東方幻葬郷~Invisible Illusion~   作:狭間 栞

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【第零章】『月蝕』
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━━今日は静かな夜であった。

 

 

 

虫達の綺麗な声色も聞こえず、窓を揺らす風のざわめきも聞こえない。

何も聞こえない……何も無い、あるのは暗闇という世界だけ。

暗闇と闇に冷やされた熱気だけが支配した何者も邪魔する事の無い静かな夜。

息をする事さえままならぬような静寂した空間。

閑散とした何も聞こえない世界の中で、紅魔館……その名に恥じぬ赤い館が暗闇の中でただ堂々とそびえ立っていた。

 

豪奢なシャンデリアが長く、延々と吊り下げられ、床には豪華なレッドカーペットを。

この気品溢れる廊下を、館の従者 十六夜咲夜(イザヨイ サクヤ)は闇の中をただ無言で進んでいた……。

 

 

コツリ、コツリと床を歩く靴の音と共に歩く彼女の顔は、窓からわずかに零れる妖艶に笑いかけてくるような綺麗な月明かりとは違い、酷く曇りがかった表情であるのが時折合間見えた……。

 

「はぁ……」

 

 

彼女は一つ溜め息を漏らす。

理由はわからない……。

心の中に何か解けそうで解けない鎖が彼女を縛り、もどかしさと焦りを感じる二つの心が彼女を蝕んでいるようだった。

考えていても仕方のない事だとわかっていながらも何処か心の隅で考えてしまい、『不安』という呪いをかけられた彼女は涼しげな館内を主の元へと一歩、また一歩と重い足取りで進んでいく。

 

地面を踏みしめる毎に遅くなってゆくその足取りはエントランスの前でふと急に止まる。

どんな顔をして会えば良いだろうか、どのような態度で接すれば良いだろうか。

様々な想いが彼女の頭を張り巡り、交差する。

 

毎日の中で自然な事であるはずなのに……いやごく自然である出来事だからこそ、普通であってほしい、今までのままであってほしいと願っていたのかもしれない。

 

 

 

 

『今日、主が死ぬ』

 

縁起でもない夢を見たものだ。

だが妙に現実味のあった夢だった。

 

嫌な予感がする……彼女の『勘』が、彼女の『五感』が……そう告げていた。

あの長い廊下から一刻も早く見たい主の部屋の前まで、警笛は最大音量で身体の中を駆け巡っていた。

会いたいが会いたくない。

心は動かなかった……動きたくなかった、その場から一歩足りとも……。

 

 

だが彼女の身体は動いていた。

 

主君の為に尽くすのが従者の役目。

行かないわけには……いかなかった。

日の変わりを告げる大きな古時計が振り子を揺らし、低く、鈍い音を館内に響き渡らせる。

大きく堂々とした時計の音はその心に揺さぶりをかけるには充分すぎた。

 

 

「もうこんな時間か……」

 

 

時計の音と共に現実の世界へと戻った彼女は、また主の元へと足を運ぶ。

一帯に広がる薄明かりの無音空間。嫌に無音であるこの状態が余計に彼女を煽らせる。

考えるにはうってつけ、だが考えれば考えるほど嫌な結末にたどり着くような気がして……彼女はぬぐい去るように考えるのを辞めた。

いざとなったら、気紛れな主が答えをくれるような気がして。運命を操る主が私の運命を変えてくれる気がして。

そんな、心の何処かにあった安心感に……甘えていた。

 

何かがあればどうしようか、何も無ければどれだけ嬉しい事か。

胸に微かな希望を抱きながら彼女は歩いていく。顔は平静を装っていた、だが実際のところは今ここで……投げ出したいくらいであった。

今の彼女には余裕が無い、ざわめき始めた外の烏や虫達、輝きを増す月の光も今の彼女には届いていなかった……。

 

 

 

 

そうこうと考えているうちに、目の前にあったのは豪華に着飾られた主君の部屋の扉であった。

会った時の事ばかりを考えていた彼女はその場で驚きを隠せなかった。

もう……来てしまったのか、本当に……行かなければならないのかと。

決心のついたはずの心が徐々に揺らぎ始める。

自分を『不安』にさせる権化は、もう目と鼻の先だというのに。

綻び始めた『忠誠心』、自分が情けない。

 

 

「失礼します……」

 

掠れた声で扉をノックする……どんな声で言ったのか、はたしてどんな素振りだったのか。今の彼女には関係ない。ただ、『安心』という事実を欲していた。

 

 

 

 

返事は無い。物が動く音すらも……。

考えたくなかった事実が一歩一歩彼女に近付いてくる。

もうこれ以上迷っていては自分が壊れてしまう、早く終わらせよう、早く主の無事を確認しよう。

覚悟を決めた彼女は冷たいドアノブをゆっくりと……開けた。

 

扉を開けると、金属の軋む音と共に嫌な冷気が身体に纏わりついて来た……そこに、妙な気味悪さを感じると同時に邪魔だという怒りが込み上げてきた。

急いで辺りを見渡すが一面暗闇で何も見えず、微かに鼻孔を刺激する血の匂いだけはあった。

血の匂いがしたところでは何の違和感も無かったが、彼女の欲する情報としては少なすぎた。

 

 

 

 

館の主は吸血鬼だ。

血液を飲むし、人間を襲う事だって妖怪と戦う事だってある。

沢山の血を流し、沢山の血を見てきた。

血の匂いにも慣れた、血を見るのにも慣れた。

だから血の匂いなど日常茶飯事であったが、『血』というキーワードだけで安心しきるにはまだ早かったからだ。万一、館の主の血という可能性もあり得る。

あの方に限ってそんな事は無いだろうと思いながらも、心はこれまで以上に焦りきっていた。

 

「照明をお付け致しますよ」

 

 

 

 

 

 

 

 

……返事は無い。

彼女の声は暗闇の部屋に虚しく響き渡るだけだった。

一瞬にして背筋が凍る、身体が震え始め自分で制御が利かなくなってくる、直感的に彼女の身体が悟る。

まさか、いやまさか。

頭の中で今まで考え込んだ嫌な予感がすべて津波のように押し寄せてくる。

 

終わらぬ静寂。

まだ返事は返ってこない……。

 

 

 

 

流石におかしい。

入る前に一度呼び掛け、入ってから物音一つとしてなく、そして今の言葉に対する返事も無い。

もう認めたくないが認めざるを得なかった。

何かが今ここで起きている。自分にはわからない何かが。

距離にしては短いものであったが照明までの距離が遠く感じた、いや自分が遠ざけていた。

 

そして彼女の思考は一度止まる。一瞬だけ。

この照明をつければ今までのように暮らせないかもしれない。何かが変わっていて、何か新しくなっていて、何かが無くなっている、記憶には残っていない大事なものが。

仮にここで何かが起きていたとしても日が昇れば結局わかる事では無いのか、わざわざ自分が確認する事では無いのではないか、しかし早く発見して助かる可能性もある、充分に。

 

相反する物事のジレンマが彼女を襲う。

彼女は今、この後の人生をかけた重要な選択肢を迫られていた。

 

正直迷っていた。

従者の身分でありながら躊躇っている自分を責めながらも、人間の本能的な物が彼女を其所へ思い留まらせていた。

ここで目を背ければ、異常事態があった事を認めて愛する主を見殺しにして逃げた事になる。

 

それだけは避けたかった。

 

だが照明をつけたその先に自分の考えていた最悪の事態が待ち構えていたとしたら、その事実を一番始めに見るのは自分であり、その悲しみを始めに受けるのは自分であり、その現実を始めに受けとるのも自分。

 

愛するが故にそのような主を見たくは無かった。

 

 

 

 

せめぎあう二つの感情。

 

 

 

 

彼女は迷う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

行くしかない……

 

 

 

 

 

 

 

 

主の身を守れるのは自分であり、その現実をいち早く受け、理解するのも自分。

使命感であるのかそれとも自暴自棄であるのかはわからない。

何かをきっかけとして手に入れた彼女は『進む』という決断を下した。

 

下ろしたシャンデリアの蝋燭に火を灯していく。

一本一本灯していく度に後悔の念が沸々と沸き上がってくる、本当に大丈夫であったのかと問いかけてくる。

しかし、今の彼女には覚悟を決めた心の方が強かった。

 

どう結果が転ぼうとも後々になって必ず後悔が付いてくる。

もっといい方法は無かったか、今やるべき事であったのか。

 

だが決断を先送りにしてしまうと出来る事も出来ない、救える物も救えない。

だから今、彼女はいつも通りに仕事をこなすように平然と明かりを付けていた。

 

だんだんと、部屋が明るくなっていく。

 

 

 

白いシーツが見える。

目の前にして彼女の心は揺れる。

だが、止めない。火を灯す手だけは止まらなかった。

 

すべての蝋燭に火を灯した時にはすでに部屋全体が明るくなっていた。

一目散に辺りを見回す。

獲物を欲する獣のように血眼になって視界という情報を喰らっていく。

そして彼女は目の前の光景に……

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

驚愕した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「え……?」

 

 

目を疑った。

そして一面に広がる目の前の状況をもう一度確認し、彼女は再び驚く。

 

 

 

 

 

『何も無かった』

 

そう、何も無かったのだ。

先程までの彼女の思い、苦しみ、悲しみ、すべてを嘲笑った光景がそこにあった。

 

悩み、思い抜き、覚悟を決め辿り着いた先は『無』であった。

インテリアはそのままであるし、部屋が荒らされた形跡も無い。

家具は壊れていないし、窓も空いていない。

そして問題の主はベッドで健やかに寝ているようだった。

 

訳がわからなかった。

 

確かに嫌な予感は感じていた、これまでに無いくらいに。

 

先の見えない橋でいつ落ちるかもわからない、そんな気持ちだった。

だが、予想に反して目の前にあったソレは拍子抜けの結末であった。

 

一気に肩の力が抜ける。

 

血がもう一度巡り直し身体が温かくなってくるような安堵感。

ほっとしたようで逆に不安であったが、今はもうそんな些細な事は取るに足らないような事であった。

満足のいく結果を得られた彼女はその後の仕事を『いつも通り』に終わらせて、もう一度主の方へと振り返る。

 

 

「お嬢様……。」

 

 

喜びのため息。

思わずこぼれる。

 

 

彼女は人生でもう二度と忘れる事の無いであろう安心感と『薄紅色』のシーツを脳裏に焼き付け、主の部屋を去ったのであった……。

 

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