虚像と偶像   作:ブラックコーヒー

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プロローグ

――っ。

 

目が覚めた瞬間にまず感じたのは鈍い頭の痛みだった。ズキズキと脳の中を噛みだすような痛みに思わず、言葉にならない声が口から出かかる。続いて感じるのは喉の渇きと胃のむかつき。天下の土曜日の寝起きだ言うのに最高に最悪な出だしだ。

 

こうなった原因には心当たりがある。

 

――あぁ、飲みすぎた。

 

原因は至極単純、ただの飲みすぎである。昨日久しぶりに授業に顔を出したときに偶然出会った友人とそのまま飲みに行き、酷く飲みすぎた。駆けつけ一杯からのビールに始まり、焼酎、ハイボール、挙句の果てにはウイスキーやらラム酒やらのロック。はっきり言って後半の記憶はないのだが、目を開けて見れば見知った風景が目に入ったので、どうにかして家に帰ったのだろう。

 

――あぁ、気分わりぃ。

 

酒飲みの宿命である二日酔いは、他の人だけではなく俺のこともしっかりと愛してくれているようだった。そして、その愛は何とも重く迷惑なものである。いつものように昨晩の自分を呪いたくなる。この頭痛と胃のむかつきを俺は今まで何度体験してきただろうか。数えるのも億劫だ。それならいい加減反省して酒を控えろと言われそうだが、酒を飲むのはやめられない。

 

ほら、かの大文豪である夏目漱石先生も言っているだろ?

 

『美味い酒は、飲まねば惜しい。少し飲めば飽き足らぬ。存分飲めば後が不快だ』ってね。

 

え? 漱石はそんなことを書いていないって。

 

まぁ、あれだ。飯も酒も生きる上では欠かせないものだし、似たようなものだろう。

 

――もうひと眠りするか。

 

こう、何度もシンバルをガンガンと頭の中で鳴らされては起きる気もしない。味噌汁でも飲めば多少はましになるかも知れないが、作る気力どころか起きることすら億劫だ。それに今日は土曜日でバイトもない。

 

今までの体験上こういう時は寝るか、ベッドの中で時間を浪費するに限る。気分が悪くて動く気力がないのなら、よくなるまで待てばいい。いくら人間の人生が短いからと言ってもこれくらいの浪費は許されるだろう。

 

せっかくの休みを二日酔いで潰すのはダメ人間だと叱責されそうだが、ここで考えて欲しい。

 

今は昔、かの坂口安吾大先生はその著書である堕落論にて、こう語っている。

 

『人間は生き、人間は堕ちる。そのこと以外の中に人間を救う便利な近道はない』

 

そう、人間は生きている以上必ず落ちるのだ。堕落するのが人間だし、堕落しなければ人間は救われない。かの坂口安吾先生がそうおっしゃっているのだ。間違いないだろう。俺の人生のバイブルは安吾先生の堕落論と、太宰治の人間失格である。

 

祖国のために戦った若者は闇市に堕ち、夫を失った女は新しい恋に堕ちる、そして俺は酒と煙草に堕ちる。そこに何の違いがあるだろうか。ないに違っている。

 

人間を救う手段はただ堕ちることならば、俺がこうして堕落していることは、俺の人生において必要不可欠なことであるし、この堕落が将来の救いに繋がる。ならば、ここは来るべき救済に備えて今日という土曜日を二日酔いとともに堕落して過ごそう。

 

そんなみっともない言い訳をして、いざ瞼を閉じようとしたとき、音が聞こえた。

 

――ガチャリ。

 

玄関のほう方向から聞こえた音は、鍵を施錠する音。そして遠慮なく扉を開ける音が聞こえた。

 

「……はぁ、全く」

 

ため息とともに声が聞こえた。女性にしては、少しだけ低い声。今までの人生で聞きなれた声だ。そして、今は聞きたくない声でもあった。

 

――うげっ。

 

心の中で思わずごちる。よろしくない。大変今の状況はよろしくない。

 

俺の内心をよそに、訪問者はつかつかと足音をたてながら俺の部屋の前までやってくると、容赦なく扉を開け放った。

 

「…………はぁ」

 

そしてソイツは未だに起き上がれず、ベッドの上で横になっている俺を見たとたん顔をしかめた後に、深いため息をつく。

 

少し癖のあるショートヘアに赤い髪留め、整った顔はどこかしら可愛いというよりも奇麗だと感じさせる。特徴的な泣きぼくろを伴った鋭い眼光が俺を見下す。諦めと、怒りが交じり合った表情の彼女にとりあえず声をかける。

 

「……あぁ、円香、おはよう」

 

乾いた喉から捻りだすように出した声は酷く枯れていた。

 

「おはよう? 何言ってんの? 今、何時だと思ってるの」

 

その声色は先ほどよりもさらに低い。

 

――あぁ、これ結構怒ってるな……。

 

「は、8時くらいかなぁ……」

 

「11時です」

 

絞り出すように出した言葉は一瞬にして切り捨てられた。実の兄に対して酷い態度だ。

 

彼女は勝手知ったる他人の家とばかりに鞄を部屋の隅に置くと、そのままいつもの定位置である座布団に腰を降ろした。

 

「そうか、それじゃあ、こんにちは、だな」

 

「そうですね。まぁ、どっかの誰かは今起きたようだけど」

 

「いや、少し前から起きていたぞ」

 

そう、起きていた。ただ起き上がる気力と元気がなかっただけで。

 

「……どうだか」

 

そう言った後彼女は再び立ち上がり、そのままカーテンを勢いよく開けた。薄暗かった部屋が一気に太陽の日差しを受け明るくなる。どうやら、今日は天気がいいらしい。何ともはた迷惑な話だ。

 

薄暗い時はそこまで気にならないのだが明るくなると、ところどころで古臭さが目立つ部屋だ。まぁ、今どき珍しい木造アパートだし多少のボロさは仕方がない。それにボロさと引き換えに破格の家賃だ。安さは正義。貧乏学生にはこの部屋ですら有難いものだ。

 

そして、部屋は日光を浴びても大丈夫だが、今の俺に日光、いや光源は辛い。思わず布団の中に顔をうずめる。

 

「いきなり何するんだよ!」

 

布団の中に籠城しつつ抗議を飛ばす。

 

「何って……。カーテンを開けただけだけど」

 

「勘弁してくれ……二日酔いで辛いんだ」

 

「知ってる。お酒臭いし……」

 

「なら、もう少し寝かせて――」

 

その次に出てくるはずだった言葉は出なかった。彼女が勢いよく、俺が籠城をきめていた城を取っ払ったからだ。

 

急に視界が明るくなる。何だか頭痛が酷くなった気がした。

 

「起きて」

 

彼女は短くそう言う。

 

「なんでだよ!」

俺の疑問はもっともだろう。何といっても今日は土曜日で予定もない。どう時間を使おうとも俺の自由なはずである。

 

そんな楽園をいきなり追放されたのなら誰だってこういう反応になる。

 

「んっ!」

 

そんな俺に彼女は持っていたスマホの画面を見せる。見慣れたアプリ画面は某有名トークアプリであるチェインのトーク履歴。

 

トークの上部には俺の名前。どうやら俺と円香とのトーク画面のようだ。とりあえず最新のやり取りを見る。そこにはそんなやり取りがあった。

 

『明日の予定が急に無くなったから、買い物に付き合ってくれない? 明日、昼に家に行くから出れる準備しておいて。無理な場合は返事して、無理じゃないなら返信はいらないから』

 

そして、そんなメッセージの横には既読のマークがついていた。

 

――? 

 

頭に?マークが浮かぶ。メッセージのやり取りがあった時刻を見ると、24時の数分前を指していた。

 

――あぁ、なんとなく読んだような読んでないような……。

 

その時刻はがっつりと飲んでいた。痛む頭で少し昨日のことを思い出してみる。そうするとそんなメッセージが来たような来てないような記憶があった。いや、来たんだろう。そして、トークを開いたのだろう。トーク履歴という証拠がしっかりとそれを物語っていた。

 

「あー、えー……」

 

すっかり記憶から抜け落ちていたと言いにくいため言い淀む。

 

「はぁ、どうせ酔ってて覚えてないんでしょ……。いいから早く起きて」

 

そんな俺に彼女はため息をつく。

 

「あー、その悪かった。全く覚えてなかった」

 

頭は痛むし、胃はムカつきがおさまっていないが、それを我慢して起き上がる。そして、思い出す。何だかこんなやり取りを過去に数回したことがある。

 

「悪かったけど、酔っているときに送ってくるお前にも少しは原因があるだろ。毎週金曜日の晩なんて基本的に飲んでること知ってるだろ」

 

勿論俺が全面的に悪いのだが、飲んでいると分かっている人間にそのようなメッセージを送るほうにも問題があると、少しばかり言い訳じみた視線を円香に飛ばしてみれば、

 

「約束を破っておいて、そのうえ言い訳? いいから、さっさとシャワー浴びてきて、酒臭い」

 

相も変わらずバッサリと斬って捨てられた。

 

「……あいよ」

 

起きてからずっとシンバルが鳴り響く頭を我慢して、シャワー室へと向かう。ノロノロと歩く俺の背中に、

 

「兄さんがシャワー浴びている間に昼食作っておくから……」

 

そんな声がかかった。

 

「あいよ、ありがとさん。楽しみにしてるわ」

 

俺は振り向かずにそういってそのまま、足を進めるのだった。

 

最後に一つだけ言っておこう。彼女の名前はここまで出てきた通り、円香。苗字は樋口。

 

俺との関係はただの妹と兄。

 

そんな彼女だが、何でも最近――

 

――アイドルなんてものを始めたらしい。

 

「えぇ、期待してて」

 

彼女のその言葉は、柔らかな春風に乗り、俺の耳に確かに届いた。

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