Muv-Luv Alternative The Phantom Cemeter(改稿版) 作:オルタネイティヴ第Ⅵ計画
Episode9:戦う理由
2004年12月24日(金)
「やられたわ!!」
机の上にあった書類を咄嗟に掴んで投げ捨ててしまうくらいには荒れていた。
そんな夕呼を、社霞は少し離れたところで黙って見つめていた。
人類最大の反攻作戦である桜花作戦により、人類はオリジナルハイヴ(H1:甲1号目標)のあ号標的の破壊に成功した。
この報せは人類全体に即座に行き渡り、世界中が歓喜に包まれた。
人々は思う。
ここから人類の反撃が始まるのだと。
人類はまだ追い詰められてはいなかったのだと。
しかし桜花作戦で失った人類側の戦力は膨大で、BETAはその中枢を破壊されたとはいえ、全体的な物量に大した変化はなかった。
故に人類は、1年がかりで失った戦力の立て直しを図った。
そして満を持して、オルタネイティヴⅣ総司令部改めオルタネイティヴⅥ総司令部は、ユーラシア大陸反攻作戦である西号作戦を発動した。
その一環として、朝鮮半島に存在する鉄源ハイヴ(H20:甲20号目標)の制圧作戦を実施したのだが、ここで事態が急変する――。
夕呼は感情的に叫ぶ。
「まさかあ号標的の身代わりに、複数の
霞は悲痛な表情を浮かべる夕呼を、ただ見ていることしか出来なかった。
もうリーディングをしようとは思わなかった。
したところで夕呼の悲しい思いしか伝わってこないからだ。
「――BETAが戦術を覚えた以上、もう凄乃皇も使えない……00ユニットに対する対策が立てられている可能性すらある。そもそも00ユニットは鑑以外存在しない」
今度夕呼は、まるで力尽きたように椅子にドサッと崩れ落ちるように腰を下ろすと、顎に手を当てて、何やらブツブツと独り言を言い始めた。
独り言を呟く光景は以前からよく目にしたが、今回のような光景は初めてだ。
ある意味で興味本位というのもあっただろうか。
霞は、一度はやめた夕呼へのリーディングを、再び行ってしまった。
途端に霞の頭の中に、夕呼の負の感情が大量に流れ込んできた。
霞は思わず膝をついて、口元を手で押さえ込んでしまう。
その正体は吐き気。
霞は10年近く夕呼のそばにいたが、彼女がここまで強い負の感情を抱くのは初めてだった。これほど負の感情が増幅しているのも、今までにないことだった。
「――ん?あぁ……社、あたしの感情を読んだのね」
霞が気持ち悪そうにしているのに気づき、夕呼は声をかけた。
「やめておきなさい。気分が悪いだけよ……今のあたしを見たらきっとアイツにも笑われるわね――アイツって、誰だっけ?」
咄嗟に口をついて出た自分の言葉に、夕呼は疑問を抱いた。
それに対し、霞はやや悲しそうに答える。いつもなら確信を持って告げられる名前が、今は妙に喉に引っかかる。霞は一度だけ唇を結び、それから夕呼を見上げた。
「……白銀さんです」
「白銀?そんな奴……いたっけ?」
思い出せない様子の夕呼に、霞は何度も必死に頷いてみせる。頷くたびに、胸の前で重ねた指へ少しずつ力がこもる。目の前の夕呼が本当に覚えていないのだと分かるほど、霞は怖くなった。
それを見た夕呼はよほど重要な人物だったのかと思うが、不思議なことに思い出せなかった。
「まぁいいわ……社、もう人類は終わりよ」
「……まだです。白銀さんなら何とかしてくれます……!」
「だから白銀って誰よ……まったく、とんだクリスマスね――厳密にはクリスマスイブか。馬鹿がするよくある間違いね……あぁ、あたしもか」
夕呼はそう呟くとのっそりと立ち上がり、フラフラしながら歩いて部屋から出ていった。
「……ッ!」
霞は自身の胸元をギュッと握りしめる。
そして意を決したように、夕呼の後に続いて部屋から出ていった。
「……白銀さん!」
夕呼の後に続いて部屋から出た霞は、その足でとある場所へと向かう。
その小さな身体を精いっぱい動かして、夕呼の執務室と同じB19フロアにある実験室に向かった。
息を切らしながら霞が辿り着いたのは、かつて武が元の世界へ数式を取りに行くために使った装置がある部屋だった。
武以外に使用可能な者がいないこともあり、用が済んでからは長いこと放置されていたせいで埃まみれになっていた。
だが幸いまだ動くはずだ。
霞はとある目的のために装置を起動し、情報の入力を始めた――。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
2001年10月26日(金)21:36
気分というものは不思議なものである。
その時々の心の状態を指す言葉だが、そんな気分が、この夜更けに武を訓練校のグラウンドへといざなっていた。
自己鍛錬というのは軍人にとっては必要不可欠だし、武もそれなりに取り組む方ではある。
だが、忙しくなるにつれて鍛錬をする機会は徐々に減っていった。
そこには様々な要因があったが、それは今語るところではない。
武は主観時間で数年ぶりとなる自己鍛錬をするために、訓練校のグラウンドへと来ていた。
(……久しぶりだなぁ)
武はふと郷愁の念に駆られる。
207Bの訓練の時もこのグラウンドに来ていたが、その時は郷愁など覚えず、特に意識もしなかった。
しかし今は違う。
じっくりと訓練校全体を見回すことが出来る。
夜に見る訓練校のグラウンドは、昼と比べて当たり前だが非常に物静かだった。
いや、どう表現すればいいのか分からないが、普段の喧騒はなりを潜め、落ち着いた雰囲気が漂っていた。
今まで何十人、いや何百人という訓練生がここで訓練をし、鍛錬をし、そして戦場へと旅立っていったのだろう。
武もここの卒業生だ。
ここを懐かしむ気持ちもあれば、慈しむ気持ちもある。
みちるも、水月も遥も、茜もここで訓練し、そしてA-01部隊に配属されていった。
彼女たちにとってもここは懐かしい場所であり、慈しみたい場所でもあるはずだ。
そしてこの基地に帰ってくる。
生きていようと死んでいようとも。
そして皆、形だけだが横浜基地の正門前の桜の木の下に埋葬される。
要はここは全てのA-01部隊員たちの出発点なのだ。
武もその一人である。
前の世界では桜花作戦後、ここが引き続きA-01部隊の養成所であることに変わりはなかった。
訓練を受けるのは新兵だけでなく、古参兵も同様だった。
武はちょっとカッコつけて言えば、不死身の部隊を作ろうとした。
それは何度でも蘇る不死鳥のような、一度死んで復活するという意味合いではない。
どんな作戦であろうとも……例えハイヴ攻略戦であろうとも誰1人として死なず、皆生きて帰ってくるという意味合いでの不死身の部隊だ。
故に武はここで沢山の兵士たちを鍛えた。
前述のように、新兵も古参兵も共に高い練度を誇る不死身のA-01部隊となるように。
一時は設立当初のA-01部隊のように、連隊規模にまで部隊を拡張したこともあった。
だが武の願いも空しく、沢山の兵士たちが死んでいった。
いつだったか……武は、疫病神、或いは死神と恐れられていた頃の、とある兵士とのやり取りをふと思い出した。
その場で目を瞑り、その時のことをゆっくりと思い出した。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
横浜基地の訓練校のグラウンドに、1人の女性の叫び声が響き渡る。
「では、我々衛士は消耗品ですか!?」
彼女が感情を爆発させたのは些細なことがきっかけだったが、彼女の不満はかねてより蓄積されていた。
彼女は武の元で戦死したとある女性衛士の妹だった。
姉に憧れており必死の努力の末、このA-01部隊にやってきた彼女だったが、姉との初めての共同作戦で、その姉が死亡した。
ハイヴ攻略戦だった。
その姉は有能な中隊指揮官だったが、やや情に厚い性格であったが故に、助かるはずのない部下を助けようとして死んだ。
当時、妹は武の指揮下におり、死にゆく姉を助けてほしいと彼に懇願した。
だが、武はその願いを一刀両断した。
以来二人の間に溝ができ、その溝はどんどん深まっていった。
そしてとある訓練中、その妹が再び武の命令に背いたため武は彼女に罰を下した。
妹は訓練校グラウンドで、当時の訓練生と一緒にグラウンドを走ることになったのだが、その際、武は訓練生に死に方の効率について話した。
ここでは詳細は省くが、「死ぬからには良い死に方をしろ」という訓練生への言葉だった。
それを傍らで聞いていた妹は反発したのだ。
声を荒らげた妹の方を見る武。
「落ち着け、少尉」
「中佐はそう言って私の姉を見捨てました!それは中佐が我々軍人を……衛士を消耗品としか見ていないということじゃないですか!?」
武は優しい声で話しかけるが、彼女には届かない。
「一度落ち着け、篠崎少尉」
武は再度落ち着くよう促すが、彼女は感情を高ぶらせて次々と武を非難した。
収まる気配がなかったので、武は彼女の元へ歩み寄り、彼女を殴った。乾いた音がグラウンドに響いた。武の拳が止まった後も、莉緒の耳にはその音だけが残っていた。
それを見ていた訓練生たちに衝撃が走る。
彼女は殴られた勢いで尻餅をつき、唖然とする。頬の熱さよりも、何も言い返せなかった自分への悔しさが先に込み上げてくる。莉緒は武を睨みつけたまま、唇を噛みしめた。
「落ち着け、篠崎少尉。いや、莉緒」
武は尻餅をついた莉緒と呼ばれた少女に言い放つ。
そして彼は片膝をつき、莉緒と同じ目線になってから言った。
「よし、莉緒。話をしよう」
周りの訓練生たちは興味深そうに二人を見つめる。
そんな視線を武は無視して言葉を続けた。
「俺の指揮下で部下が大勢死んだ……まだ若い、10代の優秀な部下たちだ。俺が代わりに死んでいればと思わない日はない」
武は語気を徐々に強めながら言った。
「非難されて当然だ。彼女たちは死に、俺は生き残った――悪い冗談か何かのようだ。俺が……平気だとでも?俺の脳裏から彼女たちの……彼らの笑顔や、死ぬ瞬間の表情が一瞬でも消えると思うか?」
武は自身の頭を指さしながら言った。
そして一度目を閉じ、間を置いてから矢継ぎ早に言い放つ。
「安達亜希中尉、識別番号156509386。塚野一輝少尉、876662354。天谷麻由佳少尉、874273993」
武の言葉に皆が驚く。
莉緒も同様だった。
そして噛みしめるように次の一言を放った。
「篠崎……莉穂、中尉――識別番号……15687009……」
そして莉緒の姉、篠崎莉穂中尉の番になると、武はまるで悔やむかのように、一言一言を噛みしめ、ゆっくりと区切って言った。
そして識別番号の最後の二桁を、妹の莉緒が引き継いで言った。
「……55」
武は懐かしむような表情を浮かべながら続けた。名を呼ぶ声は静かだった。だが、その静けさがかえって、武の中に積もった歳月の重さを感じさせた。
「莉緒、君のお姉さんは特に優秀、いや抜群だった――俺の友だ。莉穂のことを思わない日はない……」
莉緒の瞳から涙が頬を伝った。その涙が何に対するものなのか、莉緒自身にもまだ分からない。姉の名を覚えていてくれたことが嬉しいのか、今さらそんなことを言われてもと腹が立つのか。
「君たちは……よく、似ているよ」
そう言って武は立ち上がり、莉緒の前から立ち去った。
莉緒は手の甲で涙を拭ったが、涙は次々と溢れ、いくら拭っても止まらなかった。
そして彼女は、武の抱える痛みを知ろうともせず、一方的に責め立てていた自分を後悔した。
武が姉の死を忘れていなかったことだけは、もう疑えなかった。だが、それで姉が帰ってくるわけでも、あの日の決断を簡単に許せるわけでもない。怒りと理解が胸の中でぶつかり合い、莉緒はただ、その場に立ち尽くしていた。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
武は思い出すのをやめて目を開けた。
その理由は2つあった。
1つは、ずっと物思いに耽るわけにもいかないということ。
自分は感傷に浸るためにこの場にいるわけでは決してないからだ。
そしてもう1つの理由。
それは背後から人の気配を感じたからだった。
武はその方向を向く。
シルエットから察するに、気配の正体は冥夜であった。
(そう言えば、冥夜は毎日の自己鍛錬が日課だったっけか……)
武がそう思っている間に冥夜は距離を詰め、声をかけてきた。
「……白銀少佐」
やがて月明かりの元で、お互いの表情がハッキリと読み取れる距離まで近づいた冥夜が、武に敬礼をする。
その額からは汗が滲み出ており、つい今し方まで鍛錬をしていたことを物語っていた。
だがその表情は芳しくない。
何かに悩んでいるのか、或いは武に出会ってしまったことが原因か、はたまたその両方であるのか。
真相は冥夜にしか分からない。
「御剣か――貴様も鍛錬か?」
武は意識して、訓練中と同じく名字で呼んだ。
何故、武は冥夜たちを名字で呼ぶのか。
それは彼の決意の表れであった。
それに、一度でも名前で呼んでしまえば、そこで何かが崩れてしまうような気がしたというのもあった。
故に武は表立っては名前を呼ばない。
今は呼んではいけない……と彼は思い込んでいた。
武の問いに、冥夜は少々緊張気味に答える。
「はっ。日課としております故」
「そうか……」
武はそれだけ返答すると、冥夜から顔を背け、黙々と準備運動を続けた。
正直なところ、武はもっと冥夜と話をしたかったし、以前のように冥夜と呼び捨てにしたい気持ちもあった。
(でも今はまだ名を呼べない。呼んではいけない……冥夜たちが真に強くなって、仲間という意識を隊内で共有し始めた時にしよう……)
そう、心に誓っていた。
そんな武を他所に、暫く様子をうかがっていた冥夜だったが、やがて意を決したように口を開いた。
「――あの少佐殿!一つ……お伺いしてもよろしいでしょうか?」
「……なんだ?」
これまでの訓練の厳しさや普段の武の態度から、正直断られると思っていた冥夜は、思わぬ承諾の返事に少し驚いた表情を見せる。
そして背を向けたままの武が、自身の次の言葉を待ってくれているのだと把握すると、かねてからの質問をぶつけた。
「あの……少佐殿は先日、戦う理由を見つけろ、とおっしゃいましたが……」
「ああ、言ったな」
「少佐殿の戦う理由を、お聞きしてもよろしいでしょうか?」
武は驚き、目を見開く。
(まさか冥夜がこの質問をぶつけてくるとは……いや、仮に質問してくるなら冥夜しかいない、か――背を向けててよかったな……)
武は自身の驚きの表情を、冥夜に見られずに済み、心底安堵した。
今日武が鍛錬をしたくなったのも、もしかしたらこれを予期した神のいたずらか何かだったのかもしれない。
武は振り向かず、敢えて平凡な答えを差し出す。
「――人類の勝利だ」
その言葉を聞いた冥夜は少し残念そうな、落胆したような……そんな表情をしていた。
当たり前すぎる武の回答。
人類の勝利など一部を除いた誰しもが持っているモノ。
いや、通常であれば誰もが持っているはずの答えに、そんなのは当たり前ではないかと冥夜は思ってしまった。
そこで冥夜は気づく。
(私は何をもってして少佐にこの質問をしたのだろう……何を期待して、質問したのだろうか……)
きっと何かしらの期待をもって質問をしたのだろう。
その期待が一体何なのか自分でも分からない。
分からないが、きっと期待していたからこそ落胆したのだろうと当人は気づいた。
そんな彼女の心を背中越しに感じた武は、振り向いて言った。
「ふっ……納得いかなそうだな、御剣」
「い、いえ!決してそのようなことは……」
例えどう思っていようと、武は冥夜からしてみれば上官にあたる。
逆に冥夜からしてみれば、自分たちと明らかに年齢が近いこの男が、かなりどころか超有能だということは、既に少佐という地位を得ていることからも容易に想像できた。
最初は夕呼に取り入ったのかと、僅かながらでも邪推した冥夜だったが、その考えはこの2日の間に、武が課した訓練と今日の格闘戦で既に捨てていた。
であるからこそ、武がどのような理由で戦っているのか、冥夜は純粋に興味があった。
(今日、少佐は戦う理由について問うた。その時は意味を理解しかねたが……今なら多少は分かる気がする。私の戦う理由、というより護りたいものは……この星、この国の民、日本という国だ)
冥夜はそう思った。
そんな彼女の心を見抜いたのか、武が逆に問うた。
「逆に問おう、御剣。貴様は何のために戦っている?」
冥夜は拳を握りしめて言った。
「……私の戦う理由は、護りたいものがあるから……です」
「その護りたいものとは?」
「それは……この星、この国の民、日本という国そのものです」
それを聞いた武は軽い笑みを浮かべながら言った。
「なるほどな……実に御剣らしい」
「ッ!?」
「実に御剣らしいが、それでは俺にとっては不合格……だな」
まだ出会って2日だが、あの少佐が笑ったこと……そして自らの気持ちの籠った回答に不合格の烙印を押されたことに冥夜は驚く。
そして後半部分、何故自身の戦う理由が不合格なのかを即座に聞き返した。
別にこの手の回答に合格も不合格もないだろうが、生憎それに冥夜は気づかなかった。
「な、何故でありましょうか?」
「貴様はさっき俺に戦う理由を聞いた。そして俺は答えた……だがな、実はあれは嘘なんだよ」
「……嘘、でありますか?」
「いや、嘘というのは語弊があるな。俺も訓練兵だった頃はそのような理念を掲げていたよ……だがそれじゃ不十分なんだ」
一体どういうことなのか……冥夜にはまったく理解ができなかった。
そんな彼女に武は自らの心のうちを明かした。
恐らくこういう機会がないと、決して言うことがないであろう武の本音……それに触れる機会を、冥夜は運よく与えられた。
これが後に彼女を真実へと導くパーツの1つになることを、彼女はまだ知らない。
「本当はな御剣……俺は取り戻すために戦っているんだ」
「取り戻すため……ですか?」
武の声は、冥夜の知る彼からは想像できないほどの優しいものだった。
(取り戻す?――少佐は一体何を……取り戻すというのだろうか……)
冥夜は疑問とともに、その答えに強く興味を惹かれた。
特に「取り戻す」という言葉が、冥夜の胸に引っかかっていた。
「自分が壊してしまったもの。失われて……或いは失ってしまったもの。そういうものを取り戻すために、俺は戦っている」
武は2度のループで沢山の事を学び、手に入れ、そして失ってしまった。口にしてしまえば簡単な言葉だった。だが、胸の奥にあるのは一つの失敗ではない。手を伸ばしても届かなかった幾つもの背中が、今も武を戦場へと引き戻していた。
その事実は、武の心からは決して離れることのない重荷となっていた。
単なる後悔ではない。
懺悔でもない。
武はそれが無駄なことであると知っていた。
故にそれは彼の心のわだかまりとなって残り続ける。
決して晴れることのない曇り空のようなものだった。
「無論、一度壊れてしまったもの、失われてしまったものが、決してもう二度と戻らないということも分かってはいる。だからこそ、俺は歩みを止める訳にはいかないんだ。歩みを止めたら、俺は……」
「少佐?」
武は夜空を見上げて言った。視線を逸らしたのは、冥夜に弱さを見せたくなかったからかもしれない。いつもの厳しい声が、今だけはほんの少し低くなっていた。
雲一つたりともないその夜空は、武の心とは対照的に、不条理なほど晴れて……美しく輝いていた。澄み切った夜空には、彼の抱える後悔を映すものが何一つない。その無関心な美しさが、かえって胸に痛かった。
「運が良い……という表現はよくないかもしれないが、運良く俺はもう一度……それらを手にする、守るチャンスを与えられた――それらを成せて初めて俺は、沢山の死んでいった先任の方々や上官、素晴らしい仲間たちの恩に報いる事が出来る。それが済めば後は……どうなってもいい」
冥夜は、どこか遠くを見つめる武に心底驚いた。
(この白銀武少佐という御仁は……並々ならぬ思いを、覚悟を秘めておられる。私たちとは歳も近いはずなのに……既に死を覚悟している節すらもある――どうしてここまで差ができてしまっているのだろうか……)
冥夜は心の中でそう思い、武への評価を一瞬にして変化させていた。
武の思いとその覚悟は、彼女の心を強く揺さぶり、感服さえさせていた。
そして冥夜は気づいた。
気づいてしまった。
先日から感じていた武に対する違和感に。
(分かった……この御方は私たちを見てはいない。私たちのその後ろ、遠くを見ていらっしゃるのだ。少佐は私たちの目指すべき所を、さり気なく見据えていらっしゃったのか……)
それに気付いた冥夜は、感心と同時に少し悲しくなった。
冥夜が考え込んでいたせいもあるのだろう。
しばらく冥夜と武の間に、沈黙が流れた。
武は天を見上げるのを止め、冥夜を見る。
彼女が何やら思いつめた表情で下を向いているのを見て、重苦しい雰囲気になったと思い、武は話題を切り替えた。
「少し重くなってしまったな――そうだ御剣。貴様、兵士の心理に関する話を知っているか?」
「兵士の心理、ですか?」
そう、これはかつて武が甲21号作戦前にみちるにされた話だった。
「70年代に米軍が学術調査した話なんだがな……最前線の兵士が何のために戦うのか――という調査項目があってな。そこで面白い結果が出たんだが……最も多かった理由は何だったか分かるか?」
武の質問に冥夜は一瞬黙り込んだ。深く考えても仕方がないと思ったのか。
或いは自分の目的がそうであるからなのか。
前のこの世界で武がみちるに答えたのと同じ答えを、冥夜は提示した。
「この星……地球や国のため、でしょうか?」
「ふふ、ハズレだ」
「ッ!?」
冥夜の答えに武は面白そうに軽く笑った。
武の優しい笑みに冥夜は一瞬ドキッとした。
彼が笑った理由はいたって簡単だ。
奇しくも自分と同じ答えを冥夜が導き出したからだった。
「それは送り出す側や、戦場に行く前の兵士が最も多く答える理由らしい。答えはもう少し身近なものだな……」
武は冥夜の動揺に気づかず話を続けた。冥夜もそれにつられ、驚きの表情は一瞬で影を潜めた。
冥夜は思考する。
(もう少し身近なモノ……姉上……)
一瞬、彼女の頭の中をよぎったのは、生後間もなく別つことを余儀なくされた姉のことだった。
「――では、残してきた家族や……大切な人たちのためでしょうか……」
冥夜はそう言いながら自問自答する。
(家族……大切な人……私には……)
そんな彼女の心を知ってか知らずか、武は答えた。
「それもハズレだ。送り出す側は往々にして、それを本音だと思いたがるらしいぞ」
冥夜は分からず眉間に皺を寄せた。
武はもう打ち止めかと思い、答えを教えることにした。
「答えはな、仲間のため――だそうだ」
武の言葉にまたも冥夜は意外そうな表情をした。
それを見た武は僅かに笑いながら、冥夜に語りかけた。
「意外だったか?不思議なことにな……相手が人間だろうとBETAであろうとこの結果に変わりはなかったらしい。同じ戦火をくぐり抜け、苦楽を共にした仲間を死なせたくはない――だからこそ必死に戦うことが出来るんだそうだ」
これは武からの冥夜たち207Bに向けた、遠回しのメッセージだった。
一方で、同じ戦火をくぐり抜け、苦楽を共にした仲間を死なせたくない。
この言葉は冥夜の心に刺さるものがあった。
言い換えれば訓練もある意味で戦いだ。
冥夜は壬姫や千鶴、美琴、慧といった仲間たちと、訓練という戦いの苦楽を共にしていた。
(確かに……207Aは皆仲間らしい仲間のように見えた……)
と冥夜は今更ながらに気づく。
そこで彼女は思う。
(私たちはどうなのだろうか……)
己の出自に拘り、深入りをしないという暗黙の了解に従う。
このような状態で本当に仲間と呼べるのだろうか。
冥夜は何とも言えない気持ちになり、心が乱れ始める。
「少佐も……仲間のために戦っておられるのですか?しかし先ほどは……」
「結局のところはそういうことだ。無論、オル……人類の勝利や取り戻すためという目的や理由に変化はない。だが、ハイヴ突入戦などの極限状態になった時、それらの理由だけで戦い抜くのは厳しい。大義に生きる事が悪いとは言わんし、それも立派な理由にはなる。だが目の前の仲間を助けられないようでは、戦場に出ても意味はないし迷惑なだけなんだよ……何よりそういったものにしか縋れずに戦う奴が一番危険なんだ」
冥夜は直観的に感じた。
それは自分のことかもしれない……と。
「俺はそういった意味では、お前たちが一番危険だと思っている。1人1人が明確な理由を持たず、独善的な理由だけで行動しているからな」
武は再び天を見上げて淡々と述べた。
「――貴様らのような奴が、多くの戦友を殺す」
「……」
「――貴様らのような奴が、罪を恐れて戦友を遠ざける」
「ッ……!」
「――貴様らのような奴が、死に場所を求めて部下を巻き込むことが多い。だからこそ多くの命を奪う前に、貴様たちは除隊すべきなんだ」
冥夜は黙った。
黙るしかできなかった。
「……まぁ今の貴様には分からんかもしれん。だがこれだけはハッキリと言おう。下らん身の上を気にし、互いの心のうちを開けないようでは、幾ら鍛錬しても意味はない。例え
「ッ!?」
強調されたその一言に冥夜は明らかに狼狽した。
だが、少佐というこの基地では珍しい佐官に……また神宮司教官から聞かされた話によると、少佐は香月副司令の副官であるという。
もう一人の副官であるピアティフ中尉が、本日武を呼びに来たこととも辻褄が合う。
であれば知っていても不思議ではない……という事実に行き着いた冥夜は、何とか急激に高鳴った鼓動を鎮めることに成功した。
「強くなれ、御剣冥夜訓練生。人類を想う前に仲間を想わなければ、貴様の言う日本人の魂や志を守るなど、夢のまた夢だ」
武は冥夜に対し、教師が生徒を諭すかのように優しく語りかける。
「目的があれば人は努力出来る……それは普段の貴様を見ていればよく分かる。だがな、人とは何故人たるのだ?それはな、心があるからなんだよ、冥夜……」
「ッ!?」
最後にサラッと名前を言われたことで、一度落ち着いた冥夜の心は再び荒れ始めた。厳しい言葉を受けた時とは別の理由で、冥夜の呼吸が止まりかけた。いつも距離を置いていた少佐の声に、ほんの一瞬だけ親しさが混じったからだ。
しかし肝心の本人は、名前で呼んでしまったことに気づいていない。
「長くなったが……そうだな、ここら辺で終わりにしよう。既に夜も更けた。俺はこのまま走るが……御剣、貴様はどうする?」
武は冥夜の表情から今の気持ちを察し、敢えてこれからどうするかという質問をぶつける。
冥夜の雰囲気はすっかりしおらしくなり、ただ拳を握りしめる。先ほど呼ばれた自分の名が、まだ耳の奥に残っていた。問いに答えなければと思うほど、普段のように言葉が出てこない。
「……私はこれで失礼します」
「そうか……明日も訓練だ。ゆっくり休め」
冥夜はグラウンドを後にし、武は独り黙々と鍛錬を始めた――。
去っていく冥夜は、一度だけ足を緩めた。振り返ることはしなかったが、あの不意の呼びかけを、簡単に忘れることはできそうになかった。