだな」
「ま、今日はカリカリしないで気分転換しな。せっかくだから、いいものを持ってきた」
そう言うと、横溝は風呂敷の中から奇妙な形の木箱とツボを取り出した。
「おまえさんの大好きな「技術」だよ。まあ見てってくれ」
蓋をパカッと開けると、中からツンとした酢の香りが漂う飯の上に、生魚がイカ、ハマチ、カニ、タコ、タイと豊富に乗っている。
「何だこの匂い、腐っている……わけではなさそうだな。これは、酢か?」
「そうだよ。酢で和えた白米の間には山山葵を塗って昆布じめした鮮魚を乗せ、上から押して作ってみた。これを押し寿司……いわゆるバッテラにした」
「寿司……バッテラ……どちらも聞いた事がないな。『鮨詰め』なら知っているが」
「まあ、あれに近いかな。そして、こいつを……」
ツボから杓子で何かを取り出す。それは黒ずんでおり、ドロッとした粘液状の代物だった。
「まさか……墨ではあるまいな?」
「違うよ。こいつは塩、味噌に並ぶ日ノ本3大調味料、「醤油」さ」
「醤油……?」
「舐めてみな」
「う、うむ……(発酵臭がするな……味噌と同じく熟成させたものか?)」
信長、半信半疑になりつつ、醤油とやらを一舐めペロリ。
(こ、これは……何だ? 塩辛さもあるが、味噌とも違い、ほのかに甘い。甘じょっぱい、と言えば適切な液体だな)
「後はこのバッテラを適切な形に切り分け、醤油を付けて食べれば完成だ。さあ、食ってみてくれ!」
「う、うむ、よし、いただくぞ!」
信長は小皿に醤油を入れたものにバッテラの先をちょん、ちょん、と付け、一気に口の中に入れた。
「む、むむむむ……!」
(こ、これは……!? 口一杯に酢飯のツンとした香りと、山山葵がツーンと鼻にきて、鮮魚はとても柔らかく、醤油とやらはとても甘く感じる)
むっしゃむっしゃと口の中で米を噛み砕くように食べていく。ひとしきり味わうと、ごくりと喉に飲み込んだ。
「横溝ぉ!」
「気に入ってくれたかな?」
「おかわりじゃ!」
「はいはい……」
結局、信長は朝餉を食べたばかりだというのに、バッテラ寿司を全部残さず平らげた。
「うむ、ご馳走様じゃ」
「お粗末様でした」
「腹も膨れれば機嫌もようなるのう。一揆は腹の立つ連中だが、ひとまずは落ち着いたわい」
「そうそう。腹が立ったら飯を食えば大抵の事はどうでもよくなるもんさ」
「しかし連中は収穫前の米にも火を点けるから始末に終えん。年貢の意味を知らんから出来ることじゃて」
「しかし、生の魚がこれほど美味いとは思わなかったぞ」
「これが流行るのは今から数えて大体百年ぐらい先だからな。魚だって新鮮なうちにしめないと簡単に腐っちまう。いい保存方法が生まれて初めて出来る代物なんだよ」
「食べ物は腐りかけが一番美味いとは、あながち作り話でもなさそうじゃなあ……」
「ところで、今日は頼みがあって来たんだが……」
「ん? なんだ? 今のわしは機嫌がいい。大抵の無理は聞くつもりだぞ」
「さっき使った「醤油」なんだが、あれには結構な熟成期間が必要でな、城の者と連携して作っていきたいんだが……」
「おお、そんなことか。ならば造り方を教えろ。そうすれば味噌蔵ならぬ醤油蔵を城下に作ってもよい」
「いいのか?」
「あれは確かに美味かった。あれを塩や味噌とは違うものと売り出せば必ず売れる! 銭が増える。儂も歓迎するぞ」
「恩に切るぜ」
「あれがあれば飯の献立も……」
ドタドタドタ……!
「報告です。浅井領で一向一揆が発生。秀吉様は出来れば援軍を寄越してほしいとのことです」
「……かぁーーーっ!! 折角いい気分が台無しじゃ!」
「そりゃあなあ、浅井領、朝倉領を取り、天下に前進しつつあるのは分かるが、その分敵も増えるからな」
「それが武将と言うなら儂も納得するわ! ただし一揆の先導をしているのはおそらく……」
「……石山本願寺。だろ?」
「おぬし、奴らの存在まで知っておるのか?」
「まあ、色々な意味で有名な連中だからねえ。一向一揆……倒しても倒しても蛆の山の如く現れ、武功も上げられず、死んだら丸損だからな。
まさにクソゲーに金と時間を費やす(自分の事)が如く……。このままじゃ信長、尻の毛まで毟られるぜ」
「坊主に毛を毟られるとは酷い皮肉じゃな。くうう、ほんと頭の痛い話じゃわい。何とかできぬもんか、のう?」
「なんとか……なんとか……かあ。その前に敵をよく知る必要があるよなあ。……信長」
「……ん?」
「本願寺法主 顕如に会いたい。部下の道案内人を一人貸してくれ」
石山本願寺。寺院勢力でありながら信長の天下統一を10年は遅らせたと言われる集団。
その頂点に立つ傑物こそが、戦国時代のカリスマ坊主こと、本願寺法主・
この時代、寺社勢力は数あれど、本願寺なくして寺院は語れない。
顕如が法主となったのは先代がなくなった若干12歳の頃。嫡子ではあるがその時既に大器の片鱗を見せていたと言われている。
まず顕如は財政難に喘いでいた朝廷に対し活発な資金援助を行った。
その甲斐あって、本願寺は准門跡、簡単に言うと天皇陛下の御一門になり一気に勢力を拡大する事に成功する。
本願寺が門跡となり権勢がさらに高まると、顕如は周辺の寺院の大部分を吸収して浄土真宗に組み込み、一大勢力を築き上げる。
そこから得られる寄付金は信長の伊勢水運や楽市楽座などとは比べ物にならなかった。
信長もまた、朝廷への援助で権力を得て戦国の世をのし上がってきたが、顕如と比べてはひとたまりもない。
いつしか二人は財力と権威で争うもの同士になっていった。
そして顕如がここまでのし上がれたものこそ、カリスマ性、言わば「人気」だった。
彼が説法をとけば人々が涙を流して感動する。彼こそが仏陀の再来だと言う者さえ存在した。これは戦国武将である信長には決して「ない」ものだ。
組織力。財力。権力。寺院勢力でありながらそれら全てを手に入れた顕如。
正史では織田信長と10年以上も戦い続けたというのも頷ける話であろう。
そして今回、そんな織田家と一触即発の状態、というか既にぶつかっている勢力にわざわざ出向こうという横溝の案内をすることになった貧乏くじを引いたものは……、
「こうして馬で出歩くのは、あの日、初めて会った時以来だな、村井さん」
「まったく、久々に岐阜城に戻ってこれたと思ったら……。手荒な真似事は禁止ですぞ、横溝殿」
京から帰ってきたばかりの、織田家家臣、
思えば何も知らずに賃金を得ようとバイトに勤しもうとしていた横溝をスカウトしに来たのが村井であった。
あの頃は「渡人」の登場で戦局を180度ひっくり返されての敗走で城内が沈痛な面持ちだったというから横溝の存在はまさに救世主だったかもしれない。
もっとも、当の本人は綱渡りも同然の戦術で勝ち続けてきたわけだが。
その戦い振りを見られなかったのは、いささか残念だったと後に横溝に語っている。
それを聞いた横溝は、ただ一言だけ「有難う」と返した。