世界はすっかり冷え込んでいた。
空気は澄んでいるらしい。どこまでも遠くの景色まで、霞まないで見渡せる。
あまりに雄大が過ぎて恐ろしくなってしまうような星空…このような景色を都会で見られるだなんて、考える事すら馬鹿馬鹿しい事であったはずなのに。
まるで人里離れた山奥のような、澄んだ星空は、確かにそこにある。
その中にポツンと浮かぶ小さな月の色だけは、とても懐かしくて、なにも変わらないように見えて、それがなおさら郷愁の念を強めるのだ。
……しかし、やっぱり今日も今日とて、変わらない。
晴れた星空は、いつも通りだ。確かに綺麗だが、変わりがない。
あるいは天体に詳しければ、思うことも増えたのだろうけれど、私はそれに明るくはないのである。
春夏秋冬いつであったとしても夜空に違いなど見出せず、それに慣れてしまったという事実もあってしまう。
しかしそれでも見惚れてしまうのだ。
静かな世界。それを眺めながら廃ビルの上に座り続ける。
しかしそれに飽きてしまったら、翻って街を見ることにする。
苔生した廃墟の群れは静寂に満たされていて、これはこれで風情があって美しい。
侘び寂びとは、たしか綻んでいくものに見出す美しさのことであったか。……浅学な私ではそれが正しいのかは分からないが、これにはそういう郷愁を含み、心に釘を打つような何かがあるのだ。
思えば、夕暮れまでは確かに行進していた死者の群れも見えなくなっている。
息を潜めているのか、喧しい呻き声はどこぞへと消えていた。きっと彼らも私のように、懐かしい夜景を望んでいるのだろう。
それにも飽きてしまったら、明日のことを考えることにする。
死者の群れに混じって食料を探したり、きっと紛れているであろう懐かしい顔を探したり、そうやって生者1人の探索を続けていくのだ。
……もっとも、最近は同じ顔ばっかり見ている気もするが。
ともかく案外詰まらなくはないのである。
誰とも知れない、きっとゾンビが好きであったのだろう人の部屋で見た…たしかウォーキング・デッドといったか。あれを見ていると、その登場人物達に申し訳なくなってくるものだが、死者には襲われないし、世紀末も存外に満喫できるものだ。
……そうだなぁ、じゃあ明日は…彼らのように、どこぞへと遠征してみようか!
いままでは決心が付かなくて出来なかったけれど、そろそろここを離れるのもいいかも知れない、とは思っていたのだ。
缶詰などはまだまだいっぱいあるし、別に物資に困ったわけではないけれど、せっかくの機会なのである。
線路を歩いて遥々遠くまで出掛けてみたり…あるいは高速道路などでもいいかもしれない。かつてであったら行けなかった場所を通ってこそ、物珍しさを楽しめるのだから。
そんな予定を立てながら、ゆっくりと目を閉じた。
◇ ◇
腐れた脳味噌では、回顧さえも叶わないようでした。
定番の朝食も、愛すべき家族も、麗しき故郷も、何も分からない。
虫食いまみれの走馬燈は薄く、それでも輝ける暗褐色の郷愁を生むのに、何を描いたのかは定かではないのです。
そこに描かれていたのは、たしかに自分であったのでしょう。……酷い悔恨。逸る気持ちを晴らす手段は、もうどこにもないのです。
そうしてフラついている、死者の群れ。その中の1人は私。
ふと周りを見渡すと、皆も酷い顔をしていて…まるで腐り落ちて骨さえ覗き始めた腐乱死体のようでした。
とてもじゃないけれど見ていられない表情。
皆、わたしと同じなのでしょう。ならば、きっと私も同じ顔。
全てが恋しくて、何に恋しいのかも分からなくて、歩いていればいつかは探し物が見つかると、とても愚かでありえない話です。
けれどもそう、信じることしかできないのです。
———懐かしい夜景を望んでいるのだろう。
ビリリと刺激。
幾星霜ぶりに、言葉が届きます。
それは女性の声のようにも思えました。それを理解できる脳味噌など、とっくに無いはずなのに…そういえばよく考えてみると、こうやって色々と物思いに耽るのも不可能であった気がしました。
一番古い記憶は起き上がったところ、足の親指に括り付けられていたネームプレートが読めなかったこと。…それ以上は霞んで思い出せませんが、おそらくそこから長くを待たず、腐ったのでしょう。
ならば、どうして私は考えられるのでしょうか。
…よく、わかりません。けれども聞こえてきた声は、とっても魅力的なように感じます。
何者かも分かりませんが、きっと素敵な人なのでしょう。それはもしかすると、死者のお姫様かもしれません。
そのとても尊いお人の声に従うようにして、ゆっくりと見上げました。
……懐かしい空。
…あぁ…確かに、そうだ。
なんだか以前にも、こんな空を見上げていたような気がします。
おぼろげにしか思い出すことはできませんが、そのときは一緒に星を眺めていた友達がいたような気が……気が付くと腐っていた目玉から、冷たい何かが溢れていました。
たったそれだけ。その記憶の中にいた女性が誰かも分からないのに、なぜだかボロボロの走馬灯が修復されたような気がして…それが温度を失った涙を誘うのです。
———私は彼女を守りたい。
それはある種、本能のようなものでありました。
久方振りに戻った思考、それを持って思い出せた景色の詳細を探すというのも…まぁ、有り得ない選択肢ではない気もしますが、それ以上に守るべきものを見つけた気がしたのです。
私はもう、十分でした。それだけで満足だったのです。
だから恩返しがしたくて…でも私には、そのお姫様がどこにいるのかなんて分かりません。
私を救ってくれた人を見つけられず、明日にでもどこかに行こうと考えている彼女に、きっと置いていかれてしまうであろう…そんなことばかりが腐った頭の中を過ぎっていきました。
でも今から探すのは、もう遅い時間なのできっとお姫様を怖がらせてしまうことでしょう。
…わたしは、どうすれば……
“……あなたも、戻ったのね…?”
そんな時に誰かの声が。今度はお姫様の声ではなく、普通の声のように思えます。
もっともそれは、声を使わない奇妙な意思疎通でありましたが、それを不可解に思えるほど思考が鮮明にはなっていないのです。
振り返るとそこには、おそらく女性であったことがわかる衣装の死体が立っていました。
“ねぇ、彼女を守りたいのでしょう?”
それは渡りに船のような内容の質問。
そうだ、と答えれば、お姫様を守る方法を教えてくれるのでしょうか。あるいはお姫様が向かう場所を。
だとすれば……と、そこまで考えてハッとしました。
意思疎通の方法が分からないのです。
……少なくとも声を発するということは、不可能でした。
もはや肺という器官は腐れ落ち、機能を完全に失っていたのです。
そのため空気を吸い込むことは叶わず、これ故に声を発しようという試みは、意味の無い音さえ発せないということが分かるだけでした。
質問に答えられないということは、現状を変える手段を聞き出せないということ…
それは鴨がネギを背負ってやってきたのに狩道具を忘れたような悔しさと、また同じ失敗を繰り返してしまうという焦りを生んでしまうもの。
……なんとか答えようとして、建物の中にあった物に文字を書こうと考えるのですが、そもそも文字を思い出せません。
“そんなに焦らなくてもいいわよ。全部、分かるもの”
……?
その言葉は、とても不可解でありました。
順当に考えると私の思考が読めるということ。…でもまさか!流石にありえません。
きっと彼女は全知全能を気取っているのでしょう。……そんなくだらない妄想よりも、私は急がねばならないのです。
思考を読んでもらえるだなんて夢見がちな希望を見出すのは、時間の無駄であろうということは脳味噌が腐っていてもわかります。
彼女が私を見限ってどこかに行ってしまう前に、急いで意思疎通を図る手段を探さねばならなりません。
“…そのまさかよ。ゾンビで世界が滅ぶくらいだもの、心を読むくらいおかしくないでしょう?”
夢見がちと断じて、ありえないと切り捨てた希望は、しかし本当に希望であったようでした。
…詭弁だろう。そんな言葉も浮かびましたが、それは飲み込んで、思考の中で返事を返すことを心がけます。
ただ、私も彼女を守りたいのだ。と…
“相変わらず随分と辛辣だけど…熱意は本物みたいね”
辛辣とはいったいどういうことなのでしょうか。
そのような疑問と共に、熱意が認められたことが分かる声調と内容の言葉が脳内に響きます。
“まぁ、それも変わってないようで安心したわ。あなたも私達と一緒に、彼女を守りましょう?”
そういうと彼女は近づいてきて、腐れてグズグズになった手を差し出しました。
これはお姫様を守る方法を教えてくれる、ということなのでしょうか…?彼女の口振りからして、その活動は組織化されているのかもしれません。
……そうやって考えている最中も腕は差し出されたまま。
きっとそれは握手しろ、ということなのでしょう。でもそれをするのは、とても憚られました。
私もそうなっているというのは分かるのですが、腐肉に触れて、あろうことか握りしめるだなんて、どうしても生理的に受け入れられないのです。
私は再び思考の中で言葉を紡ぎます。
上手に腕が上がらない。筋肉の筋が切れているのかも…と。
“むぅ、酷いわね…ほんとに……”
ボソリと声が。
それは随分と傷ついている様子で…その声を聞いてはじめて「心を読み取る」ということにある意味を理解しました。
確かにそう…なるでしょう。適当な理由でごまかされて拒否されたり、あるいは汚らわしいと思われるのは…とても傷つくものですから。
……私は彼女を傷付けてしまった。
そうだと分かると、“ごめんなさい”…なんて、謝ってどうにかなることでもないだろうと思うけれど、それでも誠意を込めるつもりで考えると、“別にいいわよ、きっと私もそうなるもの”…そう、言葉が響いたようでした。
“ほら、ついてきなさい!明日に備えるわよ!”
そうしてなんでも無さそうに去っていく彼女の背中を追いかけます。
……それにしても彼女は、許してくれたのでしょうか。
本当は…いや、そうやって疑うのは卑劣でしょう。こうも罵った私を認めてくれた彼女は、間違いなく素晴らしい人格者なのですから。
外見がどうあろうとも心の美しさというものは、例えるならば水質が汚くとも綺麗な魚が住めるように、比例するものではないのです。
そうでありながら彼女を拒んでしまうようでは、今の私の気持ちも嘘になってしまう…衛生状態そのものに嫌悪感は抱けども、もはや彼女本人を拒むような気持ちはありません。
きっと次は躊躇わずに握手をすることができるでしょう。あるいはハグでも。
それに腐臭のほかにも…なぜだか彼女からは、懐かしい匂いがするのです。