蒲原城。
東海道の難所である由比ヶ浜と薩捶峠がすぐ近くにあり、標高百四十メートルの山頂に築かれた砦である。
今川範国の三男、氏兼が蒲原城を受領。その子孫は蒲原を名乗っていた。なので蒲原家も今川一門衆だったが、家を継いだばかりの蒲原氏徳が富士川の戦いで戦死、蒲原家は断絶していた。蒲原家は今川一族の誰かに継がせるのかもしれないが、今はまだ城主不在の城である。
城代として朝比奈泰能の娘である泰朝が入っているが、応急処置にしかなっていない。新しい城主として赴任してから一日二日で城兵の心をつかむのは不可能である。このような状態で、城攻めの達人である武田晴信から城を守り切れるとはとても思えなかった。
「よって我らが取るべきは攻撃のみである」
「正気か、軍師殿」
菊姫を総大将にした今川軍二千は蒲原城に入っている。
城内では軍議が行われていた。列席しているのは指揮官クラスの者たちだ。
その中の一人である朝比奈泰朝は背の高い美少女だった。セミロングの黒髪を先っぽで縛っている髪型をしており、すらっとした均整の取れた身体付きをしている。十七歳ぐらいだろうか。間違いなく美少女なのだが、ただ一つ、決定的なものが足りていなかった。
胸が、ぺったんこである。
「貧乳お姉さんの言うとおりっス。独断専行っスよ、これは」
「貴様、死にたいのか」
「北条早雲の孫であり、軍監に大抜擢された俺は反対するっス!」
はやし立てているのは三浦氏満。今川宿老の一族に生まれておきながら、なぜか部屋住の立場だった少年だ。あと北条早雲は軍監の仕事とは無関係である。
氏満の発言で般若ような形相になった泰朝が殺意の波動を放っていたが、それはともかく。
「貴様を軍監に抜擢するよう三浦範高殿に進言したのは、他でもないこの私である」
「俺っちはこの軍議に呼ばれなかったっス! 何も聞かなかったことにするっスよ!」
「変わり身はやっ!」
「貴様は羞恥心がないのか」
「……三浦家の恥だ」
氏満の神速の手の平返しに、集まっていた全員が呆れ返る。岡部五子がツッコミ、泰朝が吐き捨てる。弓大将に抜擢された三浦正勝は、弟の痴態に言葉もない様子だ。
「三浦の三男はともかくとして。軍師殿、討って出るとはどういうことかな。言われなくともわかるだろうが勝算がなければ我らは付き合えんぞ」
弛緩しかけた空気を引き締めたのは岡部久綱だった。
適度に緊張がほぐれたところで、あらためて本題を切り出すのは人生経験の妙が為せる技だろう。機微というものを心得ている。
「無論、勝算はある。なぜなら今の武田は弱体化しているからだ」
「何を根拠に断言するのか」
「武田軍は二千。先日の今川の死者は三千だ」
「痛い敗北だったが、それが?」
「要するに、一人の武田兵が一つ以上の今川兵の首を持っているのだ」
「あ、そっか」
俺の話を聞いていた五子が手を叩いた。
「武田の足軽は報酬を貰う前に討死するわけにはいかないってことだよね。武田にとってはまだ序戦もいいところだから、論功行賞もやっていないだろうし」
「……なるほど。士気が下がっているのか」
久綱は納得したようである。だが、これだけでは足りない。俺はさらに説明を付け足していく。
「加えて大勝利によって驕っているのもある」
「気に食わないが、油断しているわけか。だが、我らの方も同じようなものだぞ。敗北によって武田に怯えている。士気も低い」
「将たる者が、戦えぬ理由を兵に押し付けると?」
「……申し訳ない、失言だった。兵士たちを使い物にするのがアタシらの仕事だよな」
朝比奈泰朝の分析は冷静で正しかったが、俺はそれに同意を示さなかった。
お前らは兵を鼓舞することもできない無能かと確認作業のように問い詰めると、泰朝は己の言動を恥じるように頬を染める。
これでようやく作戦の説明ができると思っていると。
「あー。ところで姫さまは何をしているんスか?」
三浦氏満が気まずげに上座に目を向けた。
「あうぅぅ……お股が……わたくしの太股が……」
そこには座布団の上に寝転がって、さめざめと涙している菊姫がいた。
両手で太股を押さえて、身をよじってもだえている。周囲には脱ぎ散らかした具足が転がっていた。この時代、両家の婦女が人前で素足をさらすなど破廉恥にもほどがあるのだが、そんなことは関係ないとばかりに足袋まで脱ぎ捨てている。
もじもじしている姿は中々に色っぽかったが、これっぽっちも心が動かされないのはどういうことだ。なぜこの娘はこんなにも残念なのだろう。
「初めての乗馬だからでしょ。今川の御曹司が情けないなぁもう」
「一応あれが総大将なのだがな」
岡部元信が天井を見上げ、もの悲しそうに「今川おわた」と呟いた。
誰もそれに反論しなかったことが、一同の心境を表していた。
俺が武田に敗北すれば。
氏親は家中を統制するために責任者を処断するだろう。そして何の後ろ盾も持たない俺ほどスケープゴートに適した存在はいない。城持ちの家来を罰したら反乱を起こされるかもしれないが、俺を処刑しても誰も困らないのだ。
今川の敗北は、俺の死を意味していた。
それでも、試さずにはいられなかった。
敵は武田信玄だ。身体が震えた。武者震いだった。
「この作戦の成否は、囮部隊の働きにかかっている」
俺は気を引き締め、やっと一同に作戦の概略を話し始めた。
◇
「……不味いな」
武田晴信は爪を噛んでいた。見上げた視線の先には大宮城がある。
堅い城なのはわかっていた。
だからこそ後詰めの計で援軍を撃破し、城兵の士気を地に叩き落としてやったのだ。
だが、勝ちすぎた。
士気を落としたのは敵だけではなく、味方も同じだった。精強な甲州兵が、今や国に帰ることしか考えていない。
大宮城に最初に突貫した者は確実に死ぬ。
だからこそ敵に最初に槍を付けた者、一番槍がもてはやされるのだ。その一番槍を譲り合っているような状況で城を攻めれば、敵の反撃を許して予想以上の被害が出るだろう。
「……姫さまの馬廻衆を出しますか」
「いや」
隻眼の軍使が進言するが、晴信は首を横に振った。
晴信に与えられた馬廻衆、直属兵の二百騎は配下武将の次男三男で編成された次世代の幹部候補生である。エリートのため士気は抜群であり、城を攻めさせれば少なからず被害は出るだろうが、大宮城を落とすことができると確信できる。
しかし彼らの半分は使番(伝令将校)としての役目を担っていた。
馬廻を失えば失うほど、全軍の能力が低下していくのである。駿河攻めの序盤、いずれ北条からの援軍もやって来るだろう状況である。馬廻を使うのは時期尚早に思えた。
「……軍使を出して降伏を勧告いたしましょう」
「そうだな。富士なんとかも状況がわからないほどの阿呆ではないだろう」
大宮城主は富士信忠だったが、晴信はその名前を覚えていなかった。
山本勘助が降伏勧告の手配をしていると、本陣の帷幕に板垣信方が駆け込んできていた。
「申し訳ございません! 大宮城に今川方の忍を入れてしまいました!」
「はぁ? 何やってんだ、お前ら?」
大宮城は完全に包囲しており、ネズミの一匹も通さないようにしていたはずだ。
そこまで考えて晴信は気付いた。城から抜け出そうとする敵を警戒していたため、外からの侵入者を見落としたというわけか。
「あー、くそっ。今さら城方に何かができるとは思えないけど、どうにも裏目ってないか?」
「これから警備の責任者を切腹させるところです。お立ち会いになられますか?」
「勝手にやってろ。で、勘助」
これは何だと、目で尋ねる。老獪な軍事は暫く考え込んだ。
陰鬱な老人だが、軍略を披露している時だけは明るくなっているように見える。もっとも、それなりの付き合いがあるからそう思えるのであり、晴信以外にとっては不気味な老人にしか見えていないはずだ。意外と面白い性格をしているのだが。
「今川氏親からの密書を届けたようですな。さらなる援軍を出すため今暫く持ちこたえよ――と言ったところでしょう」
「援軍だと? 富士川で大敗してから、まだ三日も経っていないんだ。どこから援軍を編成するんだよ。敗残兵を集めて、それで戦うつもりなのか? 話にならんな」
「その通り。士気が低すぎて使い物にならないはず。援軍を出すと言うのは虚言でしょう」
「哀れなものだ。富士某とやらはそうとは知らずに時間稼ぎに使い潰されるわけだ」
晴信は大宮城主に同情した。大勢力の思惑に振り回される小勢力の悲哀といったところか。
しかし厄介なことになった。
これで城方は息を吹き返す。降伏勧告をしても無駄だろう。被害覚悟で攻めるしかなさそうだ。
「ご報告いたします!」
「馬を下りろ、慮外者が!」
息をせきって駆け込んできたのは、物見に出していた騎兵だった。よほど慌てているのだろう、馬上から声をかけるという切腹ものの無礼を行っている。
板垣信方がぶち切れて、物見を馬上から引きずり下ろし地面に叩き付けた。
「も、申し訳ありません! で、ですが、中野台に今川の『二つ引き両』が翻っております!」
「……勘助。援軍はないと言っていたよな、あたしら」
さっと地形を頭に思い浮かべる。
中野台は富士川を挟んだ先にあり、方角は南西。距離は一里ほど(4キロメートル)。
「数は?」
「およそ五百!」
偵察部隊にしては大きいが、城への援軍にしては少なすぎる。何のための軍勢なのか、晴信にはよくわからなかった。
嫌な予感がしていた。
敗北から立ち直った相手だ。窮鼠である。武田軍が虎ならば鼠など恐れるに足りないが、今や虎は慢心しきって猫になっている。
敵軍は中野台で小休止を取っていた。隙を窺うようにぴったりと張り付いている。どうやら今すぐ襲いかかってくるわけではないようだ。
ならば、その間にこちらも体勢を整えさせて貰うとしよう。
晴信は忍を使って情報を集めた。すると敵の大将の名前が判明した。
「今川菊。元服前の小娘で、おまけに蒲原城に引きこもってる」
貴族化した大名によくいる人物だった。自らは滅多に出陣せず、配下に指揮を取らせる性格のようだ。
それだけではない。
今川菊は、うつけ姫と呼ばれている。そして今、噂通りの行動を取っていた。
中野台にいる五百の小勢は、今川家の宿老である朝比奈泰能が率いているようだ。今川菊に命令されて出陣したが、仕掛けることができずに立ち往生しているらしい。
無能な指揮官ほど兵力を小出しにするものである。小勢を繰り出して情報をかき集め、戦場のすべてを理解した気になるのだ。もちろんそれは仮初めの全能感である。情報が届くまでに戦場が変化していることを理解していないのだ。
そして手元に軍がいなければ安心できないようである。臆病と慎重をはき違えているようだ。だから蒲原城に千五百の兵を置き、敵の近くに五百の兵を出すというチグハグなことをする。
これでは各個撃破してくれと言っているようなものである。
「勘助、出るぞ。手始めに朝比奈泰能を討つ!」
「ははっ!」
法螺貝が鳴り、武田菱と風林火山の旗が翻った。
陣形は逆さ鶴翼。つまり鋒矢だ。
先の戦の焼き直しだが、各個撃破には速戦即決に適した鋒矢が最適。一度使った作戦のため、兵士たちへの意思疎通も速やかに行われる。
一抹の不安があった。
晴信はそれを総大将の重圧から来るものだと思っていた。二千の軍を率いるのは、この駿河攻めが初めてなのである。
勝って、勝って、勝ち続ける。そうすれば次期当主の立場も盤石になるはずだ。
晴信は生まれついての戦国大名だった。
だからこそわかる。
もし妹が当主になれば、晴信は妹を殺してしまうだろう。それだけは嫌だった。
◇
血流川という川がある。
史実でも武田と今川が激しく争い、川が血の色に染まったことから、そう呼ばれるようになったという。
こちらの歴史でも、そう呼ばれることになるのだろう。
血流川の沿岸、東光寺の麓に布陣している兵の数はおよそ七百。
俺と菊姫はその中にいた。未だに馬を二人乗りしているという間抜けな姿である。
「こっ、こっ」
菊姫が奇声を上げていた。
「こっ、こここ、こっ、こんなに前線に出てしまったら、ししし死んでしまいますわ! 死ぬのはいいい嫌ですすすっ!」
「士気が下がる。泣き言はやめろ」
予定されている主戦場の中野台から十町(一キロメートル)の距離だ。
血流川に伏せている七百人は伏兵だった。
蒲原城に千五百の兵が残っているというのは、偽兵の計である。実際には百ばかりしか残っていない。
蒲原城の留守役は炊事の煙を多く見せかけ、大量の旗を立て、太鼓を打ち鳴らし、ときの声を上げ、ローテーションの休憩も取らずにひたすら巡回を続けると言ういじましい努力をしていた。
「伊賀衆、任務完了でございます」
「ご苦労」
大宮城に潜入した忍者が戻ってくる。
今川家に雇われていた伊賀者だが、忍者とは社会的地位が低く、有能な守護大名である氏親でさえ「あのような下賎な者どもが役に立つのか」と懐疑的だったほどだ。焼き働きも暗殺も、武士にとっては不名誉な仕事なのである。
だからこそ簡単に借り受けられたわけだが、今川家の防諜能力が低いことを表しているため素直に喜べなかった。
忍の面相は覆面で隠れているためわからなかったが、性別は女である。
「……十三人、死にましてござります」
「そうか。敵方の軍規は私の予想以上に緩んでいるようだな」
「……はっ」
大宮城に潜入させた忍は十五人。帰還できたのは目の前の女忍と、他に一人だけのようである。それでも武田軍が普段通りに警戒していれば、一人も城に入れなかっただろう。
敵の士気を計る指標のようなものだ。手応えを感じていると、女忍がジッと俺を見詰めていた。
「まだ何かあるのか?」
「……お坊さまは、いい人なのですか?」
俺に何かを言いたいようだが、言葉が拙くて伝わっていない。
伊賀衆から大量の死者が出る任務を命じたのは俺である。俺がいい人なら全人類が菩薩になれるだろう。
「報酬は銀二百貫。足りないと言いたいのか」
「いいえ」
女忍の目が何かを訴えかけていた。だが相手をしている暇はない。
「優しくされたいなら忍などやめてしまえ」
「――っ!」
無様に心を乱している女忍を捨て置くと、俺は朝比奈泰朝を呼び付けた。
この小勢を率いている実質的な指揮官は泰朝である。
俺はただの軍師で、おまけにこれが俺の初陣である。だから俺には泰朝のような補佐役が必要だった。
「軍師殿。配置は完了したが……」
泰朝は暗い顔をしていた。緊張からではない。
俺は作戦会議で、非情な命令を下していた。
『囮部隊の指揮官は玉砕するまで戦い抜くべし』
死ねと言った。死ぬほど努力しろではなく、死ねである。今川の勝利のため死ねと命令した。
適任者は朝比奈泰能と岡部久綱の二人だった。
経験豊富なこの二人でなければ達成できない仕事だった。
『では拙者が死ぬとしよう』
岡部久綱が進み出た。朝比奈泰能は今川の宿老であり、彼が欠けた穴を埋められる者はいない。娘の朝比奈泰朝はまだ若すぎて、宿老が務まるとは思えなかった。
異論を出す者はいない。若者たちは衝撃のあまり息をすることすら忘れている。
『失礼だが久綱殿に務まる仕事とは思えんよ』
久綱で決まりかけていた。そこで朝比奈泰能が声を震えさせながら口を挟んだ。
『ご、五百の兵を決死の地に送り込むなら、しゅ、宿老の肩書きぐらいは必要になるはずだ。俺が適任だろう』
俺はなぜか堂々としている岡部久綱よりも、怯えている朝比奈泰能の方が頼りに思えた。
「……あなたは地獄に堕ちるだろう」
「もとより覚悟の上だ」
「僧籍にありながら、殺生の界隈に身を置くとは、とんだ生臭坊主だな。外道だ」
泰朝は責める。俺はこれから彼女の父親を間接的に殺すのだから。
――軍太鼓が鳴り響く。
中野台が戦場になっていた。
距離は一キロメートル。草木に隠されているため目視はできないが、音色は充分すぎるほど届いている。
太鼓の音。法螺貝の音。馬蹄の音。金属がぶつかる音。悲鳴。絶叫。断末魔。
二千の甲州兵が五百の駿河兵に襲いかかっている。
「はじまりましたわね」
「囮部隊の撤退の合図と共に討ち入る。およそ四半刻後だろう」
囮部隊が撤退するのは、朝比奈泰能が戦死してからである。
指揮の引き継ぎは泰能の弟、泰永に。泰永が戦死していれば泰永の息子、元長に。すべてあらかじめ決めてある。
「師匠。泰能さんには、わたくしから命令しておくべきだったのではなくて?」
「あの時のお主に、それができたとは思えぬ」
乗馬の痛みでごろごろしていたからではない。
泰能の忠誠心は御神輿のお姫さまではなく、今川家に向けられている。それすら理解していない菊姫に何が言えるだろう。
「悔しいか?」
「……ええ。そうですわね」
「ならば、いずれ彼らの上に立てるように励めばよいだけだ」
菊姫は真剣に物事を見詰め始めていた。
実戦の空気に触れて、刺激を受けている。いい傾向だった。
岡部五子元信は富士浅間神社の傍にある浅間街道にいた。
馬の口を縛り、馬蹄には布を付けている。兵士が身に着けている具足にも布を挟んで、金属がこすれる音が出ないようにしていた。
奇襲前である。
浅間街道の伏兵は七百人。備大将は岡部久綱。元信は副将だった。
「ほーへー。それが種子島っスか。そんな玩具が役に立つとは思えないんスけどね」
「静かにしてくださいよ、三浦の穀潰しさん」
「ほほほ北条早雲の孫であるこの俺っちが穀潰しだと――」
「愚弟が失敬」
元信の手下に訝しげな目を向けていたのは三浦氏満。
彼は兄の三浦正勝に拳骨を落とされ、引きずられていった。
元信には二十丁の鉄砲が付けられている。
普通なら足軽に持たせるのだろうが、元信はそれを武者に持たせていた。
たったの二十丁では威嚇にしか使えない。脅しならば効果を見込めるのは最初の一発だけで、二発目からは脅しにもならないだろう。それに再装填に時間がかかりすぎて、二発目を装填した時に乱戦になっていれば、同士討ちを避けるため撃てなくなる。
そう思った元信は鉄砲を撃ち終わった後は、それを捨てて斬り込むつもりだった。
鉄砲足軽は狙撃後に斬り込めるほど士気が高くない。それなら最初から槍でも持たせた方がまだマシだ。と言うわけで鉄砲武者が生まれたのである。
「父上、忠兵衛、そしてお師匠」
元信は身近な人物の顔を脳裏に思い浮かべる。
無骨な父、美形だが嫌味な弟、そして外道な坊主。
そこで元信は戸惑った。身近な人物の中に、外道坊主が入っているのはなぜだ。
九英承菊とはまだ二ヶ月しか付き合いがないのだ。家族と同列にするのは間違っている。
「いやいやいや、ありえねーですから。あの人、お坊さんですから」
元信は首を振る。
意識を戦場に引き戻した。遠くから戦の音が聞こえていた。
初陣だった。
勝てる。そう思った。武人の本能。いや、女の勘である。
◇
激戦だった。
中野台にいた五百の今川兵は、今や二百まですり潰されていた。
富士川が紅く染まっていた。
「まだ崩れないのか。朝比奈泰能、見事な戦いぶりだ。正直侮ってたわ」
武田晴信は感心していた。
並みの軍なら百も死ねば潰走している。いや、最初の一撃で粉砕されていたはずだった。
富士川を渡ったため突撃の勢いは減っていたが、甲州兵の突撃を駿河兵が止めるとは予想外だ。
何が敵将の心を支えているのだろう。今川宿老としての意地だろうか。
何れにせよ下克上の世の中である。泰能の忠誠は、敵ながら天晴れだった。
「板垣に伝令! 侵掠すること火の如し!」
晴信は鉄製の軍配を突き出した。
当意即妙。使番が走り出す。
名馬の産地、甲斐の騎馬が一斉に嘶いた。
虎の子の武田騎兵を率いるのは四天王の板垣信方。
朝比奈泰能の命運はすでに尽きていた。
「主君に恵まれなかったようだな、朝比奈泰能。このあたしが引導を渡してやろう」
法螺貝の音色と共に、瀑布のごとき勢いで武田騎兵が疾駆する。
二百という数でしかないが、足軽の一千や二千は簡単に蹴散らすことができる騎兵だった。
暫くすると、空高く槍が掲げられる。
その穂先には兜首が突き刺さっていた。苦悶の表情を浮かべた男だった。
「朝比奈備中守泰能、討ち取ったので逃げていいですか!?」
ようやく敵の大将が死んだらしい。
だが、これは何だ。晴信は腹を抱えて笑ってしまった。
敵将の首を取ったのは、よりにもよって足軽。しかも小娘だった。土臭い農民である。
「朝比奈が農民に首を取られるなんてな。最後まで不幸なやつだ」
敵軍から撤退の太鼓が鳴り響いていた。
大将が死んで、慌てて逃げ出すことにしたのだろう。
彼女の頭の中では、すでに次の戦が練られている。
ここで首を取れば取るほど、後の戦で楽ができるのだ。
逃がした敵は蒲原城に入るだろう。そうなれば駿河侵攻がさらに遅れることになる。
「さて、追撃するか」
武田晴信は何の違和感も抱かず、当然のように下知していた。
「我、勝てり」
黒衣の軍師が呟いた。
一瞬のことだった。
今川軍を追撃していた武田騎兵の横合いから、銅鑼を鳴らしたかのような轟音がしていた。
種子島だ。
すぐに気付けたのは武田晴信と山本勘助だけである。百戦錬磨の武将、板垣信方ですら何が起こったのか理解できていない。
本来、馬とは臆病な生き物である。
鉄砲の轟音に驚いた馬が竿立ちになり、騎馬武者が振り下ろされていく。
さらに浅間神社の方角から、鉄砲一斉射に合わせて伏兵が現われた。
流血川からも七百ばかりの伏兵が出現している。
両軍は同時に突撃を開始する。
左右から横槍を入れられ、武田の精鋭が次々に討ち取られていった。
「板垣信方様! お討ち死に!」
――板垣が鉄砲で死ぬとは、武田四天王らしくない最後だ。
それはつい先ほど、朝比奈に対して抱いた感想によく似ていた。
「ひぃぃぃ! もう駄目です! 逃げますぅー!」
朝比奈泰能を討ち取った足軽娘は兜首を刺している槍を捨てて逃げ出していた。
一万の今川軍を破った武田軍は、今や烏合の衆に成り果てている。
「これは……まさか……」
晴信は軍配を取り落としていた。
「姫さま! 撤退の下知を!」
山本勘助が叫んでいる。
「勘助! これは! これは何だ!?」
「釣り野伏です! そんなことはどうでもいい! もはやここは死地ですぞ!」
驚愕すべきことだった。
謀多きは勝ち、少なきは負けるという。
敵は晴信が皮算用している間にも、膨大な数の軍略を廻らしていたのだ。
この分だと大宮城から出て来た敵兵が退路を塞いでいるのだろう。晴信は大宮城に忍が入ったことに不自然さを感じていたが、それは杞憂ではなかったのだ。渡された密書に書かれていたのは、時間稼ぎの虚言ではなく、決戦に参加しろという指示だ。
「敵はここであたしを殺す気だ。何なんだ、この相手は。何を考えてここまで策を練ったんだ?」
「姫さま! 姫さま! ……っ、失礼を!」
乾いた音がした。勘助が晴信の頬を叩いていた。
「姫さまは武田将兵の命を預かっているのですぞ! それが何たる有り様か! 武田の後継者たる自覚すら失われたのか!?」
隻眼の軍師は命をかけて諫言していた。
一瞬、晴信は父親に叱られた小娘の顔をした。だが、すぐに気を取り直した。
「……撤退する。それと勘助。すまなかった」
配下が拾い上げた軍配を受け取った。ここからが正念場だった。
◇
『富士川の戦い』は痛み分けに終わった。
退路を富士信忠に塞がれた武田勝千代晴信だったが、国に帰るため必死になっていた甲州兵はまさしく死兵と化していた。富士信忠の軍はあっさり蹴散らされ、武田晴信を取り逃がしている。もっとも、俺もそう簡単に晴信の首が取れるとは思っていなかったため、落胆することなく結果を受け止めていた。
今川軍は三千の将兵、多数の武将、そして宿老の朝比奈泰能を失っている。
武田軍の死者は一千人。四天王の板垣信方が討死にしていた。
武田軍は兵力の半数を失うという壮絶な事態になっていたが、それでも被害は今川の方が多かった。他にも駿河北部の村々が略奪を受けており、家臣に褒賞を与えれば大赤字である。
武田にしても得た物は何もなく、失った物ばかりの戦だった。
そう言うわけで、痛み分けである。
本当は今川の敗北なのだが、大名の面子とやらで今川が負けを認めるわけにはいかないのだ。
「貴殿の働き、比類なし。独断で武田を攻めたのは褒められたものではないが、宿老である朝比奈備中の同意もあったため不問と致そう。貴殿がいなければ駿河の半分は失われていただろう。大義であった」
「拙僧ごときに勿体なきお言葉です」
戦いから一週間が経ち、今川館の城主の間で論功行賞が行われていた。
前みたいにぺらっぺらの感状だけではなく、大名物の茶入れである酸漿文琳(ほおづきぶんりん)も下賜されている。
「それから興国寺城を貴殿に任せたい」
「暫く」
一気に城持ちまで抜擢されるという話だったが、俺はそれに待ったをかけた。
新参者の俺が城持ちになれば、家中の和を乱してしまう。名門の血筋であればともかく、俺は氏素性の知れない者である。
城を与えるなら俺ではなく。
「僭越ながら申し上げます。能うならば興国寺城は菊姫様にお与え下さい。拙僧はその後見を務めさせて頂きます」
「……ふむ」
「お言葉ですが」
俺は声をひそめながら、膝を前に出した。内緒話である。
「菊姫様の家中での声望が高まっており、譜代の皆様から面会を求められております。このまま駿府に置いておけば派閥が生まれるでしょう」
そうなれば後継者を氏輝に押している氏親は、いずれ菊姫を冷遇せざるを得なくなる。そうなる前に遠くに追いやってしまえとそそのかしているわけだ。
「貴殿はそれでよいのか?」
「その方が菊姫様のためになりましょう」
「謙虚なものだな。相分った。興国寺城はわが娘に与えよう」
俺は内心で微笑んだ。
これで直属の武力が手に入ったわけだ。
それから。
俺たちは二百の兵士を連れて東海道を進んでいた。
「おーっほっほっほ! このわたくしが興国寺城主ですか! 興国寺! 名門のわたくしに相応しい、素晴らしい響きですわ!」
我らが姫は手の甲を口元に当てて高笑いしている。
無理やり訓練させた甲斐があって一人で馬に乗れるようになったのだが、姫が乗っているのは農耕用の愚鈍な駄馬である。まったく様になっていなかった。
「姫さまは今日も絶好調ですね。……はぁ」
「何ですの、氏広さん。辛気くさいですわよ?」
「……姫さまって幸せな頭をしていますよね。たまに羨ましくなります」
関口氏広のテンションは皮肉を吐くほど下がっていた。
氏広にとっては、これは左遷でしかない。
と言っても関口家は一門衆の中でも重要な役割を持っている。幕府との連絡要員である走衆という役目があり、完全に干されたわけではなかった。
「直訴すればよかったのに、氏広っちは素直じゃないなぁ」
岡部元信が馬の背に寝そべり、空を見上げてあくびをしていた。
元信の言うように、配置換えを願っていればそれが通っていたはずだ。だが氏広はそれをよしとしなかった。
氏広は最後までうつけ姫の味方をしていた一門衆である。何だかんだ言って姫の味方だった。
「で、なぜあなたがここに居るんですか」
「五子はお師匠の世話役だからね。弟に家を乗っ取られてるし、しゃーないでしょ。それとも氏広っちは天涯孤独になってしまった五子を見捨てるん?」
「氏広っち言うな! あなたも今川家の一員なら、今川一門には敬意を払いなさい!」
「血筋を自慢されてもねぇ。五子だって藤原南家工藤氏の末裔なんよ?」
何気に駿河の豪族は名門ばかりだった。先祖を探すと意外な名前が出て来たりするものである。
「あなたが藤原南家? 笑わせてくれるわね。どうせ自称でしょう?」
「そりゃ五百年以上前のことだから本当のところはわからないけどさ、氏広っちだって足利の分家の分家の分家だよね。ぶっちゃけ微妙だよ」
「な、な、何ですって!?」
どうにもこの二人、相性が悪いらしく暇があれば口喧嘩をしていた。いや、喧嘩するほど何とやらと言うやつかもしれない。
「いやぁー、楽しみっス。興国寺城はかつては北条早雲の居城だったんスよ」
あと三浦氏満がちゃっかり付いてきている。
氏満は先の戦では軍監として、活躍した兵士の記録を付けるという役職に就いていたのだが、どうやら大量の記載漏れがあったらしく、祖父の三浦範高に勘当を言い渡されていた。肉親の情がなければ切腹させられていただろう。
三浦母に泣きつかれたから引き受けてしまったが、俺としてはゴミを押し付けられたような気分だった。
「わたくしの快進撃はここから始まるのですわ! おーっほっほっほ!」
高笑いをしている姫を横目に、俺たちは馬を止める。
そこは緑だった。植物が生い茂り、景色がほとんど見えなかった。木々の上から櫓の先端がかろうじて見えているぐらい、緑が鬱蒼と生い茂っている。
「……あ、あの。まさか、興国寺城とは」
「いい響きだよね!」
「あれが北条早雲の居城っスか!」
「……私の左遷先です」
「三方を沼地に囲まれた天然の要害だ。空堀と土塁があるようだな」
全員、反応がバラバラである。まったく息が合っていない。
ああ、それと。
「しししし師匠! いいえ、雪斎さん! まさかあれがわたくしの城なんですの!?」
俺こと九英承菊は興国寺の住持に任命され、それにともない名前を太原崇孚雪斎に改めていた。
――太原雪斎。
後の今川家の宿老。執権。宰相。大軍師である。
「城下町も見当たらないようですし、本当にここが?」
イメージと違うと騒いでいる姫に、俺はニヤリと笑いかける。
「左様。あれがお主の、今川義元の居城である」
そして、菊姫も城持ちになるため、これを機に元服。
烏帽子親は岡部久綱が務め、ついに今川義元を名乗ったのである。
「それと、私はお主の師を辞めたつもりはない。師匠と呼べ、この馬鹿弟子が」
「わたくしも、今まで通りに。できれば菊と呼んで欲しいですわ」
なんか義元が色気づいていた。なにこれ。きもい。