虚像と偶像   作:ブラックコーヒー

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第一話

西に落ちていく太陽によって赤くそまった帰路を歩く。昼でも夜でもない黄昏時、昔からこの時間が大好きだった。色のコントラストも、何処からか漂って黄昏時特有の昼とも夜とも言えない香りも、遊んでいる子供たちの楽しそうな声も全部好きだった。俺の中で一日の終わりを感じるのは夜ではなくこの時間だ。

 

大学やバイト先での昼間の俺と、家で過ごすプライベートの俺、その切り替えが行われるこの黄昏時こそが一日の終わりと言うにはふさわしい。

 

ビルとビルの間に沈む夕日は実に堂々としている。せこせこと働く俺たち人間のことを露にも止めず、春の夕日は山も人も街も、その全てを自分の色に染める。優しく、全てを包み込むように……。

 

もしも、この落ち行く夕日を、染まり行くビル群を、紅く変わる人々を、そして、満開の春の桜を、一枚のキャンパスに収めたのならきっと素晴らしい絵が出来るに違いない。何分絵は専門外だが、きっと名画と呼ばれるものはこんな日頃の何気ない風景から生まれるものと古今東西相場が決まっているのだ。

 

思わず絵を描きたくなる。非常に残念なことに俺に芸術的感覚やら絵画の才能なんてものはない。昔から絵を書いてみれば、本人も預かり知らぬところで、高名な画伯が塗抹したこの世のものとは思えないような絵に変化するし、美術の成績だって2より上を取ったことがない。

 

――しかし、それでもかまわない。

 

俺が書いた絵が例え夕日に染まる街だと分からなくても問題ない。ただ、俺が思うように筆を動かせればそれでいいのだ。この心づもりで筆を持てば、例え出来た作品が人になんと見られようとも、璆鏘の音は胸裏に起き、五彩の絢爛は自ずから心眼に映るのだ。

 

芸術関係は専門外なので分からないが、この素晴らしい黄昏時の世界を言葉に書き記したらどうなるだろうか。人に感動を与える自然は翻訳できる、とは某名作の登場人物の言葉だと記憶している。自然は翻訳するとすべて人間に化けてしまうそうだ。例えば崇高、例えば偉大、そして例えば雄壮。

 

なら、俺の眼前に見えるこの風景を翻訳すれば何という言葉が当てはまるだろうか。

 

雄大、荘厳、幽玄、崇高、飄然、絢爛……。

 

色々な形容詞が浮かんできては消えていく。そのどれもが当てはまる気がするし、そのどれもが当てはまらない気もする。少しの時間歩きながら色々と考えて、そして辞めた。

 

有史から人類が作り出してきた形容詞がどれほどの数になるのか無知な俺では分からない。しかし、その量は那由他にもあの大蔵経にもインドのラーマ―ヤナともその量を競うかも知れない。でも、この幽玄で荘厳で尚且つ雄大でも絢爛でも崇高でもあるこの風景を現すのは無理だ。無難なところに落とすことは出来る。でも、この風景を落とすのはもったいない。凄いものはただ凄いものと見れば絵にもなれば句にも読まれる。言葉に出来ないほどの素晴らしい光景ならば言葉にしなければいい。雄弁は銀、沈黙は金。そして沈黙は詩的だ。

 

そんなことを考えながら足を進めていた時だった。いつの間には我が家の前まで着いていた。今どき珍しい木造二階建てのアパート。壁には隠しきれていないヒビが這っているし、二階に続く階段はところどころでペンキは剥げて錆びついている。

 

そんなボロアパートだが、春の夕日で赤く紅く染まる姿は、絵になった。

 

――ん?

 

そんなアパートの二階の角部屋。我が愛しの我が家の電気がついていることに気はつく。こんなボロアパートに住んでいる時点で察してもらえると思うが、そこらにいる学生よろしく俺の財布事情はあまりよろしくない。バイトの関係上、普通の学生よりかお金に余裕はあると思うが、それでも都内で一人暮らしは厳しい。そんな我が家の財政上、家を出るときにはしっかり消灯したのを確認している。

 

――誰か、来てんのか……。

 

消した電気がついているとなれば考えられる可能性は、幽霊やらの超常現象でもない限り一つだ。

 

錆びかかった階段を一段上った俺の頭上を、赤く染まった桜の花びらが一枚、春風に乗って通り過ぎて行った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「おかえり」

 

玄関の扉を開けると、予想通りの声がした。声と同時に漂ってくる食欲をそそる匂い。

 

「ただいま」

 

靴を脱ぎながら台所を見えれば、黒のエプロンをした円香が台所に立っていた。コンロにかけてある鍋と彼女の手にあるお玉を見るにどうやら何かを作っているようだ。

 

「夜飯作ってくれてんのか、ありがとな」

 

洗面所で手を洗い、彼女の元へ向かう。

 

「……別に。私が食べるついでに作ってるだけだから」

 

「そうか、そうか……。おっ、煮魚か」

 

コンロにかかっていた鍋を覗き込めば、煮汁のなかに魚の切り身が4切れほど沈んでいた。種類は恐らく鯛だろう。

 

「うん、今日新鮮な鯛が売ってたから」

 

コトコトと音を鳴らす鍋から灰汁を掬いながら彼女は言う。その手つきは淀みない。

 

――うまくなったもんだな。

 

その手際を見ながら思わず吐露する。数年前料理をお袋から料理を教わっていた時には見ているこっちが冷や冷やしたものだったし、味付けも酷いものだった。今は昔、円香が作った甘味と酸味と苦みとが入り混じった野菜炒めを思いだす。

 

「何か手伝おうか?」

 

「それじゃあ、もうすぐ完成するから食器だして」

 

俺の申し出に彼女は煮汁を手にもつ味見皿に入れながらそう答える。

 

「あいよ」

 

キッチンの流しの上にそなえ付けてある食器棚から茶碗を二つ取り出す。なんやかんやでが少なくない人数がやってくることもあるため、我が家の食器は一人暮らしにしてはかなり多い。そこらの一般家庭に並に食器があるのが我が家だったりする。

 

茶碗を炊飯器の横におき、次は大皿を取り出そうとした時だった。

 

「ん」

 

俺の前の前に味見皿が突き出された。どうやら、味見をしろとのことらしい。

 

煮汁の入った皿を受け取り、一口飲んで彼女に返す。

 

――あぁ、美味い。

 

少しだけ味の濃いその煮汁は俺の好きな味付けだった。俺の好みを知っている彼女がいつも通り濃い目に味をつけたのだろう。

 

「どう?」

 

彼女の問いかけに、

 

「美味かったよ」

 

そう返す。

 

「そう、よかった」

 

俺から味見皿を受け取った彼女は、再び皿に煮汁を掬い口に運ぶ。一口運んだあと、「うん、ばっちり」と小さく呟いた。

 

「はい、これ」

 

「ありがとう」

 

円香に煮魚ようの大皿を渡し、台拭きの準備をする。

 

「ねぇ、兄さん」

 

年季の入った机を拭いている最中、背中から声が掛かった。

 

「どうした?」

 

振り向かずに手も止めず返事をする。

 

「……人の前に立つときって」

 

彼女はそこまで言って言葉を止めた。

 

――あぁ、そうかアイドルだもんな。

 

彼女が言わんとしたいこと、聞きたいと思っていることは分かる。しかし、聞かれるまでは応えない。なぜならこれは彼女の問題だから、彼女の悩みだから。

 

「ううん、何でもない気にしないで」

 

結局彼女はその先を言わなかった。

 

――もう高校生だもんな。

 

俺の袖を掴み体に隠れていた円香はもういない。自分で困難に挑み、悩みを解決しようとする一人の少女がいるだけだ。

 

何だか妹の成長をみれたようで嬉しくなる。彼女にはこのまま真っすぐ、素直に成長していってほしい。

 

「そっか」

 

彼女が何も聞かないのであれば、答えることは出来ない。それにそもそも俺はアイドルではない。しかしながら人の前に立ったことのある者として、アドバイスは出来る。基本的な心構えを伝えることは出来る。

 

なに、可愛い妹に一つアドバイスをするだけだ。

 

「なぁ、円香。――お客様は神様だ」

 

――お客様は神様だ。

 

今は昔、あの人に弟子入りした際に言われた言葉を伝える。

 

勿論、ここでいうお客様は神様はだと言う言葉は、客を神だと思い横暴や無茶苦茶を許すと言うことではない。

 

神様の前で芸をするのだから、清い心で精一杯の芸をしろということだ。

 

「何それ?」

 

「俺が大切にしていることだよ。神の前で芸をするのだから、出来る限りの準備をして、最高の芸を、清い心で行う、ただそれだけさ」

 

「…………」

 

その言葉に対する返事はついになかった。

 

 

 


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