今川義元の野望(仮)   作:二見健

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3.武田の姫君

 武田勝千代晴信。

 

 甲斐武田家当主、武田信虎の長女である。飯田河原の大勝利の日に生まれた、赤子の身でありながら武田の運命を操った娘だった。

 

 晴信は背の高い、大柄の少女だ。

 十六歳になったばかり。甲斐源氏に連なる高貴な姫武将である。

 長い髪を腰まで伸ばした、猛々しい雰囲気の美少女だった。

 

 武田晴信は鉄製の軍配を手の中で弄びながら、床几(しょうぎ)に腰掛け、城を囲んでいる甲州兵を睨み付けていた。いや、本人は睨んでいるつもりはないのだ。目付きが鋭く、他人からそのように見えると言うだけのことだった。

 

「おーい、勘助。大宮城ってどれぐらい堅いんだ?」

 

「……はぁ」

 

 晴信の声に、傍にいた隻眼の老人が溜息を返した。

 

「……大宮城は南北朝時代、武田家に備えるため上杉憲将に命じられた富士大宮司家によって建設されました。平城ではありますが富士川の支流である潤井川から水の手が入っており、深い水堀を越えようとすれば大きな犠牲が出るでしょう」

 

「今川領に入るためには、富士川に沿った街道を通らなければならないからな。そんなところに堅城を置くとは、昔の上杉もやるもんだ。今は雑魚だけどな、あはははは」

 

「姫さま。やはり、この出兵は……」

 

「言うな」

 

 豪快に笑っていた晴信が、一瞬で笑みを消した。

 

 現在、武田家は国力のすべてを信濃攻めに注ぎ込んでいる……はずだった。諏訪と手を組んで大井を滅ぼし、その次は小笠原と手を組んで諏訪を滅ぼすための戦略が練られている。

 

 晴信は流石は父だと思うのと同時に、なぜこうなるのかという思いに胸を痛めていた。

 

 晴信は大井攻めで抜群の働きを示していた。だが、そのやり方が信虎の反感を買ってしまっていたのである。

 

 信濃の内山城を包囲していた時、晴信は父に「あの城は落ちない。撤退するべきです」と進言していた。

 

 元服したばかりの小娘の言うことである。信虎はそれを受け入れずに包囲を続けた。だが、晴信の発言通り冬まで囲んでも城は落ちなかった。雪が降り出して撤退しなければならなくなった。米を無駄にしただけで城攻めは失敗に終わったのである。

 

 その時、晴信は「今こそ攻めるべし」と告げた。信虎は娘の正気を疑った。「城が落ちぬと申したのは他でもないお前ではないか」と。

 

 晴信は言った。

 

「いま敵は我らが撤退するものと思い込んでおり、油断し切っております。いま攻めれば敵の士気は低く、さしたる抵抗もなく陥落するでしょう」

 

 結局、進言は受け入れられなかった。

 

 だが晴信はそれで諦めるほど潔くはなかった。味方が撤退しているのを横目に、自分の手勢二百騎を繰り出すと、怒濤のごとく攻め立てて内山城を落としてしまったのである。

 

 以後、信虎と晴信の関係は冷え切っていた。

 元々、二人の仲は悪かった。信虎は娘の才能に嫉妬していた。かわいげもなく、間違いをズバズバと指摘してくる娘が憎くて仕方がなかった。

 

 信虎は晴信とは異なり、父に従順な妹の信繁を溺愛していた。

 

「……姫さまが駿河攻めに回されたのも、これ以上、武功を上げないようにするためでしょう。我らが相手をしなければならないのは今川家だけではありませんぞ。この戦場においては姫さまが勝てば勝つほど、今川と同盟を結んでいる北条も援軍を送ってくるはずです」

 

「そう暗い顔をするな、勘助。まぁ、なるようになるさ」

 

 戦場には『風林火山』の旗指物が翻っている。

 

「勝利ってのは六分ぐらいでちょうどいいんだよ。勝ちすぎれば逆に危ういんだ」

 

 辛勝を続ければ味方は何度も戦訓を得ることができ、やがて最強の軍団が出来上がる。

 逆に完勝を続ければ味方は慢心して弱くなり、一撃で家が滅亡するほどの大敗を喫するだろう。

 

「……姫さま。やはり武田の屋形は、あなたこそが」

 

「言うなって。勘助も軍師ならいじけてないで策を出せよ。あたしたちはもうすぐ今川と戦うんだぞ」

 

 その時、前線で味方を鼓舞していた男が軍営に現われた。

 

「軍師殿の指示通り、陣立てが完了いたしました」

 

 飯田河原の戦いで抜群の働きを示し、晴信の守役に抜擢された男だった。娘の教育を任せられるだけあって信虎からの信頼は厚く、晴信にとっても実の父親以上に思っている。

 

 板垣信方。

 

 信虎世代の武田四天王であり、武田二十四将にも数えられている、武田の名将である。

 それほどの人物を晴信に付けたのは、目付(監視)の役割を期待されているからだ。信方は最悪の場合、晴信を切り捨てて武田を優先できる男だった。

 

「おう、ご苦労さん。いやぁ、信方がいてくれて本当に助かるわ。経験豊富な現場指揮官ってお前ぐらいしかいないからなー」

 

 だが、それでも気心の知れた相手である。晴信の声も弾んでいた。

 

「で、勘助。作戦はどういうものなんだ?」

 

「……はっ」

 

 隻眼の老人は杖をつきながら立ち上がり、周囲の地図を広げてみせた。つい先ほど物見を走らせて作らせたものだった。

 

「……まず大前提として、今回の戦は城攻めではございません」

 

「いや、城を囲んでるところだろ――いや、なるほど」

 

「お察しの通り。これは『後詰めの計』。それをさらに煮詰めた奇襲返しにございます」

 

 後詰めの計とは敵の支城を取り囲み、誘い出された援軍を撃破する作戦のことである。

 

 援軍を出さなければ城方の士気は大きく落ちて落城する。それは主従契約の不履行でもあり、他の城主たちの信用も失われて見限られてしまう。

 

 援軍を撃破されれば、これも城方の士気は落ちて落城する。

 

「奇襲返しとは、こちらに奇襲をかけるつもりの敵を逆に奇襲すると。……つまり、陣形を一瞬で変化させるということか」

 

 呟いたのは板垣信方だ。歴戦の武将である。先ほどまで己の手で陣を整えていたこともあって、すぐに策の全貌を暴いてみせていた。

 

「今の陣形は鶴翼。これは後詰めにやってきた敵から見れば鋒矢(ほうし)になる」

 

「逆さ鶴翼か! 攻城戦で使用しない騎兵を後方に置いているが、あれも引っ繰り返せば敵の真正面に騎兵が現われる! 流石は我が軍師、山本勘助だ!」

 

 

 

 

 

 

 この戦いは『富士川の戦い』と呼ばれることになる。史実には存在しない戦いである。

 

 今川軍は総勢一万。駿河衆七千、遠江衆三千の大軍だった。

 

 総大将である今川氏輝のところには、すでに敵の情報が入ってきていた。

 

 意図的につかまされたものだと気付かずに「敵の大将は十六になったばかりの小娘。百戦錬磨の武田陸奥守の姿はなく、おまけに敵の数はたったの二千。敵は城攻めをしている最中であり、背後から奇襲をかければ必勝である」と興奮していた。

 

「陸奥守信虎がおらぬとは、汚名返上は成らずか……」

 

 福島正成は若干残念そうだったが、娘の首を取れば信虎を悔しがらせることもできるだろうと思い直していた。姫武将はできる限り首を取らずに出家させるのが慣例のはずなのだが、そういった決め事はすっかり頭の中から抜け落ちているようである。

 

「者ども! 武田の娘を、逆落としにかけて追い散らしてやろうぞ!」

 

「エイ、エイ、オー!」

 

「……あいつら、奇襲する気あるのか?」

 

 今川軍は羽鮒丘陵から逆落としで駆け下りながら武田軍を襲う。

 

 武田勝千代晴信は馬上にあってその様子を目に焼き付けていた。一万人の奇襲である。壮観だと思いながら、それを撃破すればどのような気持ちになるのか、今から楽しみで仕方がなかった。これから少女は父と同じ偉業を成し遂げるのである。

 

 その日、今川軍一万は壊滅した。

 

 

 

 

    ◇

 

 

 

 

 敗北した兵士たちが、大量に今川館に押し寄せてきていた。

 

「討たれた兜首は五百あまり。雑兵の三千は未帰還です」

 

 戦場で逃散した足軽もいるだろうから、実際に打たれた雑兵の数は二千人ぐらいだろう。

 

 飯尾為清、蒲原氏徳、朝比奈泰長、孕石信定などが討死。首は甲府に送られたらしい。

 

 幸い今川氏輝は生き残っていた。福島正成も逃げおおせている。そろそろ責任を取って腹を切っておくべきではないか。今川最強も墜ちたものだと陰口を叩かれていた。

 

「大宮城が降伏するのも間近でしょう。武田晴信、恐るべし」

 

「いいい五子こわがってないし! 武者震いしてるだけだし!」

 

 関口氏広の眼鏡が曇っていた。岡部元信はぷるぷるしている。

 

 今川館の三の丸。

 武家屋敷の一室に俺と氏広、元信が詰めていた。

 

 今、城主の間では重臣たちで会議が行われている。俺たちは呼ばれればすぐに参上できるよう城詰めを命じられていた。

 

「これからどうなるのかなぁ。大宮城って東海道の喉元にあるんだよねー」

 

「元信にしてはいいところに目を付けたものだ。お主の言うとおり、大宮城が落ちれば、そこから小勢を繰り出されただけで東海道が切断される。さらに先にある蒲原城が落ちれば、本格的に今川の滅亡が見えてくるだろうよ」

 

「まさか、城二つで?」

 

 氏広は信じられないと言いたげな顔をする。

 

「ともあれ、次も後詰めを出さねばなるまい」

 

「そんな余力は、現在の今川にはとても……」

 

「使えそうな敗残兵をまとめ上げれば二千人ぐらいにはなるだろう」

 

「それは、そうですが……」

 

 雑談を交わしていると、部屋の戸が叩かれた。「失礼」と言いながら入ってきたのは岡部元信の弟である。

 

「九英承菊様。大殿がお呼びです。姫さまとご一緒に、ご同行をお願いします」

 

 俺が腰を上げ、菊姫の自室に足を向けようとすると、元信の弟、岡部貞綱も後を追おうとする。

 

「ちょっと忠兵衛。お姉ちゃんに挨拶しないなんて、五子は弟をそんな薄情者に育てた覚えはないよ!」

 

「ボクはあなたに育てられた覚えはありませんが。……やれやれ。九英承菊様のもとで、少しは真面目になったと聞き及んでいたのですが、相変わらずのようですね」

 

 十歳前後の少年が、姉に向かって辛辣な言い方をしたものである。涼しげな美形が辛辣な言葉を吐くと、かなりの毒を感じるものだ。部屋の温度が下がったような気がしたのは俺だけではないようで、氏広も目付きを鋭く少年を睨み付けている。

 

「今のボクは大殿直属の馬廻、岡部左京進貞綱です。無役のあなたに気安く呼ばれる筋合いはない」

 

「兄弟でしょう、あなたたちは!」

 

 反射的に怒鳴った氏広は、すぐに異変に気付いた。

 

 元信の顔が、真っ青になっていたのだ。

 

「うそ……でしょ……」

 

 そこにいたのは普段の脳天気な小娘ではなかった。まるで捨てられた子犬のようだった。

 

 左京進とは岡部左京進家の当主が名乗るはずのものだ。それを貞綱に譲ったと言うことは、岡部左京進家の家督を貞綱に譲り渡すと宣言したことを意味している。

 

 岡部五子元信の立場が、宙に浮いてしまったのだ。

 

「どうやら父上はあなたを見限ったようですね。まぁボクは鬼ではありません。血を分けた姉上を放逐するほど冷血なつもりはない。ボクを岡部の後継者として立てて下さるなら、岡部家での立場は保証しますよ」

 

「父上が、どうして……?」

 

 うつむいて声も出せなくなった元信に、貞綱は見下す笑みを浮かべていた。

 

 今までの人生を他でもない父親に否定されたのだ。堪えられるものではないと思う。

 だが、俺には少女にかけるべき言葉が見付からなかった。岡部の次期当主という立場は、俺には想像もつかないものだった。

 

「話は終わりか」

 

「ええ、お待たせしました」

 

 姉が震える姿を目にして、貞綱は毛ほどの動揺も見せていない。

 戦国時代にありふれていた下克上の一つに過ぎないと、冷徹に割り切った態度。

 貞綱なら問題なく岡部家を掌握するだろうと思わせる貫禄があった。気に入らないが当主としての在り方はまったくもって正しかった。

 

 ……いや、本当にそれが真実なのか?

 

 二人の父親である久綱とは一度対面している。本人に何も伝えずに後継者を変更するほど、久綱が薄情な人物だとは思えなかった。何らかの力が働いたとしか思えない。

 

 部屋を出てから貞綱が呟いていた。

 

「……どのように取り繕ったところで、姉にとって、ボクは簒奪者でしかないんですよ」

 

 少年の独白は聞かなかったことにしておこう。

 

 岡部の娘が菊姫の周りにいると聞き及んだ何某が、岡部久綱に何かを吹き込んだのかもしれない。

 

 ならば、いずれ解決できるようになるだろう。

 菊姫が戦国大名を目指すなら、障害はすべて俺が排除する。それで終わりだ。

 

 

 

 

 

    ◇

 

 

 

 

 

 城主の間には、当主と宿老の三人がいるだけだった。

 

 襖の向こうにはいざという時のために刀を手にしている小姓がいるのだろうが、彼らはここで見聞きしたことを誰にも話すことはできない。

 

「……父上。あ、あのっ」

 

「九英承菊殿。貴殿の見識を見込んで、意見を述べて頂きたい」

 

 氏親の顔には疲労感がにじみ出ていた。一族、家臣、領民の命を背負うストレスに押し潰されようとしているように思えた。

 そして、菊姫を無視である。理由はわからないが、血を分けた親子とは思えない態度だ。

 

 しかし今は緊急時。それに他人の家庭に首を突っ込む野暮をするつもりもない。

 

「初陣も済ませていない坊主に何をお求めです」

 

「歴戦の武将が敗れたのだ。戦歴などもはや関係あるまい」

 

「そこまで仰るなら、僭越ながら拙僧の所見を述べさせて頂きます。大殿におきましては、すでに皆さま方と協議をなさった通りにされればよろしいかと」

 

「それは貴殿の意見ではないが?」

 

 氏親が冗談を聞いたとばかりに笑い出した。臨済宗の坊主、禅問答でもする気かと目が笑っている。

 

「今川と北条の後詰めを蒲原城に入れるのでしょう? 北条左京大夫は河東を譲れと言い出すでしょうが、今川の存亡と引き替えにするならば惜しいものではございますまい」

 

「貴様、それをどこで」

 

 三浦範高が唖然としていた。答えを言っているようなものである。

 

 河東とは富士川の東側のことで、かつては北条早雲の根拠地だった。早雲の後を引き継いだ北条氏綱は同盟相手のこの土地を欲しがっていた。

 

「……河東は渡せぬ」

 

 氏親の言葉は俺の予想していたものだった。

 

 北条の援軍は期待できないということを答えさせるために、あえて河東を譲ってはどうかと提案してみただけである。

 

 河東は今川の重要な経済地域。加えてそこにいる家臣は今川を主と仰いでいる。領主が勝手に土地を切り分ければ、史実の真田と徳川のように話がこじれかねない。

 

「ならば今川方だけでも蒲原城に入れておくべきです。決戦を避けて耐え続ければ、武田の娘はいずれ本国に引き返すでしょう」

 

「では誰に兵を預けるべきか」

 

「大殿直々に……と言いたいところですが、大殿が駿府を留守にすれば、餓狼のごとく隙をうかがっている遠江の国人が一斉に離反しましょう。ゆえに岡部久綱殿か、朝比奈泰能殿が出陣すればよろしいかと。ただし、決戦は何をもってしても避けて頂きたい」

 

「俺か? 大命を頂けるならば光栄ではあるが、俺では力不足だと思うのだが」

 

 宿老、朝比奈泰能は謙虚だった。身の程をわきまえていた。

 二千で一万を破った武田晴信には敵わないと、その豊富な従軍経験から理解しているようだ。士気の高い一万の将兵がいれば、あるいは……と言ったところだろう。

 

「朝比奈備中でも及ばぬなら、岡部美濃でも及ばぬだろう」

 

「……打つ手なしと言うわけか」

 

「北条に頭を下げねばならんのか。北条は元々今川の家来だったのだぞ」

 

 会議は踊る。ここだ。俺は確信した。

 

「我に秘策あり」

 

 今川義元が飛躍するための、最初の一歩。

 

「兵数は二千で結構。今川菊を総大将に据え、朝比奈備中を副将に付けるべし。拙僧は軍師を務めさせて頂く。わが軍略によって今川を勝利に導かん」

 

 俺の隣で、菊姫が口を半開きにしていた。

 

 それは菊姫の生涯でもっとも間の抜けた顔だった。

 

 

 

 

 

    ◇

 

 

 

 

 

「一体何をお考えになっているんですの! 答えてください、師匠!」

 

 俺は速やかに武将たちに役職を振り分けてから、出陣の準備をするために城内を奔走していた。

 

 隣でぴーぴー騒いでいる小娘はほとんど無視である。

 

 三の丸、虎口(城門)の前には馬廻に命じて集めさせた武将が並んでいた。

 朝比奈泰能と相談して抜擢した人材たち。

 いずれも具足を着用し、いつでも出陣できる状態だった。古臭い巻物に描かれていそうな武者の姿だ。南蛮鎧の影響を受けた当世具足はまだ見当たらない。

 

「先手大将、岡部美濃。槍大将、久能弾正。弓大将、三浦次郎左右衛門」

 

「はっ」

 

「かしこまりました」

 

「大任、果たしてみせましょう」

 

 岡部久綱、久能宗能、三浦正勝が進み出て片膝をついてしゃがみ込む。

 

 現場指揮官などもあれば、直接戦闘に参加しないが重要な役職もある。戦目付(軍功を記録)、兵糧奉行(兵糧の調達、輸送計画の立案)、旗奉行(軍旗を振る)は兵士の士気に直結する仕事だ。それらも割り振ってから、俺は将兵の前列で気まずそうにしていた少女に向き直った。

 

 関口氏広に命じて、無理やり引きずってこさせた少女。

 

「鉄砲奉行、岡部五子」

 

 その目が驚いているのを、俺は内心で含み笑いしながら、表向きは無表情で見詰め返した。

 

「……お師匠?」

 

 今川家にも少数だが鉄砲が配備されていた。全部で二十丁しかないが、使いどころを選べば戦を左右するだろう最新兵器である。

 

「二十丁。お主に預ける」

 

「は、はいっ! かしこまりました!」

 

 暗い顔をしていた元信が、きょとんとしてから、弾かれたように返事をした。

 

 ある意味、これは賭けだ。岡部元信ならば使いこなすのではないかと俺は期待している。

 もし駄目だったとしても、たったの二十丁。有効に活用できないのが当然なのだから、誰を鉄砲奉行に命じても結果はあまり変わらないだろう。だからこれは失敗しても構わない。

 

 俺の前で岡部久綱が唸っていた。それから笑顔で腰を屈めて俺に頭を下げる。

 

「各々方。これは今川菊の初陣である。今川の姫君に勝利を与えるか、敗北を刻み込むか、それは各々の働きによって決するのである」

 

「今川の興亡この一戦にあり! いざ参らん!」

 

 俺の言葉に繋げ、朝比奈泰能が号令を発する。同時に武将たちの怒号が響き渡った。

 足軽大将、番頭、組頭へとすみやかに命令が伝達され、決められた順番で虎口を潜り抜けていく。

 

「なっ、なっ、なぁっ!? わわわ、わたくしは一言も喋っておりませんわよ!?」

 

「お飾りの大将だからな」

 

「むきぃぃぃっ! 何だかよくわからない間に今川軍の総大将にされて、これから戦場に向かわなければならないなんて! 今川の高貴な姫であるわたくしが、どうして穢れた場所に赴かなければならないのです!? 大将は城でどっしりと構えているものでしょう!?」

 

 キレていた。とうとう限界を迎えたらしい。

 

 俺は菊姫の抗議を無視して、関口氏広を呼び止めた。彼女は菊姫を乗せるための駕籠を手配しているところだった。

 

「氏広、駕籠は無用だ。さっさとこの馬鹿を着替えさせろ。ああ、姫に合う大きさの具足の手配も頼む。そちらは……三浦の兄から範高殿へ取り次ぐように」

 

「了解しました」

 

「あ、ちょっと氏広さん! 着替えって何ですの!? と言うか馬鹿って誰のことですか!」

 

 それはもちろん、馬と鹿を間違えそうな目の前のお姫さまのことに決まっている

 

 氏広が菊姫を引きずっていく。時間は有限、大切に活用しなければならないのだ。

 

「朝比奈殿。軍馬は如何ばかり集まるだろうか」

 

「五百といったところだ。城を守るだけなら軍馬はそれほど必要ないはずだが、不足しているのか?」

 

「いや、充分だ」

 

 さて、氏広に無理やり着替えさせられた菊姫は、いじけながら姿を現した。

 

 具足姿だが重さに喘いでいる様子はない。普段あれだけ重たい十二単を着ているのだ。蹴鞠で適度に運動しているのもあり、歩くだけでバテることはなさそうだった。

 

「我らも出発するとしよう」

 

「……あ、あの」

 

 俺が馬に跨ろうとすると、具足の下に着た法衣の袖を引っ張られた。

 振り返ると、そこには不安げな面持ちの菊姫がいた。出陣の前に怖じ気づいたのだろうか。疑いの眼差しを向けてみると、菊姫の頬が朱に染まった。

 

「わたくし……馬に乗れません……」

 

「なんと」

 

 衝撃の新事実――いや、俺の見落としだ。氏親が蹴鞠以外に取り柄がないと言っていたではないか。公家趣味のぐうたら帝王学に染まっていた菊姫だ。乗馬の訓練を受けていないのだろう。

 

 何たることだ。俺は愕然とした。

 

「私は留守役ですので、後はお任せしますね」

 

 関口氏広がにっこり笑ってから去っていく。もっとも頼りになるやつが居なくなってしまった。

 

 朝比奈泰能は俺たちから逃げるように飛び出していった。泰能は事実上の軍のまとめ役。姫のお守りを任せるわけにはいかないのだが、これでは誰も頼りになりそうにない。

 

「え、なにを……うひゃぁ!」

 

 俺は溜息を吐くと、菊姫の脇に手を入れて持ち上げ、馬上に押し上げた。

 俺がその後ろに騎乗すると、何とも様にならない二人組の完成だ。

 

 なんだこれ。ふざけているのか。

 

 これから武田と戦うというのに、俺たちは何をしているのだろう。

 

 

 


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