今川義元の野望(仮)   作:二見健

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6.当主怪死

 今川氏親が死んだ。

 辞世の句はなかった。最後は意識不明に陥っていたものと思われる。

 

 葬儀には七千人の僧侶が参加し、曹洞宗最高の法式で行われた。

 

 七千人とは非現実的な数字である。学校の朝礼の十倍以上の人数だ。都の巨大な寺ではあるまいし、それだけの人数が一カ所に集まればまず間違いなく寺がパンクする。

 実際のところは坊主がずらっと並んで一斉に念仏を唱えたわけではなく、入れ替わりに参列しただけだった。

 

 それでも歴史上類を見ない大葬儀であったのは確かだった。

 

 喪主は今川氏輝。今川氏豊は位牌を持つ。

 御太刀持ちは三浦氏員。死者のための御太刀持ちは朝比奈信置。

 棺を担ぐのは岡部久綱と福島正成。

 

 今川義元は女人のため役目は貰えなかったが、それは出家していた姉の玄広恵探(今川良真)も同じだった。

 それは仕方のないことなのだが――こともあろうに福島正成が参列していた。

 

 福島正成は譜代衆から冷ややかな目を向けられていたが、家中の和を優先した寿桂尼が沙汰を後回しにしてひとまず許したのである。

 

 棺の中に六門銭を入れて、龕龕(さがん。棺の蓋を閉じて鎖と布をかけること)を終えると、火葬場まで運ばれる。遺骨の一部は骨壺に、大半は墓所に埋められた。

 

「はぁ、疲れましたわ。葬式ってこんなに大変だったんですわね」

 

「私たちを前にそれを言いますか、姫さま……」

 

 俺は今川家と僧侶の仲介役として奔走していた。それだけではなく参列者の管理という事務仕事も押し付けられ、葬儀が始まれば念仏を唱えていた。義元たちの相手ができないほど多忙だったのである。

 関口氏広も義元に恥をかかせないよう尽力していたようだ。互いに苦労が忍ばれるものだと、顔を見合わせて苦笑してしまう。

 

 さて、本来なら一ヶ月は喪に服すべきなのだろうが、そこは戦国大名。

 当主の死によって家中の統制が乱れたり、他国が蠢動しないとも限らず、葬儀から三日後には早くも新当主の宣言が行われようとしていた。

 

 悲しみに暮れる暇もない。まったくもって武士とは業の深い生き物である。

 

「これより氏輝様による新体制が発足するわけだが、その前に我らの立ち位置を決めておかねばなるまい」

 

 葬儀が終わった翌日、俺たちは三日後に備えて作戦会議を行っていた。

 

「立ち位置? わたくしは兄上の妹で、一門衆に名を連ねる興国寺城主ですわよね。それでいいのでしょう?」

 

「駄目だ。例えば私が讒言を行えば、そなたを切腹させることぐらいは容易いことである」

 

「ししし師匠!? あなたが謀反だなんて、笑えない冗談にもほどがありますわよ!」

 

 義元がぷるぷるしていた。

 冗談では済まない発言だった。実際に俺がその気になれば下克上できる状況である。

 

 俺にできるのだ。他のやつらにできない理由はない。

 それだけに現在の状況は危機的であると言える。

 

 今川氏親は家族の情は薄かったかもしれないが、今川義元の立場を保証していた庇護者だった。それが亡くなれば、義元は嫌が応にも政治に巻き込まれることになる。やらなければ立場を守れないのだ。

 

「政治ってやつだね。めんどくさいなぁ」

 

「誰もあなたに期待なんて寄せていませんよ。猪武者には必要のない知識でしょうから」

 

「今日の氏広っちは何時もより刺々しいよ! 疲れてるの!?」

 

 相変わらず険悪な二人はさておき。

 

「今川家は分岐路に立っている。一つ、先代の政策を引き継ぐ。二つ、先代の政策を切り捨てる。このどちらかを選ばねばならん」

 

「……ん? それってどちらも正しいって答えだったりしない?」

 

「氏親公が存命中ならば、元信の言でよいのだが」

 

 得るものがあれば失うものがあるというのが政策である。非の打ち所がない政策というものはこの世には存在しない。その逆の劣悪極まりない政策は存在するのだが。

 

 だから氏親の政策にも新政策にも、どちらにも一定の理はあると言える。

 

「しかし今回は、片方の政策を取れば今川家に害悪しかもたらさない」

 

 氏親の政策。それは武田との敵対である。

 長年の間、一進一退の攻防を繰り広げている今川と武田はもはや宿敵とも言える間柄だったが、戦争状態が長すぎて体制に限界が生じ始めているのだ。

 

 富士川合戦のように多くの武将やその身内が討ち取られても、領地は一寸たりとも増えていないのである。こんなことを繰り返していて、新当主がまた武田に出兵すると言えば家臣たちはそっぽを向くだろう。

 

 今までは当主が氏親だったからやっていけただけのことである。

 

「つまり、私たちは新しい政策を取らなければならないと」

 

「でもそれって、しんどいよ。何もないところから新しいものを生み出すわけでしょ?」

 

 氏広と元信が難しそうな顔をしているが、義元はきょとんとしているだけだった。

 

「武田との戦をやめるだけでしょう? お二人とも何を悩むことがあるんですの?」

 

「……あ」

 

「……れ?」

 

 唖然としている二人を置いて、俺は頷いた。

 

「左様。義元の言う通り、新政策とは親武田政策のことである」

 

「そんな」

 

「嘘でしょ」

 

「お二人とも! 以前にもこんなことがありましたが、わたくしも成長しているんですのよ!?」

 

「聞け、お主ら」

 

 教育的指導は省略。

 

「しかし新当主の氏輝様はまず新政策は行われないでしょうね。今まで通りにやればそれでよいと考えるのではないかと」

 

「だからこそ我らが新しい道を示すことが重要になるのだ。その目論みは氏輝様とあえて対立することで、政治的な譲歩を引き出すことにある」

 

「……家を割ると?」

 

「存在感を示さなければ、城を奪われ嫁に出されるだけだぞ」

 

 氏広が溜息を吐いた。

 一門衆の一人として、家中の和を乱す行為には抵抗があるようだが、家を割ってでも家来たちからの求心力を高めておかなければ、いずれ踏み潰されるだけである。手段を選んでいられる状況でないことは理解しているようだ。

 

 やりすぎれば危機感を覚えた当主に排除されるが、それでも現在の飼い殺しの状態よりはマシである。

 

「わたくしに兄上に意見しろと仰るわけですわね」

 

「よろしいのですか、姫さま」

 

 義元はけろりとしていた。たぶん何もわかっていない顔だ。

 

「で、わたくしは何と言えばよろしいのです?」

 

 俺は三人に説明を続けた。

 

 

 

 

 

 

 

 

「新たに今川宗家の家督を襲名した今川上総介氏輝である」

 

 今川館の大広間に重臣(一門衆、譜代衆、城持ち衆)が集められていた。

 

 今川氏輝は十七歳の若造で、氏親とよく似た顔をしていた。氏親が小太りであったのに対し、氏輝は痩せ形である。目元にしわを寄せていかめしい顔を作ろうとしているが、あまり上手くいっていなかった。

 

「ちと若すぎぬか」

 

「頼りない風貌ではあるが、中身もまさしくその通りかと」

 

 そこかしこから小声で氏輝を侮る声が上がっていた。

 

 氏輝の顔が朱に染まる。

 

「……せ、静粛に」

 

 それでも一時の感情に任せて怒鳴り散らさなかったのは評価すべきだった。

 ここで怒ったとしても陰口を叩いた者が名乗り出るはずがない。かえって器の小ささを露呈させるだけである。

 

「先の発言は無礼千万であり、本来ならば今すぐ手討ちにしているべきものである。今回は許すが、当主を侮るような発言は以後謹んで頂きたい」

 

「よいのだ、彦五郎(氏豊)」

 

「しかし兄者。ここで釘を刺しておかねば、当主の兄者がますます侮られるだけぞ」

 

「よい。私には実績がないのだ。こうなるのは当然だろう」

 

 氏親の次男、今川彦五郎氏豊が配下たちを睨み付けるのを、氏輝は冷静に静止した。

 

 意外と人物ができているのか、そう思わせてから口を開く。

 

「我が父上は名君だった。足利の連枝(れんし)として関東に出兵し、当地の秩序を回復させた功績によって幕府から遠江の守護職を賜り、斯波との戦にも勝利した。まこと偉大なお方であった」

 

 各々はそれぞれ思うところがあるのか、しみじみと頷いている。

 

「私は父上の偉業を引き継ぐことになった。ゆえに、その路線も継承する。まずは内政に力を入れて国を富ませ、しかる後に宿敵武田を滅ぼすべし」

 

 大きく出たものである。

 武士とは命よりも面子を優先させる奇妙な生き物で、大言壮語を好む傾向にある。本来ならその言葉は好意的に受け止められていたはずだった。

 

 だが、喝采は上がらない。

 多くの者が下を向いて唇を噛んでいる。彼らは何かを堪えるような顔をしていた。

 

 氏輝はその空気に戸惑い、次の言葉を言うべきか迷っている。隣にいる氏豊に助けを求めるも、氏豊もわからないと首を横に振るだけだ。

 

 義元の後ろで正座していた俺が、口元に手を当てて咳を一つした。事前に示し合わせておいた合図である。

 少女の背中がぴくりと震え、十秒ほど躊躇ってから、ようやく口火が切られた。

 

「あ、あのっ」

 

 声が震えていた。続きの言葉が出て来ていない。

 

「やめても構わんぞ」

 

 小声で告げる。

 氏輝に排除されたとしても、たとえ今川が滅びたとしても、俺には生き残る自信があった。義元を連れて他の大名に亡命することもできる。

 

 義元に今川家を背負う器がなければ、諦めるしかない。その時はすっぱり割り切ってしまおうと俺は思っていた。

 

 少女は唾を飲み込み、改めて口を開いた。

 

「畏れながら、兄上に申したき儀がございます。発言を許されたく」

 

 義元の高い声が大広間に響き渡る。

 よどみのない、なめらかな口調だった。数多の視線が少女に集まるも、少女は怯まない。

 

「……うむ。許す」

 

 氏輝は戸惑いながらも発言を許した。当主としての器量を見せているつもりなのかもしれないが、すぐに後悔することになるはずだ。

 

「武田との戦はやめるべきです」

 

 鏑矢が放たれる。大広間がどよめいた。うつむいていた者たちが、一門衆のいる上段を見上げて唖然としている。

 

「戦上手の陸奥守信虎と争ったところで血が流れるばかりで、何も得るところはありませんわ。たとえ土地を得ることができても距離が離れすぎていて援軍が間に合わず、すぐに奪い返されるだけでしょう。武田との戦に利を見出すなら、それこそ甲州全土を手中に収めなければなりません」

 

「……なっ、き、貴様っ。いま何と申した!?」

 

「理解できるよう順を追って説明したつもりなのですが、ならばもう一度言いましょう。武田との戦はやめるべしと申しているのですわ」

 

「貴様! 今川一門が当主に逆らうかぁ!」

 

 身内からの裏切りに、氏輝は激高した。

 勢いよく立ち上がって小姓から刀を奪い取ると、鞘から半分ほど刀身を出して脅しをかける。

 

「ひぃぃぃ! や、やだっ! 死にたくありませんっ!」

 

「……おい」

 

 義元がヘタれた。

 毅然としていた姿が一変し、泣きながら俺にしがみつき小動物のようにガクブルしている。

 

「おい、離れろ。……ええい、喝っ!」

 

「ひぃぃぃぃ! すいませんでも兄上が恐ろしすぎますぅぅぅ!」

 

 俺は義元を睨み付けた。前門の虎、後門の狼である。

 義元は俺にもビビりまくっていたが、それでも氏輝よりはマシだとばかりに俺に抱き付いていた。

 

 いい匂いがした。白壇の甘い香りだ。……どうしてこうなった。

 

 生暖かい視線が俺たちに向けられている。

 しかし、これほどの醜態をさらしていても、俺の目論みは達成されていた。

 

「畏れながら、大殿に申し上げます。義元様の発言には一理あり」

 

 義元の醜態に目を瞑るほど、武田との戦に嫌気が差していたと言うことだ。何でもいいから使えるものはすべて使って、武田との戦を避けようとしている。

 

「甲斐との戦はもはや割に合いませぬ」

 

「内政を整える。それは大いに結構なことと存じます」

 

「武田とのことはそれから考えても遅くないかと」

 

 三浦範高や朝比奈泰朝、岡部久綱らが意見していた。

 

 彼らは切っ掛けを欲していたのだ。今川義元という当主の妹が責任を持つと宣言したからこそ、発言できるようになったのである。武田のことは保留するという逃げ道を用意しておくことも忘れていない。これが政治だった。

 

「――っ! 貴様は興国寺城で謹慎しておれ! ええい、さっさとこやつをつまみ出せ!

「兄者! 怒りを静められよ! 皆の目があるのだぞ!」

 

 俺たちは怒り狂った当主の命令で、小姓たちに叩き出されてしまった。

 しかし俺たちは敗者ではなく勝者だった。

 

 後ろを振り返ってみると、福島正成が武田討つべしと叫んでいたが、時すでに遅し。

 会議の趨勢はもはや決していた。誰も老人の言葉に耳を傾けていない。

 

「……しくしくしく。怖かったですわ、師匠」

 

「まぁ、こやつにしてはよくやった方か」

 

 俺は法衣に涙と鼻水を染みこませている小娘に、溜息を吐かざるを得なかった。

 

 

 

 

 

     ◇

 

 

 

 

 

 史実では今川氏輝は十四歳で家督を相続し、二十四歳で死去している。

 在位期間は十年。その内、氏輝が若年のため寿桂尼が政務を代行した期間が六年ほどだった。実際には四年ほどしか政務を行っていなかったのである。

 

 こちらでは若干というか、かなり時間の流れ方が異なるようで、氏輝は十七歳で家督を相続していた。

 

「二年、待ってみよう」

 

 俺は言う。ここが限界点だと。

 深い理由はない。何となくという、ただの勘だった。二年以内には情勢が動くように思えた。

 

「暗殺でございますですか」

 

「……因果なものだ。坊主が人を殺すとは、末法の世はここにあったか」

 

 俺は質問に答えず、自虐の言葉を吐いた。

 

 時刻は深夜。場所は興国寺城の中にある法堂。

 人の気配は俺のものしかないはずなのに、耳元で楯岡道順の声がしている。気配を殺して潜んでいるのだろう。

 

 俺は精神を整えるためにお経を唱えた。

 長年の習慣で、次第に心が落ち着いていく。

 

「……仏にすがるのは心の弱さか」

 

「仏門一筋に進めないのは、お師匠が器用すぎるからだと五子は思うよ」

 

「こんな夜更けに女一人で出歩くのは感心せんな」

 

「女だけど侍だし。それに五子ほどの腕前があれば、雑兵十人ぐらいならまとめてひねり潰せるからね。えっへん!」

 

 なにそれこわい。

 

 岡部五子元信は小袖に袴を穿いていた。武士の格好である。これに肩衣(かたぎぬ)を着れば公式行事に出ても恥ずかしくない礼服になる。

 

 元信は「どっこいしょー」と言いながら、俺の隣に腰を下ろして胡座をかいた。もう少し女としての恥じらいというものを持って欲しいものだ。まだ十二歳の小娘だが、当時の感覚では結婚を意識してもいい年齢である。これでは嫁の貰い手がなくなって、朝比奈泰朝のように嫁き遅れになりそうだ。

 

「ね、お師匠」

 

「なんだ」

 

「五子はね、夢ができたよ」

 

「そうか」

 

 まったく興味がなかったので聞き流していると、元信が「聞けよ」と俺の頭を殴り付けた。

 イラっとした。弟子が増長するのはよくないことだ。俺は元信の腕をつかむと、体重を乗せて床に押し付け、腕ひしぎ三角固めを決めた。

 

「あたたたた! ちょ、やめっ!」

 

 サブミッションは坊主の嗜みである。

 いくら元信が脳筋で成人男性よりも力が強かったとしても、人間の身体には関節という鍛えられない部分があり、そこを攻めれば呆気ないものだった。

 

「ぷはぁー、ひどい目にあった……お師匠に襲われたって言いふらしてやる」

 

「やめろ」

 

 衣服が乱れ、顔を赤くして、熱っぽい吐息をして、瞳をうるませている少女がいた。

 もしこの場を第三者に目撃されたら、十中八九、誤解されていただろう。

 

 しばらく睨み合っていたが、馬鹿らしくなって座禅に戻る。

 

 俺がお経をそらんじていると、元信が木魚ドラムで遊び始めていた。一分も集中力が保たないのかと呆れ果てる。

 

「五子の夢はね、いずれ別家を立てることなんだ。岡部五子家とかどうかな?」

 

「名前が微妙だな。で、一族はどうするんだ?」

 

「それはまぁ……そのうち増えるし。言わせんなよ恥ずかしい!」

 

 生んで増やすと。

 岡部五子家(一人)というのはギャグなのでやめておくべきだ。

 

「ま、そのうちね。夢って叶わないらしいけど、試しに祈ってみようかなっと」

 

 五子がふっと息を吐いて立ち上がり、寂しげに去っていった。

 

 意味深な言葉を残していったのだが、もしやと思い、残された俺は虚空に声をかけてみた。

 

「あれは探りを入れていたのか?」

 

「……おそらく」

 

「面妖な」

 

 道順の声に、溜息を返してしまう。

 本当に厄介なことになってしまった。あれは坊主に何を期待していると言うのだ。

 

「……ご主人様」

 

「どうした?」

 

「あの。今ちょうど駿府のお城からの連絡があったんですけど」

 

 突然のことだった。あの道順が動揺していたのである。

 任務中はほとんど感情を乱さないあの道順が、俺の前で肩を抱いて恐れ戦いていた。

 

「二週間も持たなかったか」

 

「……はい」

 

 二年待つつもりだったが、まさかの二週間とは。

 

 やはり時系列が意味不明だ。この世界の謎が深まるばかりだった。

 

「『二人とも同時に』です。ご主人さま。あなたは、何者なのでございますですか……?」

 

 怯えを含んだ目を向けられていた。俺は苦笑を返すしかない。

 

 ともあれ、ここからは時間との勝負だ。

 俺は早足で法堂を飛び出すと、まずは関口氏広の部屋に足を運んだ。

 

「なんですか!? まさか夜這い!?」

 

「今川館で変事があった。福島より先に城を抑えねばならん」

 

「……雪斎さまはもう少し情緒というものを解された方がよろしいかと」

 

 不満げな氏広に支度を任せる。

 急がなければならないのは将であって兵ではない。準備と言っても数騎の馬で事足りるだろう。

 

 俺は次に今川義元の寝所に向かった。見張りの小姓が誰何の声を上げ、無礼だと怒鳴り散らしていたが、同行していた道順が背後から首を絞めて制圧していた。

 

「なっ、こんな夜中に何ですの? まさか夜這い!?」と驚いている義元に有無を言わせず今川館で変事があったと伝える。「師匠は情緒というものを理解して欲しいですわ」とブツブツと文句を言っていたが、気にせず引きずっていった。

 

 なぜ二人とも同じ反応をするのか。俺を何だと思っている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 今川家で怪事件があった。

 当主、氏輝が急死したのである。同日、弟の氏豊も死去していた。同時に当主とその予備がいなくなってしまったのだ。

 

 毒物による暗殺が疑わしかったが、真相は不明である。

 

「兄上たちが……そんな……」

 

 俺たちは変事の翌朝には今川館に入城していた。

 

 御殿の仏間には二人の遺体が安置されていた。その前に立って、義元が愕然としている。

 

「雪斎さま。あなたはまさか……」

 

「疑いはもっともだ。そして、私には弁解の言葉はない」

 

 俺に向けて険悪な声を放ったのは関口氏広だった。

 

 この初動の速さについては言い逃れはできなかった。忍を使っているからだと答えても、余計に疑いが増すだけである。暗殺者を送り込むことができると宣言するようなものだ。

 

「雪斎よ。わらわもそなたを疑っておる。身の潔白を証明するなら今しかないぞ」

 

「言葉による弁解など三文の価値もありますまい。武士(もののふ)とは行動によって証を立てるものと存じております」

 

 尼姿の女性、氏親の室である寿桂尼も俺を睨み付けていた。

 

 ともあれ俺たちは遺体の傍で問答をするわけにはいかず、場所を変えて城主の間に入った。当主が座るべき場所は空席である。

 

「……ご報告します。福島正成の手勢が、事件の真相究明のためと称して城に兵を入れさせろと要求してきております」

 

 先代の馬廻だった岡部貞綱が報告する。

 

 高天神城にいるはずの福島正成も、俺と同様に行動が早かった。これで容疑者は二人。やはり問答は無用だった。

 

「……雪斎。わらわの息子たちを始末した下手人探しは、ひとまずは置こう。福島正成の目的とは何ぞや?」

 

「無論、今川館の乗っ取りでしょう。その後すぐに氏親公の長女である玄広恵探を呼び寄せ、家督を簒奪させるつもりかと」

 

「側室の娘ふぜいが、今川の家名を襲うか」

 

 寿桂尼が忌々しげに吐き捨てた。

 福島正成のことも、自分が腹を痛めた息子たちを失ったことも、何もかもが腹立たしいのだろう。もはや彼女の子どもは義元一人しか残っていなかった。

 

「玄広恵探はどうするつもりだ?」

 

「討ちます。そこにいる、今川義元が」

 

「……わたくし、が?」

 

 義元がぎょっとしていた。

 

 出家していた者が還俗したのだ。これをもう一度出家させるなど、あまりにも甘すぎて家来たちから侮られ、今川の統制が乱れるだけである。

 

 だから討つ。新当主の力を誇示するために討たなければならない。

 

 そう言うと、矢面に立たされた義元の肩が揺れた。

 

「義元。私が外道なことを言っているのはわかっている。だが、相手も外道だ。今川当主を謀殺し、新たな当主に己の血を入れて今川を乗っ取ろうとしている。ゆえに討たねばならん。他でもないお主の手によって仇を取らなければならんのだ」

 

「……理屈はわかりますわ。でも、わたくしが姉上を殺すなんて」

 

 無理だ。俺はそう言いかけた義元の手を握りしめた。

 

「お主がやらぬなら、私がやろう。だが、本当にそれでよいのか?」

 

「……師匠。あなたは、ほんとうに、もう」

 

 悲しみに暮れていた義元の顔が、ぐぬぬと歯を食いしばるものに変わって、最後には畳をぶん殴っていた。

 

「ああもう、わかっています! やらなければやられるだけだと! どうせ師匠のことですから、兄二人が死んでもわたくしがまったく悲しんでいないことはとっくにお見通しでしょうね! やりますわ! やればいいんでしょう!?」

 

 キレていた。

 公式行事でしか顔を合わせることがない兄弟たちだ。それが死んだからといって、さめざめと涙することはない。

 その悲しみは、現実を見せ付ければ立ち直れる程度のもの。

 

「よくぞ言った。それでこそ氏親殿の娘ぞ」

 

 寿桂尼は娘を賞賛していた。

 そして次に放った言葉が、俺の今までの疑問をやっと解消させた。

 

「思えば因果なものだ。氏輝とそなたとの関わりが薄かったのは、兄弟殺しを躊躇わぬようにという氏親殿の配慮だったのだ。無論、氏輝のためのものである。それが今や、そなたの役に立っておるとはな」

 

 俺たちは驚いて寿桂尼を見詰めていた。

 

 義元に家族としての情がこれっぽっちも与えられていなかったのは、お家騒動を想定していたからだった。思えば叔父と家督を争った氏親である。邪魔になれば殺せるよう、息子のために策を残していても不思議ではない。

 

「戦国大名とはこういうものぞ。わらわたちを恨んでも構わぬ。それだけのことをしてきたと思っておる」

 

「ご心配なく。関わりが薄すぎて、恨むことすらできませんわ」

 

「……そうか。そうだろうな」

 

 寿桂尼が寂しげに微笑んでいた。

 

 義元は動揺していない。もとより他人のようなもの。「血が繋がっていないと言われるかと思いましたわ」と肩をすくめている。

 

「師匠。策を」

 

「然らば、まずは野良犬を追い払うとしよう」

 

「これは正当防衛ですわね」

 

「いかにも」

 

 俺たちが出会った時のやり取りだった。あの義元がよく覚えていたものだ。

 

「福島討つべし! ですわ!」

 

 義元が号令をかけた。

 

『花倉の乱』が始まろうとしていた。

 

 

 


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