【番外4 義元のシェフ】
睦月の初日、正月は関口氏広の土下座から始まった。
「申し訳ございません! かくなる上は切腹してお詫びいたします!」
「……はぁ? いきなり何を言うんですの、氏広さん?」
義元がキョトンとするのも無理はない。それはあまりにも唐突だった。
「正月の料理が出せなくなりました。これはひとえに私の失態です」
正月。それは主君が家来を招くという、格付けのためのイベントである。
新年の挨拶から宴会をするという、傍目から見ればセレブなイベントだったが、その現実は上司を接待するサラリーマンのごとし。武士にとっての正月とは休日ではなく営業日なのだ。
この宴会の準備を担当していたのが関口氏広だったのだが。
「料理役が倒れたと?」
「……はい」
説明を受けて、俺は事情を把握した。
氏広には切腹をするほどの過失はないのだが、何事もそつなくこなしてきた少女にとっては痛恨の至りに思えるようだ。
料理人が倒れたというのはインフルエンザだろうか。季節特有の流行病である。
「病人は陰気を溜め込んでいると言う。料理人どもが病を押して出て来られてもむしろ迷惑。自宅療養二週間は強制させておくべきだろう」
「療養……いえ、謹慎と言うことですか。それでは雪斎さま、私はどうなるのでしょうか。覚悟はしております。いかなる沙汰であっても受け入れますから……」
刑場に引き渡される罪人のごとく、死の恐怖に怯えている氏広だった。
「師匠! 氏広さんは普段からよく働いてくれています! たった一つの失態をあげつらって責めを負わせるのはあまりにも理不尽ですわ! どうか氏広さんを許してくださいまし!」
「……お主ら、私を何だと思っている」
「泣かずに馬謖を斬りそうな人」
俺の頬が引きつった。
義元が純粋な目で俺を見ている。嘘偽りなく「師匠? 外道ですわ」と目が語っていた。
当然のように俺を外道扱いする弟子たちに異議を申し立てたくなったが、話が進まないのでひとまず置いておく。
「氏広さんが腹を切るのは論外ですが、料理人が居ないというのは問題ですわね。新当主としての威信を示すために、豪華絢爛な料理を出させるつもりでしたのに。この場合、師匠はどうするべきだと思われます?」
「料理一つで浮き沈みするほどの威信ではあるまい。お主の好きにすればよかろう」
ぶっちゃけどうでもいい。
接待に失敗して謀反が起こったとしても、最終手段の暗殺があるため、俺はそれほど事態を重く見ていなかった。
それがまさかあのようなことになるとは、この時の俺は想像すらしていなかったのである。
「新年あけましておめでとうございます」
「めでとうですわ」
おめでとうの『お』は敬称なので、目上の者はそれを付けずに『めでとう』と言う。
駿府の今川館には重臣や旗本がぞろぞろと並び、主君に年始の挨拶を述べていた。
花倉の乱の論功行賞からまだ一週間も経っていないのに、正月になって再び一同集結という面倒臭すぎる状況である。
「あけおめっ!」
「……あけおめ? ま、まぁ五子さんも今年もよろしく願いますわ」
岡部元信が時代を先取りした挨拶をしていた。
師である俺としては今すぐ折檻しておきたい場面だったが、ここでは他人の目がある。
公家の冷泉為和などが参列しているため、俺まで恥をさらすわけにはいかなかった。公家の日記に『太原雪斎、正月に岡部五子を仕置きする』と残されては困る。
どうせ後で岡部久綱が教育(物理)してくれるだろうから、俺の出る幕はない……と言うことにしておこう。
「さて、本日は皆さんに話があります」
重臣たちが挨拶を終えて席に戻ると、タイミングを見計らって義元が切り出した。
おそらくは料理の件だろう。俺は義元がどのような沙汰を下すのか、師として期待しながら見守っていた。
「まことに残念極まりないのですが、料理人たちの間で病が広がっていますの。例年ならば今から宴会を開くところなのですが、今年はそれもままなりません。……と言うわけで」
代わりに土産でも渡すのだろうと思っていたのだ。
義元はうつけでも、氏広は常識人である。
義元が馬鹿なことをしようとすれば氏広が止めるのが常だった。
だから俺は見落としていた。氏広は切腹を考えるほど混乱していたことを。
「これより料理対決を行いますわ! わーい! ぱちぱちー!」
…………………………はぁ?
冷泉為和が。公家が見ているのに、こいつは何を……。
……と、とりあえず、戦国時代の正月のことをまとめてみよう。
主君が家来に料理を持て成すというのは江戸時代に生まれた形式であり、それ以前は家来が主君に料理を持て成すことになっている。
これを『椀飯(おうばん)』という。大盤振る舞いの語源である。
鎌倉幕府では北条得宗家が将軍を持て成し、室町幕府では元旦に管領、二日に土岐家、三日に佐々木家が将軍に椀飯を振る舞っていた。
改めて言うが、家来が主君にである。主君が家来にではない。
だから義元の発言はそれほど型破りなものではなかった。
予定していた料理役が倒れたため、代わりの者を任命する。これだけならば形式的には特に問題はない。
だが、あまりにも急すぎる話だった。
料理スキルを持っている重臣がどこにいる。ネトゲではあるまいし、ついでに料理スキルをカンストさせたぜという武士が居たなら俺はこう言おう。身体を鍛えろと。
「そして賞品は今川八龍具足ですわ!」
「ちょ、姫さま!?」
高らかに宣言する義元に、家臣たちがどよめいた。
「八龍とは源氏八領の一つ。武田の家宝である楯無と同じぐらい貴重なもの――ではないが、それでも今川家の家宝だ。お主は正気か?」
「正気に決まってますわ。今川家の文化を諸国に知らしめ、威信を高めるための行事を主催する。その結果、京からはますます貴人たちが下向して、今川家の文化がさらに押し上げられる。名付けて今川家文化大躍進政策ですわ!」
「その政策名はやめろ。不吉すぎる」
苦言を呈する俺に義元が不満げな顔をするが、そんな顔をされてもそのネーミングだけは受け入れられない。なんかもう死亡フラグしか感じられない政策である。過程を省略して今川家の領土を焦土化させてしまいそうだった。
「そもそもお主は八龍を何と心得る」
「本物ではないのですから、そう口を尖らせることはないと思いますのに」
八龍とは源氏の秘宝なのだが、今川家にある八龍とはただのレプリカにすぎなかった。
現在では源氏八領の大半が失われているのだ。唯一本物だと言えるのは武田家にある楯無だけである。
しかしレプリカと言えども今川家の家宝。
龍をあしらった鎧はそこはかとなく威厳に包まれていた。これを下賜するなんてとんでもない。
「さぁさぁ、みなさん。誰が一番このわたくしの舌を楽しませることができるのか、期待して待っていますわよ。おーほほほ!」
唐突な豪華賞品に重臣たちの目が欲望でギラつき始めている。
俺は溜息を吐いた。こんなことになるなら義元に任せるなんて言うんじゃなかった……。
この時代の調理場には女人禁制の聖域だったのだが、そんなセオリーは早くも破られていた。
「今回ばかりはお師匠といえども容赦しないからね! 源氏の秘宝は五子のものだー!」
腕まくりをした岡部元信が包丁でまな板をガンガンと殴っている。意味不明な行動だったが、あえてツッコミを入れる気すら起きない。
「……穀潰しがよく言うものです。毒味役を殺さないで下さいよ、姉上」
「大丈夫だよ。毒味役より先に忠兵衛が死ぬから」
「前から思ってたんだけど、あんたボクに恨みでもあるのか!?」
周りの者は弟君に気の毒そうな目を向けるものの、誰一人として救いの手を差し伸べようとはしなかった。誰だってわが身が可愛いものである。
「どうやらアタシの花嫁修業の成果を見せる時が来たようだな」
「うえっ!? 朝比奈の姉御って料理できたンすか? 行き遅れてるから、てっきり料理なんてできないと――」
鈍い音がして振り返ると三浦氏満が頭から血を流して倒れていた。
地面には『としま』という血文字が書かれている。ダイイングメッセージだった。
「椀飯とは白米に打ち鮑、くらげ、梅、塩、酢を添えたものです。そう、大名の食事においてもっとも優先されるのは作法なのです。今川一門たる私は奇策ではなく王道によって汚名を挽回するとしましょう」
汚名は挽回するものではないのだが、関口氏広は未だに混乱から立ち直っていないようだ。
俺は彼らの様子を観察してから、おもむろに調理場に立った。
これでも寺では炊事をやらされていたし、義元の家老になる前は自分で食事を用意していた。
今川家の秘宝を流出させるわけにはいかない。
どうやら太原崇孚雪斎の本気を見せる時が来たようだ。
さらに――。
「お待たせしました! 食材を仕入れてきたのでございますですよ、ご主人さま!」
その時、調理場に電流が走る。
戦慄のロリ巨乳が俺の味方に付いていた。潜入工作のために料理スキルを修得している忍者、楯岡道順である。
もはやまったく負ける気がしなかった。
「鳥兜(トリカブト)の扱いなら任せてくださいでございますですよー!」
「やめろ」
と言うか、敵がいないのだ。
どうせなら本膳料理の家元である大草流や進士流の料理人でも連れて来ればいいものを。
案の定、調理場はカオスと化した。
岡部元信は肉を焼いているだけだった。まさかのマンガ肉である。
火に薪をくべさせられていた貞綱の目が死んでいた。
朝比奈泰朝がかき混ぜている鍋からは有毒ガスが発生している。周囲の者がバタバタと倒れていた。武器を持たずに敵を倒す、常在戦場の女である。流石は行き遅れ。非の打ち所がないポイズンクッキングだった。
関口氏広はブツブツ言いながら地味な料理を作っていた。なんか地味だった。
「忍者の非常食でも勝てそうでございますですね、ご主人さま」
俺は道順の言葉に無言で頷いた。
本番前に勝利を確信するのは負けフラグだと言うが、それでもまったく負ける気がしなかった。
正午、いよいよ料理対決が始まったのだが。
「肉ですわ」
「毒ではありませんか」
「地味ですわね」
圧倒的だった。俺の料理は。
伊勢湾の幸を惜しみなく使った膳で、汁物は鰹節をかけた静岡風のお雑煮である。
もはや敵なしとばかりに対戦相手を蹴散らし、これには冷泉為和も大絶賛。
後にこの料理が将軍家に献上されることになったのだが、これも内政チートなのだろうか。
そしてこの日、俺たちは貴重な教訓を得ることになった。
――素人は台所に入るな。
【番外5 リア充自爆した】
史実では鉄砲が伝来したのが1543年である。花倉の乱が1536年なので、この時点で今川家に五十丁もの鉄砲があるのはおかしいのだが、エロゲやラノベっぽい不思議時空にツッコミを入れるのは無駄である。
ここで重要なポイントが一つ。
時系列の狂いは、南蛮貿易にも現われていた。
ポルトガルがマカオを獲得し、その地を拠点にして貿易や布教に勤しんでいる。スペインがフィリピンをコロニー(植民地)にしており、ヨーロッパでは今まさに大航海時代が始まっていたのである。
「うわぁ、あれが異人ですか」
関口氏広が感嘆の声を上げていた。
彼女の視線の先にはビロードの帽子を被り、南蛮傘をさした南蛮人がいた。膨らんだズボンをはいて、派手な赤いケープを羽織っており、襟巻きは円盤のような奇妙な形をしている。
この日、駿府の東、清水港には南蛮船が寄港していた。
今川家を掌握したことだし、そろそろ南蛮との関係を決めなければならないと思い、とりあえず見物しておくことにしたのだ。俺が供回り数人を引き連れて城を出ようとしたところを氏広に呼び止められ、なぜか彼女が付いて来ていた。
なお案内は御用商人の友野次郎兵衛宗善である。彼に台詞はない。
「うわー、ほんとに身体が大きくて顔が真っ赤なんですね。鬼みたいだと小耳に挟んだことがありますけど、言い得て妙とはこのことです。一体何を食べたらあのようになるのでしょうか」
「我らよりも肉を食っているからだろう」
「肉ですか。やはり鬼のようですね」
タンパク質の摂取量からして違う。
南蛮人は牧畜をしており、粗悪なエサでもすぐに大きくなる豚を食っていた。対する日本人は畑の肉と呼ばれる大豆までもが牛馬のエサだ。
南蛮船から降ろされた物品が、港町に運び込まれていく。水夫の行き先にはごくありふれた日本風の建物があった。
南蛮商館だった。派手な洋風建築だと思っていると、肩すかしを食らう外観である。
「異人が買い取った建物ですか?」
氏広が不快げな顔をする。経済支配をイメージしたのだろうが、これはさほど問題ではない。
「気にすることはなかろう。最悪の場合、やつらの建物を取り上げて、異人どもをなで斬りにすることもできる。南蛮との関係を悪化させ、攻め込まれる口実を与えてしまうことになるが、それはその時に考えればいいだけだ」
「いえ……誰もそこまでは言ってないんですけど……」
スペインのフィリピン総督は警戒する必要があるが、放っておけばオランダと八十年戦争をやり始めるやつらだ。それにやつらも日本人と全面戦争をするよりも、南北アメリカを切り取った方が利益があると理解しているはずである。
「南蛮人は法の外にいると言うことですか」
「左様。いずれ南蛮人どもは交易の許可を大名に願い出るはずだ。やつらが真に求めるのは許可ではなく保護だろうがな」
「許可ですか。大陸との貿易ならば幕府の認可が必要になりますが、南蛮との貿易は……」
当然、無許可である。
基督教に改宗する大名が出て来るほど南蛮貿易は儲かった。力なき幕府はもはや南蛮貿易を取り締まることができなくなっている。
「それにしても、雪斎さまは僧侶なのに南蛮に対して物分かりがよすぎるかと。やつらは基督教なる邪教を信奉しているのですよ?」
「文句があるなら本猫寺にも言え。『にゃむにゃみにゃぶつ』とは何なのだ」
「……そう言えば、あれも邪教でしたね。しかも三河にも広まり始めているとか」
南蛮人にどうしても排他的になってしまう氏広の気持ちはわからないでもなかった。民族も宗教も違うのだから。
しかし南蛮商館に入ると、ぶつくさと愚痴っていた氏広が急に静かになる。
「……うわぁ」
氏広がうわぁと驚くのは今日で何度目だろうか。
星が散りばめられたかのように輝く空間がそこにあった。
まず目を引くのがパイプオルガンである。楽器はラッパのようなものから、フルート、手回しのオルガンが並んでいた。
床には細かい模様が編み込まれたペルシア絨毯が敷かれており、壁には立派な角を持つシカの剥製が飾られている。
宝石細工や硝子製品、ダマスカスのナイフやアラビアの湾曲刀もあった。
「南蛮人、侮りがたし……」
南蛮渡来の眼鏡をかけている氏広が言うとシュールに思える。
「実際、大したものだ。世界の裏側から帆船でやって来たのだからな」
俺は置かれていた地球儀を回しながら呟いた。
測量技術も羅針盤もキャラベル船も、ヨーロッパの方がはるかに優れている。イスラムに圧迫され、宗教改革の嵐が吹き荒れていても、それでも世界に乗り出した南蛮人のバイタリティには舌を巻くしかない。
ひとしきり商品を見物してから、俺は氏広に声をかけた。
「折角の機会だ。土産でも買うとするか」
「雪斎さまって何だかんだで姫さまには甘いですよね」
「……ふむ」
なんだか誤解があるようだが、さて、どうしたものか。
俺は目に付いた指輪――ではなく、色付きの硝子が埋め込まれた文箱を手に取った。
……ヘタレって言うな。
中国語の通訳を通して値段を聞くと、手持ちでは足りない。友野次郎兵衛に金を借りて支払いを済ませると、氏広が羨ましそうにそれを見ていた。
「まぁ、たまにはな」
「はい? え、ちょ、はい!?」
俺は氏広の手を取って文箱を押し付けると、さっさと踵を返した。
女子に物を贈るなど初めてのことなのだ。あまりにも恥ずかしくて、もう二度とやりたくないと思ってしまうほどだった。
それでも、たまには。
自分を省みず、身を粉にして頑張っている少女を労りたくなった。
「あの、雪斎さま……」
氏広は何か言いかけて、黙り込んでしまった。
彼女がどのような顔をしているのか、振り返って確認する勇気は俺にはなかった。
……ヘタレって言うな。
【番外6 利休にたずねられない】
史実では桶狭間で討たれた今川義元は御輿に乗っていたという。
これは決して義元の無能を表しているわけではない。デブっていたため御輿に乗っていてそのまま戦死した肥前の熊は別として、海道一の弓取りには御輿に乗る理由があったのだ。
今川家は幕府から御輿に乗ることを許されていたのである。義元が御輿に乗るのは、権威を誇示するという意味があったのだ。
「おほほほ! そう言うわけで、わたくしには御輿に乗る資格があるのですわ! いいえ、資格云々言っている暇があるなら積極的に乗るべきでしょう! 今乗らなければ何時乗るのです、今ですわ!」
うぜぇ。
この日、室町幕府に当主交代を伝えに行った関口氏録が帰還し、将軍から書状が下賜されていた。その内容は要約すると『今まで通り御輿に乗ってもいいから金くれよ。官位に推薦してやるから金くれよ。あと金くれよ』であった。
うぜぇ。
で、関口氏録は金を持ってUターンしている。社蓄の鑑である。
御輿はどうでもいいのだが、官位は氏親と同じ治部大輔に叙任させておきたかった。
「わたくし、なんだかこの子が乗って欲しいと言っているように思えてきましたわ!」
「幻聴だ。寝ろ」
「いやですわ! 義元号が発進するまで、梃子でも動きませんから!」
何がそこまで義元を駆り立てるのだろうか。
御輿に腰を下ろし、扇子を振りかざして「発進!」と号令をかけている残念姫がいたが、今川家の宝物庫には俺と義元、数人の近習がいるだけだ。近習とは下級将校なので、御輿を担ぐのは当然のように嫌がっている。全員から「こいつめんどくせぇ……」という目を向けられているのに、義元は気付いていない。
「そこのあなた。あそこにある安っぽい器を上げますからわたくしを運びなさい!」
「やめろ。頼むからやめろ」
義元が扇子を向けた先にあるのは白くて美しい茶器である。
先日も八龍具足を賞品に出していたが、たぶん義元は物の価値がわかっていないのだろう。お金持ち特有の金銭感覚というやつである。
「お主はもっと目利きを覚えろ。あれは志野茶碗だぞ」
「あら、あれは貴重なものでしたの? ひび割れていて、歪んでいて、素人が作った失敗作にしか見えませんわよ?」
そもそも貴重でなければ宝物庫に入っていないのだが。
「そう言えば、師匠は京で茶の湯を修められたそうですわね。よろしければ、ここにある茶器を使ってわたくしに茶の手ほどきをしてくれません?」
「まぁ構わんが」
茶の湯を知れば、おのずと茶器の価値を理解できるようになるかもしれない。
……なればいいなぁ。
俺は手近にあった茶器を手に取り、思わず溜息を吐いてしまった。
志野茶碗。そう言えば、これと似た器をどこかで見た記憶があったが。
ああ、そうだ。
あれは三年前のことだったか。
俺の少年期が終わり、青年になり始めていた頃。
建仁寺の門前で掃除をしていると、石段を上がってきた壮年の男と目が合った。
「おお、ちょうどよかった。常庵はんのところに案内してくれまっか」
現代の関西人でも絶対に言わないだろう、コテコテの関西弁だった。
「どちら様でしょうか?」
「ああ、すまん。それがし、納屋の今井宗久って言うねん」
男の自称でなければ、堺会合衆の一人である。
師匠や高僧から来客があるとは聞いていなかったが、連絡ミスと言うこともあり得る。
あるいはアポなしの訪問かもしれないが、豪商が相手だから機嫌を損なわないようにしておくべきだろう。
「これは失礼を。すぐに上の者にうかがって参ります」
「ええよ。石段上がるのに疲れたから、ゆっくり待たせて貰うわ」
御堂に入って上役に話をしてみるも、そんな話は聞いていないし、おまけに常庵は留守であるという返答だった。
さらに常庵が戻るまで待たせろと言う、何のためにいるのかよくわからない高僧である。
俺は肩をすくめ、今井宗久のところに戻った。
「まことに申し訳ありませんが、常庵龍崇は所用で席を外しておりまして、今しばらくお待ち頂きたく」
「なんや、聞いてた話とちゃうみたいやな」
「よろしければ客間にご案内いたします。粗茶ぐらいならばお出しできますが」
「粗茶ってなぁ」
「一応、禅寺なので」
「ああ、そうか。日蓮宗を基本に考えてたみたいや。気を悪くせんといてな」
「いえ」
「なら待たせて貰おか」
俺が先導して、今井宗久を客間に通す。
それから一度退室して、別室で茶を入れる。
緑茶の粉を湯に解かしている最中、ふと思い付いてしまった。
相手は歴史に名を残す人物。
そんな人物が、俺のことをどう評価するのか。これは試金石になるのではないだろうかと。
「失礼します」
俺は客間に戻り、今井宗久に茶を出した。
おおきにと言いながら受け取った宗久は、一口付けて不思議そうな顔をすると、一息に茶碗を飲み干した。
「もう一杯」
「すぐにお持ちいたします」
「もう一杯くれへんか」
「はい」
数回客間を出入りする。
三杯目の茶を飲み終えた今井宗久は楽しげに笑っていた。
「あんさん、おもろい人でんな」
「お褒めにあずかり光栄です」
「どうして最初にぬるいのを出したんや?」
「石段を上がって来られたので、最初は喉が渇いておられるかと思ったのです」
佐吉のパクリだった。あのエピソードは創作らしいが。
まぁ、俺のこの行動は史書には残らないだろう。ちょっとした茶目っ気である。
結局この日は、今井宗久との約束を常庵龍崇がうっかり忘れていたというオチが付いた。「金くれよ」「しゃーないなぁ」と言っていたところですっぽかされた宗久はキレてもいい場面だったが、俺の機転でどうにか首の皮一枚が繋がっていた。
それから俺は今井宗久に気に入られたらしく、宗久が茶会の会場に建仁寺を指定するようになってしまった。その度に俺はパシリ(茶坊主)としてこき使われ、パクリはよくないと後悔する羽目になる。
さらに時が流れ、半年後。
建仁寺で修行に明け暮れ、学問に勤しんでいると、またしても今井宗久から茶会を開くと連絡が入った。
俺は溜息を吐きながらも、内心では満更でもなかった。
当代随一の豪商であり、茶の達人たちが集まる場である。彼らの優れた見識は聞いているだけで刺激になったし、小僧である俺が小間使いとはいえ同席を許されていると思うと、自分が特別な者になったような気がしたのだ。
「…………」
そこには女の子がいた。
堺会合衆の新入りで、寡黙な少女だった。
黒い服に身を包み、黒っぽいフードを被った――有り体に言えば、ゴスロリである。
知り合ったのは二ヶ月前。会うのはこれで三回目だった。
俺は一度も彼女の声を聞いたことがない。それなのに商人としてやっていけるのか心配になったが、彼女にとっては大きなお世話だろう。
「…………」
「お久しぶりです、田中様」
「……(こくり)」
囲炉裏に火を入れて下準備をしていると、少女が物言いたげな顔をしていたので、俺は当たり障りのない挨拶をした。
相手は田中与四郎。後の千利休だった。
後世において茶聖と呼ばれる人物が、いたいけな少女である。よくわからない世界だった。
「九英承菊はんも、茶の湯の作法が板に付いてきたみたいやな。与四郎はんは天才肌やから、あんまり下手なもんを見せられると、顔には出さんけど嫌そうにするねん。それがないと言うことは、誇ってええと思うで」
「ありがとうございます。これも皆様方のお引き立てのお陰です」
「……(ふるふる)」
首を横に振っている与四郎が「謙遜しなくていい」と言っているように思えた。
「先日のことやけど、ええ焼き物が手に入ったねん。美濃焼なんやけどな、これがいい具合に焼けとるんや」
「……(こくり)」
今井宗久が取り出したるは志野茶碗。
ぐにゃりと歪み、ひび割れた青磁だった。素人が土をこねて焼いたような茶碗である。言葉にするのが難しいが「物足りない」と思えるところが魅力に思えた。
田中与四郎は茶碗を指でなぞりながら頬をゆるめている。
今日の茶会もなごやかに進みそうだと思える風景だった。
「そや、与四郎はん。今日はあれ、やってくれへんか」
「……(こくり)」
――この日が決別だった。
田中与四郎がおもむろに取り出したのは硝子瓶だった。
俺はまさかと思い、腰を上げそうになる。
それは赤ワインだった。
与四郎はドボドボと志野茶碗に赤ワインを注ぐと、南蛮饅頭――パンをちぎって参加者たちに手渡していく。
基督教のミサを模しているのだと誰かが言っていたが、俺はほとんど聞いていなかった。
俺はそれを呆然と眺めていた。
頭の中が真っ白になり、それからちくりと刺すように胸が痛んだ。怒りはなかった。俺は勝手に期待して、勝手に失望しているだけだった。田中与四郎にとっては迷惑な話だろう。それでも俺はその光景を受け入れることができなかった。
これが茶の湯なのか。これが千利休なのか。
「申し訳ありませんが、ここは禅寺。基督教の風習はどうかお控えくださいますよう」
「あー、そうか。気付かんかったわ。ま、今回だけってことで固いことは言わんといてな。建仁寺はんには少なくない寄進をしてるさかいな?」
「……はい」
俺はかろうじて頷いたが、ワインの回し飲みは拒否させて貰った。
先ほどまでは何ともなかったのに、今ではこの場にいるのがひどく苦痛だった。
「…………」
与四郎が悲しそうに俺を見ていたが、俺はもう彼女の目を見ることができなかった。
空気が悪くなっていた。明らかに俺の所為なのだが、こればかりはどうにもならない。
元現代人の俺は戦国時代の人間よりも革新的な思考を持っていると自惚れていたが、とんだお笑い種だった。作法一つで目くじらを立てて、折角築き上げた人脈をぶち壊そうとしている。建仁寺で茶会が開かれることはもうなくなるだろう。
「南蛮のお酒はうまいなぁ! なぁ、与四郎はん。そろそろあれを見せてくれへんか!」
今井宗久はことさらに明るく振る舞っている。
田中与四郎が茶碗に謎の液体を投入して、茶筅でそれをかき混ぜる。しばらくすると、そこに黄金の輝きが現われ始めた。
物理法則を無視した不可思議な現象に参加者たちが興奮の声を上げているが、俺の心は冷え込むばかりだった。
「これや! いつ見てもすごいで、ほんま! 与四郎はんは錬金術師やからなぁ!」
「……茶の湯で黄金ですか。すごいですね」
「……(ふる、ふる)」
俺の乾いた感想に、与四郎が泣きそうな顔をして首を横に振っていたが、もはや俺には少女が何を伝えようとしているのかよくわからなかった。いや、わかろうとしなかったのだ。
俺は黄金の小粒が浮かぶ志野茶碗から目を逸らす。
一人の友を失った瞬間だった。
政務の後、俺たちは茶室に集まっていた。
「うまい! もう一杯!」
「阿呆、これでは回し飲みできないだろうが」
「いだだだだ! だって、師匠のお茶って飲みやすいんですもの!」
それは飲みやすいように点てているからだ。
泡立たせて苦みを丸めているから、抹茶にしては飲みやすい。茶菓子の甘みを流すのにちょうどいいように計算しているのだ。侘び茶のもてなしの心である。
「ところで師匠。このお菓子、お代わりを所望しても構いませんの?」
「貴様というやつは……」
「ねーねー、お師匠。喉かわいたんだけど。あと五子もお茶菓子のお代わりが欲しいなー」
「こやつら……」
「あ、あの。すいません。私もよければ、その……」
少女たちは南蛮商会から買い付けたカステラがお気に召したようだ。ホスト冥利に尽きる場面なのかもしれないが、まったく嬉しくない。
関口氏広は許す。控え目にお願いされれば否やはない。
だが義元と元信。テメーらは駄目だ。客人だとしても、ふてぶてしすぎる。
「茶の湯もいいものだね、お師匠!」
「……果たしてこれを茶の湯と言っていいものか」
まぁ、あまり口うるさく言っても楽しくはないか。
ある程度の寛容さは必要だ。友人を一人失ったことで、俺はそれを学んでいた。三年経った今でも彼女の茶の湯を受け入れる気にはなれないが、少女たちが作法を守らない程度で目くじらを立てるのは狭量すぎるだろう。
志野茶碗で茶を点てる。
この茶碗には嫌な思い出しかないのに、なぜかこれを選んでいた。俺はやり直したいと思っているのだろうか。まさかな、と思う。
「あの、ご主人さま。田中様からお手紙が届いているのでございますですが」
「何時も通り、机に置いておいてくれ」
「……はい」
茶室の外から声をかけてきた楯岡道順に、俺は声を固くする。
時折、田中与四郎から手紙が届いていた。
畿内の情勢や商売の話、こちらの近況を気遣うような内容である。
返事は未だに書けていない。