尾張の最大勢力といえば織田信秀だが、彼は尾張の国主だったわけではない。
尾張の国主は建前上は斯波武衛家だった。
この家はかつては尾張足利家と名乗っていたことがあった。
足利家の分家であり、足利本家に匹敵するほどの勢力を誇っていたのである。
ところが室町時代に入ると足利尊氏が天下を取ってしまう。
この頃に尾張足利家は「斯波」を名乗るようになったようだ。名前の由来は先祖が陸奥国にある斯波郡を拝領したからだと思われる。
そんな斯波家の当主が代々任命されてきた官位が左兵衛督や左兵衛佐である。
左兵衛の官位は唐名では「武衛」になるため、斯波武衛家と呼ばれることもあった。
斯波家は細川家、畠山家と交代で幕府の管領職を担ったため三管領家の一つとされ、越前や加賀、奥州に領地を得たが、加賀守護は幕府の不興を買ったため没収され、越前はやがて朝倉氏に下克上されてしまう。
さらに遠江を今川家に奪われた斯波家は、最後の領国である尾張に逃げ込んだ。尾張では守護代である織田家が力を付けており、織田家は斯波家を担いで尾張を共同経営するようになったのである。
織田家は応仁の乱によって分裂し、伊勢守家が上四郡を、大和守家が下四郡を治めるという形に落ち着いた。
織田信秀は尾張下四郡守護代、織田大和守家の分家にして家臣であり、清洲三奉行(三家老)の一人だった。
信秀のかつての本拠地は尾張の勝幡(しょばた)である。
先代の信貞が商業都市である津島を屈服させて支配下に組み込み、さらに信秀の代で今川家の庶流である尾張今川家から、謀略で那古野城を奪い取っている。斯波家や大和守家を凌駕する実力によって尾張の軍事的な指導者にまでのし上がっていたのだ。
また信秀は風流人でもあり、山科言継を招待して連歌や蹴鞠を主催したという。文化面で最先端を行っていることを前面に押し出し、他家に格の違いを見せ付けることで、尾張での存在感を増していったのだ。
さらに信秀はやまと御所に七百貫文を献上して三河守に任じられていた。
三河を征服するための大義名分を整えたのである。
同じく三河を欲している今川家と激突するのは、遠い未来の出来事ではなさそうだった。
織田信奈は人差し指で地球儀をくるくると回していた。
髪は茶筅髷に結っており、着物は諸肌に脱いでいた。さらに南蛮渡来の黒い下着を胸に着けており、誰の目からも奇異に映る格好をしていた。家中からは「うつけ姫」と呼ばれている少女である。
「勉学をすっぽかして何をしているのかと思っておりましたが、こんなところにいたのですか。探しましたぞ、姫さま」
かけられた言葉に、信奈は億劫そうに顔を上げた。
「なによ、また説教でもしに来たの?」
織田家の家老である平手政秀だった。
平手政秀は信奈の傅役、つまり教育係である。
政秀は老人という年齢だった。痩せた身体が汗だくになっている。
信奈が城下に遊びに出たと思い込んで外を探しに回ったのだろうが、信奈は自室で宣教師に貰った南蛮の渡来品を眺めていただけだった。
「わざわざご苦労さま。骨折り損ね」
「勘弁してくだされ、姫さま。爺は心臓が止まるかと思いましたぞ」
「デアルカ」
信奈の言葉は素っ気ない。少女はこの老人にも心を開いていなかった。
少女が信頼を寄せたのは、父親の信秀と、南蛮からやってきた宣教師だけである。しかし父は多忙であり、宣教師は他界している。
宣教師からは色々なことを教わった。
世界が丸いということ。南蛮人は地球の裏側からやってくるということ。南蛮では種子島という兵器が開発され、強大な軍事力を持っていること。南蛮の王は植民地の獲得を目指しているということなどである。
なのに弾正忠家は尾張一国すら支配できていない。
室町幕府が強ければ、足利義満のような強力な王がいれば、外国からの侵略に対抗できるかもしれない。鎌倉幕府が蒙古を撃退できたのは、北条時宗が九州の領主に号令できたからだ。だからそれこそ全国すべてに手が届くほどの絶対的な権力がなければ、日の本は南蛮に屈服させられることになる。
わかっていても何も出来ないのが歯がゆかった。
信奈がふて腐れている理由である。
少女は尾張守護の家来の家来の娘でしかない。信秀は娘を婚姻の道具として考えていないことだけは救いだったが、自分ごときが天下を語ったとしても物笑いになるだけだった。
「何の用なのよ? 用件があるなら早くして。わたしは暇じゃないんだから」
勉強をサボって、おまけに部屋で暇そうにしているのだが、平手政秀は空気を読んでそれには触れなかった。
これでも信奈の態度はマシな方である。
本当に嫌いな人物が相手なら、信奈とは会話が成立しない。それでも相手が引き下がらなければ刀を抜いて排除しようとする。
「火急の用事というわけではないのですが、戸田家から人がやって来たので、お耳に入れておこうと思った次第ですぞ」
「戸田家? 知多の方にいる奴らよね?」
「あいや、戸田家は尾張にも領地を持っておりますが、此度は三河の話ですぞ」
戸田家は独自の水軍を持っており、沿岸に勢力を伸ばしてきた一族である。
本拠地は三河の田原城だが、尾張にも進出しており、知多半島に河和城を築いていた。
今回、戸田家は織田信秀を頼ってきたらしい。
松平家が清康という英雄を失った後、西三河の国人たちは織田信秀を頼り始めていた。尾張と三河の国境にいる水野家や、松平の分家である桜井松平家などである。戸田家も同じように父を頼ってきたようだ。
「三河は父上の威光にひれ伏すことになりそうね」
織田は戦わずして三河をその手に収めることができるわけだ。もちろん信秀の謀略の手はしきりに三河に伸びているのだろうが、それは言わぬが華だろう。
しかし政秀の顔は暗い。
「どうしたの、爺」
「信奈さま。どうやら眠れる獅子が巣穴から出てきたようなのです」
「……それって」
信奈は唾を呑み込んだ。まさか。
「戸田は援軍を求めておるようなのですぞ」
「援軍? 何のための援軍よ?」
「攻めてきた相手は――今川。ついに治部大輔が動き出しましたぞ」
三河の山河が荒れようとしていた。
今川軍、総大将、太原崇孚雪斎。
二千人を率いて東三河に侵攻し、電撃的に今橋城を攻め落とす。
◇
天野景泰は困惑していた。
今川義元からの書状には三河を攻めるための兵を出すようにと書かれていたが、彼の目の前にいる軍勢はたったの五百人だったのである。
天野景泰は千五百人の兵を持っていた。
この戦では今川は天野だけに骨を折らせるつもりなのか。今川は天野を侮っているのかと眉をひそめてしまう。
二カ国の太守が出した兵がこれだけとは思えなかったし、思いたくもなかった。あるいはこれは侵略ではなく、ただの示威行為なのかもしれないが、それでも五百人というのは少なすぎるのではあるまいか。
あるいは他の領主も参集するのだろうか。
遠江の最強勢力と言えば遠江朝比奈家である。富士川合戦で壮絶な討ち死にをした朝比奈泰能の家であり、現在は娘の朝比奈泰朝が当主にいる。泰朝は単独で二千人の兵を持っており、これを足せば今川軍は四千人になる。
だが、景泰の推測は外れ、今川軍は朝比奈家の本拠地、掛川城を素通りした。
「雪斎禅師」
とうとう景泰は総大将に直談判を行ってしまった。
「どうか掛川に引き返し、朝比奈備中と合流なさって下さい」
太原雪斎は武田を討ち、福島を討ち、義元を当主に就けている。伝聞だけだが、その軍略はかつての北条早雲を彷彿させるものだ。彼が大将ということに不満はない。だが景泰が率いている兵をすり潰されるとなると話は別だった。
天野家は藤原家を遠祖としており、源頼朝の側近である天野遠景から興隆した。彼の一族は全国に散らばっており、戦国時代には各地で優れた人材を排出することになった。毛利家で活躍した天野隆重や、三河三奉行の一人である天野康景などである。
天野景泰の遠江天野家は犬居城を本拠としており、遠江では朝比奈家に次ぐ精強を誇っていた。
「安芸守(景泰)の懸念は一々もっともだ」
雪斎は同意した。それだけだった。
景泰は我慢できず、さらに食ってかかった。
「大体、二千の兵でどこを攻めるのですか」
二千で取れる城など、たかが知れている。その程度ならわざわざ踏みつぶすまでもなく、その土地の要になっている大きな城を攻め取れば、勝手にこちら側に服従してくるものである。
「攻める城は、間もなくわかるだろう」
総大将は自分の考えを変えるつもりはないようだ。
天野景泰は不安を募らせた。
ところで東三河には様々な領主がいる。
奥三河に勢力を張る奥平家や、尾張の知多半島と三河の渥美半島に領地を持つ戸田家、三河だけでなく遠江にすら分家を持つ菅沼家、伊奈の本多家などである。他にも鵜殿家や、西郷家、設楽家などがあった。
余談だが、鵜殿家は今川氏親の娘を妻にしていた。この世界では氏親の実の娘ではなく養女を貰い受けたようだ。鵜殿家は今川家を忠烈に信奉しており、今川家もまた鵜殿家を準一門格として遇していた。
さて、東三河に踏み込んだ今川軍に対して、周辺の小領主たちの反応は静かだった。
東三河には北条早雲の侵攻に屈して今川家に属していた家が多い。だが松平清康という稀代の英雄が現れたことで、彼らは今川家と手切れして松平家に属していた。ところが松平家が衰退すると、勝手に独立してしまっている。
「今川家を裏切った連中ってことだよね?」
元信が舌なめずりしている。
東三河衆に血の粛清を行えばどうかと暗に提案しているのだろう。
だが裏切りに対して仕置きをするには、いささか時間が経ちすぎていた。
「強きになびくだけの弱小勢力ばかりだが、捨て置くわけにもいかんのが厄介だな」
「お師匠。とぼけられるのって、五子あまり好きじゃないんだけどなぁ」
「阿呆。東三河すべてを敵に回すつもりか」
今川が強ければ今川に従い、松平が強ければ松平に従う。
武田が攻め込んでくれば武田に寝返り、武田が衰退すれば今度は徳川に従う。
その程度の奴らだ。
だが、奴らが身内を大事にするという性質を忘れてはいけない。史実では今川氏真が東三河から預かっていた人質を処刑したせいで、東三河がごっそりと松平に寝返ってしまったのだから。
天竜川を船で渡り、井伊谷を越えると、そこはもう三河だった。
「で、どこを攻めるの、お師匠」
うずうずと、待ちきれないという様子の元信である。
「早雲公の先例に倣うべきか否かだな」
「先例?」
「牧野古白のことだ」
出発前にした講義が、もう頭から抜け落ちているらしい。
かつて伊勢宗瑞が三河入りした際に牧野古白を攻めたように、俺たちもそうするべきかどうかという話である。
言っている間に、使者の早馬が戻ってきた。牛窪城の牧野家に送っていた使者である。
首を傾げる元信に、俺は仕方なく説明しておくことにした。
「牧野家の現当主は牛窪城を本拠とする牧野保成という」
「ふーん。牛窪の牧野ねぇ」
「牧野家はかつて伊勢宗瑞に攻められて一族が血祭りに上げられ、今川家に服属することになった。それから松平清康によって攻められ、やはり血祭りに上げられた」
「どんだけ血祭りに上げられてるの?」
「牧野保成は血祭りに上げられる兄たちを尻目に、己一人だけ清康に内通していたため助かり、牧野家を存続させることに成功したわけだが、流石に血祭りに上げられすぎたのだろう。勢力が衰え、戸田家に今橋城を横領されている」
「あ、なるほど。読めてきた。あれでしょ。牧野保成を旗印にして、今橋城を攻め取るってわけでしょ?」
人には向き不向きというものがあるが、元信の頭脳は極端すぎるようで、戦になると動き出す仕組みになっているらしい。
「いかにも」
「よっしゃ、正解! えへへー、五子もやる時はやるでしょ。ねぇねぇ」
褒めて褒めてと、すり寄ってくる元信が少しばかり煩わしい。
猫みたいな奴だった。
猫が鼠の死体を持ってくるように、こいつは敵将の生首を持ってきそうだが。いや、冗談ではなくやりそうだ。
「でもさ、何で戸田家を攻めるの? 逆に弱ってる牧野家を叩いてもいいんじゃない?」
首を傾げる元信に、俺は言った。
「牧野など、どうでもいい。海を持っている戸田こそを叩くべきなのだ」
駿河と遠江、そして三河を繋ぐ交易路を確保したい。
太平洋航路を牛耳ることこそが、今川家の天下取りに最も重要な方法である。
そんな会話をしつつ今川軍は牧野保成の手勢二百人と合流すると、すかさず今橋城の包囲に取りかかった。
今橋城を守るのは戸田宣成である。
戸田家は渥美半島を支配しており、仁連木城や田原城などを持っていた。
戸田宣成は自分の手で今橋城を攻め取った人物だった。今橋城は自分の城だという意識が強く、何があっても城を手放さないだろうと思われていたため、戸田家からも信頼されて城を預かっていたのである。
「いきなりの侵攻とは解せぬ! 今川家は欲の皮が張った熊のごとき家よ!」
「まさにまさに!」
「今川のやつらは、何の名分があって三河に攻め込んできたのか!」
「牧野の援軍と言うが、まさか牧野は今川の家来になったのではあるまいな?」
「他国人に寝返ったというのか?」
「おのれ、牧野め! そこまで腐抜けたか!」
城に詰めている戸田の家臣たちが口々にわめいている。
牧野家の今橋城を横領しておきながら、自分たちのことを棚上げしての批難だったが、反今川に染まりきっている家臣たちは何度も今川のことを罵っていた。
田原城にいる宗家の当主、戸田尭光は宣成の甥だった。
親族の宣成を見殺しにすることはないだろう。とは言え、気は休まらない。
現在、今橋城は二千人ほどの今川軍によって包囲されている。
鼠一匹逃がさないほどであり、これでは援軍の使者を出すこともできなかった。
いや、すでに駄目元で出しているのだが、宣成も凡愚ではないため、包囲を抜けられずに捕殺されていることは理解している。
「ふん。援軍などいらぬわ」
宣成は内心気落ちしていたが、家臣たちにはそれを見せないように虚勢を張った。
「我らだけで持ち堪えれば、田原にいる甥御殿が尾張や甲斐から援軍を引っ張って来るだろう。ここは雌伏の時ぞ」
今橋城には六百人の兵が篭もっており、一朝一夕には落ちないと信じたい。
とはいえ二千人もの今川軍を前に平静を保てる自信がなかった。三倍の敵に攻められれば、城は落ちるものである。
「このままでは宣成叔父が殺される!」
泡を食ったのは、戸田家の当主であり、田原城主の戸田尭光である。この年若い当主は突然やってきた一族存亡の危機に全身から脂汗を噴き出させた。ともかく戦っても勝てないなら降伏するしかない。そう思って田原城を飛び出した。
尭光は今川家の本陣に入り、恥も外聞もなく平伏した。
「戸田家は今川家に何ら含むところはございませぬ。どうかご寛恕を賜りたく」
総大将は驚くべきことに袈裟をかけた僧形の男だった。
これから戸田家は今川家に従うことにすると宣言したわけだが、総大将の太原雪斎は感情の色をひとつも見せない。
「今橋城をすみやかに明け渡して退去すれば兵を引き上げると約束しよう」
「ご無体な」
だが、尭光はそれを受け入れることができない。すかさず言い訳する。
「今橋城は戸田家が血を流して手に入れたものです。それを理由もなく明け渡せとは、貴殿は何様のつもりか」
「ならば今川家も血を流して奪い取ればよいのだな」
「そうではございませぬ! 我ら戸田家は今川家に従うと言っているのです! ですから城攻めをやめて下さいと、何度申せばご理解を頂けるのですか!? 私の提案はそれほどおかしなものでしょうか?」
「今川家は家来になった牧野家に今橋城を返還すると約束している。お主らの提案に乗っては筋が通らなくなるのだ。我らの言い分も、理解して頂きたいものだ」
尭光は大きく首を横に振った。
理解できるが、理解したくない。
今橋城は戸田家の生命線だ。これを奪われると、戸田家は渥美半島に閉じ込められて、時代に取り残されてしまう。没落した松平家に代わって戸田家が三河の大名になるという野望も、夢に終わるだろう。
「どうかご寛恕を。禅師。雪斎禅師。どうか。どうか」
尭光はすがるように何度も頭を下げたが、雪斎の考えは変わらないようだ。
雪斎は脂汗を流している尭光を見詰め、ふとこぼした。
「野心が見える。心当たりはお有りかな、戸田殿」
「……まさか」
「そなたから今川に降ると言われても、何一つ信ずるに値せんのだ」
何を言っているのかよくわからないが、一つだけわかることがある。
尭光は恐怖で震えが止まらなくなっていた。
目の前の僧侶が怖ろしくて仕方がなかった。
この男の口から「戸田を滅ぼす」という言葉が放たれれば、まさしく戸田は滅ぶだろうということがわかったからだ。
尭光は言葉を続けることができず、交渉の席から追い出された。
今川家は内乱で肉親を殺し、井伊家の人間を誅殺した非情の家だったが、今回はその場で尭光を捕らえて首を刎ねることはしなかった。
それだけが幸いだったが、状況は一つも改善されていなかった。
尭光は失意の内に田原城に戻った。
何はともあれ、叔父の宣成は救わねばなるまい。彼の武威がなければ戸田はただ萎れていくだけだ。尭光は決心した。
尭光は重臣を集めて胸中を打ち明けた。そこである人物が口を開いた。
「織田に救援を願ってみてはどうか」
尭光の父である戸田康光である。康光はすでに当主を尭光に譲っていたが、年若い尭光を後見しており未だに影響力を持っている。史実では竹千代誘拐事件を引き起こす老人である。
「織田ですか」
尭光は思案した。戸田家は松平家が没落してから、反今川の家風もあってか、尾張の織田家と通じようと画策している。織田弾正忠が今川と事を構えてくれるかどうかは不明だが、織田にとっても今川が三河に侵入するのは面白くないだろう。
「それでは織田への使者は父上にお願いしても構いませんか」
「いや、わしは仁連木城に入り、今川軍を牽制しようと思う」
尭光は少し考え、首を横に振った。
「それは困ります。仁連木城には弟の宣光でも入れておけばよろしいのです。当家には織田弾正忠と渡り合える者は父上しかおりませぬ」
「……そうか。そうじゃな」
息子に説かれた康光は戸田水軍に護衛されて尾張に向かった。
それから尭光はすぐさま千人の軍をかき集めると、今川軍の背後を襲うべく出陣した。
陣形は使者として潜り込んだ時に確認している。今川軍の多くは犬居の天野家が占めていた。反面、今川家の旗本はほとんど見ていない。
ここから取るべき行動は――。
「我らは全力で本陣を攻め破る」
備えの将たちのどよめきを見ながら、尭光は強く宣言した。
「本陣が失陥したとなれば、天野は戦わずして兵を引くだろう」
天野家は今川家の手伝い戦に借り出されているだけだ。自家の兵をすり減らしてまで戦おうとはしないだろう。
形勢不利と見れば及び腰になるのは間違いない。
そして包囲されている今橋城の兵と呼応して挟撃できれば勝機は見えてくる。痛み分けであっても戸田は手強いと思わせることができれば、有利な条件で和議に持ち込めるだろう。
ところが背後を取ったはずが、今川軍はまったく動じずに対応していた。
左右から強烈な銃撃を浴び、戸田軍は瞬く間に士気を崩壊させた。銃撃は最初の一発だけだったが、突撃の勢いを削がれてしまった戸田軍が立ち往生している間に、天野軍に乗り崩されて総崩れになったのである。
ほどなくして戸田勢は潰走を始めた。
今橋城の宣成との連携も上手く運ばず、宣成が城門を開けて兵を出そうとした頃には、援軍が敗走を始めていた。こうなっては宣成も城外に打って出ることもできず、甥御の敗北を歯がみして眺めることしかできなかった。
尭光は追撃を必死に振り切って、田原城に入ったところでようやく我に返った。
手元に残った手勢はわずか三百まですり減っていた。
「あれれ。あれぇ?」
岡部元信もこの展開には困惑顔だった。
「いやいやいや。何で馬鹿正直に突っ込んでくるの? どう考えても罠でしょ?」
「最初から城攻めの布陣ではなかったのだが、それすら見抜けぬとはな」
「ねぇねぇお師匠。格好付けてるところ悪いんだけど、五子つまんない。もっと戸田侍をたくさん射殺しようよ、ぶーぶー」
「阿呆。鉄砲で同士撃ちする気か」
天野景泰は目を見張っていた。
何と鮮やかな戦運びだろうか。
最初の大事な一戦だというのに本陣を危険にさらすという博打のような一手を打ち、それなのに危なげなく野戦に勝利して兵の士気を鼓舞ししていた。これからの攻城戦が有利になるような流れを意図的に作っているのである。
これが本物の軍略なのかと、景泰は目が覚める思いだった。
「それにしても天野家の犬居勢は強いな。これなら城もすぐに落とせるだろう」
そう言って城攻めの布陣に変更している総大将の頼もしさに、景泰は心が晴れていくのを感じていた。
この大将ならば天野の兵をすり潰すことはないだろう。逆に、天野の名を天下に轟かせてくれるはずだ。
「さて、我らはこれから外構えを落とすことにするが、安芸守には少数の精鋭を率いて払暁に乗り入れて頂きたい」
「あ、五子が一番槍ね。ねぇ聞いてる?」
払暁とは朝方のことで、つまり城に奇襲をかけるということである。
今川の本軍が夜通しで城攻めを行い、敵兵に睡眠を取らせず、疲れ切ったところを景泰が攻めろということだろう。
敵将の戸田宣成も当然、今川軍がそれぐらいのことをしてくるのはわかっているだろうが、指揮官が気を張っていても、兵はそうではない。交代で休憩を取るという手段もあるが、果たしてこの今川軍の総大将がそれを許すだろうか。
「安芸守は百ほどの主力、つまり決死隊を温存しておき、我らが一の郭を落とした頃合いに――」
「すかさず一気に攻め落とすと?」
「いかにも」
「なるほど、理にかなっている」
景泰は頷いた。それから笑顔を浮かべる。
「武功は禅師と私で山分けですな」
「あのー。五子は? ねぇお師匠。五子は?」
皮算用をしてにやけ笑いを浮かべる景泰だったが、雪斎が同調して笑わないことが、かえって景泰の雪斎に対する信頼を増すことになった。
翌日、今橋城は陥落した。
払暁に天野景泰が本丸に突入し、一刻後には制圧が終わっていた。
昼前までは小規模な戦闘が起こっていたが、正午になると抵抗は完全に収束した。
本格的に城攻めに取りかかってから、たった一日のことである。
今川軍はそこまで強いのかと、三河の諸将は震え上がった。
戸田宣成は城内で自害した。首は家臣が密かに持ち去り、戸田尭光に届けられた。
尭光は叔父の首を見て号泣していたが、悲しむ間もなく今川軍が瀬木城に迫っているという報告が入ってきた。
瀬木城は今橋城の支城で、籠っている兵も少ない。
わずかな守備隊がいるだけだったため抵抗は無意味だった。今川の軍使を受け入れて降伏開城することになり、城から退去した兵が仁連木城に移動したのだが、間もなく仁連木城が今川軍に包囲されたという。
つまり、瀬木城の兵は今川軍の道案内をさせられたのだ。
仁連木城は尭光の弟である戸田宣光が守っていたが、今川軍が城に接近すると逃亡兵が相次ぎ、やむなく宣光は城を捨てて田原城に逃げ込んだ。
今川軍が本拠の田原城に押し寄せるのも時間の問題だった。
これほど世の無常を感じさせることが他にあるだろうか。
松平清康や北条早雲すら警戒させた戸田家が、わずか三日で三河から追い出されようとしているのである。
渥美半島の失陥は目前に迫っていた。
水軍で尾張に逃げれば、この地には戻れなくなるだろう。海に逃げるという策は、敵軍が引き上げることを前提にしているのだ。大国の今川家が新領地を守るために兵を送り込んできたら、戸田家にはもう打てる手はなくなるのである。
「……もはや、これまでか」
戸田尭光は憔悴し切っていた。
後見人の父親は尾張に向かっており、頼れる叔父は今川に殺されている。
頼りになる身内がいない中で一族の命運を左右する決断を強いられ、年若い当主は精神的に追い詰められていた。
「今橋城一つで手打ちにしておけばよかったのか。私は暗愚だな。歴代の当主たちに顔向けができぬ。できるならこの場で腹を切ってしまいたいが、そうはいかぬのが当主の務めか」
尭光は今川家に使者を出した。
降伏開城と引き替えに、尾張への退去を妨害しないことを約束させると、尭光は城を引き払って船に乗った。
◇
東三河の領主たちは今川家の二千の兵が張り子の虎ではないことを確信すると、大慌てで巣穴から飛び出してきた。
まずやってきたのが伊奈城の本多隼人佑忠俊である。
この一族は本多家で最も有名になった本多忠勝とは別の家である。
「我ら伊奈の本多は一族を上げて今川家にお味方致す!」
豪快な声だった。
ざんばらな髪を適当に結っており、古めかしい鎧をまとった四十前の女である。
本多忠俊は三河の武闘派として名が知られていた。
「これは俺の息子の光忠、光典。従弟の重正、その娘の重次だ。いずれも剛の者だぞ。上手く使ってやってくれ」
俺は内心でうめき声を上げた。
よりにもよって一人称が『俺』である。これは女傑だった。
居並ぶ武将たちも、忠俊の気の強さを揃って受け継いでいるようだ。
中でもこの場にいる本多重次は、史実では『鬼作左』と呼ばれる人物である。目付きが悪く、頬に大きな傷跡がある少女だった。
それから菅沼織部正定村がやってきた。これは定村と書いて『さだすえ』と読む。
田峯菅沼家の分家である野田菅沼家の者で、織部正(おりべのかみ)を名乗っていた。
定村は先に到着していた本多忠俊を見つけると、先を越されたかと悔しげな顔をした。
ただし、定村には忠俊とは違う点があった。
「人質として娘を連れて参りました。どうぞ、お好きに使ってやって下さい」
「菅沼織部正の娘、定盈と申します」
無言で頭を下げたのは短い黒髪の少女である。意志の強そうな瞳をしており、俺のことを値踏みするように見ていた。
少女は定村の娘で、名を定盈(さだみつ)という。
年齢は十代前半で、小学生のような身体の小ささだった。女性らしい着物など着ておらず、茶色い具足を身にまとっている。
……武装した女の子の人質か。どう扱えばいいんだ、これは。
「有り難い申し出です。丁重にお預かり致します」
俺が社交辞令で誤魔化してみると、菅沼定村はそれで満足したようだ。本多忠俊に得意げな顔を向け、悔しげな顔をさせている。
「ぐぬぬ、やりおるな、織部殿」
「一番に到着した隼人佑殿には及びませぬよ」
「褒めておるのだ。素直に喜んでおけ」
「喜んでおりますとも。その目は節穴ですか」
こいつらは何を競い合っているんだ。
これが三河人の気質なのだろう。相手の気持ちを考えずに、思いのままに感情を吐き出してしまう。なるほど、阿部定吉が異端視されるわけだ。
それから野田菅沼家の到着には他にも副産物があった。
野田菅沼家と昵懇の間柄である西郷家と設楽家も菅沼定村に同行しており、定村と一緒に恭順したのである。ちなみに西郷家の当主である西郷正勝は菅沼定村の姉を娶っており、定村と正勝は義兄弟になる。
もちろん今川家に臣従している鵜殿長照、長持の父子も顔を出していたが、鵜殿家はあらかじめ軍役免除の書状を受け取っており、軍を率いての来訪ではなかった。こちらが恐縮するほど挨拶されてから領地に戻って貰っている。
鵜殿長照は出陣したがっていたが、今回は我慢して貰った。鵜殿家の領地は松平家や織田家の壁となる位置にあり、西側の見張りのため動かしたくないのだ。西三河に攻め込む時には嫌でも活躍して貰うが、今回はお留守番である。
続々と集結する東三河の諸将に、岡部元信は白けた目を向けた。
「うわー。ないわー。強きになびくって言っても、こうなると恥知らずじゃね?」
居並ぶ諸将の反感を買いそうな岡部元信の言葉だったが、東三河の者たちは苦笑気味だった。竹を割ったような元信の性格は、三河人とは相性がいいらしい。
これが小勢力の生存戦略である。一概に馬鹿にすることはできない。史実の岡部家も今川家が衰退した後は、武田家に身を寄せることになるのである。最後まで今川家に忠誠を捧げたのは朝比奈泰朝ぐらいだった。
ここで今川家の顔色を窺いに来た者は、まだ時勢を見るだけの目があった。
問題はこの期に及んでも城に引きこもっている者である。台風が過ぎ去るのを家の中でじっと我慢しているつもりなのだろうか。
この台風はちっぽけ家など吹き飛ばす威力があるのだが。
「次はどこを攻めるの? まさか、これで解散ってことはないよね?」
「当然だ。この場にいない東三河衆を征伐しなければならんからな」
元信の質問に答えると、場の空気が凍り付いた。
「それは長篠や田峯のことでしょうか?」
菅沼定村が不安げに声を出す。
どちらも菅沼一族である。田峯が本家で、長篠と野田が分家だ。
今川に味方することを約束した菅沼定村だったが、流石にいきなり同族を攻めるのは気が進まないらしい。
「織部殿の気持ちはよくわかる。なればこそ、先鋒は俺たち本多にお任せあれ!」
すかさず本多忠俊が大声を上げた。
自分を売り込むのに必死になっている忠俊だが、不思議と見ている者に見苦しさを感じさせない。カラッとした気持ちのよさを感じさせる女だった。
「いいえ、隼人佑様。それには及びません」
口を挟んだのは小柄な少女――定村が連れてきた娘だった。
「同族と戦うことすらできぬ輩が、どうして今川治部大輔様の信頼を得ることができるのでしょうか。ここは野田勢が先鋒となって長篠を攻め滅ぼし、改めて野田の誠意を雪斎禅師に示すべきです。そうではありませんか、父上」
「……う、うむ、そ、そうだな」
俺はしどろもどろになっている菅沼定村ではなく、淡々と持論を展開している小柄な少女――菅沼定盈をじっと眺めた。
表情がぴくりとも動いていない。
小さな女の子が気を張っている――と言うには少し違う感じだった。
この娘は何歳なのだろう。
十歳を少し過ぎたぐらいの年齢なのに、しっかりとしたものだ。
それなのにうちの姫は――いや、考えるのはやめておこう。悲しくなってくる。
「加えて野田勢は設楽郡の地理に明るいです。今川軍の道案内もこなせます」
「いいや、小娘。先に大将殿にご挨拶したのはこの俺だ! 早い者順ならば俺が先だろう!」
「笑止。順番などに何の意味があるのです。私の父上は長篠城に何度か足を運んだことがあり、城の構造も熟知しております。合理的に考えれば、私たち野田が選ばれるのは必然であると言えるでしょう」
「……いや、熟知しているほどでは」
「ふんっ! 大口を叩いたものだな! そこまで言うならやってみるがいい!」
本多忠俊が腕組みをして鼻を鳴らしている。
一方、菅沼定盈は無表情ながらドヤ顔っぽい雰囲気を出していた。なお少女の父親は落ち着きのない目をしている。
本当にこいつらに任せて大丈夫なのだろうか。
今川軍は伊奈街道を北上して設楽郡に入った。
まずは野田菅沼家の野田城を通り過ぎる。ここからは長篠菅沼家の勢力範囲だった。行軍中に奇襲されることを警戒して物見を増やし――物見からの報告を聞いた俺は全軍に号令を放って行軍を止めた。
何という間の悪さだ。
しばらく待っていると前方から五騎ほどの武者がやって来る。
「我らは長篠の者である!」
菅沼貞景、正貞の親子だった。
「今頃になって、どの面を下げてやって来たのか!」
「我らは一戦仕る覚悟で馳せ参じたのだ! 貴様らも城に戻って戦支度をするがよい!」
本多忠俊が怒鳴り付けると、その意をくみ取った本多重次が馬をぶつける勢いで前に出し、唾がかかる距離で罵った。
機転が利いている。それだけで伊奈の本多がやり手なのは充分にわかった。
「禅師」
人質として預かっていた少女、菅沼定盈が無表情を俺に向ける。
「長篠城は堅城です」
「そうだな」
俺は頷いた。
長篠城は豊川と宇連川が交わる断崖上にあり、おまけに山城である。
別所街道に沿っているが、奥三河に至る街道を掌握する必要はあまり感じない。沿岸部でもあるまいし、わざわざ今川家が直接支配するほどの土地ではなかった。
「本多殿には悪いが、長篠からは人質を取って先に進むとしよう」
「それでよろしいと思います」
定盈はすまし顔で頷いた。
「えー」
文句を上げたのは岡部元信。
「せっかく三河まで来たのに、ぜんっぜん戦できてないじゃん! 戦ったのは天野のおじさんだけだし! 五子もっと戦いたい!」
「岡部様」
鉄面皮少女に声をかけられ、フリーダム小娘はビクリと震えた。
「小さいです」
「え、なに? 私の胸のこと?」
元信のふざけた返答に、定盈は一瞬白けた目をしたが、すぐに無表情に戻った。
「長篠菅沼家など今川家にとっては取るに足らないものではありませんか。そのような小者をいちいち殺し回って喜んでいるようでは今川家の程度が知れますよ」
「……なに? 喧嘩売ってんの? 買うよ。五子買っちゃうよ?」
「そこまでにしておけ」
このままだと元信が手を出しそうだったので、口を挟ませて貰う。
と言うか元信って喧嘩ばかりしている気がする。
三河人とは相性がいいと思っていたが、定盈は他の三河人とは毛色が違うようだ。
「雪斎禅師。ですが――」
「犬には犬の生き方がある。理解しろとは言わんが、放っておいてやれ」
「え? あれ? 五子もしかして馬鹿にされてる?」
「犬ならば躾が必要です。飼い主に手を噛む恐れもあるのですから」
「躾なら今やっている。犬とは構って貰いたいから騒がしくするのだ。放っておけばいずれ静かになるものだ」
「いや、あの、お師匠。ちょっと待ってよ! 五子、犬じゃないよ! 美少女だよ!」
定盈はどこか満足げに頷いた。
「それでよろしいと思います」
何がよろしいのかよくわからなかったが、元信がうるさくて追求できなかった。
さて、長篠菅沼家が挨拶にやってきたわけだが、菅沼の本家である田峯菅沼家は一向に姿を現さない。同じく奥平家もまだだった。
そこで俺は楯岡道順に命じて奥平の情報を集めさせた。
概略が届いたのは二日後のことだ。
「奥平家は二つに割れているようでございますです」
「貞勝と貞能か」
「親子で争うのは伊賀でもよくあることなのですよ。どちらかが生き残れば家名が残せるのです。ですが奥平にそのような考えはなさそうでございますですよ」
「……うむ」
道順の巨乳が大きく揺れる。
無垢な顔をしているが、仏の弟子を誘惑する魔性の娘だった。
たしか奥平家は史実では武田家が侵攻してきた時も、家中が二つに割れたのだったか。
「奥平貞勝を廃して、貞能を操るとするか」
何にせよ奥平家も屈服させておくべきだろう。この一族は花倉の乱の際、遠江に攻め込む気配を見せていたのだから。
「調略でございますですか」
「話が早いな。頼めるか」
「はい。勿論なのですよ」
「東三河衆に文を書かせる。申の刻に取りに来るように」
「承知しましたのです」
道順が音もなく消える。あの気弱そうなおっぱい忍者も今では伊賀衆筆頭だなと思いながら、俺は東三河の諸将を集めることにした。
議題に乗せるのは奥平家と田峯菅沼家のことだ。無論、征伐するか否かを議論するためである。不服そうな顔をする者は一人もいない。長篠で肩すかしを食らって気が抜けているかもしれないと心配していたが、戦の熱気はまだ引いていないようだ。
「今度こそ先陣は俺たちにお任せ下され!」
「いいえ。長篠で戦えなかった分、次こそは野田が先手を担うべきです」
菅沼定盈と本多忠俊だった。
なお菅沼定村は力のない笑みを浮かべて状況を見守っている。当主は彼なのだが、果たしてそれでいいのだろうか。
ともあれ俺は思案した。
今川軍は渥美半島の守備に三百人の駿河衆を置いてきていた。現在の今川軍は天野家だけと言っても過言ではなかった。しかし東三河衆を糾合したため、兵数は四千人近くまでふくれ上がっている。
「本多殿には日近城を攻めて頂く」
「総大将殿のご命令とあらば否やはありませぬ! 俺たち伊奈本多家の力、その目をかっぽじってご覧くだされ!」
忠俊の大音声に、耳がキンキンする。女傑だな。
それから俺はどこか不満そうな定盈に声をかけた。
「奥平の本城である作手城を攻める際には、野田、西郷、設楽で一軍を形成し、先陣を担って頂きたい」
「あっ、か、必ずや、奥平を打ち倒してご覧にいれます」
定盈の無表情が一瞬だけ崩れて年相応の幼さが現れるが、すぐに元に戻ってしまった。
今川軍を発見したのは日近城の奥平貞直だった。
貞直は当主である奥平貞勝の弟である。
「大変なことになった!」
奥平家は今川に従うべきか否かで議論していたが、もはやそういうことを議論している状況ではなくなってしまったのである。
貞直は日近城を飛び出すと、奥平の本家がある作手城に急報を知らせた。
なお、日近城は貞直が留守の間に本多忠俊に攻められて落城している。
「我らが織田に通じようとしていることが露見したか」
うなり声を上げたのは奥平貞勝である。
奥平は落ち目の松平家を見限って独立しているが、貞勝は「三河はいずれ織田弾正忠のものになろう」と見込み、ひそかに誼を通じようとしていた。今川はそれに気付き、奥平が織田に染まるのを阻止しようとしているのかもしれない。
いずれにしろ四千人の軍が迫っているのである。
「今川に攻められれば、奥平は滅びます。ここは今川に頭を下げておくべきです」
「いや」
息子の貞能が冷や汗を垂らしながら進言するが、貞勝は首を横に振った。
「今川は戸田から城を取り上げたのだ。一つや二つではない。渥美郡の城すべてだぞ」
「存じております。それが何か?」
「今川は強欲よ。我らの城もすべて奪い取ろうとするはずだ」
「父上。そうして強情を張ったからこそ、戸田は三河から追い出されたのではないですか。城一つを差し出してでも降伏するべきです。我らは戸田と違い、他国に領地を持っていないのですから」
「……お主、よもや今川に通じているのではあるまいな」
「それならよかったのですが」
貞勝は眉をひそめた。
すでに今川家と密約ができていれば奥平が滅ぶことはないだろうが、そうではないと言うことか。ふてぶてしい言い草だが、それぐらい頭が回らなければ奥平の次の当主は任せられないと言うことだ。
「我らだけでは今川と対決することはできん。急ぎ田峯に使いを出せ」
貞勝は織田家にすり寄る際に、奥平単独では相手にされないかもしれないと思い、田峯の菅沼定継に声をかけていた。ちなみに定継の妹は奥平貞勝の室に入っており、両家は縁戚関係にあった。
田峯勢を含めても千五百人にしかならず、四千人の今川軍と戦うにはいかにも心許ない数ではあるが、ないよりマシだった。
奥平家は作手城で籠城した。
支城が次々に今川軍に陥落させられていく報告が舞い込んでいる。しかし貞勝はそれを歯がみしながら見ていることしかできない。戦力を分散して各個撃破されるよりも、一つの城に集結して迎え撃つのが正しいのだと何度も自分に言い聞かせていた。
――まずは半年、耐えてみよう。
長引けば織田が助けに来てくれるか、武田が駿河を攻めてくれるかもしれない。あるいは奥平が勇気を奮って抵抗を続けることで、三河人たちの意識が目覚め、他国人に侵略されていることに反感を抱いてくれるかもしれない。
敵は烏合の衆である。
半数は東三河の兵であり、奥平と彼らは同郷だ。この戦は血縁関係が多い。貞勝の妹が野田の先代である定則に嫁いでいる関係で、貞勝と定村は親戚同士であり、他にも田峯の定継と野田の定村は父親が兄弟であるため、この二人も従兄である。
こう書くとわけがわからなくなるが、とにかく血縁者が多いのである。
城攻めが続けば東三河衆の心が今川から離れてくれるのではないか。
同族同士の争いなど戦国時代の常なのだが、貞勝は自分を慰めるために言い聞かせた。
いよいよ今川軍が作手城に押し寄せてきた。
まずは野田家の者が鏑矢を城に目がけて打ち込んだ。見事に飛んでいく矢に「あっぱれ」という声が敵味方からわき上がる。
作手城からも同じように鏑矢が返されると、今川勢が大声を上げながら一斉に作手城に攻めかかってきた。先頭にいるのは野田の菅沼だ。
貞勝は半年の籠城戦を計画していた。支城から兵をかき集め、備蓄してあった兵糧もすべて作手城に集中し、一年は食っていけるだけの体勢を整えていた。
その目論見は初日に外された。
野田勢は矢盾を抱えてじっくりと押し寄せてくる。まずは様子見のために距離を詰めようとしているのだろう。
貞勝は訝しげな顔をした。今橋城を攻める時は、援軍を叩き潰して城兵の士気を下げてから、払暁に一気に攻め込んで城を落とした。それは城攻めの手本とすべき見事さであったのに、これはどういうことか。
ありきたりな普通の城攻めである。今川の大将ならもっと手の込んだ戦をするように思えるのだが、貞勝の考えすぎだろうか。
あるいは総大将が変わったのだろうか。
そう思いながら敵勢を眺めていた貞勝は、城門側から上がってきた悲鳴を耳にした。
瞬間、目を見開いた。
「城門の閂(かんぬき)がなくなっている!」
貞勝の声が届いたわけではないだろうが、異変に気付いた近くの者が機転を利かせて持っていた槍を差し込んで閂の代わりにしようとした。しかし城門に押し寄せた敵が数人がかりで押し出すと、無残にも槍は折れて、敵軍を迎え入れ始めた。
「内通者か!? まさか、貞能が!?」
「拙者はここにおりますよ、父上。まぁ、内通であるのは間違いないでしょうが」
「どうしてそれがわかるのだ!」
貞能は嘆息すると、気だるげに指を向けた。
槍で城門を閉じようとした兵が、死体になって倒れている。
「背中を切られています。果たして敵の侵入を阻止しようとした者が、敵に背を向けるでしょうか」
「……味方に斬られたのか」
「この戦場では血縁者が敵味方に分かれて戦ってます。父上はそれによる東三河衆の離反を期待していたようですが、逆に言えば敵の調略の手も伸びやすいということです」
「……まさか。このようなことが」
初日にして二の丸は敵に奪われ、いきなり本丸が狙われることになった。
貞勝は茫然としており、次の手が打てないでいる。
それを眺めていた貞能は、初めて父親に失望感を抱いてしまった。
奥平貞勝は松平清康に従い、多くの武功を上げてきた男である。貞能はそんな父をひそかに尊敬していたのだ。
だが、この無様な姿は何だ。これが憧れていた父か。
人を見限るということは、こういうことなのかと、腑に落ちるような感覚だった。まだまだ打てる手は残っているのに、どうしてこの人はそれをしないのだろうと呆れてしまったのである。
例えば奥平家は曹洞宗だったが、改宗を餌にして三河の本猫寺から援軍を引き出せばいいのだ。もっとも、貞能は本猫寺の教えに抵抗を覚えていたので、それを父に教えることはしないのだが。大体お猫さまってなんだ。
「父上。兵たちが動揺しております。この分だと夜中に逃げ出す者が出てくるでしょう」
貞勝は何も答えなかった。
結局、奥平家は十日間の籠城を行ったが、内通や逃亡が相次いで、最終的に隣にいる者すら信用できない状況になった。貞勝はにわかに沸き上がった降伏論を押さえることができなくなり、十一日目に開城した。
降伏の使者は貞能が行った。
奥平貞勝は隠居させられ、当主になった貞能は息子を人質に差し出すことになった。
こうして奥平と田峯が今川に屈服することになった。
東三河は完全に今川一色に染まることになったのである。