もしも第五次聖杯戦争がクラスカード形式で行われていたら 作:ふりかけ
1
俺が光のなかに伸ばした手は、少女の手甲に覆われた手ではなく、薄く長い一枚のカードを掴み取っていた。
そこに描かれているのは、両手で剣を掲げ持った厳めしいフルメイルの騎士と剣士を意味する「Saber」という文字列だ。
その場に残されていたのはたったそれだけで、ほんの数秒前まで俺の目の前にいた少女は痕跡など一つとして残さず、まるで蜃気楼のように消えてしまっていた。
「一体なにが、どうなって……」
こぼして当然の独り言は、鋭く重い風切り音によってあっけなく阻まれる。
──正面からの、刺突。
それがわかったのは、いわゆる走馬灯というヤツのおかげなんだろうか。ついさっきまでは、地を這う影にさえ追いつけなかった敵の動きが、いまは手に取るように見えていた。
紅い穂先は、俺の心臓に目掛けて放たれている。それを見た途端、消えていた怒りがふたたび湧き上がり、闘争心の火種に火がついた。
「───っ!」
俺は槍から視線を外さないまま、手に握り締めたままの得物──強化魔術を施したポスターを一気に跳ね上げた。
さっきのやり取りでボロボロに折れ曲ってしまったそれは、これできっと粉々になるだろうが、それでも軌道を変えることぐらいは出来る。
つまり、動けなくなるような致命傷は少なくとも避けられる……かもしれない。
まったくノープランもいいところだったが、とにかくいまは生き延びることだけを考えろと自分を叱咤する。
上段に跳ね上がった得物は狙い通り、襲いくる槍の柄を叩いて、心臓を狙う道筋から辛うじて外した──
だけに、留まらず。
あろうことか、敵の武器を軽々と弾き飛ばした。
「なっ───!」
漏れた驚きの声は、果たしてどちらの物か。
自分で言うのもアレだが、俺の使える魔術──『強化』と『投影』は、そこまで磨き上げられた代物ではなかった。ハッキリ言ってしまえば未熟極まりない。
『投影』はガワだけで中身がカラッポという有り様だし、いまはもういなくなってしまった養父の──衛宮切嗣の教えに従って、『強化』だけは鍛練を続けているが……それでも成功率は半分といったところだ。
つまりどちらも、生命を賭けるには少々どころではないくらい心許ない──はず、なのだが。
一瞬の空白が生まれ、最初に目に飛び込んだのは、ガラ空きになった敵の胴体。
正気を先に取り戻したのは、幸運にも俺だった。
「う、ぉおあ───!」
がむしゃらに叫びながら、
敵の胸を、勢いよく蹴りつけた。
「───!」
精々が押し飛ばす程度の効果しかないと思っていた。
いたというのに。
足裏から爆発にも似た轟音が炸裂し、敵の身体は風に吹かれた木の葉のように、土蔵からあっという間に吹き飛ばされた。
静寂が戻って来ても、俺は呆気に取られたままだった。起きた出来事がどうしても現実とは思えなかった。
……ひょっとして夢でも見ているんじゃないだろうか? それとも実はすでに死んでしまっているとか? そんな不吉な考えをよぎらせて、思わず親指と人差し指で頬を強くつねってみる。
「いっ!」
痛い。すごく痛い。めちゃくちゃに痛い。
つねった箇所を優しくさすりながら思う。ということは、少なくとも寝ぼけているわけではないらしい。それじゃあ一体、さっきの光景はなんなのか──
俺がますます疑問を深めていると、指先にかすかな違和感を覚えた。
まるで……鉄で作られた硬いなにかに、包まれているような──
不意にがちゃり、と金属が擦れ合う音が聞こえて、
「……な、んだ。これ……!?」
今度こそ、驚きで思考が止まった。
入り口の上にある小窓から差し込む月光に照らした俺の手は、無骨な鉄の籠手によって隠されていた──いや、手だけではない。
俺の身体はあますことなく、青い布と銀色の鎧に包まれてしまっている───
さらに、先ほど槍を弾き返してくれた、手のなかの頼れる得物。
それは丸めたポスターなどではなく、不可視の繭によって覆われた長剣だった。
「……ヤバい、頭がどうにかなりそうだ」
堪え難い頭痛を抑えるように、自由の利く左手で顔の上半分を隠す。けれど本当は頭痛なんて一つもなかったし、むしろ気持ちいいくらいに澄み切っていた。それが余計に混乱を加速させる。
その時、土蔵の外で誰かが立ち上がろうとしている音が聞こえた。
漆喰を素材とした土蔵の壁はかなりの分厚さを誇っているため、外の音は滅多に聞こえてこない。俺が魔術の修練場としてここを使っているのは、そういう理由もある。
だから、誰かが立ち上がった程度の音なんて、絶対に聞こえて来るはずがないのに──
「───クソ! ダメだダメだっ。考えるのは後にしろっ!」
余分な思考を切り捨てて、口から吐き捨てる形で頭を整理する。とにかくいまはここから離れなくちゃいけない。思考を一色に染め上げながら、土蔵の入り口から飛び出した所に、
振り下ろし。
「ぉ、お───!」
中途半端に避けず、怖気付いて退がらず、覚悟を決めて前進したのが功を奏した。身を低く屈めて、長物を振り回せない至近距離に突入する。
そして踏み込んだ勢いのままに、俺は雄叫びをあげながら振り払うような斬撃を繰り出した。
まったく我ながら見るにたえない──藤ねえが見たら嘆き悲しみ拗ねてしまいそうなぐらい、乱暴で力任せな太刀筋だ。
事実、敵は容易に軌道を見抜くと、即座に槍を引き戻してバックステップ。実に容易くあっけなく回避してみせた。
だが、
その斬撃は、斬撃だけに留まらなかった。
不可視の刀身が風を引き裂きながら進んでいる最中だった。俺と相手との間にあるわずかな隙間に、一瞬のひずみが生み出され、
そして、風が破裂した。
「───!」
巨人に殴り飛ばされたように壮絶な勢いで吹き飛んでいく影を前に──俺は、がむしゃらになって駆け出した。
颶風と化した身体は、数メートルの距離をわずか一秒ほどで打破。一瞬で近づいた女から神速の突きが放たれ、同時に懐へとたどり着いた俺の刃がそれを出迎えた。
互いの一閃。
鋼と鋼が高速でぶつかり合った音が、静かな夜の帳を破き去るかのように燦然と響き渡った。
そして激突は一合だけに留まることなく、二合、三合──と加速度的に積み重なっていく。
二つの刃風が交わり、一つの巨大な塊となって、空気を切り裂きながら目まぐるしく疾走する。切っ先と切っ先が触れるたびに無数の火花が咲き誇り、刃のあげる金切り声にも似た咆哮が辺りに巻き散らされる。
「───ッ!」
振るわれる武器の捌きは、互いに精妙にして豪胆。闘いに次ぐ闘いのなかで生み出された、抗う外敵を完膚なきまでに斬り伏せ、勝利する為の技術の結晶───
それが俺には不思議だった。いや、恐ろしささえ感じていたかもしれない。
校庭での様子を見る限り、女は殺し合いに慣れた様子だった。だから、こうして動けるのもまあ理解できると言えば理解できる。
だけど俺は──衛宮士郎は、いくら魔術を使えるとはいっても、それ以外はなんの変哲もない一般人なのだ。
戦場に身を置いた覚えなんてないし、もちろん誰かと殺し合うまで険悪になったこともない。
戸惑う思考を置き去りにして、俺の身体は絶え間なく闘い続ける。
不安定な姿勢のまま槍を突いた相手よりも、両足をしっかりと踏み込んでいた俺の膂力のほうが今度こそ上をいった。
確かな手応えとともに、轟音を立てて視界の隅に遠ざかっていく槍。俺は振り切ったあとに、柄を握る手の方向を変えて、すぐさま返しの横薙ぎを敵の細い胴に目がけて送る。
しかし女はそれを、弾かれた槍の遠心力を利用した空中への旋転で、見事に回避してみせた。
ぎゅる、と虚空で独楽のように回る女の背中すれすれを、俺の剣はあえなく通り過ぎていく。
「なッ」
驚愕を顕にしている隙をつき、降り立ち背中を向けた敵の脇から伸びるような軌道で放たれた石突きが、俺の鳩尾を鋭く穿った。
鎧越しでも伝わる強大な衝撃に、意識が一瞬掠れる。
その刹那の硬直を、やすやすと見逃すような相手ではなかった。
「シィ───!」
裂帛の気合いが聞こえ──
次の瞬間、俺の身体は遠く離れていた土蔵の壁に叩きつけられていた。
「か───は、ぁ」
まるで先ほどの意趣返しのように、振り向きざまの前蹴り───辛うじて、それだけはわかった。
重量を増した内臓。背中に走る激痛。肺のなかにあった空気が残らず口から吐き出る。上手く呼吸が整えられない。まるで水のなかに沈み込められてしまっているよう──
それでも壁に手をついて、無理やり立ち上がらせた。ぜひぜひ、と咽せつつ、吹き飛んだ方向へと急いで顔を向ける。
距離を取られた。それに──
敵は、まだ健在だ。
いや、それどころか無傷に近い。みっともなく喘いでいる自分とは違って、身体についた砂埃をゆっくりと払い除ける余裕まで見せている。
その物腰は一見すると隙だらけだが、よく目を凝らしてみればいつでも戦闘に移行できる、獣のようなしなやかさが湛えられているのがわかった。
「……なるほど、風を纏った不可視の得物ですか。少々、やり難いですね」
精密な機械を連想させる、ひどく淡々とした口調だった。微塵も揺らがない鉄面皮も相まって、本当のロボットのように見える。
俺は自分にすら見えない切っ先を確かに相手に向けながら、口元の涎をぬぐってひと言だけ尋ねた。
「───アンタ、一体なんなんだ」
「……ふざけているのですか?」
敵は問い掛けに答えることもなく、気に喰わない物を見たように眉間にシワを寄せた。
不機嫌さを隠そうともしないその様子に、自然と俺の言動にもトゲが浮き出る。
「ふざけてるのは、そっちだろっ! いきなり人を刺して──殺しておいて、そりゃあなんなんだって聞きたくもなる……!」
「───では。逆に問いますが、あなたこそなんなのですか?」
手持ち無沙汰になったのか、女は携えた槍を器用に振り回し始めた。
さっきの戦闘で立ち込めた砂埃のなかでも、紅槍は鮮明な輝きを保ち続けている。それは女の意志の揺らぎのなさを示しているように俺には見えた。
「あなたのいまの口振りだと、自分がこの戦争とはまったく無関係の人間だと仰られているように、私には聞こえるのですが……それでは、あなたのその姿は一体なんだというのです?」
そう指摘されたが、こっちこそそれを知りたい。
どうして俺がこんな姿になっているのか。
いつの間にか手に握られていたカードはなんなのか。
そして──一瞬でかき消えた、幻のような金色の少女は、一体。
数え切れないほど疑問の泡が頭に浮かんでは消えて、ふたたび俺の口からこぼれたのは、
「──そんなの、アンタに教える義理はない」
───互いの断絶を示す、決定的な拒絶だった。
当たり前だ。なんてったってこっちは一度、問答無用に殺されてるんだから。和解の余地なんかある訳がない。
「そうでしょう。……元より私とあなたの間に交わせる物は、たった一つしかありません。
言葉ではなく、殺意──それが私たちが互いに交わすべき物です」
相手はその答えを予想していたらしく、振り回していた槍をぴたり、と止めた。
鋒の先にあるのは、俺ではなく地面。沈み込んだ体勢は不動。常に放たれていた殺意が、こちらに無防備に向けられた背筋に収縮していく。
気づく。
あの、構えは───
そして、比喩なく世界が凍りついた。
「ッ───!」
大気に満ちる空気も、魔力も、すべてが分け隔てなく女の持った紅く光る槍に集められていく。
だが、暴力的な勢いでかき集められていく魔力よりも、その最奥に潜む物こそを警戒すべきだと、研ぎ澄まされた俺の直感がけたたましく告げた。
理由も根拠もないそれは、ほとんど予知と言ってもいい直感。
あの槍は。
二度目の死を目前にして、ずきり、と心臓が痛む。いますぐ動いて、何か行動を起こさなければならないことはわかる。
けど、動けなかった。
初めて戦いを目にした時のように、俺はなす術もなく固まるしかなかった。
自分を心底情けなく思っていたとき、ふと心のなかで声が聞こえた。
───こんな物を、誰かにも味わわせるのか?
いいや。
そんなの、許せない。許すなんてできるわけがない。だって俺は正義の味方になりたいんだから。
救いを求めている誰かがいるのなら、必ず立ち上がって助けにいくのが、衛宮士郎の夢だ。もちろん実現不可能だってことは、誰よりも俺自身が一番わかっている。
───誰かを助けるということは、同時に誰かを助けないということでもある。
かつて、爺さんはそう言った。
忘れもしない。真っ暗な夜空に浮かんだ、輝くような月を見て、子供だった俺を諭すかのように、そんなコトを言う自分を後悔するかのように、衛宮切嗣はそう言った。
その様子がたまらなく寂しく見えたから───俺は誓ったのだ。爺さんの夢を叶えると。正義の味方になってみせると。
だから。
恐れを踏み潰し、迷いを噛み切り、躊躇いを投げ捨てて。
俺は、中段に構えた。
「……ほう」
女の目が細められる。てっきり逃げ出すとばかり思っていたと言わんばかりの目に、手足に込められた力がさらに増す。
心臓を狙われている───ならば、好きなだけ狙わせてやればいい。
だが、ただでは済まさせない。狙いがわかっているなら、覚悟はできる。
たとえ相討ちになってでも、ここで仕留めてやる───!
俺の決意に呼応するかのように、風の鞘に包まれた剣がひと際大きな唸りをあげる。緊張感はいよいよ増し、いまにも破裂しかねない巨体に膨れ上がっている。
沈黙は、数秒続き、
そして──
「
女が槍を掲げて、
「お、お────ッ!」
俺が一歩を踏み込んだ。
瞬間だった。
「─── Vier Stil Erschiesung……!」
高らかな詠唱が響き渡り、目映い閃光が視界を一瞬で埋め尽くした。
立ち止まり、咄嗟に目を腕で覆った。続いて、数歩先に突然豪雨が降り注いだような爆音が鳴り響く。
やがて、音と光は止んだが、俺の目のなかにはまだ、磨き抜かれた宝石のような輝きが強く焼き付いたままだった。
「な、にが……」
俺は鼻先に漂う吹き散らされた地面の匂いを怪訝に思いながら、腕をおそるおそると下げる。
そこには、
凛と背筋を伸ばして立つ、真っ赤な背中があった。
「───取り込み中のところ悪いけど、邪魔させてもらうから」
風を孕んでたなびくのは、擦り切れたような赤色の外套。ツーサイドアップに結ばれた髪は夜に溶け込むように黒く、
その姿は、遠目でハッキリと見えなかったもう一つの影──校庭で超常の戦闘を繰り広げていた影の姿によく似ていた。
そして俺は、その背中と声には驚くぐらい覚えがあった。
「……とっ」
遠坂、凛───?
度重なる衝撃のおかげでぱくぱくと口を動かすことしかできない木偶人形となった俺を一瞥だけしてから、遠坂は前に向き直った。
弓矢のように真っ直ぐな視線の先には、乱入者に対して顔を顰めている敵の姿がある。
「なぜ、ここに?」
「ここにいる理由なんてそんなの、聖杯戦争の真っ最中だからに決まってるじゃない。マスター同士が戦うのは当たり前でしょう?」
「……彼との戦闘を邪魔した理由は?」
「さあ? わたしは言うつもりなんかさらさら無いし。あなたが当てられるとは思えないし……そうね、無理やり聞き出してみるってのはどう?
この状況で、そんなことをできる余裕がまだ残っていれば、の話だけど」
そう吐き捨てると、挑発するように遠坂は頭を上に傾けてみせた。
我らが穂群原学園で全校生徒のマドンナ的存在として扱われているとは、とても思えない態度と言動だ。けれど俺には、彼女のその姿は決して装った物ではなく、ありのままを表しているように見えた。
敵は槍を握る手を固まらせたが、なにかに思い当たったようにすぐに力を緩ませた。
「多勢に無勢……と言わせたいのでしょうが、あなたはそこの彼が戦力になると本気で思っているのですか?」
「そこまであなたを見縊ってないわ。けど、役に立ってくれそうな肉壁とは思わない?」
「はあ!?」
ちょっと待て。いま聞いてはならないような言葉を聞いてしまったような……!?
叫んだ俺に構わず、遠坂と女は視線をぶつけ合わせている。
最初に逸らしたのは、相手の方だった。
「──わかりました。ここは大人しく退きましょう。元々、目的は偵察のみでしたから」
「そ、物分かりがよくて助かるわ」
「ですが」
そこで言葉を切った女は、射殺すような目つきをして、
「───次は、必ず仕留めます。それを、お忘れなきように」
確かな重圧を持った言葉を置き去りにして、女は姿を消した。最初に俺を襲ってきたように、音も立てず。
それを見届けたせいで、俺のなかにずっと張り詰めていた緊張の糸が、ぷつん、と音を立てて切れた。
視界が暗闇に呑まれていく。全身の力が博打の金のように溶けていく。なす術もなく身体が仰向けに倒れていく。
「────って、ちょ────え────やくんっ! えみ────!」
なにもかもが遠ざかっていくなかで、いまさらになって気付いた。頭上に広がる夜の空。そこに浮かんだ、満天の月。
ああ、今夜はこんなにも、
月が綺麗な、夜だったのか───
そして、俺の意識は消え失せた。