異母弟との回想、父殺害に至るまでの経緯。
「あんたはあいつによく似てるよ……杉元」
野営の夜、焚き火を挟んで尾形と杉元は対話する。
過去捏造、ほんのり尾形→杉元。
ネタバレにつき原作11巻まで読了推奨。
pixivにも投稿済み。
まるで犬のようなひとだった。
『兄様!』
まわりに誰がいようが見境なく呼ばわる節操なさに辟易したが顔に出すのは無礼にあたる、なにせ相手は俺よりはるかに階級が上なのだ。陸軍中将の嫡男、どこに出しても恥ずかしくない立派な跡継ぎ。
対して俺は―
『いけません、規律がゆるみます』
何度口を酸っぱくして苦言を呈しても改まらなかった、己の所業に後ろ暗いところなど微塵もないとばかりに堂々としていた。開き直っているのでもなければ不貞腐れているのでもない、それはただあるがままに己の信じるところを為したまでだった。
まったく、あっぱれな男だった。
聡明で高潔で、清々しいまでに真っ直ぐで、まったくもって非の打ちどころのない。
俺は彼が嫌いだった。
虫唾が走るほどに。
たとえるなら俺は虫だ。じめついた日陰の湿地、苔むした石の下を這う虫。太陽など一度も見ることなく死するさだめの有象無象の生き物、卑しく汚くちっぽけな呪われた生き物、五分の魂すら持たぬ一寸のはしくれ。虫は日陰で生まれ日陰で死ぬ、お天道様を生涯拝む事なく惨めにおっ死ぬ、些末な存在に似合いの最期をむかえる。
それが突如石をひっくり返されまともに太陽に炙られた、キツい陽射しが容赦なく目を焼いた。
俺にとって花沢勇作はそんな存在だ。
五分の魂すらもたぬ一寸の虫を焼く、お天道様のような男。
本音を言えば、些か眩しすぎた。
湿った暗闇を好む下等な生き物には、あの人の光は毒すぎた。
「『雁』という小説をご存知ですか?」
問わず語りに垂れ流す。
もとより返答は求めてない。相手には返す気力もない。四肢をふんじばられただ丸太のように寝転がってるしかない男に向けて、火鉢にあたりながらうっそりと続ける。
「たしか森鴎外だったか……当世流行の文豪の短編ですよ。ある高利貸しの妾が医学生に横恋慕する。されど秘めた恋心を打ち明けられず悶々と苦しむ。ある日思い立って告白せんとするが、いつも一人で散歩する医学生がその日に限って友人を連れていたため泣く泣く断念する……とまあ、そんなとるにたらない話なのですが。主人公と医学生が散歩中に立ち寄った不忍池で雁と遭い、戯れに石をなげつけたところ、運悪く当たって死んでしまうんですな」
昔読んだ短編の記憶を掘り返しながらポツリポツリと語る。あの本を薦めてくれたのも花沢少尉だった。彼は階級下の俺にも本当によくしてくれた、なにくれと便宜を慮り気にかけてくれた、軍人の鑑のような男だと今も賛嘆の念を禁じ得ない。
だからこそ疎ましい。
だからこそ厭わしい。
火鉢の灰を火箸の先端で掻き起こしながら、印象深い小説の情景を回想する。
不忍池のほとりで魚を啄む一羽の雁。
狩りのさなかにあさっての方向から石をくらい、不幸にも命を落とした。
きっと絶命のその瞬間まで、自らが命を落とす理由に思い至らなかったに違いない。
なんと愚かな。
火箸の先端でつつき起こされ、熾火が爆ぜる。
「ところで、俺のふるさとにも雁がいたんです。茨城の片田舎、鄙びた農村。まわりには土焼けした浅黒い肌の百姓ばかりだった。夕方になると雁が啼くんです、物寂しい声で。子供たちはそれを合図に家路に就いた。こうして目を閉じると思い出しますよ、一面の田んぼと畦道、一列の影絵になって茜空を飛んでいく雁の群れ……」
失われた子供時代の追憶が胸に甘やかな感傷をもたらす。
祖父母は優しかった。善き人になれと俺を諭した。特に祖母は俺を不憫がって、百之助はよい子だと皺ばんだ手で頭をなでてくれた。祖父は躾に厳しかったが、それでも猟銃をいじって遊ぶ俺を見る目には朴訥とした肉親の愛情が感じられた。
母は……
「あれはうつくしかったな」
千々に乱れたぬばたまの黒髪と白くやつれたおもて。
心は半ばあの世に旅立ち、着物をだらしなく崩していても、その生白い肌の垢ぬけた美しさは際立っていた。だからこそより一層あわれが引き立った。今も思い出す、夕暮れの田圃を裸足で徘徊する母を。空では影絵の列を作る雁が間抜けな声で啼いていた。見てはだめだと皺ばんだ手で俺の目にふたをしたのは祖母だったか祖父だったか、その両方か。
いま思えば素面の美しさではなかった。
愛憎を拗らせ狂気を発した、異形の美。
子供心に俺は、この世のものとは思えぬ母の不吉な美しさに見蕩れていた。
「とてもうつくしいものだった」
台所に立ち、あんこう鍋の支度をする母の後ろ姿を柱に隠れて見守った幼き日々。
母はブツブツと何か繰り言を言っていた、血の気の失せた不健康な顔の中で奇妙に艶めかしい唇が蠢くのが薄気味悪く、それでいて非常な好奇心をそそられ目を離せなかった。きっと俺には聞こえない声音で、ひそやかにしめやかに愛する人の名を紡いでいたのだ。
それは俺じゃあない。
母の目が俺を映した事などあっただろうか。
『ずっと一人っ子で兄弟がほしかったんです』
あのまっすぐな眼差し―まっすぐに俺を見る目。
俺を無邪気に兄と呼んで慕う男が、俺の姿をその瞳にまざまざと映しこみ、性懲りなく寄ってくる。
祝福されて生まれた子供はかくも違うものか。
どうしようもない懸隔。出自や立場それ以上に心根のあり方がまるで違っていた。彼には俺を兄とすることに一切の鬱屈がなく微塵の躊躇もなかった、俺を上におくことを当たり前の礼節と重んじていた。士官学校の級友に妾の子と陰口を叩かれ白眼視される俺を敬して立てた、連れだって通りすがりざまに折悪しく陰口などと届こうものなら檄して食ってかかった。
『兄上にむかって不敬な!』
青臭くまっすぐな正義感と義憤に駆り立てられ、諌める俺をふりきってまで前言を撤回させようとした。
嗚呼……まったくいやになる。
「花沢中将……あなたの息子は最期までご立派でしたよ」
何も知らず石に当たって命を落とした雁。
何も知らず弾丸に撃たれ命を落とした弟。
どちらも大層憐れで愚かだ。
片方は俺がやった。俺が仕留めた。愛用の長銃で、敵味方入り乱れる戦場の遙か後方から一発で頭を撃ち抜いたのだ。
あの時、幻の雁の声を聞いた。
どこかで一声高く長く啼いて……そして途絶えた。永遠に。
あの世とこの世に橋をかける、不吉な雁の群れ。
「高潔で聡明で勇敢で、上官としては申し分ない人材だった。だが間抜けだ。ひどく阿呆で間抜けだ。味方に後ろから撃たれるなんて思ってもみなかったんでしょう、戦場のただなかで無防備な背中をさらしていました。とても撃ちやすかった。天啓みたいに射線がひらけて……」
唇が皮肉にへし曲がる。
「実にあっけなかった」
他愛もない。一発で死んだ。
『背中は頼みました』
俺はなんて答えた?
『……ああ』
俺ほどの腕前になれば、雁一匹撃ち落とすなど造作もない芸当だ。
実際お天道様に侍って空の高みを悠悠といく雁はいい的だった。
大きくのけ反った体、柘榴のように爆ぜる血肉と白濁した脳漿。
彼は最期まで俺を信じて逝った、俺なんかを信頼し抜いて死んだ。馬鹿な人だ。まるで犬のような弟だ。俺などに背中を預けるからこうなる、担保に入れた命を平然と踏み倒される。一体だれに似たのやら……
「あの人の頭が爆ぜる瞬間、貴方にもご覧に入れたかったですよ。父上」
手元の火鉢から部屋の片隅に蟠る黒い影に視線を転じる。
「……もう死んでるか」
ひとりごち、重い腰を上げる。流石軍人というべきか、みっともない命乞いはしなかった。暴れて血を撒かれたら証拠隠滅が面倒だ、後始末がらくで助かる。自害に見せかけろという鶴見中尉のご命令を黙々と遂行する。腹圧で零れた腸を傷口に雑に押し込み、割腹自殺に見えるよう体を起こし刀を握らせる。血脂でぬめる手を懐からだしたハンカチで丹念に拭い、一歩引いて現場を見渡し、仕上げに満足する。偽装工作は完璧だ。官憲の厳しい追及と検分も切り抜ける自信がある。
前傾した遺体の傍らに黙って立ち尽くし、乾いた胸の底をさらってみる。
ながらく会ってないとはいえ実の父を手にかけたのだ、もう少し感慨がこみあげてくるものと期待していたが拍子抜けだった。所詮人間は血と糞の詰まった肉袋だ。
はなむけに薄っすらと笑みを浮かべ、別れの挨拶をする。
「出来そこないの倅ですいませんね、父上」
ふと視線を感じ振り返る。仏壇の真新しい遺影、先に逝った弟が生前と寸分違わぬ屈託ない笑顔でこちらを見詰めている。その目元に一滴血が飛んでいた。
遺影に姿を変えて凶行の一部始終を見届けたた亡き少尉に正対し、かしこまって一礼する。
深々と頭をさげてもう一度写真に向き直れば、黒枠に囲まれた少尉の笑顔は、どこか寂しげな翳りを帯びていた。
最初に母を殺した。
次に弟を殺した。
仕上げに父を殺した。
愛のない両親に産み落とされた子供はどこか欠けた人間に育つのだろうか。
祝福された道など最初からなく、人生は闇に閉ざされていたのだろうか。
並んで空を征くつがいの雁のように、俺と弟が共に歩む道は……
「あるわけねえだろうそんなもん」
[newpage]
弾かれたように目を開ける。
でかい鼾が轟々と響き渡る中、焚き火をほじくり返して寝ずの番をしている男と視線が絡む。
「おう。起きたか」
「……杉元」
鼾のもとはのびのびと大の字に寝転がったアシリパ、隣の鼻ちょうちんは白石だ。通算何日目かの野宿とあって各自疲労も頂点に達している。倒木に腰を下ろした杉元が、手元の小枝をへし折って焚き火に投げ入れる。
勢いよく火の粉が爆ぜ、夜を赤く照らす。
「なにがあるわけないんだ?」
「寝言だよ寝言」
あきれ顔の杉元がぞんざいに顎をしゃくる方を見れば、鼻ちょうちんを膨らませて熟睡している白石がいた。
「この卑猥な形状の頭がメシのあまりをくれ~~ネズミのしっぽでいいからさァ~~とか寝言をほざきやがるもんだからさ」
「寝言に返事をするとは不吉だな」
「迷信だな」
杉元が小馬鹿にしたようで鼻で笑い、乾いた小枝をぱきりと折る。
「アイヌの言い伝えは信じるくせに、矛盾してないか」
「勘違いするなよ、俺はお前の言うことをからきし信じねえだけだ。アイヌのフチのまじないや言い伝えは信じるさ」
「なるほどね」
一筋乱れた前髪を片手でかきあげ整え、上体を起こし胡坐をかく。炎に照り映える杉元の顔、太平楽な白石とよだれをたらしたアシリパの寝顔。
顔色でわかる、おそらく杉元も眠れないのだろう。寝れば嫌な夢に起こされる、戦場の記憶にうなされる、ならば夜通し火の番をするほうを選ぶ。お互い言葉もなく小さく爆ぜる焚き火を見詰める。合間合間にアシリパの鼾と下品な咀嚼音をまじえた白石の寝言だけが夜の底を撫ぜていく。
「……なあ尾形。なんで金塊が欲しい?」
唐突に聞かれ、顔を上げる。
杉元が神妙な表情で焚き火を覗きこんでいる。黒い瞳の中で火が踊り狂う。
「お前は惚れた女のためだろう」
「いま俺の事はどうでもいいよ、お前のことを聞いてんだ」
やけに強情に言い募る、杉元の目に吸い込まれる。
力強く透徹した輝き、まっすぐに人を見る癖、言い逃れを許さない愚直と紙一重の実直さ。かつて弟の中に見たもの全てを備えた眼差しが、俺が奥底に秘め隠した何かを暴き立てようとする。
不自然にならないよう意識して視線を外し、両手を火に翳して暖をとるふりをする。
「さてね……欲に目が眩んで」
「うそつけ」
「なんでそう思う?」
だしぬけに身を乗り出した杉元が俺の胸に人さし指をつきつけ、牙剥く肉食獣に似て不敵な笑みを作る。
「この世のなんもかんもに興味ねえってさかしたツラしてっからさ。陸に打ち上げられた魚の目だ。欲に目が眩んだやつはもっとギラついてる、そう、そこの屁こき坊主のようにな」
「白石と比べられるとは俺もおちたな……」
杉元の人さし指をはねのけつつぼやき、少年のように勝気にきらめくその眼をボンヤリ見返す。
焚き火に両手を翳し暖まりながら、いましがた見ていた短い夢を回想する。
「しいていえば……あんこう鍋にあきたからかな」
「あァん?」
ひとり薄暗い台所に立ち、黙々とあんこう鍋の支度をする母。
柱の影に隠れ、その背中を為す術なく見守るしかない小さい俺。
山ほど金塊を持ち帰れば、よくやったと母は喜んでくれるか?
山ほど金塊を持ち帰れば、自慢の倅だと父は褒めてくれるか?
山ほど金塊を持ち帰れば、ただいま兄様と弟は生き返るか?
俺はまだ心のどこかで漠然と期待しているのかもしれない、大量の金塊を持って帰れば母があんこう鍋以外のご馳走を作ってくれるかもしれないと。愚かな期待を捨てきれない餓鬼のままのもう一人の俺を、心の片隅に飼っているのだ。
俺の手柄だと仕留めた鳥を掲げても、台所の母は振り返りもしなかったのに。
「なんだそりゃ。そんなにあんこう鍋が好きなのか。ふるさとの母の味って奴か」
「……まあな」
「ふぅん。アシリパさんと旅してからヒグマ、シカ、シャケ、アザラシと口にしちゃいるがあんこう鍋は食ったことねえな。一度飽きるほどたらふく喰らってみてえもんだが」
「人の気も知らず好き勝手ぬかす。そういうところが大嫌いだよ」
会話を一方的に打ち切って背中を向ける。
肘枕で二度寝の姿勢に入った俺に、空気を読まない杉元の阿呆が呑気に間延びした声で追い討ちをかける。
「お前、泣いてたのか」
訝しげに眉をひそめて振り返る。杉元が怪訝な表情で己の目尻をつつく。つられて目尻をひとなですれば、人さし指の腹がしっとりと濡れる。
人さし指の腹に付着した水滴を一瞥、にべもなく結論をくだす。
「葉っぱにたまった夜露が落ちただけだ」
「ふぅ~~~ん?」
納得しきってない表情で首を傾げる杉元はもう無視し、再び寝ようと毛布を引き上げ……
熱い手が指を掴み、抗議の暇も与えず力ずくで引き寄せる。
すぐ眼前に杉元の顔、俺の指を無造作に掴んで口を開ける、尖った八重歯が覗いたと思いきや次の瞬間には赤い舌が人さし指に触れ、戦慄に似た悪寒が背筋を駆け抜ける。ひどく艶めかしく鮮やかな赤い舌、唾液に濡れ光る剣呑な犬歯、指を包む淫猥な粘膜の温度……
まるで犬のような男だ。
「……しょっぱくねえ。どうやら本当みてえだな」
疑って悪かった、とあっけらかんと詫びる。
俺はあっけにとられていた。犬のような仕草で俺の人さし指に付着した雫をなめとった男は、もう気が済んだとばかり「さぶさぶ」と肩を窄め焚き火に当たっている。
生乾きの唾液が今度は指を濡らす。今の行為は杉元にとって何の意味もない、この男は時々ひどく奔放な振る舞いをする。俺が寝ながら泣いたかどうか確かめようと、稚気の赴くまま指をなめてじかに味見したのだ。
まさしく意地汚い子供が水飴をねぶるような気軽さで
「………ははっ」
片手で目元を覆い、不規則に肩を揺すってくぐもった笑いをもらす。
声を出して笑うのは随分久しぶりだ。
杉元が嫌いだ。
こいつといると意表をつかれることばかりで調子が狂い、俺は俺を見失う。
クソ忌々しいことに、こいつは俺が殺したあいつによく似ている。
『兄様!』
殺したいほど憎かったわけじゃあない。
殺さねばならないほど邪魔だったわけじゃない。
俺はただ知りたかったのだ、俺にも祝福された道があったのかどうか、おふくろが手がけたあんこう鍋を嫌いにならずにすんだもう一つの人生があったのかどうか―
片手で顔を覆い、手指の隙間の乾いた目を眇めて火の粉が高く吹き上がる空を仰ぐ。
どこか遠くで一声雁が啼いた。
完