「––––うぅむ。この格好で大丈夫だろうか」
壁に立て掛けられた鏡は、普段らしからぬ自分の姿を投影している。黒を基調とし襟元に銀糸で描かれた菫の花が光るコートに袖を通し、癖の強い髪を整髪剤で整えた自分だ。はっきりいって気味が悪い。
『似合ってるよ。さすが、カルミナの服飾担当さんは腕が違うね』
「彼奴の腕が良いのは周知の事実とは言え、これは些か華美に過ぎるのではないか?」
『何言ってるのさ。ご主人位の年齢ならそれくらい格好の良いものを着るのだよ。それに、街中を歩く若者はもっと派手な格好じゃないか』
ゆらゆらと尻尾を揺らし、お気に入りの座布団の上で佇む黒猫は何処までも他人事のようで無性に腹が立つ。今度あいつにも服を作ってやろうか、そうすれば俺の気持ちも欠片程は理解するに違いない。
「あれは髪色が豊かで尚且つ瞳も目立つ奴らだからだ。俺の様な黒目黒髪がやって良い服装じゃあない」
『それじゃあ髪を染める?』
「その手の話は救護院でしたんだがな、有無も言わさず辞めさせられたよ。「今後一切髪を染めない」などと言うふざけた契約書まで書かされた」
あの時のサレンやスズメ、子供達の反応は極端に悪く、「どうしてそんな事を言うの」と言わんばかりだった。自分としてはあくまで冗談のつもりだったこともあるが、あそこまで言われると自信も無くすと言うものだ。
『それには同感かな。黒い髪のご主人以外考えられないし』
「俺にお洒落は似合わんと言うのだろう。別に良いがね、俺はそれでも」
『そう言う訳じゃないんだけど…それに、黒目黒髪なんて珍しいじゃないか。魔法使いとして、個性を活かさなくてどうするのさ』
「…まぁ、それもそうか」
なんだか上手いこと丸め込まれた様な気がしないでもないが、別に重要なことでもないので端に置いておくとする。目下の課題は、何故こうして自分が服装を変えなければならないのか、と言うことだ。
「それにしても、また声が掛けられるとは…。そんな立派な御高説を説いた覚えはないのだが」
『良い事じゃないか。名誉な事だと思うよ、僕はね』
整えられた毛並みの、これまた綺麗な肉球が一通の便箋に置かれる。流麗というより、高貴さを感じさせる筆跡で「魔法使い様へ」と記されているそれには、かの有名な名門校からの誘いであった。
「聖テレサ女学院か…二度と校門は潜るまいと思ったのだがな」
『前は臨時講師だったよね、確か魔法学の』
「あぁ。正直ダメ元で応募したものだから、採用の通知が来たときは心底驚いだものだ」
聖テレサ女学院とは押すに押されぬ名門校であり、貴族や豪商の娘が多く通うお堅い学校である。今時「ご機嫌よう」を挨拶に使い、如何にもお嬢様然とした立ち振る舞いをする生徒達に、思わず目を見開いたものである。だからこそ、自分の様な何処ぞの馬の骨とも知らぬ者が、臨時とは言えそこの教壇に招かれた事実が不可解なのだが。
『その事なんだけど、この前お喋りな生徒さんが噂してたよ。なんでも、あの学校近々共学化するらしいって』
「共学化?あの聖テレサ女学院がか?信じられない話だな…」
『あくまで噂だけどね。けど、共学化において男性への免疫皆無なお嬢様達に、若い男性を慣れさせるというふうに考えたら、ご主人が採用された理由にも説明が付くんじゃないかな?』
「嫌な想像を働かせるな。俺は別に、客寄せパンダとして学院に赴く訳ではないのだからな」
『はいはい。それより、そろそろ家を出なくて良いのかい?今日は顔合わせだけだろうけど、遅刻は不味いよ』
「む、もうそんな時間か。良し、行くか黒猫」
服装についてはこれ以上どうしようもない。事前に準備していた鞄を肩に掛け、少し慌しげに扉を開けて外に出る。
『それにしても、かの名門校の特別講座にお呼ばれするなんてご主人も名前が売れたね。僕としても鼻が高いよ』
「悪の魔法使いとしてはあまり良い事ではないのだが…まぁ、将来への世界征服の布石としては悪くはないだろう」
『まったくもう…。それで、ご主人はなにを教えるつもりなんだい?向こう曰く、何を教えるのも自由みたいじゃないか』
黒猫が言う通り、今回の講座は自分が専門とする分野で開いて欲しいと向こうから要請されている。その分野は自由であり、生徒に危険が及ばないのであればなにをしても良いとお墨付きだ。
「正直、あまりの厚遇に怪しさすら感じている。いざ尋ねてみれば、女子校に侵入した罪で王宮騎士団が待ち構えていたとしても驚かんな」
『捻くれもここまでくると一種の個性だね…おや?』
もうすぐ大通りに差し掛かる手前。建物の塀の上を悠々と歩いていた黒猫がピタリと脚を止め、正面を見据える。
「なんだ黒猫、まだ目的地は遠いぞ」
『いや、珍しい気配を感じたんだよ』
「珍しい気配?なんだそれは–––––む、あれはコッコロ少女ではないか」
そこまで言いかけた直後、目の前の大通りを二人の男女が揃って歩いていくのが見えた。一人は少し前にウチで薬を買っていた少女で、もう一人は知らない男性だ。
「隣に居る男はランドソルで見た事がないな…新顔か?」
『彼は配達のお兄さんだよ。この前うちにも荷物を届けに来たからね』
「配達員か。それは、随分大変な仕事をしているのだな…。して、その配達員とコッコロ少女とはどう言う繋がりなのだ?」
『さぁねぇ…もしかしたら恋人とか?』
半分茶化した様な黒猫の首元を掴み「そう言う事はあまり関心せんな」と小言を呈し、そのまま大通りに出る。二人は共に笑みを浮かべて談笑しており、その後姿からは恋人というより家族に近いと感じた。
「もしかしたら、コッコロ少女が言っていたあるじ様とは彼の事なのかもしれんな」
『えっ?そんなお貴族様には見えないけど…』
「あくまで思っただけだ。さぁ、先を急ぐぞ」
『ちょ、ご主人降ろしてよ!ご主人〜〜‼︎』
_____________________
ランドソルの中に居を構える、名門中の名門聖テレサ女学院。その荘厳であり歴史を感じさせる正門を前に、魔法使いは感嘆の混じった息を吐く。
「あいも変わらず、ご立派な門構えだな…」
『一度は講師として門を潜ったんだし、そんな緊張しなくとも良いんじゃない?』
「ここを潜ればそこは女子学生の花園だぞ。何度来ても慣れる事は無いさ」
『そんなものかねぇ?ま、早く行こうよ』
「今だけはお前が羨ましいよ…」
先を行く黒猫に悪態を零すと、自分もそれに続いて敷地に脚を踏み入れる。整理された校舎への道、流麗な噴水、形の整えられた木々。至る所に金が掛けられている事をひしひしと感じていると、一人の老婦人が姿勢正しい姿で近づいてくる。その姿に魔法使いは「うげ」と小さいうめき声を上げた。
『おや、あれはマザー・ヒルダだね。ということは、今回の案内も彼女がやってくれるのかな?』
「冗談じゃあないぞ…。俺は臨時講師をしていた時、彼女から100は下らない杞憂とお気持ちとお小言を拝聴したのに、またあれが始まるのか…」
『どうする?今から逃げる?』
「魔法使いに退却の二文字はない…が、正直帰りたい」
そう言っている間にもヒルダはズンズンと近づいて来て、ついには魔法使い達の前に佇み一瞬の沈黙が訪れる。こちらから言葉を掛けた方が良いのかと魔法使いが逡巡し、黒猫は呑気に欠伸をする–––その直後だった。
「お待ちしておりました。さ、早く中へご案内致します」
「–––––へっ?」
『–––––えっ?』
とても人当たりの良さそうな笑みで、彼女はそう口を開いた。
………
(ちょっとご主人⁉︎これは一体どういう事さ⁉︎もしかして洗脳でもしたのかい⁉︎)
(戯け‼︎俺がそんな低俗な魔法を使う訳がないだろう‼︎)
魔法使いと黒猫の一行はヒルダの案内に従い、歴史を感じるけれども清潔感溢れる校内を歩いていた。もっとも、そんな歴史的建造物には目もくれず一人と1匹で念話を使って言い争っているのだが。
「態々ご足労頂き、感謝しかありません。それにしても、魔法使い様もお人が悪いですわ」
「は、お人が悪いとは…?」
「我が校が誇る天才を育ててくれたのなら、最初から仰ってくれれば良かったのに。そうすれば、私もあのようなお小言を言わずに済みましたのに…」
「あ、あははは…所で、我々はいまどこに向かっているのですか?」
「おほほ」とお上品に口元を隠して笑うヒルダに、魔法使いは苦笑いを浮かべざるを得ない。頭の中は疑問符で埋まり切っており、やはりこれは罠なのでは?と勘繰る次第だ。
「象牙の塔と呼ばれている、旧図書館棟です。そこでユニ博士が貴方をお待ちになっています。講師としての詳しい話は、彼女との話が終わった後にと学長も仰っておりますので」
「旧図書館棟…えっ?今なんて言いました?」
すっかり聞き流していたが、何かとてつもない違和感を覚える単語がヒルダの口から飛び出して来た様な気がする。
「え?旧図書館棟に向かっていると…」
「そこじゃなくて、もっと後です」
「えぇと、ユニ博士が貴方のことを…」
「いえ、大丈夫です。どうやら聞き間違いではない事が分かったので」
「?それなら良いのですが…」
首を傾げた後に再び前を向いて歩き出す彼女を余所目に、聞こえない様な小さなため息を零す。
(おい黒猫。どうやら今回の一件の下手人が割れたぞ)
(みたいだね。それにしたって、まさか彼女が博士なんて呼ばれてるとは…)
(全くだ)
「さ、着きましたよ。この扉の向こうにユニ博士がお待ちです」
年季の入った木製の扉に、擦れて鈍く光る金属製の取っ手が見える。まるでこの先に賢者がいるとでも言わんばかりの雰囲気だ。
「それでは私はこれで。お話が終わりましたら校長室までお越しください」
「えぇ、わかりました」
軽く会釈して立ち去るヒルダを見送ると、「さて」と扉に視線を向ける。
「さて、この場合俺はなんと言うべきだろうな。俺を学舎に招いてくれてありがとうと謝辞を述べればいいのか、それとも余計な事をしてくれたと怒れば良いのか」
『ご主人の好きなようにすれば良いんじゃない?』
「それもそうか。それじゃあ、行くとするか」
金属製の取手に手を掛けて、魔法使いは大きな音とともにそれを開け放ち、声高々に言い放つ。
「邪魔するぞ、ユニ」
_____________________
「––––––––– 邪魔するぞ、ユニ」
そんな声と共に、僕の世界が開かれる。そうか、彼が来るのは今日だったか。
寝転んで読んでいた書物を頭の上の高く聳える本の塔の上に積み上げ、ソファから身体を起こす。
「やぁ魔法使い。僕はほとほと待っていたよ。こんなれでぃを待たせるなんて、君も随分偉くなったものだ」
「この戯け者が。貴様がレディを名乗るのであれば、もう少し縦と横に身体を伸ばすんだな」
「ふっ、やれやれ。君と言う賢者であっても人を見た目で判断するとはね。ランドソル一の魔法使いの名が廃るじゃあないか」
「そんな大仰な通り名を名乗った覚えはない。というか、実際貴様は外見だけ言えば幼女ではないか」
「たしかに今の僕は身長が低くきゅーとな分類に属するだろう。けれど、君は芽吹いてもいない大樹を見てこれは大きくないと馬鹿にする愚を起こすのかい?」
『それは後10歳ほど前に言うべきだったねユニちゃん』
「なんだとこの黒猫‼︎」
はっ。僕としたことが、あんな獣畜生の低俗な煽り文句に乗ってしまうなんて。
「ごほん。そこの獣は置いておくとして、適当に寛ぎ給えよ。なに、今日の僕は久方振りの来客に心が躍っている。少しばかりの無礼なら笑って許そうではないか」
「無礼な事など何一つしていないがね…。ま、適当に座らせてもらうとしよう」
『お邪魔するよ。それにしても埃っぽい部屋だね、ちゃんと掃除はしてるのかい?』
「そんな事は時間の無駄さ。それに、埃にも歴史がある。そんな事もわからないなんて、所詮は獣だね」
『…ご主人』
「耐えろ黒猫。ここではあいつが目上だ」
シャキンと鋭利な爪を伸ばす黒猫に魔法使いが静止を掛け、その後に「まぁ、確かに埃が多すぎるな」と嘆息する。
「ちょ、何をする気かね」
「少し埃を取り除くだけだ––––––『集まれ』」
刹那、部屋の隅から隅に点在していた埃という埃が魔法使いの前に集積し、成人男性の顔程の大きさに纏まる。
「『燃えろ』」
そんな歴史の塊–––いや、埃の塊は瞬く間に炭も残さず燃え切って、後には少し空気が綺麗になった書庫のみが残った。
「驚いた、それは言霊だね。文献で見た事があるけれど、生で見るのは初めてだよ」
「そんな高等な魔法ではないがね。精々が使い勝手の良い道具だ」
なんて事はないと頭を振る彼を見て、僕は内心舌を巻いていた。
言霊–––––それは確かに効果こそ高い魔法ではない。しかし、その本質は声だけで大気に溶けている精霊を従わせる事にある。
精霊、しかも知覚できないほど極小の彼等に干渉して望む現象を起こさせる。それがどれだけ高等な技術であるかは、学問に精通していなくとも理解が及ぶだろう。
ましてや、言霊なんて魔法はよっぽど魔法学に精通していなければ知る事すら出来ない魔法だ。それを完璧に使い熟すなんて、やはり彼は特別だ。
「ヒルダ女史から名のある男性講師を紹介して欲しいと頼まれた時、君の名前を挙げて正解だったよ」
「やはりお前が指名したのか…。まぁ、なんとなく予想は付いていたがな」
簡素な椅子に腰掛けて嘆息する彼に、僕は「ふふん」と上機嫌に鼻を鳴らす。
「やはり僕たち程の天才となれば、言葉など交わさずとも意思疎通が出来ると言うものだね」
「俺は天才ではなく魔法使いなんだがなぁ…」
『ふん。君みたいな引きこもりとご主人を一緒にしないで欲しいものだね』
「君こそ、彼の与えられた魔道具がなければ人の言葉を喋れない獣の癖に彼を語るべきではないと思うがね」
『…ほう?たかが18程度の幼人が語るじゃないか。君が僕とご主人の何を知っているのか、是非ご教授願いたいものだね』
二本の尻尾と毛を静かに逆立て、金色の瞳が怪しく光る。不味い、煽りすぎた。
助けを求める様に魔法使いに視線を送ると、彼はがっくりと肩を落とした後に「そこまでにしておけ、黒猫」と頭部に優しく手を置く。
『けどご主人。いい加減このエセ幼女にはキツいお灸を据えるべきだと思うよ。この前だって、ご主人が主催した子供会の中に混じってお菓子を強奪して行ったじゃないか』
「そうだな。なんなら一番お菓子を食べていたし、しかも、そのあとキョウカ達と一緒におままごとをして、自ら率先して赤ん坊役を引き受けていたな」
「待ち給え。その言い方には著しい語弊がある」
なんだか雲行きが怪しくなってきた。
『控えめに言っても王宮騎士団案件じゃないか。どうして彼女は捕まらないんだ』
「そこはユニだから、の一言で済ますしかない。あれだ、彼女は彼女で寂しいのだよ。普段はこんな埃の被った書庫で独りぼっち、本が友達と言わんばかりの生活を送っているんだ。俺だって、そんな状況に置かれたら奇行の一つも取りたくなるさ」
「おい、僕にそんな慈愛に満ちた視線を送るんじゃあないよ」
そんな笑顔、子供達にも向けてなかったじゃないか。
「そう思えばこそ、彼女の癖のある言動も可愛げのあるものと思わないか?黒猫よ」
『…確かに、それもそうだね。ごめんご主人、僕が間違っていたよ』
「謝るのは俺にではなく、そこにいる少女にだろう?」
『そうだね–––––––ごめんね、ユニ。僕が軽率だったよ。その、上手く言語化できないけれど、良かったらこれからも仲良くしてくれると嬉しいな』
「よしいい度胸だ。二人とも表に出ろ、僕の溢れんばかりの青春のリビドーを叩きつけてやる」
どうやら普段は飾りと思っていた戦斧が役に立つ時が来たようだ。精々華々しい初陣を飾ってあげる事にしよう。
____________________
「––––で、俺を特別講師に呼んだと言う事は、お前の研究が行き詰まったと考えて良いのかな?」
冗談抜きで、危うく幼女の戦斧の錆になる所だった。室内でしかも書庫と言うこともあって炎魔法は勿論、捕縛魔法すら使えないのは余りにキツすぎた。黒猫も流石に疲れたのか、草臥れた様子でソファにもたれかかっている。
「––––うぅむ。君相手には隠し事は出来ないな」
『ご主人は特別講師として聖テレサからお給金が貰える。ユニはご主人の知識を存分に借りられる。どちらもWin-Winの関係になるからね』
「そう言う事だ。まぁ、いつかはこうなると思っていたがね。何せ研究対象が研究対象だ」
ユニが現在行なっている研究–––––––それを一言で表すのであれば「世界を取り巻く虚構を証明する」事だ。
あまりにスケールの大きい研究対象。ゲームの登場人物が、同じ世界の住人に向けて「これはゲームである」と証明する様なもので、はっきり言って無謀だ。
––––––しかし、それは事実なんだ。この世界は虚構に満ちていて、何一つとて本物は存在していない。
「資料ならいくらでも貸してやるが、俺から意見を言う事はないぞ」
「それで全然構わないとも。むしろ僕からお願いしたいね。僕は自分の力でこの研究を成し遂げる、君の力を借りて、ズルをしてまで正解を求めようとは思えない」
「…お前は生粋の研究者だよ。それは保障する」
はっきり言って、このユニという少女は鬼才だ。天才という陳腐な言葉では推し量れないからこそ、鬼才なのだ。
ゲームに囚われた存在でありながら、この世界が虚構に満ちていると察しそれを証明する。はっきり言って異常だ、並の頭脳ではない。
「しかし、だ。俺が此処の特別講師になった以上、お前には色々とやって貰う事がある」
「やって貰うこと…?さては君、僕の魅力あふれる肢体に欲情したのかい?正直そう言う行為に知的好奇心はそそられるけれど、そう言うのはもう少し段階を踏んでから…」
「えぇい、そんな訳ないだろう!そうではなく、お前の生活環境を整えるというのだ‼︎」
「僕の生活環境になんら不備があるとは思えないけど…」
『そこらにサプリメントの空袋を転がしておきながらよく言うよ…』
黒猫が肩を落としてそう言う様に、書庫中にはサプリメントと思しき空袋が散乱している。おおよそミツキが作った物だろうから副作用は心配していないが、そもそもサプリメントに頼った食生活は健全とは言い難い。
「と言う訳だ、これからお前には健全な食生活を送って貰う。朝昼晩きっちりかっちりと食べて貰うからな。精々、俺を此処に招いた事を後悔しろ…‼︎」
「えぇ……食事という行為になんら合理性は見出せないんだけど…」
「反論は受け付けん‼︎食事とは合理性を求める物ではないのだ!ということで、まずは昼食からだ!お前も手伝え‼︎」
ソファに倒れている彼女を肩に担ぎ上げ、そのまま象牙の塔の扉へと向かう。丁度調理室があった筈だ、そこで簡単なものを作ってこいつの口の中に突っ込まなければ。
「ちょ、黒猫君!僕を助けたまえ!」
『残念だけど、僕はご主人の味方だよ。諦めてご飯を食べるんだね、大丈夫、味は保障するよ』
「そうではなく、僕は普段サプリメントばかりで胃が小さいから…!」
「案ずるな、最初はサンドイッチ等の軽食から慣らしていく。いつかは巨大ステーキもぺろりと平らげる様な体にしてやるからな…」
「あぁ––––」
「くくく…」と底意地の悪い笑みを浮かべ、抵抗を続けるユニを抑え込む。さぁ、楽しい昼食の始まりだ…!
____________________
「–––––こっ酷く怒られたな、黒猫よ」
『–––––そうだね、ご主人』
大きく輝く月を背に、1匹と一人が肩を竦めて寂れた街道を歩く。
「烈火の如くだったな、ヒルダ女史。あれは恐ろしい」
『長年教師をやってるだけあって、凄い迫力だったね…。ユニちゃんが庇ってくれて助かったよ』
「あぁ、あいつに貸し一つだな」
既に当たりは夜の帷が落ち切っていて、家の灯りがぽつぽつと光って人の気配は感じるが街を歩くものは二人を除いて他にない。
『そうだね…。さ、早く帰ってのんびりしよう。今日は夜の散策も無しにしてさ』
「そうするか……」
『そうそう。今日くらい……?』
ふと足を止めた黒猫の耳が微かな音を拾う。人間では決して聞き取れない微弱なそれだが、黒猫はそれが何かが砕けたような音と感じ、『ご主人』と声を挙げる。
「どうした?」
『何か異音が聞こえたんだ。そんなに近くからじゃないんだけど…』
「異音だと?具体的にどんな音かわかるか?」
『うん。何かが砕ける音––––例えるならそう、壁や重いものが砕けた音だと思う』
「––––物騒だな。音の鳴った方向は?」
『あっち側だよ、あっち』
黒猫が尻尾で方向指し示すと、魔法使いは訝しげな顔を益々深める。
「獣人達の区画だな。荒くれ者が暴れでもしたのか?」
『さぁ?詳しいことはわかんないけど、普通の音じゃないのは確かだね』
そういう黒猫に「うぅむ…」と首を跨げると、苦々しげにつぶやく。
「怪我人が居たら放置するのは気が引けるしなぁ…」
『気が引けるんだ…』
「それはそうだろう。大人はともかく、子供が巻き込まれていたのでは余りに酷だ」
『僕はご主人が本当に悪い魔法使いを目指しているのか時々不安になるよ……それで、どうするの?聞かなかった事にして帰る?』
黒猫は敢えて試すような口振りでそう宣うが、しかし、魔法使いがなんと答えるかなんて容易に想像が付いていた。
「……知ってしまった以上やむを得ん。様子くらい見てやるとするか」
『そう言うと思っていたよ。流石ご主人』
「言っておくが、お前の好奇心に付き合う訳ではないからな。そこは重々承知しておけよ」
『わかってるよ。さ、早く行こう』
呆れ顔の魔法使いの持っていた杖が消え、代わりに魔法の箒が瞬時に現れる。周りは未だ静かな雰囲気を保っているが、その最中一人と1匹は魔法の箒に跨り颯爽と空へと躍り出る。
しかし、黒猫は知るはずがなかった。この時疼いた好奇心は一日二日では終わらない厄介事を引き連れてしまう事を–––––––。
魔法使い
現職の聖テレサ女学院魔法学の非常勤講師。黒目黒髪と非常に珍しい外見で、喋る黒猫を引き連れている事から生徒からの覚えは良い。教本を元に実際に魔法を披露する講義形式を取っており、幅広い魔法への教養が伺える。独特の口調や常にお菓子を持ち歩いている事から、生徒達からは妖精と呼ばれている。
黒のローブ
魔法使いのトレードマークの一つ。一見すると只のローブだが、その実魔力の籠った糸によって編み込まれた一級品。袖を通した人間の魔力伝達を補助する役割をも担っており、魔法使いたらしめる要因の一つとも言える。
黒猫
二本の尻尾を持つ知性溢れる猫–––––––––の筈である。
魔法使いへの反応
ユニ
「彼を端的に語るのは不可能と言って良いだろう。膨大な魔法学への知識とそれを実演できる能力、はっきり言って化け物だ。それこそ魔法だけで一財産築けるものだが…何故か彼はそれをしようとしない。魔法を便利な道具としてしか扱っていないんだ。それが僕は不思議でならない。しかし、悪戯に能力を奮わない所が彼の良いところでもある。自らの力の幅を自覚しているのは賢者の証拠だ。たしかに彼は昼過ぎの中紅茶を啜っているのが性に合っているというか、子供達と戯れているのが似合っているというか–––えっ?喋り過ぎ?いやいや、ちょっと待ってくれ給え、僕はまだ……」