ジキルとモードレッドの賑やかのちちょっとしんみりティータイム、ほのぼのコメディ7割しんみりシリアス3割SS。
実際に登場しませんが会話中にアンデルセンやシェイクスピア、フラン、マシュやマスターが出てきます。
蒼銀のフラグメンツで何故ジキルが眼鏡をしてなかったのか、自分なりに考察して捏造しました。
pixivにも投稿済みです。
「あー今日もよく働いたぜっと」
生まれてこのかた遠慮や謙遜という概念を蹴散らして生きてきたに違いない騒々しい足音と、うるさく鳴り立てる鎧の音が近付いてくる。
「騎士一行のご帰還か」
傍若無人大胆不敵、威風あたりを払う大股でアパルトメントの廊下を歩いてくる人物の顔を想像し、それでまで読んでいた本を伏せておく。
ほどなく扉がぶち破られる勢いで開け放たれ、重厚にして典雅な鎧に身を包んだ騎士が肩を回しつつ乗りこんでくる。
すわ殴り込みか取り立てかと紛う剣幕で上がりこんできた珍客に対し、ジキルは眉間を押さえて苦言を呈す。
「……あのさ、ここにきた初日に言ったろう。一応ノックをしてくれって」
「ああ゛ん?」
乱暴に蹴り開けられて扉の蝶番が抗議の軋りを上げる。
巻き舌が堂に入った恫喝だが、兜の中で発されたせいか奇妙にこもって聞こえる。
「そりゃお願いと命令どっちだ?」
「お願いだよセイバー。……というか人の家を訪ねる際の最低限のマナーだと思うけど」
「んじゃ問題ねえな。おれはてめえの家に住んでるんだ、はるばる訪ねてきたわけじゃねえ」
「……それとできればもう少し静かに歩いてくれるかい、ご近所迷惑だよ。このアパルトマンに住んでるのは僕だけじゃないんだ、隣人が驚くだろう。というかまさかとは思うけど君、行き帰りにこのアパルトマンの住人に目撃されていないよね?魔術師やその下僕の耳目を警戒するサーヴァントの自覚をもって慎重に行動してるよね?その鎧結構な重量に見えるけど、どかどか大股でのし歩いて床を踏み抜いたりはしてないよね?」
「お前なんざにお小言喰らわなくても承知の上さ、ジキルの分際でマスター面すんな」
ジキルのお説教を鼻で笑って一蹴し、傲岸不遜に開き直る。
本来食客とはもっと肩身が狭そうにするか殊勝な態度をとるものだが、彼女に至ってはどちらが家主かわからない威風堂々たる立ち居振る舞いだ。
王家の血筋に連なる者は皆こうなのだろうか?幼い頃夢中になって読んだ円卓の騎士の物語から受けた印象とは随分異なるが……
返答次第では剣を抜いて叩き斬るのも辞さないと腰を沈める物騒な騎士に、ジキルは降参の合図で革手袋に包まれた両手を挙げてみせる。
もはや日常の習慣と化したやりとり、モードレッドの帰還に際して繰り広げられるお約束の寸劇。
「そうだ、忘れてた」
「あぁン?まだ文句が」
「おかえりセイバー」
「……ぉ、おう。ただいま」
ドアを押さえて、それまでの尊大な態度から途端にどもるモードレッドをあくまで紳士的にでむかえる。
ジキルの穏和な態度と柔和な笑顔に毒気をぬかれたのだろう、足音を落として室内へ踏み入ったモードレッドの背後で扉が閉じ素早く施錠される。
扉が閉まるのを背中で確認後、無造作に兜を脱ぐ。
兜の下から溢れだしたのはろくに手入れをしてないぼさぼさ気味の金髪。
猫科の肉食獣を彷彿とさせる勝気な翠の瞳とへの字に引き結んだ唇、外見だけなら文句の付け所なく美少女で通るが、常に噛みつく対象をさがしているかの如く好戦的な険を含んだ表情が、素直にそう呼ばせるのを大いに躊躇わせる。
ありていにいってがらが悪い。とても悪い。イーストエンドの路地に屯う不良少女でさえもう少し慎み深い。
まだ幼いとさえいえるあどけない表情の少女が、廊下を突っ切ってまっしぐらに居間へ向かうのを小走りに追いつつジキルは告げる。
「シードルが冷えてるよ」
「お、気がきくじゃねえか」
「いま用意する、ちょっと待ってて。あ、できればそっちの来客用ソファーに」
遅かった。ジキルが慌てて付け加えた時にはすでにモードレッドは彼のお気に入りの個人用ソファーに尻を弾ませていた。
子供の如く無邪気にはしゃいで、スプリングの伸縮性と耐久性を確かめる訓練さながら何度もくりかし腰を浮かせて落とす。
ソファーの弾み心地にご満悦のモードレッドがふと目線を上げ、この世の終わりのような顔で居間の入口に立ち尽くすジキルをきょとんと見る。
「なんか言ったか?」
「……なんでもない」
とぼけているのではなく本当に聞き漏らしたらしい、悪気がないなら叱るのは我慢だ。喧嘩になったところで膂力では到底かなわない。
彼女と同居を始めてはや数日、子供じみた振る舞い全てが悪意によるものではないといい加減わかってきた。
尤も挑発と無邪気の線引きがむずかしいのは確かだが。
「んだよ、言いたいことあんならはっきり言え。ビネガーをかけすぎたフィッシュ&チップスをヤケ食いして胸焼けしたような顔してるぜ」
「なんでそんなたとえばかり秀逸で詳細なのさ。君の時代にフィッシュ&チップスってあったの?」
「んや、ねえよ。現界する時に座に知識を与えられたんだ、お前も知ってんだろ、サーヴァントが限界する時ゃこっちでの活動に支障がねえよう今の時代の知識を一通り付与されるって。便利にできてるよな、感心するぜ。こっちにきたら絶対食おうって楽しみにしてたのにどっこもやってねえんだもんな、がっかりだぜ」
「僕としては今のロンドンに現界するにあたって、フィッシュ&チップスを必須知識として座が組み込んだってのが驚きに値するよ」
「イギリスっていやフィッシュ&チップスだろ?」
「間違いではないけどさ」
ジキルの個人用ソファーを我が物顔で占領し、はぁ極楽とぐでっと伸びるモードレッド。議論の不毛さを痛感させるリラックスした表情と虚脱しきった姿勢。
どうでもいいが、この少女はどうでもいいことでふんぞり返る姿がよく似合う。
この上なく幸せそうに満ち足りた顔を見ていると反駁する気力が萎え、ため息をつき冷蔵庫の扉を開く。
薬品保存用に奮発して購入した文明の利器は、新しもの好きにして珍しもの好きな富裕層の他は、ごく一部の限られた職種の家庭にしか見当たらないものだ。
薬瓶や毒々しい液体を入れた試験管の類を一つ一つ厳密に選り分けながら、茶褐色のシードルの瓶をさがすジキルの背中に、鎧を脱いで予め用意された服に着替えたモードレッドが間延びした声を投げる。
「なあ、お前はフィッシュ&チップス食ったことあんの」
「あるよ。そう多くはないけどね」
「へえ、育ちのいい碩学様はナイフとフォークでしゃれこんだメシしか食わねえのかと思ったぜ。行儀悪く手掴みで屋台のメシも食うんだな。どんな味?うまい?」
「いやに興味津々だね」
「座は味まで教えちゃくんなかったしな」
不満げに鼻を鳴らし片手でだらしなく頬杖をつく。
こればっかりは現界して自分で試すしかないと意気込んでいたのに、実際に来てみれば街は霧で覆われて営業中の屋台は一軒も見当たらなかった。
心底残念そうに嘆くセイバーにしゃがんで背中を向けたまま、試験管を指でつまみあげためつすがめつジキルがつぶやく。
「食いしん坊……」
「お〜い〜シードルはまだか」
「はいはい」
冷蔵庫の扉を閉じ、グラスと茶褐色の瓶を一緒に持っていく。
セイバーの前のテーブルにそれらを手際よく並べれば、待ってましたとばかり勝手に酒を注いで一気にあおる。
「ぷはーっ、この一杯の為に生きてるって感じだな!」
シードル一杯でこんなに気持ちよさそうに酔える人種も貴重だろう。
一杯目を干してから矢継ぎ早に二杯目を注ぎ、グラスを口元にあてながらモードレッドが首を傾げる。
「いま思ったんだけどコイツ薬品と一緒に保存してるんだよな」
「元々そのために買った文明の利器だからね」
「まざったりしねえか?」
「まさか、万一にもそんな事故が起こり得ないように十分気を付けてる」
「硫酸と間違えたり……」
「セイバー、硫酸は常温保存だ。冷蔵庫には入れない」
口元は笑ってるが眼鏡の奥の目は笑ってない。むしろ生ぬるい。初歩的な事だよモードレッドという幻聴がなぜか耳に届いて、彼女は疑わしげな眼差しで不躾にジキルを眺め直す。
モードレッドのからかいまじりの疑惑をさも心外そうに否定して、ジキルは眼鏡の位置を几帳面に直す。
「だったらいいけどさ」
「わかった上で薬品と一緒に保存されたシードルを嗜む君も大概だよ」
「せっかくだされた酒を腐らせるのは無礼にあたる、民草のもてなしを無碍にはできねえ」
それも王たるものの心得なのだろうか。ジキルにはよくわからない。
「単純にうめえし」
「だろうと思った」
「酒に罪はねえ。だろ?」
にししと悪戯っぽく笑い、グラスに口をつけるモードレッドはすっかり警戒心を捨て去って、気の弱い年上男性をおちょくって楽しむはねっかえりの少女に見える。
甲斐甲斐しく彼女の世話を焼くのがこのところのジキルの日課になっている。
現状自分にできるのはモードレッド達の身のまわりの世話くらいしかないのだからそれはかまわない。
かまわないのだが……
改めて私服に着替えたモードレッドを見直す。
鹿革のチョッキとシンプルなドレスシャツ、サスペンダーで吊った細身のシルエットのズボン。すべて男物だが、均整とれたスレンダーな肢体によく似合ってる。
「僕のお古でごめんよ」
「あァ?……あー、服のことか。いいって気にすんな、動きやすくて気に入ってんだ。無駄にヒラヒラしたのよかよっぽどマシだぜ、ちょっとぶかぶかだけどよ」
片手でグラスの中身をあおり、もう片方の手を雑に振ってジキルの謝罪を払いのける。
フリルやレースを無駄に盛ったドレスを着たモードレッドを反射的に想像する。社交界に咲く一輪の赤い花。
容姿だけならどこに出しても恥ずかしくないダイヤモンドの原石なのだから、華やかなドレスに身を包み正装すればさぞかし……
「よし殺す」
「まだ何も言ってないよ」
「大体わかった。殺そう」
「人の頭の中を覗き見するのもサーヴァントのスキルなのかい?!」
「言わなくてもそのぽわっーと間抜けヅラ見てたら大体わかる」
「頼むからセイバー、ヘンリー・ジキルのプライバシーを最低限尊重してくれ……君にプライバシーって概念があるのかわからないけど……」
「生憎ンなしちめんどくせえ概念礼装はもっちゃいねえな」
ジキルの敗けだ。完敗だ。大人しく頭をさげる。
「ごめん。二度としない。想像しません」
「よし許す。ただし二度目はねえ」
単純なのか短絡なのか、きちんと非礼を詫びれば比較的あっさり許してくれる。彼女の大いなる美点にして王者の資質だ。
お気に入りの個人用ソファーはモードレッドに奪われたため仕方なく向かいの来客用ソファーに腰掛け、ジキルは周囲を見回す。
「マシュとマスターは?一緒じゃないのかい」
「連中は寄り道だ」
「寄り道?」
魔霧がたちこめ不特定多数の敵が徘徊するこの危険なロンドンで寄り道?
一歩間違えれば命を落とす、哨戒任務を終えたら可及的速やかに固まって帰宅してほしいのだが……
心配そうに顔を曇らせるジキルへと手で包んだグラスを掲げて、モードレッドはほろ酔い加減に説明を付け足す。
「哨戒からの帰り道、玩具がおっこってんの見っけてよ。魔霧の発生前に道端で遊んでた子供が落とした人形だよ。そのままほっときゃいいものを、窓越しにべそっかきのガキと目が合っちまってさ。親にせかされ慌ててうちに逃げ込んだが、大事な人形だったんだろうな……わざわざ拾って届けにいったんだ。さすがに付き合ってらんねーからおれだけとっとと帰ってきたが、このぶんだと退屈してるガキに遊び相手をせがまれて足止めくってんじゃねえか」
「へえ……」
彼女の説明に納得する。
薄紫の髪の大人しそうな眼鏡の少女とそのマスターのコンビは、道端に忘れられた玩具も、家の中で泣いてる子供も放っとけおけなかったのだろう。
モードレッドも悪ぶってるが、マシュたちの行動を好ましく思ってる本音が態度にありありと表れていた。
あきれと好感とが等分に滲む口ぶりで愚痴るモードレッド、反抗期をこじらせた少女のように素直になれない様子が微笑ましい。
「一緒に遊んでくればよかったのに」
「お前が早く帰ってこいって言ったんだろうが」
モードレッドが肩を竦めて、今度はこちらにあきれた眼差しを向ける。
「……ガキは苦手だ、ぎゃあぎゃあうるせえし。俺がいたらびびらせちまうだろ」
そんなこと、と反論しかけて閉口する。
鎧を脱いだモードレッドはただのとてつもなくガラの悪い美少女だが、濃厚な霧たゆたう窓越しに時代錯誤な全身鎧の不審者が出歩いてるのを目撃した幼い子供は驚倒するだろう。
ただでさえ人を襲う異形が跳梁跋扈する今のロンドンにあって、武骨な威圧をふりまく鎧は悪目立ちする。
へたしたら金属の武装繋がりでヘルタースケルターの一派と誤解されかねない。
泣き虫な子供を怖がらせるのを自重して先に帰宅したモードレッドが、憮然とした顔でグラスをちびちびなめるのを見かねて、ジキルは静かに首を振る。
「そんなことない。子供は本能的にやさしいひとがわかる」
「なっ……」
最大の侮辱を受けたとばかり乱暴にグラスをおき、モードレッドが毛を逆立てた野良猫の剣幕で叫ぶ。
「ばっ、ふざけ、やさしかねえ!訂正しろ、おれはちっとも優しかねえかんな!無駄に時間食ってるマシュたちをおいてけぼりにして一人さっさと帰ってきてやったぜ、ひとりじめしてかっくらうシードルは最高にうまいかんな、ざまーみろ!唯我独尊傲岸不遜、モードレッド様の悪逆ぶりに恐れ入ろ!」
「君って反英雄だっけ……いや、その前に真名を連呼しないで。自分の名前にナチュラルに様つけるって、碩学の客観を心がけるまでもなく痛々しい」
俺様にちゃんをつける奇天烈な一人称の脳内の同居人にあてこすりをして、しっぽを踏まれた猫のようにぎゃあぎゃあ騒ぎ立てるモードレッドをその場に残し席を立つ。
モードレッドはぶすっとぶんむくれてソファーの上に胡坐をかき、青年の一挙手一投足を剣呑に据わった目で睨みつける。
再び戻ってきた時、ジキルは銀盆に茶器一式とスコーンの小皿をのせていた。
白磁の華奢なティーポットと揃いのティーカップが二個、洒落たラベルを貼った茶葉の缶。
「魔霧が発生する前にハロッズで買ったんだ」
ロンドンで有名な高級百貨店の名前を挙げ紅茶の缶を開封、匙ですくった茶葉をティーポットに落として几帳面に蒸らす。
慣れた様子で紅茶の支度をするジキルを目で追いながら、モードレッドが仏頂面で尋ねる。
「……貴重品じゃねーの」
英国人の血管には紅茶が流れているという冗談が流行る位、この国の人間は紅茶を好む。
育ちの良さが窺える優雅さで茶葉を適量蒸らし、蓋をしたティーポットを慎重な手付きで軽く揺すりながら、ジキルは頼りなげに苦笑いする。
「魔霧のせいで気軽に買い出しにもいけないからね。嗜好品も食糧も底を尽きたらおしまいさ」
「………」
じゃあなんでおれの分まで用意するんだ、と怒りの矛先をおさめたモードレッドの目が純粋な疑問を湛える。
薄い革手袋を嵌めた手で丁重にティーカップを並べ、澄んだ紅色の液体を等分に注ぎながら、ジキルは努めて感情を排した声音で呟く。
「僕にできるのはこれ位だから」
「……」
納得してないのか、モードレッドが下唇を突きだして不満を表明するのをさりげなく無視し、彼女の前へ柔らかに湯気たてるカップをさしだす。
おっかなびっくり両手で包むようカップを受け取り、文句も言わず一口、ズズッと不作法に啜る。
「……味がしねえ」
「よければ角砂糖使って」
テーブルに押し出された白磁の砂糖壺。
蓋を開けて角砂糖を放り込もうとして、対面でストレートの紅茶をさもおいしそうに啜るジキルに気付き、不承不承ソファーへと戻っていく。
今度はジキルが訝しがる番だ。
「いれないの?」
「……お前とおなじでいい」
おれだけ砂糖入れたら負けたみたいじゃん。
とことん勝ち負けにこだわるモードレッドに苦笑を誘われるが、モードレッドは甚く真剣な顔で、ジキルが手ずから淹れた紅茶をもったいなさそうに啜っている。
お前とおなじがいいと言いかけて慌てて一文字直した真実に、その微妙すぎる心の変化に、この鈍感な男はきっと気付いてない。頭でっかちの碩学様は。
だったら永遠に気付かないままにさせとけ。
「そういやフランは?姿が見えねーが寝てんのか」
「ああ、彼女なら書斎にこもってアンデルセンたちと話してる」
「作家連中と!?正気か!?頭がイカレちまうぞ!!」
ソファーを蹴立て今すぐ連れ戻そうと廊下へびだしかけたモードレッドを、カップを片手に預けたジキルがおっとり制す。
「君が彼等に強烈な偏見を持ってるのは経緯上理解してる。正直僕自身、キャスターたちの人格にはある種の歪みや欠陥を疑わざるえない。作家という人種は創作に没頭するあまり対人関係を疎かにしがちだからともすると自尊心が際限なく肥大し空想は誇大妄想へとエスカレートする、おまけに日々締切りに追われるせいで自他を顧みる余裕をなくし寛容な精神を持てなくなる。だから書斎にこもってるあいだも始終剣呑な破壊音や地獄の釜が開いたような怨霊の呻きが聞こえたり『芸術は爆発だ!』『原稿用紙が足りん!ジキル、至急ソーホーで買ってこい!なに大丈夫魔霧など気合いでなんとかなる、なんとかならねばそこに飾ってある悪趣味な鹿の頭の剥製を被っていけ、防毒マスクの代用程度にはなろうさ』『それは名案ですなアンデルセン氏、魔霧の中を徘徊する鹿頭の異形、はたして彼は人か鹿か馬鹿か、吾輩その生い立ちに大いに創作意欲を刺激されますぞ!』と聞こえてきたりする」
「お前大人しい顔してすさまじい毒舌だな」
モードレッド達の留守中わがまま放題、自由すぎる作家組の世話にきりきり舞いしていたのだろうか、ジキルの顔がストレスで若干窶れたように見える。
「るすばんって大変なんだな……」
まるきり他人事な口調で心底同情するモードレッドに、ジキルはもったいぶって咳払いする。
「……でもまあ、フランとは気が合うみたいだよ。心配になって扉の隙間からチラッと覗いたら、アンデルセンが駄作と書き捨てた原稿を大人しく読んでいた。彼らも愛読者は無碍にできないらしい。邪魔をするでもないから放っておいてる」
執筆に行き詰まり、頭を抱えて机に突っ伏したアンデルセンがくしゃくしゃに丸めて投げ捨てた原稿用紙を丁寧にのばして開き、夢中で目を通していくフランの姿が容易に想像できる。
カップを持ったままモードレッドはもげそうに首を傾げる。
「……アイツらって実は面倒見いいのか?」
まさかな。
呟いて即否定する。
困惑顔のモードレッドに微笑みを投げかけ、ジキルは眼鏡の奥の目を優しく細める。
「たまにはいいじゃないか、ふたりだけのティータイムも」
「そう……だな」
「このアパルトメントもひとが増えてすっかり賑やかになったけど、マシュたちが来る前はよくこうしてお茶してたね」
「そうだな」
「君は紅茶よりシードルがお気に召したみたいだけど……僕はずっと一人暮らしだったから、突然同居人が増えて最初は戸惑ったけど、研究の合間にふと顔を上げたらそこにだれかがいるのは存外悪くない。なんていうのかな……僕一人で住んでいたアパルトメントがちょっと狭くなって、でもその事がちょっとだけ嬉しくて。ずっと研究や実験三昧の彩りのない日々だったから、僕以外のだれかの気配や笑い声が生活空間に転がってると……安心する」
マシュたちと合流し共闘するまでモードレッドはジキルとふたり一つ屋根の下で暮らしていた。
黒縁メガネの奥の凪いだ双眸に紅茶の水面を映し、たどたどしく述懐するジキル。
だれかに頼られるのは嬉しいと、だれかの役に立てるのが嬉しいと、はにかみがちな微笑みが雄弁に物語る。
彼が率直に気持ちを話すのは珍しい、モードレッドの目にジキルは秘密主義者に見えた。
温厚で柔和、品行方正な英国紳士の鑑のような青年だが、彼にはまだだれにも……目的を同じくして協力関係を構築した自分にさえ見せていない「底」があるのだという直感が出会ってすぐに働いて、数日共に過ごした今ではもはや確信の域に達している。
それでもモードレッドは、ヘンリー・ジキルを信頼している。
優しく不器用で、時に優しすぎて貧乏くじを引きがちな彼のことを憎からず思っている。
それはマシュとそのマスターの正義感や善良さを好ましく思うのと同種の感情のようで少し異なる。
どこがどうと説明できないが……
日頃控えめに笑ってるジキルが時折垣間見せる暗い表情、無力に耐えるよう黒革の手袋を嵌めた手を握り締める癖、光と闇、明と暗。
両極の二面性を内包した人間特有の歪みは、嘗て叛逆の騎士として討たれた自分にも相通ずるもので、だからこそ自分は……
「スキあり」
「!?」
だしぬけに手をのばし、紅茶が冷めるのも頓着せず、ティータイム相手すらほったらかして考えに耽るジキルの眼鏡を強奪。
「昨今の碩学様ってなァみんなコレかけてんのか?暗い部屋で本ばっか読んでるから目ェ悪くしちまうんだぜ」
ジキルからひったくった眼鏡を戯れに顔にかければ、度の強い硝子に隔てられた視界が歪みくらっとする。
「ちょっと、返して……」
視界が霞む無防備さから覚束なげに両手を伸ばすジキルから眼鏡を取り上げ、かざしてはひっくり返し、検分するように両目を細めて下から仰ぐ。
「座に眼鏡をかけた英霊はいなかったのかい?」
「いた……ような気もするけどよく覚えてねえ。そもそもおれが生きた時代にこんな便利な小道具なかったぜ、ただのガラスの輪っかが視力を底上げすんだから文明の発展はすごいもんだ」
「英霊は全盛期の姿で現界するから、死亡時は老眼でも視力が回復するのかな」
「そうなりゃコイツも用済みだな」
「スキルによる視力の底上げも可能……?」
顎に手をあてなにやらブツブツ検討し始めたジキルの分析を、眼鏡をもてあそびながらモードレッドは軽口でまぜっかえす。
「英霊も人それぞれだよ。人以外も結構いるからこの表現であってんのか……まあいいや、こまけえことはどうでも。でも全盛期に眼鏡だったらやっぱり眼鏡のまんまで現界するんじゃねえか、うっかり座に忘れてこねーかぎり」
「え、そんなうっかりあるの」
「ドジな英霊ならないとも限らねえ、突然呼ばれて慌てて出てくのさ」
「英霊はもっと抽象的で概念的な存在だと思ってたけど、認識を改めねばいけないか」
「そもそもおれ達の体は霊基で構成されてるから多少の融通は利くんじゃねえか?生前の病気や障害、怪我や欠陥を持ちこしてたら限界時に支障がでるしよ」
モードレッドがジキルの眼鏡をかけてドヤ顔をキメる。少し頭がよさそうに見えなくもない。あくまで少しだけ。
目元の眼鏡をちょっとだけ指でずらし、対面で分析に没頭するジキルの素顔を観察する。
眼鏡を取り除いた顔は鼻梁の秀麗さが際立って、硬質に澄んだ翠の瞳に惹きつけられる。
モードレッドの瞳も同じ色だが、ジキルの瞳が博物館に保管される希少な鉱石標本なら、彼女の瞳は生命力旺盛に燃える激しい燐の炎だ。
「なあジキル」
「ん?」
考え事から引き戻されて上の空の生返事をするジキルへと、眼鏡をいじりながらモードレッドは語りかける。
「もし……万一お前が英霊になって座に召されて、現界することになったら教えてくれ。コイツがなくても英霊としての活動に支障がないかどうかさ」
「座に呼ばれるのは古今東西架空実在にかかわらず偉業や覇業を成した人物。一介の碩学、魔術師崩れの凡愚な常人にお呼びがかかるわけないさ」
「わかんねーだろそんなの、お前だって実はすげーヤツかもしんねーし。今は違くてもこれからそうなるかもしんねーし」
何故かむきになって身を乗り出し反論するモードレッド。
苛立ちを隠さずジキルの卑下とも謙遜ともいえる態度を否定し、さんざんいじくり回して気が済んだ眼鏡を憤然と突き返す。
「大事なモノは目で見るんじゃなく心で見るんだとさ」
「……?」
モードレッドが口にしたセリフにジキルが首を傾げる。
「なにかの本の記述かい?」
「さあな……いまふと思いついたんだよ。前の現界の時だか、どっかで聞いたのが頭の片隅にへばりついてたのかもな」
「……心で見る、か。いい言葉だね」
モードレッドの発言に感じ入ったのか、すみやかに眼鏡をかけなおし噛み締めるよう繰り返す。
綺麗な翠の瞳がレンズに隠されてしまったのを少し残念に思うが、本人には絶対言わない。言ってやらない。
その代わりにモードレッドは近い将来か遠い未来、ありえるかもしれない「もしも」を大っぴらに嘯く。
「もしお前が将来なんかどえらい事やらかして英霊になって、どっかの物好きなマスターに呼ばれる奇跡が起きたとして。おれの言葉を覚えてたら、そいつを心の目で見てやんな。ンで気に入らなかったら殺しちまえ。お前の心の目をどす黒く曇らせるような邪悪なマスターなら仕えるに値しねえ。いくら外面よくたって腹ン中で何考えてるかわからねえ輩は大勢いるんだ、そういう手合いにゃ要注意だ。お前は人がいいからちょっと優しくされりゃコロッとのせられちまいそうで不安だぜ」
世俗を超越した聖者か世界を混沌に落とす極悪人か、終ぞわからずじまいだった円卓の白い魔術師の顔を思い浮かべて豪語するモードレッドに、ジキルが面白いほど狼狽する。
「そんなことしないよ……」
「話は最後まで聞け。だがもしお眼鏡にかなったってんなら……」
眼鏡をかけてないのに眼鏡にかなうというのも妙な話だが。
嘗て己を頑として認めぬ父王の王座を簒奪せんとしたが如く、ジキルから簒奪したソファーに全身をゆったり凭せて、真っ直ぐな視線を彼の翠の目にたたきこむ。
「……全部まるっとさらけだして、まっすぐに心の目で見て良しとするマスターに出会えたんなら、せいぜい大事にしてやるこった」
それはもしもの話。
いずれありえるかもしれない近くて遠い未来、または永遠にありえぬ仮説の話。
眼鏡の内側にだれにも言えない秘密を封じ込めてるようなこの不器用で生真面目な青年が、眼鏡をかける事でもう一人の理想と乖離した自分を封印しているような彼が、すべてをさらけだしてなお自分を受け入れてくれる稀有なる相手と巡り逢える日を願って。
その人物と真実の友情を結べる事を願って。
その時、眼鏡をはずしたジキルはどんな顔でマスターを兼ねる友人を見るのだろうか。
どんな顔でわざわざ手袋をはずして、その人物の手をとるのだろうか。
人肌のぬくもりと、ぬくもり以上の感情を通わせるのだろうか。
英霊に昇華したジキルがそんな奇特なマスターと絆を結ぶ「もしも」の未来に幾ばくかの嫉妬が疼いて、モードレッドは行儀悪く姿勢を崩して頬杖をつく。
ほんのちょっとだけ、コイツがマスターでもいいかもなんて思っていた。
コイツに呼ばれたならと期待した。
絶対に言わねえけど。
でも自分と彼とは生きる時間軸が違って、自分はサーヴァントで彼は生身の人間で、どんなに甲斐甲斐しく世話を焼かれてそれをうざったがっても、いずれ必ず訪れる別れは回避できないのだ。
「ま、お前が来たらせいぜい小突きまわしてやっからたのしみにしとけ。馳走さん」
辛気臭い空気は苦手だ。
豪快に笑い飛ばしてオチをつけたモードレッドが残りの紅茶を飲み干し、後片付けは丸投げにして足早に去ろうとするのを、ジキルが固い声で呼び止める。
「モードレッド」
真名の秘匿に執心する彼が、モードレッドを名前で呼んだ。
後ろで括った金髪を振り乱して向き直れば、相変わらずソファーに座ったまま、膝の上で手を組んだジキルが感謝の微笑みを浮かべていた。
「僕は君の事も大事な友達だと思ってるよ」
「………!っ、」
不意打ちだった。
「な、なにをいきなり。あらたまってこっぱずかしい……」
「会ってまだ数日しか経ってないけど、そう思っちゃだめかな」
「勝手にしろこのリョウサイケンボ!」
「リョウサ……え、今なんて?」
「マーリンが言ってた東洋の諺!なんでも言うこと聞いてくれるデキた召し使いのこったよ、お前は俺の帰りを待ってだまって冷蔵庫でシードル冷やしときゃいいんだ、ついでにスコーンも用意しとけ!」
頭と顔に血が上り、振り返りざま罵倒を浴びせて一目散に居間を駆け出す。リョウサイケンボは主に女性をさす格言だった気がするが、まあどうでもいい。
わざと荒々しく音たて廊下を突き進み、羞恥と憤激が入り混じって火照りを帯びた顔を冷やすモードレッドの背中を呆然と見送って、居間にぽつねんと残されたジキルはため息ひとつティータイムの後片付けにとりかかる。
モードレッドが飲み干したからっぽのカップを盆に回収、自分の分と合わせて並べてから、再び掛けなおした眼鏡の弦にためらいがちに触れる。
「心の目か……」
直情的なモードレッドらしからぬ詩的な言い回しだった。碩学として読書と実験にうちこむ日々を送るうちに自然と視力が低下し、矯正の必要に迫られて掛け始めた眼鏡は、今や肌身離せぬ必需品となっている。
否、それだけじゃない。
眼鏡はジキルとハイドを差別化する小道具。眼鏡さえかけていればジキルはジキルの体裁を保てる、凶暴な別人格であるエドワード・ハイドを封じ込めておける。もちろん科学的な根拠はない。ただのまじない、信心深い人間が神の似姿に縋ってロザリオの珠を繰るような行いだ。
自制に自信がないからこそ自ら進んで枷を嵌める、そんな彼が理性の防波堤として採択したのが日常生活でも大いに活躍する眼鏡だった。
嘘に塗れた心の奥底に杭の如く打ちこまれた、苛烈に燃える燐の眼差し。
同じ翠の瞳なのになんて温度差だろう。
自分を偽り他人を欺き生きる卑怯者と、自分にも他人にも正直に生きる王の器の彼女とは、何から何までこうも違うのか。
一度でいいからあんなふうに人の目をまっすぐに見てみたい。
ガラスのレンズを隔てず黒革の手袋を嵌めず、全てを委ねてもいいと思えるマスターに全てをさらして向き合いたい。
彼女みたいに正直に。
彼女みたいに率直に。
彼女みたいに愚直に。
ヘンリー・ジキルとハイド、二重の存在と真名をもって、新しい友人に尽くしたい。
もし。
もし近い将来か遠い未来、ヘンリー・ジキルが英霊に昇華して座に召されることがあれば。
もし近い将来か遠い未来、ヘンリー・ジキルがサーヴァントとして現界し聖杯戦争に出陣を切ることになれば。
ガラスを隔てて世界を見ることに慣れた臆病者が無力の殻を破るのは難しいが、もし叶うのならば……
「……なんてね。未だ遠い理想郷だ」
眼鏡越しの双眸に乾いた感傷と哀切の薄片を宿し、手袋を嵌めた手でテーブル上のポットを片付けながら、ヘンリー・ジキルは自戒するよう呟くのだった。
一抹の未練を断ち切るように。
報われる期待も救われる希望も愚かしい事だと、薄汚れた自分にそんな資格などないと断じるように。