今川義元の野望(仮)   作:二見健

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2.今川家の教育者

 今川仮名目録とはどのようなものだったのか。

 

 戦国時代に今川氏親によって制定された分国法であり、今川家の領国経営は仮名目録に則って行われていた。武田家の分国法である『甲州法度之次第』にも多大な影響を与え(と言うか半分コピペってる)、北条家や織田家も仮名目録を参考にしたという。

 

 内容は大雑把に言えば大名家の運用マニュアルだ。

 細かく述べると土地の裁定、家臣の義務、借金や利息の制限、宗教法、スパイ防止法である。現代人にとってはごく当たり前のことしか書かれていないが、この時代においては開明的な法律だった。

 

「これを読むだけで、大殿がどれだけ優秀かわかるだろう」

 

 俺は仮名目録の巻物を机に広げていた。

 現代人にとっては暗号のごとき草書体も、俺にはもう慣れたものだった。

 

「……さ、三十三条もあるんですの? えっと、一日一条ならば一ヶ月かければ」

 

「一日で覚えろとは言わんが、一週間で頭に叩き込め。あと明日は難太平記の講釈をするので、今晩はその予習に充てるように」

 

「あわわわわっ。わらわは体調が……」

 

 青ざめて額に手を当ててふらついている菊姫がいた。

 

「『わらわ』は止めよと言っただろうが」

 

「『わたくし』でしたごめんなさい!」

 

 菊姫の手の甲を、教鞭でペシンと叩く。

 

「うぅ……いくら何でも厳しすぎます……おーほほ……ほほ……」

 

「私の指導を求めたのは姫の方からだろう。要らぬと言うなら去るまでのことだが」

 

 菊姫のキャラ付けである高笑いにも力がない。

 

 嫁入りは嫌だ、出家も嫌だという菊姫。

 

 いざ戦国大名に――と言うほどの野心はないようだが、実力さえあれば家臣から侮られることもなくなり、自分の意志を通すこともできる。

 

 菊姫はそれにすがって努力している最中だった。もっとも性根は軟弱にもほどがあったが、それは言わぬが華だろう。

 

「あの姫さまが活字に目を通しておられるなんて、氏広は感無量です。しくしく」

 

 涙腺を崩壊させているのは関口刑部少輔氏広。官位の刑部少輔は関口家の当主が代々名乗っているもので、今川氏親から受領したという形式になっている。と言っても正式に任官されたものではなく、戦国時代に流行った自称官位でしかない。

 

 ちなみに氏広は瀬名家から関口家に養子入りしていた。

 瀬名と関口、どちらも今川一門なので肩身の狭い思いはしていないようだ。

 

「ところで九英承菊様。難太平記とはどのようなものですか?」

 

 氏広に問われ、俺は仮名目録の巻物を閉じると、別のものを広げた。

 

「著者は遠江今川家の祖、今川了俊。尊氏公の御世、九州探題に就任し、かの地の南朝方をことごとく殲滅なされた御方だ」

 

 南北朝時代、今川宗家の弟に優れた人物が現われた。

 だがその子孫である堀越や瀬名は今や勢いを失い、今川の一門として存続しているだけである。まさしく盛者必衰だった。

 

「書の内容は今川家の歴史書で、今川視点から書かれた太平記とも言える」

 

「太平記とは何ですの?」

 

「……南北朝時代のことを書いた軍記物だ」

 

 わざわざそこから説明しなければならないのかと若干げんなりする。が、小首を傾げている姫が可愛かったので許した。

 

「それにしても、なぜ今さら今川家の歴史書を読まないといけませんの? わたくしは今川の姫ですのよ? 流れている血の高貴さは他でもないわたくしが最も心得ておりますわ。おーっほっ――」

 

「説明するまでもないだろうが、今川は吉良の分家であり、征夷大将軍になれる家柄だ」

 

「……ほ?」

 

「うわぁ。あの姫さまの高笑いを止めてしまいましたよ」

 

「今川家が管領や執事などの幕府の役職に就かなかったのは、今川家が足利家の継承権を有していたからである。幕府の役職は家臣のもので、足利一族のものではないのだ」

 

「……それは、つまり」

 

 菊姫は扇子を握り締めた。震えそうになる手を押さえ付けていた。

 

「今川には、名分があるのですわね?」

 

「左様」

 

 俺は頷いた。

 

 愚鈍な少女の中で、何かが広がり始めていた。それは夢だ。誰もが夢想し、無理だと笑って諦める夢だ。

 

 少女は夢を見ている。天下に号令をかける夢である。

 

 さて、どうなるか。俺は内心でほくそ笑む。並みの者なら怖じ気づくのだろうが、この姫はどうなるのだろう。

 

「流石はわらわ! よもや将軍の血が流れていたなんて、これは盲点でしたわ! わらわの高貴な血筋に全国の諸侯が跪くのも夢ではないと言うことですわね! おーっほっほっほっ!」

 

「わらわは止めい! 鬱陶しい!」

 

 やはり阿呆か。

 俺は教鞭でペチペチと菊姫を叩いた。菊姫は「ぴぎぃ!」と奇妙な鳴き声を上げながら、逃げようとして着物の裾を踏み、盛大にすっ転んでいた。

 

 ゴロゴロと転がる残念娘に、俺と氏広が溜息を吐いたのは同時だった。

 

 

 

 

    ◇

 

 

 

 

 菊姫へのスパルタ教育を始めてから二ヶ月が経った。

 

 当初はすぐに辞めるだろうと思われ、哀れみの視線を向けられていたが、今やそれは驚愕に変わっている。菊姫がうつけだということは家中でも秘されていたはずなのだが、人の口に戸は立てられないと言うことか。水面下で噂は広まっていたようだ。

 

「貴殿は駿河一! いや、天下一の教育者である!」

 

 と感激した氏親から感状を貰ってしまった。こんな紙切れをどうしろと。

 

 その噂もすでに広まっていたようで。

 

「どうか九英承菊殿に、わが愚息の頭を叩き直して頂きたい」

 

 岡部久綱という男がいる。

 今川家の譜代家老であり、岡部左京進家の当主だった。岡部家は久綱の祖父の代で枝分かれしており、今川家では岡部本家と岡部左京進家の二つが厚遇されている。

 

 見たところ、武人のようだった。

 駿河先方衆(旗本)の一人であり、言わば氏親の近衛兵である。遠江平定でも槍働きをしていたのだろう。

 

 竹を割った性格の武人にしか見えないが、万が一のこともある。俺は目を細めた。

 

「真意をお教えいただけませんか」

 

「真意とは?」

 

「五郎兵衛殿に拙僧の教えが必要とは思えないのです」

 

「うちの五郎をご存じであったか! 一家臣に過ぎぬ拙者の娘を存じておるとは、感服仕った! もはや貴殿の他に娘を託す相手は考えられませぬ!」

 

 誤解されそうな言い方をする久綱に、俺は頬を引きつらせる。

 

 押し出しの強い男だった。こういう人物には回りくどい言い方をしても伝わらないだろうし、伝わったとしても嫌悪されかねない。もう直接言うしかなさそうだ。

 

「端的に申します。私は久綱殿のご子息が、間諜の類でないかと疑っているのです」

 

「……今、何と?」

 

 冷や水を浴びせられたように久綱は喜色を消して、怒りに震えた。

 

 無粋な物言いをしてしまった。しかし念を入れておかなければならない場面である。油断すれば報いは流血としてやって来る。それが権力者の定めだった。

 

「菊姫がうつけでなくなれば不都合が生じる方々もございましょう」

 

「いや、まぁ、それはそうだ。なるほど。九英承菊殿の仰りたいことは理解できた。だがなぁ」

 

「まだ理解が足りません。久綱殿がご子息を私に託すということは、岡部が菊姫の後見になると思われかねない。いいえ。十中八九、そのように受け止められるでしょう」

 

「……不都合があるのかね」

 

「不都合です。こちらも、岡部にも。そして長子相続を方針にしている氏親様にとっても」

 

「……そうか」

 

 主君の名前を出され、久綱は意気消沈した。

 将来のために岡部を味方に付けておく機会だったが、家中の反感を買ってまですることではない。

 

 そもそも史実では今川義元は出家しているのだ。

 

 長男と次男が病死し、出家していた側室の息子が当主になろうとして、ようやく担ぎ出されたのが今川義元である。

 

 ここは俺の知っている歴史とは違う。それを認識しておかなければ、舵取りを誤った船のように転覆してしまう。

 

 何事においても慎重に、だ。

 

 そう思っていたのだ。……それでもまだ甘かったのだろう。

 

 今川館の城下にある武家屋敷が俺の自宅だった。

 

「九英承菊様の世話係を命じられました! 五子(いつこ)でーす!」

 

 なんか部屋にいた。

 

 無言で戸を閉めて、隣の屋敷の門戸を叩く。

 

「うーっす。どなったっスか……って、隣の坊さんじゃねーっスか」

 

 出て来たのは三下口調の少年だった。

 

 三浦家宿老、三浦範時の三男である三浦氏満だ。三男なので影が薄く、重臣の息子なのに無役のニートである。以前「いや俺やればできるし。こう見えて北条早雲の孫だし」と言っていたが、その場にいた兄に「俺もだっつーの!」と殴られていた。

 

「なんなんスか? 俺、脳内で槍の稽古をしていたんスけど」

 

「いや、部屋に変な生き物がいてな」

 

「ああ。台所に出て来る黒いアレっスか? お坊さん、意外と女々しいんスね」

 

 俺は氏満の顎先にアッパーカットを放った。

 梃子の原理で頭蓋骨がシェイクされ、脳みそがぷるぷるすると脳震盪を起こす。意識があるのに身体が動かない状態になるのである。

 

 俺は氏満を引きずって自宅に戻る。

 

「どうも五子でーす! 炊事も洗濯もできませーん! あ、お腹が空いたのでご飯を作ってくれませんか?」

 

 俺はその奇妙な生き物を指さした。

 

「これ、何?」

 

「ああ、岡部のところの娘さんっスよ。なんスか? まぁ見た目だけは綺麗どころではありますけど、あんなの囲ってるんスか? 坊さんって意外と面食いだったり? いや、坊主だから禁欲するべきなんスよね? あ、ちょ、待って、いま手を離されたら頭ぶつけるって、ほんと冗談はやめ――」

 

 軽口を叩き始めた氏満を外に捨てると、俺はそれに目を戻した。

 

 見た目は美少女である。

 茶髪ポニーの小リス系で、年のほどは十二歳ぐらいだろうか。笑うと八重歯が目立つ娘である

 

「何のつもりだ、岡部五郎」

 

「やだなぁ。岡部五郎なんて五子は知らないですよ。五子はお奉行さまに命じられてお坊さまのお世話をさせていただく町娘なのです」

 

 町娘のような安っぽい着流しを着ている。おそらくは古着屋で調達してきたのだろう。

 着物の袖をまくって半袖にしており、何がしたいのだろうか、シャモジで空っぽの鍋をガンガン殴っている。たぶんメシの催促だ。居候にあるまじき図太さである。

 

 あと腰帯に太刀を差していた。この時点でお忍びは破綻している。こんな町娘がいてたまるか。

 

「特技は五人張りの大弓を引くことです! ひゃっはー!」

 

 どこの鎮西八郎だ。こんな町娘がいてたまるか。

 

 こうして強制的に岡部五郎兵衛元信あらため、改名して岡部五子元信になった少女が俺のところに押しかけてきたのだった。

 

 岡部久綱、武人らしい力業(ゴリ押し)である。なんだこれ。マジでなにこれ。

 

 

 

 

    ◇

 

 

 

 

 俺は坊主である。

 と言っても頭髪は剃っていない。ハゲではない。ハゲではないのだよ。

 

 裏技というか何と言うか、頭巾を被っていればオッケーのようなのだ。実際のところ毎日ツルツルにするのは面倒だったため、いわゆるスポーツ刈りのお坊さんは結構多かった。色々理屈を付けて妻帯している浄土真宗の連中と比べれば、これぐらいは勘弁して貰えると思う。たぶん。

 

 そう言えば、本願寺。

 戦国時代に大名クラスの力を有していた織田信長の宿敵だが、この世界では『本猫寺』になっていた。戦乱に厭いた人々が癒しを求めてお猫様を崇拝しているらしい。意味がわからないが、そういうものである。納得してもしなくても本猫寺は存在しているのだ。

 

 話を変えよう。

 

 朝、俺の目覚めは日の出と共に始まる。

 この時代では特に早起きではない。百姓も農作業のためにこの時間に起き出している。代わりに就寝時間も早いのだが。

 俺は寝間着の浴衣から黒い法衣に着替えると寝室を出た。

 

 足は隣の部屋に向く。そこは仏間である。

 仏間には何もない。以前説明したように禅宗では仏像は不要なのだ。

 

「うぅ、超ねみぃ。五子でーす。おはようございます、そしておやすみなさい。ぐーぐーぐー……」

 

 俺は無言で元信の足を払った。そのまま少女の背中を踏み付け、ぐりぐりすると悲鳴が上がる。

 

「うひぃぃ! おはようございます、お師匠! 今日も一日がんばりましょー!」

 

 なぜ朝から少女を折檻しなければならないのか。溜息の一つも吐きたくなる。

 この娘、放っておけば寝ながら歩くのである。寝ながら朝食を食べ、それから二度寝しようとする。

 

「五子は禅宗ってかたっ苦しくてあまり好きじゃなんだけどなー……ってお師匠! なんで棒を握り締めてるの!?」

 

「雑念は叩いて外に出すものだ」

 

「はい五子なにも考えません! 雑念って何それおいしいの? もう今の五子は無我の境地に達してるね!」

 

「解脱しているならもはや痛みを感じることもあるまい。叩くぞ」

 

「ひぃぃぃぃっ! 何があっても叩くつもりなんですねお師匠!?」

 

 ごたごたの後。

 香炉に抹香を放り込み、おつとめの最初に読むのは開経偈(かいきょうげ)である。ゆっくりと喉の調子を整えながら読み上げると、次に般若心経を広げた。

 

 それが終われば屋敷の掃除である。

 

 井戸水を桶に張り、固く絞った雑巾であらゆるところを拭く。拭く。ひたすら拭く。もちろん元信にもやらせている。使用人にやらせることもできるが、これは禅宗の修行だった。屋敷を留守にする場合でなければ自らの手でやることを俺は自分に課していた。

 

 世話になった建仁寺で仕込まれた、おそらくは死ぬまで続ける習慣だった。

 

「ひゃっはー! メシだー!」

 

 掃除が終われば朝食の支度である。これから作るというのに喜んでいる馬鹿がいた。

 

 朝は一汁一菜が基本だったが、昨晩の残り物などで一品さらに増えることもあった。……はずなのだが居候のせいで残り物が出なくなっていた。

 

 小さい身体のくせに大量の米をかきこむ超高燃費娘である。全自動穀潰しだ。

 

「ごっはんー! おっにくー!」

 

 ハイテンションな馬鹿がいた。

 

 なんと今日は朝食に肉があった。隣の三浦家で飼育されていたニワトリである。お裾分けに来た三浦母がニートの就職先を求めているようだったので、それとなく戦場に出られるよう推挙しておくと伝えておいた。ニート涙目。

 

 ちなみに昔の日本では肉食は流行っていなかったという説もあるが、実際のところ労働力である牛馬でなければ何でも食っていた。美味なものは猪、鹿、鴨、兎などである。熊、狸、リスも食う。でも薩摩で有名な『えのころ飯』は勘弁な。

 

 朝食の後片付けをしてからは自由時間だ。手紙のやり取りをするために書き物をしたり、その日の菊姫への指導内容をまとめ直したりする。手が空けば座禅を組んで読経した。

 

 頃合いになると、いよいよ今川館に登城するのだが。

 

 この日は玄関先で何者かが「御免」と声を張り上げて、激しく戸を叩いている。緊急の用事のようだった。

 

「何事か」

 

 玄関先に現われたのは伝令役の馬廻である。馬廻とは家臣の次男三男で構成されており、警備や伝令、事務仕事を任されている大名の側近であった。

 

「はっ。大殿からのご命令で一刻後に評定を行うため、九英承菊様は菊姫さまの後見として列席されたしとのことです」

 

「相分った。お役目ご苦労」

 

「然らばこれにて御免」

 

 馬廻りの少年は颯爽と走り去った。随分と涼しげな容貌をしているなと感心していると。

 

「五子に挨拶もしないなんて弟のくせに生意気だよ、ぷんぷん。去年まで寝小便をしていたのをみんなに言いふらしてやろうかな」

 

 もうバラしている。いとも容易く行われるえげつのない行為だった。

 

 あれが岡部久綱の息子、岡部忠兵衛貞綱らしい。重臣の子息だが馬廻りとして活躍しているという。思わず隣のニートと見比べてしまいそうだ。

 

 ともあれ一刻後である。

 

 時間的な余裕はほとんどない。事前に情報を仕入れておくことも、その情報を使って作戦を練ることも、根回しをすることもできないのである。

 

 いずれは諜報活動に力を入れなければならないと痛感する。だが第四子である菊姫に重要な役目が与えられるとは思えない。俺自身、出しゃばるつもりはなかった。今回も今川の一門として形だけ出席しておけと言うことなのだろう。

 

「師匠。今日のお勉強は?」

 

「城まで共をせよ。その後は勝手にするがよい」

 

「わーい! 朝からお肉が食べられたし、勉強もなくなったし、今日の五子は絶好調だよ!」

 

 登城までの所要時間は半刻ほどである。徒歩で四半刻、さらに姫の住居は三の丸の屋形にあり、面会までに四半刻かかっていた。合計で半刻だ。

 

「どれだけ待たせるつもりだ、馬鹿娘」

 

「すいません九英承菊様。でも姫さまは一応は女の子ですので、身だしなみに時間がかかるんですよ」

 

 ようやく姫が登場すると、思わず俺は苦言を漏らしてしまう。

 十二単の裾を持たされていた氏広が弁解するが、はっきり言って話にならなかった。緊急時だというのに面会するだけで四半刻もかかるというのは、もはや格式がどうこうと言えたものではない。

 

 俺の苛立ちに気付いている氏広は気まずそうだったが、空気が読めない菊姫はなぜか上機嫌である。

 

「本日の着物の柄は、わたくしの名前と同じ菊の花にしてみましたわ。……あ、あの。師匠はどう思いますか?」

 

「金地は趣味ではない。もっと落ち着いた色合いの方が……ではなく、お主は評定を何だと思っている」

 

 意見を求められたので見たままの感想を述べると、菊姫は「ががーん」と意気消沈していた。後半の俺の説教を聞き流すほどショックを受けているようだ。

 

「突然の呼び出し、氏広は何か聞き及んでいるか」

 

「さぁ。まだ何も」

 

 氏広は首をひねりつつ、だが言いたいことがあるらしく、そのまま言葉を続けた。

 

「遠江衆の子息が動き回っているみたいです」

 

 今川館に滞在している遠江国人の子息が、実家と連絡を取り合っている――という意味だった。

 

「朝比奈か」

 

「いえ」

 

 遠江朝比奈家は今川家の宿老である。

 遠江先方衆の筆頭であり、当主の朝比奈泰能は今川家の遠江戦略の重要人物だった。

 

 遠江に動きがあるなら、まず朝比奈が関わっているものだと考えたのだが、氏広は首を横に振った。

 

「福島か」

 

「証拠はありませんが」

 

 氏広は苦虫を噛み潰したような表情をする。

 

「えっと……お二人は一体何の話をしているんです? それよりも『この着物なら師匠の目を奪うこともできましょう』と絶賛していたのは、どこのどなたでしたか?」

 

「私ですけど空気読みましょうよ姫さま。これから評定が始まるんですから」

 

「お小遣い一年分で購入した加賀織物を、気になっていた殿方に酷評されたのですよ! これは切腹ものの失態ですわ!」

 

 ぽんこつ姫が何か言っていたが、俺と氏広はスルーした。この姫の扱いも慣れたものだった。

 

 

 

 

    ◇

 

 

 

 

 今川家にはトラウマがあった。それは『飯田河原の戦い』と呼ばれるものだった。

 

 今から十五年ほど前のこと。

 武田信虎が勢力を伸ばしていた頃、甲斐の豪族である大井家、今井家らが今川に助力を求めたのである。

 

 今川氏親は一万五千の兵を今川最強の武将、福島正成に預けて甲斐に乗り込んだ。福島正成は富田城、勝山城を陥落させながら北上し、武田の本拠である躑躅ヶ崎館の目前まで接近する。距離にしておよそ二百メートルのところまで押し寄せていたという。

 

 おまけに武田の兵はわずか二千のみ。まさしく武田存亡の危機である。

 

 武田信虎は偽兵を使って自軍を大きく見せながら、騎兵を使った機動戦で今川方と互角に渡り合った。今川軍は前哨戦で二百騎あまりを討ち取られるという敗北を喫する。それでも今川は大軍。一度の小さな敗北だけでは崩れず、福島正成は「敵は強い。各々さらに気を引き締めよ」と全軍に訓戒していた。

 

 その日、信虎のもとに長女が生まれたという報告が入った。後の武田信玄である。

 

 御曹司の誕生に武田軍の士気はにわかに上がり、戦況を膠着状態までもつれ込ませた。日中の戦いは引き分けに終わったが、深夜の夜襲によって今川軍は大混乱に陥り、またもや数百騎を失った。追撃されてさらに首を取られ、最終的に四千人の死者を出したのである。

 

 以後、福島家は今川家の主流から外され、武の要としての役割は朝比奈家に移されていった。

 福島正成は娘を氏親に嫁がせていたのだが、これが産んだ姫は出家させられている。福島家は政権の中枢から排除されたのである。

 

「どうか拙者に出陣の下知を! 此度こそは陸奥守の御首を上げてみせますゆえ!」

 

 その福島正成が今川氏親に嘆願していた。

 

 地に落ちた武名を取り戻すために、必死になっている老人である。頭髪は禿げ上がっていたが、肉体に衰えは感じられない。武将としての道を諦めていないことが、身体を見ればわかるほどだった。

 

「今さら何を言うのかと思えば。二十年前に切腹しておけばよかったのだ」

 

「残された一族のことを思えば、拙者一人が果てたところで無意味というものでございます」

 

「お主がいなければ福島を厚遇していただろうよ」

 

 リアルタイムで晩節を汚しまくってる老人に、氏親は鼻でせせら笑った。準一門への対応とは思えないほど二人の関係は冷え切っていた。

 

 周りの重臣たちは蚊帳の外に置かれ、ひそひそと内緒話を繰り広げている。

 

 俺は菊姫の後ろに正座し、退屈を持て余していた。

 

 周りを確認すると、氏親の両脇、最上段に宿老の三浦範高がいる。

 今川家では重要な役割を背負っていた家臣であり、史実では桶狭間の戦いでも三千人の別働隊を率いていたのだが、ゲームではこれっぽっちも出て来ない人物である。あと範高はニート氏満の祖父だった。

 

 もう一人の宿老は朝比奈泰能。

 立場上は今川家の長老格だが、泰能はまだ中年だった。福島に代わる武の要だ。

 

 この二人の宿老が氏親体制の両輪だった。

 

 それから関口、瀬名、堀越、蒲原などの一門衆が続き、氏親の息子である氏輝、氏豊が並ぶ。

 

 充分すぎるほどの人材がこの場にいたが、緊急の評定のためこれでもまだ大半が自分の領地にいる。すべての城主を呼び寄せれば如何ほどの数になるのか。評定の間から溢れ返りそうだ。

 

「で、一体何があったのですか?」

 

 扇子で口元を隠した菊姫が小声で話しかけてくる。

 どうやら先ほどの話をまったく聞いていなかったようだ。俺は溜息と一緒に答えた。

 

「武田が南下してきたのだ」

 

 甲斐源氏の嫡流、甲斐武田家。

 当主である武田陸奥守信虎は甲斐国内を牛耳っていた守護代の跡部氏を排除し、穴山や小山田を戦で破って従属させ、甲斐統一を成し遂げた守護大名である。

 

「武田がなぜ駿河に兵を出すのです? 大義名分はありませんわよ?」

 

「今川と武田は宿敵同士。名分などなくとも攻め込んでくるだろうが、あえて述べるなら扇谷上杉との同盟が理由になる」

 

「武蔵国にいる上杉がどうして関係するのです?」

 

「陸奥守信虎は上杉の娘を嫁にしている。婚姻同盟を結んでおるのだ。今、上杉は北条に城を奪われ続けている。北条と同盟を結んでいる今川は上杉の敵であり、武田の敵とも言える」

 

「……強引な」

 

 菊姫は呆れ果てていたが、俺も内心その通りだと思った。

 まぁ今川も甲斐に何度も侵攻しているのだ。大義名分など今さらである。

 

 武田侵攻の報が入ったのが今朝方である。

 南下してきたのは二千人の小勢だが、すでに国境にある大宮城が包囲されているという。知らせを持ってきたのは大宮城主の富士家からの伝令で、すぐに救援を出して欲しいとのこと。

 

 氏親が重臣たちと協議を行っていると、独自に情報をつかんだ福島正成が領地の兵を呼び寄せようとしていることが発覚。これは謀反と疑われかねない暴挙だった。

 

 氏親は福島正成の行いを止めさせるために城下にいた家臣を集めて合議を行い、数の暴力で封じ込めるつもりのようだ。

 

「ともあれ武田は駿河衆で迎撃する。お主は遠江で高天神城を守っておれ」

 

 氏親と正成の話も一段落したようだ。

 正成は平伏していたが、握り締めた拳が震えている。横顔を見れば歯を食いしばっていた。

 

 これでようやく現実的な話をすることができる。場の雰囲気が変わり、武田を迎え撃つため空気が引き締まり――そこに水を浴びせかけた馬鹿がいた。

 

「よいではないか」

 

 甲高い、裏返った声だった。公家の話し方を真似しているようだった。

 

 堀越貞基。

 今川一門衆の一人だが、遠江今川家の後継者を自負している。遠江守護の復権を求めており、気位が高く扱いにくい男だった。

 

 初老の貞基は悪巧みをするような黒い笑顔で言う。

 

「福島殿がこれほどまでに頭を下げて懇願しているというのに、耳を傾けようともしないとは。駿河の太守である治部大輔殿(氏親)が狭量なことを申されるものよ」

 

「何のつもりか、左京(堀越貞基)」

 

 言葉が主君に対するものではなかった。

 

「相手は二千の小勢であろう。総大将でなくとも武将としての参加ぐらいは許しておくべきではないか。治部大輔殿が福島殿を追い詰めれば、最悪の時期に謀反を起こされかねんぞ。武田侵攻に合わせて背後で蜂起されれば、それはもう厄介なことになるだろうよ」

 

「わしを脅すつもりか」

 

「滅相もない。それがしは今川一門。親族ではありませんか」

 

 堀越貞基は突然言葉を改める。面従腹背を隠すつもりもない態度だ。

 

 さらに貞基に同調する声が上がる。

 

「堀越殿の発言にも一理あり」

 

「陸奥守を押し返すなら、福島殿の他に適任はなかろう」

 

「福島殿も失敗を反省し、次に生かしておるはず。二度と武田には遅れは取るまい」

 

 駿河朝比奈家の当主、朝比奈信置。駿河河東に領地を持つ葛山氏広。駿河先方衆、由比正信たちだ。

 

 福島が――いや、貞基と手を結び、二人で事前に根回しをした結果だった。

 

 氏親は苦々しげに顔を歪めている。今や主導権を完全に奪われていた。

 これが守護大名だ。戦国大名ではない。豪族の盟主にすぎない、連合王国の王だった。

 

「総大将は今川氏輝殿。副将に福島正成殿でよろしいか」

 

「意義なし」

 

「同じく」

 

 各地の城持ち衆を集めていれば圧殺できただろう意見は、投票者の寝返りによって無視できない力を持ち始めていた。当主の息子を立てるというやり方で、長男に家督を譲りたい氏親の顔を立てているのだからタチが悪い。その所為で下手に切り捨てられない意見になっていた。

 

 両家老も謀反をちらつかされては反論も思い浮かばないようだ。

 戦で例えるならば奇襲されたようなもので、完全に混乱してしまっている。

 

「わたくしたち、この場にいる意味はありますの?」

 

「答えなければならないのか」

 

「い、いいえ。遠慮しておきます」

 

 俺たちが参加している意味は、まったく存在していない。

 うつけ姫と坊主、期待される方がどうかしている。彼らは戦の専門家であり、俺たちは素人だ。

 

 まだその時ではなかった。だが、出番はすぐにやってくるだろう。

 

 

 


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