そこは禅寺だった。
比較的新しく建てられたものらしく、建材の木目はまだ味のある色合いをしていない。
佐々木道誉に焼かれ、応仁の乱で焼かれ、応永の乱でも焼かれている寺である。どうやら神仏の加護も火事には弱いらしい。
臨済宗建仁寺派の大本山、建仁寺。京都五山の一つに数えられている名刹だった。
「なぜ、そこまで出仕を渋っておるのだ」
俺の前に、老人がいた。
老人の名は常庵龍崇。
建仁寺の住持(住職)で俺の師匠にあたる人物だ。
「近頃は大名家への下向も増えておる。世俗に交わることを不名誉とする風潮は、もはや残っておらん。学識を買われているのだから、むしろ名誉であろう」
建仁寺の法堂で、俺と師匠は正座で対面していた。
法堂とは講釈をする場所なのだが、本尊を安置するための仏殿も兼ねているため、屋内には木彫りの仏像が置かれていた。
達磨大師の教えを至尊とする禅宗では、偶像崇拝のための仏像は本来は無用である。しかし仏像がなければ仏教とみなされず弾圧されていたかもしれないし、わかりやすいものを置いておかなければ参拝客も寄りつかないのである。
「二度も招聘を断るとは、諸葛孔明でも気取っておるのか」
「書状での呼び出しを無視しているのですから、むしろ司馬仲達ではないかと」
「この馬鹿弟子が! 何が司馬仲達だ!」
老人の顔がサッと朱に染まった。さながらタコ入道である。
……脳の血管が切れてそのまま入滅してくれればいいのに。
「何のために孤児のお主を拾ったと思うておる! この無駄飯食らいが!」
答えたくない質問である。なぜならそれは、金のためという理由だからだ。
この時代、寺は大名家の子女を引き取るための場所になっていた。その時に差し出される寄進が寺の大きな財源になっていたのだ。
師匠はそれをさらに発展させて、見込みのある子どもを拾ってきては英才教育を施して、大名家に送り出すというビジネスに手を広げている。戦国人材派遣会社、建仁寺。アウトソージング事業である。
建仁寺は何度も焼かれているため、再建できず手付かずで放置されている区画もあり、住持自ら金集めに奔走しているのが現状だった。
俺は咳払いを一つすると、怒り狂う老人を諭すために、つとめて冷静に意見を述べた。
「今川家でなければ何処へでも」
「なぜそこまでして今川への出仕を断り続ける。わしにはもうお主の考えていることがわからん。今川は大国ぞ。駿河と遠江、二カ国の太守である。いずれは三河を呑み込んで、三国の王になるのだぞ。拒否する理由がないだろうが」
老人の声は段々と小さくなっていった。年老いて気弱になっているように思えて、俺はつい老人を労るように身を乗り出してしまう。
「師よ。どうしても、行けと言うのですか」
「ああ。わしの存命中に、祖塔を建て直しておきたいからな。金が入り用なのだ」
「……左様ですか」
「足利も三好も寺を焼くばかりで、これっぽっちも金を落とさん。いっそ今川殿に畿内の覇者になって貰えば、京の都も潤うかもしれんな。はっはっは」
「はっはっは、ではありませぬ」
その日、俺は寺から叩き出されてしまった。
今川をスルーし続けていれば、いずれ他の大名家から声がかかるだろうと思っていたのだが、どうやらアテが外れてしまったようだ。
どうして俺がそこまで大名への出仕を拒むのか。その理由は、今川家だからだ。
今川家だけは嫌なのだ。大事なことだから二度言うが、今川家だけは嫌なのだ。
だって今川家って滅亡するじゃん。
◇
俺は孤児である。表向きはそうなっていた。
――俺は二十一世紀からやって来た。
真実を知っているのは俺だけだ。師匠の常庵にも話していない。
未来の知識は劇物である。
タイムパラドックスやバタフライエフェクトという思考遊戯は好かないため、ぶっちゃけどうでもいい。なんか大名や武将が女性だったりするので、真面目に考えるだけ損に思えた。萌え系の戦国である。ラノベやエロゲの世界ではなかろうか。
話を戻そう。
未来知識を秘匿する理由は、ここが中世封建社会だからだ。
おかしなことを言えば村八分。物狂いの類と思われ、座敷牢に放り込まれるならばまだ幸運だろう。犬神、猿神、蛇神に取り憑かれたと騒がれたり、狐狸妖怪だと疑われて斬られることも有り得る。
大名相手に商売をしている生臭坊主な師匠だったが、俺のような天涯孤独のガキを拾ってくれたことには感謝している。
薄い汁と雑穀しか口にできず、いつも飢えていたが、二十歳まで生きることができたのだから。
……でも今川だ。お歯黒の今川。蹴鞠キングダム今川。今川焼きは関係ない今川。
さて、駿河今川家。
今川の宗家であり、今川範国が駿河守護に任じられたところから始まった家だった。
一時的に遠江の守護を預かったこともあったが、そちらは後に弟の今川了俊に与えられている。ちなみに了俊の子孫は遠江今川家というのだが、現在は堀越や瀬名を名乗っており、どちらも駿河今川家の家臣になっていた。
「貴殿が九英承菊殿か。遠路はるばる、よう参った」
駿河今川家、九代目当主、今川氏親は小太りの男だった。
狩衣を着ており、頭には烏帽子を被っている。公家風の格好である。
世間では開明的な分国法『今川仮名目録』を制定したという大業のため、内治の人物と思われているが、その実体は大きく異なる。
遠江に手を伸ばしていた斯波家を尾張に追い払う際、戦場に出ていた人物である。
鉱山労働者を使って、土竜攻めで城を落としたこともあった。北条の援軍として関東入りして山内上杉家とも戦い、関東管領の上杉顕定を破っている。
内政だけの人間ではなく、大名の当主としては出来物であった。
あと史実では今川仮名目録が制定されたのは今川氏親が死ぬ間際のことだったが、こちらではすでに発布されていた。
「貴殿にはわが娘『菊』の教育係を任せたい」
「と言うと、仏門に入れるおつもりでしょうか」
「否」
氏親は短く告げる。
「あれは嫁に出す。大名の妻として相応しい教養を身に着けさせねばならん」
「拙僧は禅寺の者。大名の姫に与えられるものはございますまい」
俺は眉をひそめた。まったく意味がわからなかった。
大名の妻としての教養というのは花嫁修業のようなものだろう。茶道や詩歌ぐらいならば嗜むが、台所や奥向きのことは専門外である。薙刀の扱いぐらいならば教えられなくもないが、俺の他に適任者がいるはずだ。
このオッサンは俺に何をさせたいのだろうか。
真意を問い質すように見据えていると、氏親は気まずそうに視線を逸らした。
「大名の妻とは方便。実のところ、わが娘はうつけ姫と呼ばれておる」
「なんと」
「幾人もの教育係を付けたが、いずれも長続きしなかった。唯一、蹴鞠だけは優れておるようだが、それだけでは何もできん。和歌も漢詩も、礼法も茶道も、いずれも途中で飽きて放り出しておる。教育係はわしから禄を出している直臣であるのに、独断で追放してわしの面目を大いに潰したこともある」
きな臭くなってきた。
氏親の娘――たしか菊だったか。これはおそらく名前の繋がりから芳菊丸のことを差しているのだろう。
芳菊丸とは、今川義元の幼名である。
うつけだったというのは初耳だったが、不思議時空の戦国時代だ。そういうこともあるのだろう。
「なればこそ出家させるべきでは」
「出家させたとしても、わしの死後、菊を使って今川家を操ろうとする輩が現われるだろう。今のままでは危うすぎて出家させることも能わぬ」
今川氏親は家督相続時にお家騒動を経験している。
その時に幕府の支持を取り付けたのが、叔父である伊勢盛時(北条早雲)だった。氏親の母は早雲の妹だったのである。幕府政所執事、伊勢氏の出身である早雲のおかげで家督を継承できたのだ。
氏親はお家騒動の渦中にあって、家督相続の難しさを痛感していた。
今川仮名目録でも長男に相続させると明文化して足回りを固めているところである。それは側室の娘を出家させるほど徹底されていた。
俺は出て来そうになった溜息を呑み込んだ。大名の前で失礼な態度は取れないからだ。
「……ひとまず会ってみるとしましょう」
「おお! 引き受けてくれるか!」
このオッサン、俺の返事を聞いていたのだろうか。俺は保留と答えたつもりなのだが。
氏親は嬉しそうな笑顔を浮かべて膝を起こし、小姓を呼び付けて何やら指示を出していた。小姓がすり足で退室してから暫く経つと、俺の背後に新たな人物が現われる。
「関口刑部、参上仕りました」
それは少女だった。黒髪ショートの眼鏡っ子だ。……この時代に眼鏡って何だ。
年は十五歳前後。
白い着流しの上に、桃色の生地の打掛を羽織っている。打掛には『二つ引き両』の家紋が入っていた。
家紋を見るに、おそらくは今川一門衆である。
少女は俺の隣に並んで座ると、氏親に向かって平伏した。
「九英承菊殿。この娘は今川の分家である関口家の者だが、菊の世話役を任せておる。身内以外に、あのうつけ姫は任せられんのでな」
「巷で噂にならぬよう、と言うことでしょうか」
「その通りだ。まかり間違って他国の大名にでも知られれば嫁の行き先が減るだろうし、出家させる時も足下を見られて多額の謝礼を吹っかけられるだろう。そもそも恥である。今川家の威信が落ちかねん」
血を分けた娘をそこまで言うのかと思わないでもないが、大名に求められる冷酷非情さはこの程度では済まないはずだ。
支配者であり搾取者である。
人面獣心でなければ、他の者に取って代わられるだけだろう。
「刑部少(ぎょうぶのしょう)。そなたに九英承菊殿の案内を申しつける」
「はっ。かしこまりました」
「では九英承菊殿。娘を頼みましたぞ」
「非才の身ではありますが、私の全知全能を与えましょう。しかしながら器が小さければ水はこぼれ落ちるでしょうが」
「小さき器でも満たせるのならば、貴殿を呼び寄せた価値はあったと言うもの。空の器とは虚しいものよ」
氏親の物言いには感慨があった。
俺の目の前にいるのは、北条早雲という下克上の怪物に水を注がれた人物だった。
「然らば私はこれにて失礼いたします」
「うむ。大義であった」
俺たちの会話が終わったのを察したのか、少女は無言で平伏してから立ち上がる。
俺も袖を払って一礼してから、少女の後を追いかけた。
謁見の間を出ると、どっと溜息が出て来てしまう。しんどい疲れたやってられん。
今川義元の教育係って何だよ。雪斎か。雪斎なのか。……はい、雪斎です。
九英承菊という名前の時点で、ある程度は覚悟していたのだが。
「九英承菊様」
少女はふと立ち止まり、俺に向き直った。
「私は関口刑部少輔氏広。今川一門衆、関口家の当主です。と言っても実権はまだ義父が握っていて、私の役目は姫の世話役。ほとんど無役の身と変わらない立場ですので、私のことはどうぞお好きにお呼びください」
「ならば氏広殿でよろしいか」
「呼び捨てで構いませんよ。教育係は世話役よりも上役になりますので」
関口氏広は肩の力を抜いて微笑んだ。
どうやら氏広はしっかり者の委員長タイプの眼鏡っ子のようだった。
「氏広でよいかな」
「それで結構です。では姫のもとに案内いたします」
廊下をすたすたと歩く。
駿河の国府。
駿府城と呼ばれることもあるが、今川家では今川館と呼ばれることの方が多い。
本丸の奥深くにどっしりと構えているのは、武家造りの寝殿である。
この時代の城は本丸、一の丸、二の丸と続く多層式であり、現代人がよく思い浮かべる天守閣はそれ自体は城ではない。天守とは防御施設の一部であり、居住性は皆無である。有り体に言えば見栄えのする壁のある櫓なのだ。
城主やその妻子の居住区、評定の間、謁見の間などは本丸の武家屋敷にあった。
寝殿造を簡略化した武家造と言われる建築様式である。
渡り廊下を歩いていると、ちらほらと土倉を見かけた。武器庫や兵糧庫だろう。
厩舎もあり、馬飼が軍馬に水をやっているところだった。
城内を興味深げに見物している俺に、関口氏広は物言いたげな顔を向けた。言うべきか迷っているような印象を受け、俺は「何か?」と尋ねてみる。
「あ、その。九英承菊様は京で学問を修められたとお聞きしておりますが、どのようなものを?」
「さて。具体的に話せば長くなるが」
「できればどのようなものか、概略だけでもお教え願えませんか」
見定められていると俺は思った。
軍学は七書である孫子、呉子、司馬法、尉繚子、三略、六韜、李衛公問対。
歴史書は古事記、六国史、四鏡、平家物語、将門記、神皇正統記、太平記。
万葉集、古今和歌集、新古今和歌集などの歌書にも目を通したがこちらは才能がなかったのかあまり身につかなかった。
武野紹鴎がうちの寺で闘茶をやっていた時に、発明されたばかりの侘び茶を手ほどきされたこともある。
……などと言えば知識自慢うぜぇとなるはずだ。俺は日本人は謙虚であれという教えに従った。
「教典の類はそなたらには無用だろうから省くとして、軍学、歴史、漢詩に和歌といったところか」
「具体的には?」
やけに食い下がる。
氏広は眼鏡をキラリと輝かせながら距離を詰めてきた。うら若き乙女の匂りがして、僧侶の身には毒である。ちなみに俺は童貞だ。だって僧侶なんだもん。
「よもや私を疑いか」
「滅相もございません。私は。私はただ」
真意を見定めるために問いを投げてみると、氏広はあからさまに動揺していた。若いなと思う。俺より五つほど年下なだけだが、氏広は意外に素直な性格をしているようだ。
「……姫さまの助けになりたいんです」
ポツンと、湖面に水滴を落としたような言い方だった。俺の中で波紋のように理解が広がった。
「うつけ姫と呼ばれ、親族衆からも一門衆からも、実の父親にすら侮られて。当人を差し置いて嫁に出すか出家させるかを議論するなんて、姫さまが可哀想すぎます。姫さまはただ、ちょっと頭がゆるいだけなんです」
「頭がゆるいと?」
「あ、これは内緒でお願いします」
「……ああ」
「姫さまの世話役である私が優れた見識を持っていれば、主である姫さまも見直されるかもしれないと思ったんです。有能な家臣を召し抱えていれば、その主も評価されるわけですから。……まぁ私は表向きは大殿の直臣なんですけど」
その考え方は間違ってはいない。
が、氏広は俺に学問を教えてくれと言っているわけで正直めんどい。
「私に学問を伝授してください! お願いします、何でもしますから!」
ん? 今何でもするって……いや。
俺は頭の中のエロい妄想を切り捨てる。アホか。
とりあえず今はまだ返事は保留しておいた。今川のうつけ姫に追い返されればそれまでのことだからだ。
「私に菊姫の教育係が務まるようなら、その隣で勝手に知識を盗めばよかろう」
「あ、ありがとうございます!」
女色に惑わされたと言うことはないはずだ。うん、ないはず。
◇
桶狭間の戦いと言うと、歴史オタは「田楽狭間だバーカ」と口汚く罵ってくるものである。
墨俣一夜城が創作だったとか、豊臣秀吉が農民出身ではなく下級武士出身だったとか、真田幸村の名前は信繁だったとか、浅井長政の肖像画が不細工だとか、長篠の戦いは設楽原の戦いだったとか、鉄砲三段撃ちは無かったとか、それらはもうテンプレになっている。
実際の桶狭間の戦いはどういうものだったのか、面倒なのでここでは語らない。
さて、桶狭間もとい田楽狭間で討ち取られた今川義元とはどのような人物だったのか。
現代では殿上眉でお歯黒の貴族趣味で、顔面に白粉を塗りたくった『バカ殿』だと思われている。最近ようやく再評価されてきているが、まだまだバカ殿のイメージが強い人物だった。
しかしその正体は、今川仮名目録追加二十一条の発布、寄親・寄子制度の実施、外交上の奇跡である甲相駿三国同盟の実現、三河の分国化など、数多の偉業を達成した革新的人物であった。戦国時代の最先端を走る者である。
その今川義元が、なぜうつけ姫と呼ばれているのか。
俺は不思議で仕方がなかった。が、出会って一秒でその理由を理解した。
「また新しい教育係ですの? 無用だと言っているのに、まったく、父上のお節介にもほとほと嫌気が差して参りましたわ」
十二単である。
平安貴族のお姫さまが着ているような、何枚も重ねた着物姿である。
歩くだけで全力疾走並みに体力を使うのだろう。姫は一歩も動こうとしない。
「まさか、これが?」
「……公家趣味なんですよね。できれば九英承菊様に矯正して頂ければ有り難いのですが」
「嫌だ」
「無理ではないんですね。では頑張ってください」
俺の口から咄嗟に出て来た言葉はあまりにも稚拙なものだった。関口氏広に揚げ足を取られてしまうという有り様である。
「おまけに男ではありませんか。男なんて性欲の塊で、汚らしくて、気色の悪い生き物です。畜生の方がまだ可愛げがあるだけマシというものですわ」
「ちなみに姫は男嫌いです」
「そのようだな」
「氏広さん。わらわに男を近付けぬよう厳命しておいたはずですが、よもやお忘れになったのですか?」
「姫さま。九英承菊様は京の建仁寺で徳を積まれたお坊様です。仏門に入って長いお方が、どうして女色に迷うことがありましょう」
「寺の坊主どもは男同士で絡み合っていると聞きましたわ。相手を選ばず性欲に狂っているようでは、野に放たれた獣と変わらないではありませんか。人里に近付く野犬は追い払われるものです。わらわのしていることはただの自衛ですわ」
「姫さま! いくら何でも失礼です!」
俺を害獣呼ばわりする物言いに、懸命に説得していた氏広が色を失った。
だが、俺は不快には思わなかった。
正しいと思った。この姫は間違ったことは言っていない。
大名の姫である。
男を嫌うのは身体を清く保つため。当然のことだ。
そして戦国時代には実際に堕落した僧侶が多かった。初見の僧侶を信用するなど無理である。
「氏広。この姫は、まことにうつけか?」
「は? 今なんと?」
氏広は困惑していて棒立ちしている。役に立ちそうにない。
「おい、小娘」
「なっ、わらわを小娘と!? わらわを誰だと――」
「なぜ学問の師を追い払う」
「……知れたこと」
俺は激高する菊姫の言葉を遮った。菊姫は手にしていた扇子をバッと広げる。
「おーっほっほっほっ! 今川の姫たるわ・ら・わに勉強など無用。知識が要るなら家来を呼び付けて問い質せば済むことで、技術が要るならば家来を呼び付けてやらせればいいのですわ!」
間違いではないが、決して正解とはいえない答えだった。
採点すれば五十点に届かない点数だ。だが、まったく見込みがないわけではない。
平時ならばその答えに百点を与えてやってもいい。だが、戦国時代にそれでは駄目だ。
俺は腕組みをして溜息を吐いた。
「馬鹿者が。思い違いも甚だしい」
「なっ、なななっ!? 何故です!?」
菊姫は目を丸くしてあたふたしていた。
「知識や技術がなければ家来が正しいことをしているのかすらわからんだろうが。最後には家来に家を乗っ取られ、謀反を起こされて死ぬるのみぞ」
「わ、わわわ、わらわは今川の姫で、家来たちはわらわの高貴な血に自ずからひれ伏すはずで……」
「その家来にも、お主と同じ血が流れているのだ」
例えば関口氏広。彼女は今川の分家である。
遠江今川家の末裔である堀越や瀬名も一門衆。氏親から五代戻れば兄弟だったという血の濃さだ。
今川宿老である三浦家には北条早雲の娘が嫁いでおり、早雲の甥である氏親とは縁戚である。
「むしろ、お主と取って変わることもできるのだ。それだけの大義名分を、お主の家来たちは生まれながらにして持っておる」
「……では、わらわはどうすれば」
「学ぶべし。私から教えを請うのが嫌だと言うなら、独学でもよかろう。先ず隗より始めよと言う。いろは歌でも何でも構わん。さすれば高度な知識はいずれ、お主の頭に独りでに入り込もうとするはずだ」
うつけ姫は顔を上げた。
十代前半の幼さを残した少女だった。箸より重いものを持ったことがなさそうな、たおやかな姫君は、つややかな黒髪を長く伸ばした目付きがきりっとした美少女だった。
菊姫。
いや、今川義元。
一つ、興がわいた。
このうつけ姫がどこまでやれるのか。試してみたくなった。
「大名の女になるか、仏門に入るか。それとも」
陳腐な感傷を覚えた。
俺が太原雪斎であるならば、これは運命ではないか。
「戦国大名になってみないか?」
後の今川義元が目を見開いた。
この日、俺の時間が動き始めた。