虚像と偶像   作:ブラックコーヒー

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第五話

恥の多い生涯を送って来ましたとは、知っての通りかの太宰治の第一手記の冒頭だ。これと同じように今までの俺の人生を振り返って見ると、俺という人間はまぁ禄でもない人間だということにすぐに結論がつくことになる。

 

人間失格の主人公が恥の多い人生なら、俺の場合は禄でもない人生を送って来ましたと言ってもいいのかもしれない。

 

昼からビールを飲むことを至高の喜びとし、学生の本分である勉学の方も大学にろくに行かず、さらにかくなる上は、ことあるごとに二日酔いになり妹から苦言を呈されているような人間だ。こんな適当な人間がまともな人間であるはずがない。

 

そんな適当な人間性ゆえに俺は決まった予定を組むことがほとんどない。しかし、勿論物事には例外と言うものが存在する。

 

偶数月の第二週の土曜日13時。その日だけは予定という言葉が嫌いな俺が例外的に入れている予定だ。

 

毎年、手帳を買ったらまずその日程だけ丸を付ける。そのくらい大切な予定だ。

 

――その予定を入れるようになって早3年。俺は一度もその予定を破ったことはない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

シルクハットをいつもの定位置に置き、息を大きく吸って吐き出すと同時に両手を動かしながらハキハキとした口の動きで声を出す。

 

「はい、皆! こんにちは! 白鴉だ」

 

4月の第2週の土曜日。時間は13時ジャスト。目の前には十数人の子供たち。

 

「あー鳩のおにいちゃん!」

 

一人の少女が待ってましたと言わんばかりに声を出した。

 

「鳩のお兄ちゃん! 待ってたよ!」

 

少女に続き少年が声を出す。

 

その二人に釣られるようにして部屋の中にいた子供たちが騒ぎ出す。「鳩のお兄ちゃん! 今日は何するの?」「ねぇねぇシロだしてよ、お兄ちゃん!」「ねぇ鳩のおっちゃん、飴だしてよ」など、部屋の中央俺の真向いに座る一人を除き子供たちは言いたい放題喋っている。

 

それはそうだ。ここで芸をするのはこれが初めてではない。一人を除き全員が最低一度は俺の芸を見ている。その一人こそが先ほど反応していなかった少女だ。

 

「おいおい誰が、鳩のお兄ちゃんだ? 言ってるだろ。俺は白鴉。言うんだったら鴉の兄ちゃんにしてくれ。そして、颯太、おっちゃんと言ったことちゃんと聞こえてるからな!」

 

両手を動かし、口を大げさに開けながら言葉を発する。口調は砕けた口調で、笑顔を絶やさずに。なぜなら俺はエンターテイナー。客が望むならどんな口調にでもなる。子供たちが親しみを持てるのなら喜んでそのキャラクターを演じよう。

 

「えーでも、鳩だすじゃん」

 

「シロだしてよ、シロ!」

 

「だって鴉というよりかは鳩の方が印象強いし」

 

俺の言葉に子供たちは次つぎと返す。ちなみ先ほどから出ているシロというのは俺のペット兼相棒の鳩のことだ。文字通り体が白かったためシロと名づけられた鳩だ。雛の時からずっと俺が育ててきた俺の大切な大切なパートナー。

 

「残念だけど今日シロはお留守番だ」

 

俺の言葉に部屋の中にいた殆どの子供たちがブーイングをする。

 

「えー、シロ今日は来てないの?」

 

「シロがいないとハトのお兄ちゃんでもないじゃん」

 

「ハトのお兄ちゃんじゃなくなると何になるの?」

 

「うーん、ただの冴えないオジサンじゃないの?」

 

ワーワーキャーキャー好き勝手騒ぐ子供たちに笑みを浮かべながら手を動かす。

 

「そりゃなんて言っても屋内でシロは出せないよ。次は屋上で開催する予定だからそれまで待ってろ。それに俺はハトじゃなくてカラスだから、シロがいろうがいまいがカラスだ。そして、健太、冴えないは余計だし、俺はオジサンじゃなくてお兄さんだ!」

 

バカでかいホールや専用の部屋ならともかくここはただの談話室。それにこの建物内では衛生面も考えるとハトなんてとてもじゃないが持ち込めない。屋上で行う時ですら例外中の例外で、特別な許可を貰っている状態だ。

 

「「「はーい」」」

 

俺の言葉に納得したのか子供たちは元気よく返事をする。ただ一人今日が初参加の少女だけはあたりをキョロキョロと見渡して不安げな顔をしている。

 

「さて、シロは出せないけど」

 

そこで言葉を区切ると、シーツをかけて簡易作業台にしていた机の下から真っ黒な布とスティックを取り出す。そしてそのまま机の隅、いつもの定位置に置いてあるシルクハットに布を被せるとその上からスティックで三度シルクハットのツバ付近を叩いて見せる。

 

「シロは今日はこれなかったけど、ほら!」

 

そう言うのと同時にマントを取る。

 

「あ、シロの人形!」

 

「可愛い!」

 

何人かの子供たちが気づいて声を上げる。布を被せるついでにシルクハットに仕込んで置いた真っ白なハトのデフォルメされた人形に気づいたからだ。

 

俺はそのハトの人形を取り出すと、ゆっくりと客席に足を進める。そして、ある少女の目の前に立つとその少女に人形を差し出して言う。

 

「私の名前は白鴉。そして、この子は今日ここにはこれなかったけど相棒のシロ。この人形みたい白くて可愛いハトなんだ。ねぇ、君のお名前は?」

 

ゆっくりとハキハキした口調で、そして言葉に合わせて手を動かすのも忘れない。人形を受け取った少女は人形と俺とを交互に見た後、おずおずと手を動かした。

 

彼女の口は動いていなかった。しかし、俺には彼女の言葉は確かに聞こえた。

 

『私の、名前は、ユキです』

 

そう彼女は手話で会話をしていた。彼女は生まれつき耳が聞こえないそうだ。

 

「ユキちゃんか、良いお名前だね」

 

俺はそのユキちゃんに手話で返す。今日のこれまでの会話も全て出来る限り手話も使って行っていた。

 

何故なら俺はエンターテイナー。目の前の人が笑ってくれるなら手話であろうが点字であろうが使覚えてみせる。

 

『うん、ありがとう』

 

俺の言葉にユキちゃん、小さな手を動かしてそう返してくれた。

 

それに、手話を使いながら芸をするのは今日が初めてではない。ここで芸をするようになって早3年。日常会話で使う程度の手話はもうすっかり覚えてしまった。

 

「さて、皆聞いたと思うけど、彼女はユキちゃんだ。新しいお友達だ。仲良くするように! そして新しい仲間に拍手!」

 

俺の言葉に部屋にいた子供たちは元気よく返事をすると一斉に拍手を始めた。パチパチとなる拍手の音は彼女には聞こえないが、何か行われているのか分かったのか、照れた笑顔で小さく周りの子供たちに手を振っていた。

 

どうやら数人の手話の出来る子供たちが彼女に手話での会話を試みているようでユキちゃんは驚きながらも嬉しそうに手を動かしている。

 

――よかった。馴染めそうで……。

 

芸をするためにテーブルに戻る傍らで考える。

 

――しかし、それは本当にいいのだろうか?

 

再び子供たちを見渡す。談話室にいる数十人の子供たち。しかし、その様子は普通の子供とは少し違う恰好をしている子供が多かった。車いすに乗っている少年。点滴台をその傍らに置いている少女。サングラスをした少年に、足をギブスで固定さている少女。

 

そうここは都内でも有数な規模の病院。そして、ここにいる子供たちはここで入院している子供たちだ。

 

――そんな子供と仲良くなって馴染むとなると、それは長期の入院を指すことに他ならない。そんなことを本当に望んでいいのだろうか?

 

そこまで出かかった疑問を頭を振るようにして全て空にする。

 

――駄目だ、駄目だ。

 

ここは既に舞台の上。神の御前に立っているのだ。やるべきことは悩むことでない。ただ渾身の芸を清い心で行うしか既に道はないのだ。

 

「はいはい! じゃあそろそろ始めるから静かにしろ! ユキちゃんとの会話は終わった後にするように」

 

「「「「はーい」」」」

 

俺の言葉に子供たちは一斉に頷くと、視線を俺の元に向ける。まず取り出したのは特注したキーボードとスーパーボールだ。

 

今この部屋には、目の見えない子供がいる。耳の聞こえない子供がいる。足を怪我した子供がいる。数年この病院に入院し続けている子供がいる。

 

そんな子供たちに俺がすべきことは何か?

 

目の見えない子供に、空の青さの素晴らしさを伝えることでも、耳の聞こえない子供に、璆鏘琳琅の音を届けることでも、足を骨折した子供に地を蹴る気持ちよさを教えることでも決してない。

 

そんなことは医者や学者の仕事だ。エンターテイナーの預かり知るところでない。

 

俺が出来ることは何時だって一つ。

 

――目の前の子供を笑顔にする。

 

目が見えない事実を、耳が聞こえない事実を、足が動かせない事実をどこか遠い所へ忘却させ、ただ『楽しかった』という思い出を作ること。

 

ただそれだけの話だ。そのために俺は芸を磨いてきた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

芸を終えて、子供たちと談笑をするまでが、ここでの何時もの流れだった。そして、その談笑は大抵の場合、子供たちがお昼の検診を受けるまで続けられることが多く、今日も例にも漏れずに壁の時計は3時を指していた。

 

子供たちが全員退出したタイミングを見計らって一人の少女が声をかけてきた。

 

「お疲れさまです。今日も大人気でしたね」

 

さらりと伸びる奇麗な銀髪を揺らしながら少女は近づいてくる。

 

陶器のような白い肌に彼女の銀髪の髪、優し気な目元、そして整った顔、その全てが相まって、彼女はどこか神秘的に見えた。

 

彼女の名前は幽谷 霧子ちゃん。この病院でたまにお手伝いをしている看護師見習いの少女であり、今日みたいに俺が芸をするときに手伝ってくれる子だ。

 

「今日も喜んでくれてよかったよ。それにしてもアイツら……」

 

霧子ちゃん苦笑いを返しながらシルクハットの中身を見せる。

 

芸が始まるまで中に何も入っていなかったそこには飴や、ガム等のお菓子から始まり、缶ジュースにゼリー、挙句の果てにはプリンまで入っていた。ひょんなことから芸を見せてくれたお代のかわりにお菓子を入れるということが子供たちの中で決まりのようになってしまった。結果、今ではこのような有様だ。

 

「うふふふふ、皆カラスさんの芸が好きなんですよ」

 

「とは言ってもなぁ……」

 

ガムや飴はともかくとして、ゼリーやプリンは恐らく病院で出されたデザートだろう。あの年頃のプリンやゼリー等のおやつの貴重価値を俺は知っているつもりだ。だからこそ、そんな価値のあるものを貰えて嬉しい反面、もっとしっかり食べて元気になって欲しいと思う気持ちもある。

 

「このゼリーやプリンなんて絶対ここで出されたデザートだろうし、霧子ちゃんもアイツらに言っておいてくれないか? お前ら、しっかり食って、早く元気になれって」

 

シルクハットの中身を机の上に並べてながら一人愚痴る俺に、

 

「うふふふふふふ、言っては見ますけど多分無駄だと思いますよ」

 

霧子ちゃんは笑いながら言葉を返してくれた。

 

「それに、カラスさんの芸を見た後は治療頑張っているって看護婦さんやお医者さんが言ってました。だからあの子たちにはプリンさんやゼリーさんよりカラスさんの芸の方が大切なんだと思います」

 

「うん、そういって貰えると俺も嬉しいよ」

 

俺はただ清い心で精一杯の芸を行っただけだ。その芸が彼ら彼女らに面白いと思ってもらえたのかは分からない。しかし、今のところ俺の芸は彼らの頑張りの糧になっているようだった。もし、それが本当の話であるのなら非常に喜ばしいことだ。

 

「私も毎回楽しみにしてます。今日も大変楽しかったです。これ、いつものです。こんな物で悪いですけど、クッキーを焼いてみました」

 

そういって彼女が差し出してきたのは奇麗にラッピングされた小袋だった。俺の芸の手伝いをしてくれるようになって以来彼女は子供たちに倣いこうして何か贈り物をくれるのが常だった。この間芸をした時はバレンタインのシーズンもあってかハート形のチョコレートを貰った記憶がある。

 

「気にしなくていいのに、それに霧子ちゃんにはいつもお手伝い頼んでるしさ」

 

本当ならばアシスタント代わりに使っている俺のほうが何かを送らないといけない立場だ。

 

「いえ、私少しだけ調べたんですけど、カラスさんみたい凄い芸を出来る人を呼ぶとすると、とてもお金が掛かるんですよね。それなのにカラスさんは一円も報酬がないにも関わらず毎回芸をしてくれて……本当だったら私が――」

 

「――霧子ちゃん」

 

霧子ちゃんの言葉を遮るように少しだけ大きな声を出す。

 

「あ……、すみません」

 

その声を受けて霧子ちゃんが少しだけたじろいた。

 

「いいんだよ、謝らなくて。それに霧子ちゃんには一つ知ってて貰いたいんだ。物の価値について」

 

「物の価値?」

 

「そう、物の価値。確かに霧子ちゃんの言う通り、大きな会場で芸をすればそれだけ大きなお金は貰えるし、お金持ちの前で芸をすれば凄い金額を貰える可能性もある。でもね、俺に取ってすればお金なんてどうでもいいんだよ。俺はそんな物のためにエンターテイナーになった訳ではないだ」

 

今でも鮮明に思い出せる。あの黄昏時の商店街の一角で、たった一人の子供のために芸をしてくれた彼のことを。

 

どうしようもなくその芸に惹かれ、どうしようもなく彼の背中をただ目指した。

 

「俺のためを思って自分の大切な物をくれることがどれだけ嬉しいか。お金じゃない。金額じゃない。そこには何ものにも変えられないものがあるんだよ」

 

初めて彼の芸を見たとき俺は学校帰りということもあり金銭は何も持っていなかった。あったのは帰って食べようと思っていた学校の給食で出た好きな饅頭だけだった。こんな物しかないと差し出した饅頭を受けとると彼は嬉しそうに目を細めると俺にお礼を言った。

 

当時は分からなかったが今なら分かる。

 

あの突饅頭を受け取った当時のキーウィの喜びが。

 

当時の俺にとっての饅頭がこの子達のプリンだ。

 

「あの子たちは俺のために好物を食べるのを我慢してくれた」

 

そう言いながら並べられたお菓子の数を数を手にとっては見る。

 

「このお菓子たちには文字通り千金の価値があるんだよ。お金では決して買えないね」

 

この場所は俺にエンターテイナーとしての始まりを思い出させてくれる。あの時の俺の気持ちを思い出させてくれる。

 

だからこそ、俺はここで芸をすることを辞める訳にはいかない。決してあの時のことを忘れないために。

 

「勿論、霧子ちゃんが俺のために作ってくれたこのクッキーもそうだよ。このクッキーを貰えるなら芸なんていくらでもやってみせるさ」

 

ここまで話して、

 

「まぁ、俺は仙人じゃないから霞を食べて生きてはいけないから、お金のために芸をすることは勿論あるんだけどね。なんだか長い話をしてごめんね」

 

そういって笑っておく。最後の最後で締まらないのは本当に俺らしい。

 

「うふふふふふふ、何だかカラスさんのことを今までよりよく知れたような気がします」

 

話し終えてから気づいた。話過ぎたことに。

 

――しまったなぁ。勢いとはいえベラベラ話すつもりはなかったのに。

 

霧子ちゃんの雰囲気がそうさせるのか、ステージでない俺の緩み切った精神がそうさせているのかは知らないが、喋るつもりのないことまで話をしてしまったことに今更ながら遅い後悔をする。

 

――まぁ、でも

 

「じゃあ、今度からはもっとカラスさんのことを思って作りますね!」

 

そういって笑って霧子ちゃんは笑った。

 

――美人が笑ってくれたのならよかったのかもしれない。

 

後悔しても発言をなかったことにすることはできないのだからそう前向きに考えることにする。

 

「じゃあ次も期待してるよ」

 

「はい、期待してください」

 

霧子ちゃんとの談笑は片付けが終わるまで続いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

芸で使った道具を片付け部屋全体の原状復帰も終わりかけた頃だった。ふと思い出したことを霧子ちゃんに伝える。

 

「あ、そういえばこの間の音楽番組見たよ。L'Antica凄い人気だね」

 

いつも芸の手伝いをしてくれる霧子ちゃんには病院の見習い看護婦という顔の他に二つ顔がある。一つは学生としての霧子ちゃん、そしてもう一つは現役アイドルL'Anticaとしての一員の霧子ちゃんだ。

 

この病院で始めてあった時も彼女の美貌にはびっくりしたが、アイドルになったと聞いた時にはさらに驚いた。霧子ちゃんほどの子がオーディションで合格するのは納得がいく。しかし、霧子ちゃんはアイドルのオーディションを受けるような性格の子ではないと思っていた。

 

だからこそ、アイドルになったと聞いたときはとても驚いたのを覚えている。

 

しかも今では超売れっ子アイドルだ。L'Anticaというと若い人たちの間では知らない人の方が少ないと言われるくらい周知されている。

 

「あ、見てくれてたんですね。新曲どうでしたか?」

 

霧子ちゃんが所属するL'Anticaというグループは紫と黒のゴシックな衣装が特徴であり、グループとしてもクルール系ボーカルユニットだ。当然霧子ちゃんもその一員ということでグループのイメージ通りのキャラとして活動しているわけだけど、初めて雑誌で霧子ちゃんを見かけたときその雰囲気の変わりように驚いたものだ。

 

普段の彼女とはまるで違う別人のように見えて、でもそれは間違いなく霧子ちゃんだった。彼女のまた新しい魅力が知れた一方、そのような一面を引き出したプロデューサーは凄いなと感心したものだ。

 

「ラビリンス レジスタンスだよね。カッコいい曲でとてもよかったよ」

 

新曲のラビリンスレジスタンスもグループのイメージにあったカッコよく、テンポのいい曲だった。

 

「本当ですか、それはよかったです」

 

「CD出たら絶対買うよ!」

 

「うふふふ、ありがとうございます」

 

彼女はそういった後、ハッと何かを思い出したかのようにつづけた。

 

「あ、そういえば恋鐘ちゃんがカラスさんの手品を見たいっていってましたよ。トランプマジック絶対に見破ってやるって!」

 

霧子ちゃんがいう恋鐘ちゃんとは、アイドルユニットL'Anticaのリーダーを努める月岡 恋鐘、その人を指す。訳があって彼女のこともアイドルになる前、上京した時から知っているのだが、出会った時からずっとトランプマジックを見破ろうとやっきになっている少女だ。

 

性格の方は一言で言うと純粋。疑うという言葉の「う」の字をしらない子だ。

 

勿論そんな子なため、トランプマジックの種を暴ける気配は今のところ0を通り越してマイナスだ。

 

そういえば彼女も素の時とアイドルとの時のギャップが激しい子だなぁ。出会ったころから今までの彼女のことを思い出して、ふとそんなことを思った。

 

「ほう、それは楽しみだなぁ」

 

「そのマジック私も一緒に見てもいいですか?」

 

「勿論だとも」

 

そんな雑談をしている間に時計の針は16時を指そうとしていた。

 

――はぁ。

 

吐き出したいため息を、代わりに胸の中で吐露する。今日の予定は昼間の一件ではない。もう一件ある。

 

俺はその仕事には行きたくなかった。しかし、絶対に行かないといけない仕事だった。

 

いくら俺が嫌がろうが、ごねようが水が高い所から低い所へと流れるように時計の針は進む。その時間は呆気なく近づいてきた。

 

俺は霧子ちゃんとの別れを告げると道具の入ったギターケースを背負い部屋を後にする。霧子ちゃんには俺は帰路についたように見えるだろう。

 

だが、違う。今日のもう一つの仕事は同じくこの病院内で行われる。その場所は別棟の13階。そこは普通の人が訪れることはほとんどない場所であり、霧子ちゃんすら入ったことことがないだろう場所だ。

 

偶数月の土曜日、昼の仕事が終わった後、もしくはその仕事に関係なくここには足を運ぶことがあった。勿論、芸をするためである。

 

別棟13階、個室しかないこの階は終末期医療を受ける患者のみが入院している階だ。

 

俺がここを訪れるのは今日で10回目だ。

 

 

 

 


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