今川義元の野望(仮)   作:二見健

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5.内乱の気配

 武田信虎の配下に、加賀美虎光という人物がいた。

 

 加賀美家は名門である。

 新羅三郎義光の孫、遠光を祖に持つ武田の分家だった。遠光の子らは秋山、小笠原、南部という支流を生んでいる。

 

 四百年前に枝分かれした一門衆だ。武田信虎にとっては従順な家来ではなかったのだろう。

 

 ――誅殺された。

 

 一時の感情に任せて手討ちにしたと言われているが、真相は定かではない。

 しかしこの事件がなければ、武田信虎が粗暴で傲慢だったと言われることはなかったはずだ。

 

 虎光殺害を諫めた家臣がいた。馬場虎貞、内藤虎資である。

 今川への出兵に反対した家臣がいた。山県虎清、工藤虎豊である。

 

 いずれも摂津源氏や藤原南家を祖としており、出自不明の豪族ではない。武田家の譜代だった。

 

 彼らも次々に誅殺された。

 

「中央集権を目指すなら、まずは小山田や穴山を討つべきだろう。やつらは武田に弓引いたという前科を持っているんだからな。つまり、政治的な理由はなかった。私的な理由で殺したというわけだ」

 

 武田勝千代晴信は法堂で燃え上がる炎を眺めていた。

 

 熱気に満ちた部屋である。

 滝のように汗が流れ、少女の髪はしとどに濡れていた。肌を火照らせた少女の姿は、男ならば見ているだけで涎を垂れ流すほど色気に満ちていたが、彼女に色目を使う男はこの場にはいない。

 

「……御館様の家督相続で、叔父の油川信恵を支持したのが穴山と小山田ですからな」

 

「なんか胡散臭いんだよな、あいつら」

 

 片目が見えず片足が動かない異形の軍師、山本勘助が気怠げに口を開いた。

 

 かつて武田信虎は祖父の武田信昌、叔父の油井信恵、穴山、小山田を敵に回していた。敗北した油井一族は壊滅したが、他は国内の混乱を抑えるために赦免されている。おかげで穴山と小山田は従属こそしているが、独立性を維持したまま残ってしまっていた。

 

「無念です。私の父はどうして殺されなければならなかったのですか」

 

 内藤虎資の娘、内藤修理亮昌豊だった。

 難を逃れた内藤昌豊は表向きは武田家を出奔したことになっているが、工藤祐長という偽名を使って晴信のもとに身を寄せていたのである。

 

「内藤家が何をしたのです! あんなものは諫言ですらないと言うのに!」

 

 怒りに震え、涙をこぼしている内藤昌豊だったが、晴信も勘助も振り返りもしない。

 

「教えて下さい、姫さま!」

 

「……あ、えーっと。誰だっけ?」

 

「なっ! 内藤修理です! 修理亮昌豊!」

 

 晴信がもの凄く失礼なことを言っていた。

 昌豊が唖然として金魚のごとく口をぱくぱくしている。

 

 この少女、恐ろしく影が薄いのである。

 容姿にもまったく特徴がなく、少し前に話をしていた相手に顔と名前を忘れられるほどだった。

 

「まぁどうでもいいか。で、父上は暴君と化しつつあるわけだが」

 

「よくありません!」

 

「……国内の緊張が高まりつつあります。御館様が屍山血河を築かれるか、千々に乱れた甲斐の豪族たちが群雄割拠するか、どちらかになるでしょう」

 

 昌豊を無視しながら勘助が説明していると、それに補足を付けた者がいた。

 

「あるいは姫さまが屋形を襲うか、ですね」

 

 高坂弾正忠昌信(春日虎綱)。

 ひまわりの花のように可愛らしい美少女である。

 

 父の死後、姉夫婦に家から追い出されたという経緯を持つのに、少女の笑顔に陰はなく、むしろきらきらと輝いていて眩しいほどだ。

 

 富士川合戦で朝比奈泰能を討った農民娘だった。泰能の首は今川家に奪い返されていたが、晴信は美少女が好きだったので小姓に取り立てていたのである。

 

「謀反を勧めるのか、弾正」

 

「いえいえ、滅相もございません。御館様に疑われて斬られるのが関の山でしょうから、今のうちに逃げておきましょう!」

 

「なぜそうなる」

 

 高坂昌信には才能があったのだろう。

 教養のない農民の出とは思えないほど頭がよく回る。事あるごとに「逃げましょう」と言うのが鬱陶しかったが、その思考には閃きがあった。

 

 暴君が勝つか、甲斐が砕けるか。

 そこに第三の道を見出すのは、常人では不可能だろう。知勇を兼ね備えていなければ、口に出すのも憚られる言葉だった。

 

「……支度だけは行っておくべきでしょう」

 

「勘助。お前もか」

 

「……最悪の場合に備えておくのです。次の屋形のことですぞ」

 

 次郎のことかと、晴信は苦々しげに顔をしかめた。

 

 武田次郎信繁。晴信はこの妹のことが嫌いではない。むしろ好意を覚えていた。

 素直なのだ。父を敬い、姉を慕う。そこに邪心がないのは顔を見ればよくわかる。

 

 それは信虎も同じなのだろう。

 信虎は信繁を目に入れても痛くないほど可愛がっていた。

 

 最悪、武田の屋形は信繁に譲られることになるかもしれない。

 そうなればまたお家騒動である。

 国を割って争い、誅滅させられた油井一族のように信繁が死ぬ。

 

 いや、次は今川や北条が介入し、以前よりも酷いことになるだろう。

 

 だから先手を討たなければならない。それは晴信にもわかるのだ。

 

「父と妹だぞ、お前ら」

 

「もはや争いは避けられません。姫さまが動かなければ、譜代が一斉に離反するだけです。譜代を斬ったのです。彼らの恐怖は凄まじいものがあるでしょう」

 

「怖いです! 逃げましょう!」

 

 内藤昌豊の発言は誰も聞いていなかった。

 高坂昌信の発言は聞こえていたが無視された。

 

「……親不孝ではありますが、下克上の世。これが定めなのでしょう」

 

「勘助。これがお前が言っていたことなのか?」

 

 晴信と勘助が初めて会った時のことだった。

 信虎と喧嘩をした後、ひとり泣いていた晴信の前に現われ、この男はこともあろうにこう言い放った。

 

『天下一の軍師、山本勘助でございます』

 

 泣いている姫を覗いた痴れ者は、天下一の軍師を自称した。

 それがおかしくて話を聞いてみると、老人は熱く軍略を語り、晴信はその知識の量や見識の高さにすぐに魅了された。

 天下を目指すのも面白そうだ。そう思って召し抱えた。

 

『おそれながらそれがしが、姫さまを天下人に育ててさしあげます』

 

 これもその策の一つなのか。

 下克上をしなければならないのか。

 

『ともに天下を取ろうぞ、勘助』

 

 晴信はこう答えた。その日、晴信と勘助は共犯者になった。

 晴信が止まれば、それは裏切りだ。勘助はそれを責めることはないだろうが、晴信は死ぬまで後悔するだろう。

 

 晴信は悩んだ。考える時間はまだ少しだけ残っていた。

 

 

 

 

 

    ◇

 

 

 

 

 

 興国寺城の城主は今川義元だったが、先日ようやく十四歳になったばかりの箱入り娘が政事(まつりごと)を執り行うのは無理があった。

 

 と言うわけで、政務は俺が補佐することになっていた。

 

 やらなければならないことは開墾、治水、裁判、徴税の他に、動員計画の作成、治安の維持、街道の整備、公文書の発行、兵糧や武器の管理などだ。並べてみると激務のように思えるが、決してそのようなことはなかった。

 

 俺もかつては政務とは書類仕事に忙殺されているというイメージを持っていたのだが、実のところは暇である。

 政務は朝に一刻、夕に一刻、それ以外は授業に充てていた。

 

 奉行を任命すれば、後は報告待ちだ。

 

 城主の仕事とは家臣のコントロールであり、言ってしまえば管理職。企業の社長のようなものである。綱紀の粛正のため現場に顔を出すことも必要だが、基本的に事務所に引きこもっていた方が社員たちは安心するというもの。

 

 これぞ身分制度の特権だった。……ミスれば死ぬけど。

 

「遠からん者は音にも聞け! 近くば寄って目にも見よですわ!」

 

 俺が御殿で政務を執っていると、庭から今川義元の大音声が流れ込んで来る。

 奏者や祐筆などの側近たちが、ちらっと縁側の向こうに目をやっていた。

 

「これが『今成通(いまなりみち)』の上鞠(あげまり)ですわ! おーっほっほっほ!」

 

 白い玉が、ふわりと浮き上がっていた。

 

 退屈そうに欠伸をしていた岡部元信が落ちてきた玉を蹴り飛ばし、関口氏広が危なげに足で拾って次に繋ぐ。職場から拉致られてきた侍の少女たちが玉を回すと、第一の座(最初に蹴る人)の義元に玉が戻る。これを繰り返して、玉を落とした者が敗北である。

 

 見ればわかるが蹴鞠だった。

 

 俺はビキリと、米神に血管が浮き上がるのを感じた。

 これはあれか。真面目に仕事に励んでいる俺への当てつけか。

 

「ひぃぃぃぃ! ごごごご家老! そろそろ休憩を入れてもよろしいのでは!?」

 

「……む。そうか」

 

 休みをくれてやればこれだ。せめて俺の見えないところで遊んで貰いたいのだが。

 

 溜息を吐いていると、鞠を胸に抱いた義元が盛りの付いた犬のように走り寄って来る。

 

「師匠。お仕事はもう終わったんですの?」

 

「一服しているだけだ」

 

「師匠も参加なさいます? わたくしの蹴り技の数々、お見せして差し上げますわよ?」

 

「いらん」

 

 久しぶりの蹴鞠にテンションが上がっているらしい。普段よりも二三本、頭のネジが弾け飛んでいるようだった。

 

「ちょっとだけ。ね、ちょっとだけですから」

 

 しかも、しつこい。

 唯一の特技と言ってもいい蹴鞠を披露したくて仕方がないようだ。

 さながら褒められたがっている子どもだった。

 

 思えば哀れな娘である。

 本来なら親兄弟が褒めてくれるはずなのに、大名の娘に生まれてしまったばかりに肉親の情というものを知らないのだから。

 

「参加はできないが、ここから見物させて貰うとしよう」

 

「はい! 『今成通』の実力、御覧に入れてみせますわ! おーっほっほっほ!」

 

『成通』とは平安時代に『蹴聖』と呼ばれた蹴鞠の名人、藤原成通のことである。

 たしかに義元は当代の名足だったが自画自賛も甚だしく、全方位から白け切った視線が向けられている。

 

 なのに義元は空気を読まずに高笑いをするばかりだった。

 

 俺は茶坊主が運んできた湯飲みを受け取って一息に飲み干した。ぬるかった。

 首を傾げながらもう一杯貰ってみるが、やはりぬるかった。

 

 気の利かない坊主だと冗談交じりに思っていると、天井から黒い影が落ちてくる。

 

「あの。ご主人さま」

 

 参入したばかりの女忍、楯岡道順である。

 

 今日は世話係の時のような着流し姿ではなく、本業の忍装束だった。ただ、なぜか覆面は付けておらず素顔を出している。

 

 少女は黒い着物(ミニスカ風)の下に、針金を編んだ帷子を着込んでいた。それにしても、見れば見るほど巨乳である。

 

 あと俺の呼び方がお坊さまからご主人さまに変わっていた。

 

 俺の感想は、あざとい。これに尽きる。

 

「場所を変えるぞ」

 

「……えっ? あ、その」

 

 この女忍、任務の報告に来たのだろうが、どこか一つ抜けていた。

 人目があるところで忍者の格好をして出現すれば機密も何もない。女中の格好をして耳打ちをするとか、他にやり方はあっただろうに。

 

「やだ……まだ昼間なのに……ございますですよ……」

 

「聞こえているのか。場所を変えると言っている」

 

「うひゃぁっ!」

 

 道順が、ぼーっとしていた。

 声をかけるとハッと飛び跳ねて天井に張り付いた。蜘蛛のようである。凄い技術だと思うのだが、何がしたいのか理解不能だった。

 

「そんな、ご主人さま。私、まだ覚悟ができてございませんですよぅ!」

 

 覚悟とは何だろう。

 若干不機嫌になりながら言うと、少女は困ったように身をよじって恥ずかしがっていた。

 

 なにこれ、うぜぇ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 高天神城は遠江南部、遠州灘の近くにあった。

 史実では武田信玄が攻略を諦めて素通りした城である。小さな山の上に立てられているのだが、その山があまりにも急斜面だった。石垣はなかったが、土塁や堀割がある。防御に優れた山城だった。

 

「……おのれ、陸奥守信虎。おのれ、勝千代晴信」

 

 富士川合戦の序戦で、一万の兵を率いて大敗した老人がいた。

 

 高天神城主、福島正成である。

 

 老人は城主の居室で、真っ昼間から酒を浴びていた。

 傍らで酌をしているのは艶めかしい美女である。老人に囲われている歩き巫女だった。気取った言い方をすれば白拍子と言うのだが、実際のところはただの娼婦だ。

 

「父上。大殿からの使者が来訪しておりますが」

 

「……またか」

 

 襖の向こうからの声に、福島正成は溜息を吐いた。

 

 息子の福島弥四郎である。酒と女で堕落している父を見たくなかったのか、弥四郎は襖を開けて中を覗こうとはしない。

 

「父上。流石にこれは不味いのでは……?」

 

「どこがだ?」

 

「病に伏せていると嘘を吐いて、呼び出しに応じないことです」

 

「だから、それのどこが不味いと言うのだ。病気と偽るのは兵法の基本であろうに」

 

 大敗した正成は主君の氏親に何の釈明もせずに、自分の兵だけを引き連れてさっさと高天神城に帰還。それからずっと城に引きこもっていた。

 

 このままでは福島家は取り潰されるかもしれないと危機感を抱いている弥四郎に、しかし正成は悪びれもしない。人を食ったような言い方をして丸め込もうとするばかりである。

 

「ですが父上! このままでは福島はお終いですぞ!」

 

「……はぁ。貴様というやつは」

 

 正成は理解していた。

 今川館に入れば生きて帰ることはできないと。無理やり切腹させられて、一族に首桶が送られることになるだろう。先祖の働きによって手に入れた城も没収されて、旗本衆の一人に数えられることになる。

 

「いいか、弥四郎。高天神城がある限り、福島は滅びぬのだ。この城を攻め落とすなら一万の兵が必要になるだろうが、武田に大敗して兵を失った今川がどこからその兵を捻出すると言うのだ?」

 

「父上、あなたはまさか」

 

「馬鹿者。誰が謀反などするか。わしはな、いずれ氏親が頭を下げてくるのを待っておるのよ」

 

 正成は主君の足下を見ていた。

 最終的に許されるだろうと確信しているからこそ出仕に応じないのである。

 

 厭らしい笑みを浮かべる老人に、傍らの女が気味悪がって離れようとする。それは許さぬと老人の腕が女を引き寄せた。

 

 何時の間にか弥四郎が居なくなっていた。余計なことをしなければいいがと思っていると、すぐに襖の前まで戻ってくる。

 正成はぐいっと盃を飲み干すと、気怠げに酒気を吐き出した。

 

「何だ、まだ何かあるのか? 小言なら後に――」

 

「……それが、堀越殿がお越しになられたのですが」

 

「会おう」

 

 正成は盃を捨て、女を突き飛ばす。

 

 福島正成は酒にも女にも溺れていなかった。所詮は嗜み。気慰めである。襖を開けると、唖然とした息子を捨て置き、肩を怒らせて城内を闊歩する。

 

「おのれ、武田信虎。おのれ、武田晴信」

 

 老人は憎々しげに吐き捨てる。

 

 かつては今川最強の武将ともてはやされ、遠江平定においては最前線で槍を取っていた。やがて遠江の国主並みの発言力を手に入れた。

 それが今や主君を相手取って綱渡りの外交をさせられている。

 

 それもこれも武田の所為だ。

 

「……おのれ、今川義元」

 

 そして、今川のうつけ姫の所為だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

「『おのれ、今川義元』と。確かにこう言ったのだな?」

 

「……はい。福島の声は、憎悪に染まっていたのでございますです」

 

 場所は変わって櫓の上。

 城下を一望できる高所にあり、高所恐怖症なら足がすくんでいるだろう。

 

 道順は櫓の屋根の上にいた。他者が介在できない、吹き抜けの密室である。

 

「堀越殿とは堀越左京(貞基)のことか」

 

「いえ、それがどうにも。高天神城に忍はいませんでしたが、密会の部屋には警備兵が多すぎてとても近付けませんでした。ですので確認はできていません。未熟な忍で申し訳ございませんです」

 

「未熟とは思っていないが、忍がいないと?」

 

「正確には、実力のある忍がですけど。あんなものは、ただの真似事でございますですよ」

 

 大した自信だった。だが、信用しても構わないだろう。

 楯岡道順。別名、伊賀崎道順の言うことだ。謀略で城を陥落させ「伊賀崎入れば陥ちにけるかな」と謳われた、歴史に名前を残してしまった伊賀忍者である。

 

「やはり、福島は……」

 

 俺は独り言を呟き、黙り込んだ。忍に聞かせる話ではない。

 

「いずれ高天神城の兵糧を焼くことになるかもしれん。備えておけ」

「……はっ」

 

 楯岡衆、総勢十人。

 焼き働きをすれば、また死人が出るだろう。わかっていて、また命じた。少女の返事には感情の色が消え失せていた。

 

 お互いに業が深い。

 必要があれば俺は彼女に死ねと命じるだろうし、少女はそう言われることを覚悟している。こんなものは美しい主従関係ではなく、ただひたすらグロテスクだった。

 

 俺が地上に降りて櫓を見上げてみると、そこにはもう誰もいなかった。

 

「あっ。今日のお昼ご飯は、鮎の塩焼きでございますですよ。ちなみにご主人様は頭からバリバリ食べる性格だったりします?」

 

「……よくわかったな」

 

 背中に声をかけられ、振り返ると女中姿の道順がいた。

 何時の間に移動して着替えたのだろう。やはりホラーだ。

 分身の術を使っているのではないかと疑ってしまう。物理法則は破ってはいけないと思います。

 

「ご主人さまは何時も米粒一つも残さずに綺麗に食事をなさっておりますから、教養があるんだなぁと思わず感心してしまうのでございますです」

 

「教養などあるものか。食い意地が張っているだけだ」

 

「その食い意地が張っているお方は、ご主人さまよりもはるかに汚らしく食事をするのでございますですよ」

 

 名前を言われなくても誰なのかわかってしまった。

 あの脳筋はガツガツと米をかきこむ度に米粒をこぼし、魚の骨はぐちゃぐちゃして、汁物のお椀には葉っぱがくっついて残っている。

 岡部元信。その行儀の悪さは今川家ナンバーワンである。

 

「そう言えば今さらなんですけど、ご主人さまはお坊さまなのにお肉を食べてもいいのでございますです?」

 

「肉食だが僧職系男子だ」

 

「……へ?」

 

 俺にしては珍しい失態だった。

 滑っていた。口が滑って、ギャグも滑っていた。

 

 それはともかく、道順の言うように俺は肉も魚も食う生臭坊主と化していた。

 寺で飢えていた時はともかく、今の仕事は身体が資本。食わなければやっていけないのだ。

 

「雪斎さま! 一大事です!」

 

 食堂に向けていた足を止める。

 

 関口氏広が転びそうになりながら駆け寄って来た。

 着物の裾がえらいことになっているのに、氏広は恥ずかしがる素振りを見せない。それだけ重要な話を持ってきたようだ。

 

「まずは落ち着け。大事があるならば、大声で叫ぶのは愚の骨頂である」

 

「これは失礼しました」

 

 氏広が息を整え、衣服を正しながら気を静める。

 

 肩でしていた息が収まると、氏広は訥々と語り始めた。

 

「大殿がお倒れになられました」

 

 時が来た。

 

 思わず笑みが浮かびそうになった。ついに始まったのだ。

 

 

 

 

 

    ◇

 

 

 

 

 

 今川氏親が倒れた。

 

 病名は不明である。この時代の医学とは漢方薬学であり、統計による裏付けがあるため効果がないとは言い切れないのだが、現代の西洋医学とは比ぶべくもない。実際、詐欺師のような医師は少なくなかった。

 

 ともあれ氏親と面会できるのは医師の他には親族と宿老だけだった。

 

 氏親が倒れたことは家中では秘すべきという意見もあったようだが、氏親本人があえて公言するよう命じていた。病を隠し通すのは無理があり、もしも情報が漏れてしまった場合、むしろ動揺が大きくなるとのこと。

 

 氏親が伏せっている中、政務を代行したのはその妻だった。

 

 寿桂尼(じゅけいに)。

 公家の中御門家から嫁いできた女性である。

 

 夫に変わって政務を執ったため、後世では女性の戦国大名と呼ばれている人物だった。

 

「大殿の容態は如何様であったか?」

 

「え、えっと。わたくしは医学の専門家ではないので何とも言えませんが」

 

「そうではなく、素人目に見てどうだったかと問うておるのだが……」

 

 岡部久綱が弱り切った顔になっていた。

 

 今川館の、かつて義元が菊と名乗っていた頃に住まいにしていた三の丸。

 

 そこに今川家の家臣たちが集まっていた。

 

 岡部久綱、元信、貞綱の親子。

 朝比奈泰朝。

 三浦正勝、氏満の兄弟。

 関口氏広と義父の氏録、実父の瀬名氏貞。

 

 他にもその身内が集まっており、合計で三十人を超えている。世間話と言うには規模が大きすぎて、謀反の会議に見えるほどだ。

 

 今川氏輝が富士川で大敗したからだろうか。何の工作もしていないのに、義元への期待が高まり、勝手に集まってきていた。期待するのは勝手だが、こうして集結されると面倒なだけである。誰かの策謀ではないかと疑ってしまったほどだ。

 

 氏親は病に伏せているだけで、氏輝や氏豊もこの集会に怒りを表すだろう。

 さっさと解散させなければならないのだが。

 

「ちょっと師匠。これはどういうことですの?」

 

 上座でガチガチに固まっていた義元が、広げた扇子で口元を隠して小声で俺に話しかけてきた。随分とテンパっているようだ。

 俺はその隣で座している。家老として義元を補佐するためだった。

 

「どうと言うことはない。この者たちを安心させればよいのだ」

 

「安心と言われましても……」

 

「生まれながらに他者を従わせて来たお主なら容易いことだろう。今までより規模が少しばかり大きくなっただけのこと。何ら難しいことはない」

 

「……師匠がそこまでわたくしを買っていてくれたなんて。わかりました。不肖今川義元、師匠の期待に応えるため、一肌脱いでみますわ!」

 

 ガバッと立ち上がった義元に、一同の視線が集まった。

 

「おーっほっほっほ! みなさん、不安になるのはわかりますが、案ずることはありません。今川家に義元あり! さぁ、この今川義元に頭を垂れて従い――」

 

「おおぉっとぉ! 足が痺れましたぁぁぁ! 痛いよぅ痛いよぅ!」

 

 今川義元が高笑いと共に世迷い言を口走った刹那。

 

 前の方にいた関口氏広がわざとらしく転がって、大声で泣き真似を始めていた。

 迫真の演技である。恥も外聞のかなぐり捨てた姿には、鬼気迫るものがあった。喧嘩相手の岡部元信が哀れみの目を向けているほどだ。

 

「あら、どうしたんですか氏広さん?」

 

「……この馬鹿弟子が」

 

 俺は立ち上がると義元の腕をつかんだ。「あっ、手を繋ぐなんて……」と急にしおらしくなった義元をそのまま隣室に放り込む。

 

「お主、今何と言おうとしていた?」

 

「それをわたくしの口から言わせようとするんですの!? そんな……恥ずかしいですわ……」

 

「写経百枚」

 

「申し訳ありませんでしたせめて五十枚で許してください!」

 

 魔法の言葉、反省文である。

 

 俺は溜息を吐くと、義元をその場に放置して先ほどの部屋に戻った。

 結局こうなってしまう。

 経験を積める機会だったのだが、失敗も身になったということにしておこう。

 

「お待たせして申し訳ない」

 

 岡部久綱や朝比奈泰朝などの気心の知れた者たちが、気にすることはないと苦笑していた。

 

 ともあれ上座の最上段が空席のままで、俺は話を切り出した。

 

「氏親公の容態は未だ不明である」

 

「回復の見込みはないのか? もしものことがあれば、我らはどうすればいいのだ?」

 

「不敬である」

 

 俺は決して怒鳴らず、静かに告げる。

 不安にかられてこれからの立ち回りを考えていた孕石元泰は、大声には大声を返す人物だった。血の気が多いのである。

 

「大殿が生きるか死ぬかを論ずるなど家来の分を越えている」

 

「それは、そうだが……」

 

 まずは正論から入り、もっともな話だと思わせる。

 

「これより義元公のお言葉を伝える。『義元は長幼の序を守り、今川家を盛り立てる所存』とのこと。義元という名は『義の元』であり、その名のごとく一点の曇りもない異心なき御仁である」

 

 関口氏広や岡部元信が俺を見て「うわぁ」という顔をしていた。

 

 長幼の序というのは即興の作り話だが、異心については嘘は言っていない。たしかに義元に異心はないのだから。

 

「義元公は事が起これば自ら槍を持って、敵を討ち果たさんと欲するだろう。宿敵武田を討ち破った時のように」

 

 おお、と者どもがどよめいた。

 現実を知らなければ、武田を追い払ったという実績はこれ以上ないほど大きく見えてしまう。

 

「故に心配ご無用。皆様方におかれては大事に備えてこれまで以上に鍛錬に励むべし」

 

 俺は両手を畳に付けて無人の上座に頭を下げた。

 

「義元公に平伏!」

 

「ははーっ!」

 

 他の者も同じように、無人の上座に平伏する。「なにこれ?」と戸惑っていた元信が、久綱に頭をつかまれ畳に叩き付けられていた。

 

 謎の儀式である。

 無人の上座に、史実の今川義元が腰を下ろしているような気がする儀式だった。気がするだけで妄想である。

 

「一体なにをなさっているんですの、あの人たちは!?」

 

 部屋の外から義元の声がしていたが、誰も聞いていなかった。

 

 

 

 

 

    ◇

 

 

 

 

 

 今川義元の虚像崇拝事件から二刻後。

 夕暮れに、俺は義元の私室を訪れていた。家臣たちと面会していたのは大広間で、それとは別室である。

 

 部屋には掛け軸や香炉が置かれていた。鏡台には銅鏡が据え付けられ、傍に唐物の櫛が置かれている。貝合わせのための貝も机に並べられていた。

 

 平安時代の姫君の私室のように、寝台は屏風で仕切られている。思わず目を奪われてしまうほどの屏風は、狩野派の大物である狩野元信の作、四季花鳥図だった。

 

「うぅぅ……終わる気がしませんわ……」

 

 義元が墨を涙で滲ませていた。葬式でもあるまいし縁起が悪い。

 

 義元が写しているのは五部大乗経。

 崇徳院が配流先で写経したものと同じである。執念に燃えていた崇徳院でさえすべて写すのに五年かかったと言われているから、義元なら多分死ぬまで終わらないだろう。

 

「残り五枚だ」

 

「本当ですか!?」

 

 義元がガバッと身を乗り出した。必死すぎて見ているだけで情けなくなる。

 

 それにしてもと俺は思う。

 この義元、父親が危篤状態にあると言うのに落ち込んでいるようには見えないのだ。家族の仲があまりに希薄すぎて実感が沸かないのだろうか。

 

「ねぇ、師匠」

 

「何だ?」

 

「師匠のご両親は、どんな方ですの?」

 

「さて。もうほとんど覚えておらんよ」

 

 たった七年しか会っていないだけなのに、もう顔がぼんやりとしか思い出せない。人生の密度が違いすぎて、はるか遠くの記憶になってしまっていた。

 

 義元が微笑んだ。

 

「わたくしと同じですわね」

 

 さて、それはどうか。

 厳密には違うのだろうが、細部にこだわるのは俺の悪い癖だ。だから反論はしなかった。

 義元がそう思うなら、それでいい。

 

「ねぇ、師匠」

 

「何だ?」

 

「師匠は何をなさろうとしているんですの?」

 

「……今頃それを聞くのか」

 

 呆れたが、それでも義元は進歩していた。

 出会ってすぐの頃なら、こんな質問は出て来なかった。

 

 菊姫は与えられる側の人間だった。人の心だけは手に入らなくても、それ以外なら望めば何でも手に入り、何もしなくても生きていけた。

 

 それが今や与えられる側から、与える側になろうとしている。

 今川義元は変わりつつある。それがわかったから俺は微笑んだ。

 

「名前の意味と歴史の流れを見極める、と言ったところか」

 

「意味がわかりません。これが禅問答というやつですの?」

 

「作麼生(そもさん)」

 

「は?」

 

 禅問答と言うから尋ねてみたら、義元は首を傾げていた。

 

 もし俺の手に教鞭があれば、迷わず振り下ろしていたことだろう。

 

「教えたはずだろうが! 作麼生と問われたら説破と答えよと!」

 

「ひぃぃぃ! 忘れてましたすいません! せせせ説破!」

 

「……もうよい」

 

 いよいよ馬鹿らしくなって溜息を吐いてしまう。

 

 なぜか今川義元がいるとシリアスになりきれない。舌打ちしたくなるが、これも一種の才能だろう。むしろこの娘がぽんこつでなければ、主に俺の所為で血みどろのシリアス一直線になっていたかもしれない。

 

 日が暮れてきた。

 義元の写経はまったく進んでおらず、完全に集中力が切れてしまっている。これ以上やらせても無駄だろうから、そろそろお暇しようかと腰を上げると。

 

「……何だ?」

 

「あ、えっと」

 

 義元が法衣の裾をつかんでいた。

 少し歩けば振り解けそうな、弱々しい力である。少女は着物の袖を口に当てて、気まずげに目を逸らしている。

 

「わかった」

 

 俺は短く言うと、その場に腰を下ろした。

 その場で立ちすくんでいる義元に、苛立ち混じりに言い放つ。

 

「何をしている。写経が終わるまで待てと言うのだろう?」

 

「あっ、ええ! そうでした!」

 

 慌てて机に向き直った義元だったが、その手の進みはあまりにも遅い。この分だと戌の刻(午後七時)まで終わりそうになかった。

 

 まぁ、たまにはこういう日もあるだろう。

 

 俺は座禅を組んで、過ぎ去る時に身を任せた。

 

 

 


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