鬱蒼とした森の奥深く。昼なお暗き山懐に、黒々とした口を開ける洞が一つ。人が隠れ棲むには充分な広がりを持つこの洞穴は、かつては辺りを荒らした悪名高い盗賊の根城であった。だが今や、盗賊などよりも余程恐ろしいものがここには訪れるのだ。
暗がりに佇む黥面文身の男。十二鬼月が一人、猗窩座である。この洞穴は、鬼が陽光を逃れてやり過ごす為のセーフハウスとなっているのだ。鬼殺隊の者は誰もこの場所を知らぬ。鬼を追ってここにたどり着いた隊士達は皆、スシ代わりに鬼の腹へと納められてしまった。
だがデモンスレイヤーは躊躇わぬ!「Wasshoi!」禍々しいシャウトとともに、赤黒の復讐者は決断的に洞穴へと身を躍らせた!着地とともに猗窩座がこちらを振り返った。天井に僅かな隙間でもあるのだろうか、ほんの僅かな明かりが闇の中に鬼と人を浮かび上がらせている。
「まさかここまで追ってこようとはな。茶柱と呼ばれていたか?確かにお前は強者だが…まさか陽光の差さぬこの場所で俺に勝てるとでも?」胸に突き立つ刀を投げ捨て、猗窩座は薄暗い笑みとともに腰を落とす。油断ならぬ闘気の高まり。いつどこに打ち込まれようと崩れぬ、要塞のごとき威圧感だ。
「ネズミめいてコソコソ逃げ回るのは終わりか、猗窩座=サン。陽光の心配はせずともよい。オヌシはカラテで頸を断ち切り、殺す」殺戮者は冷たく言い放った。「貴様ッ!」猗窩座は激発し、咆哮とともに拳を振るう!「破壊殺・砕式!万葉閃柳!」「イヤーッ!」猩々緋砂鉄のブレーサーが軋む!
「誰がいつ貴様から逃げた?俺を動かしたのは太陽だ、貴様などでは断じてない!」「そうか。日を恐れる地虫らしい無様な逃亡だったな」「…殺すッ!もはや鬼になれとは言わぬ、ここで死ね!」「元より鬼になるつもりなどない。オヌシのような惨めな生き物には」
「イヤーッ!」「イヤーッ!」「イヤーッ!」「イヤーッ!」くぐもった打撃音が洞窟中に響き渡る!猗窩座の拳は近寄るものをすべてネギトロにせんばかりの勢いだ。しかしワン・インチ距離を維持せねば頸に届かぬ。デモンスレイヤーはあえて踏み込み、拳を打ち合わせる!ゴジュッポ・ヒャッポ!
だが読者の皆さんはお気づきだろうか?猗窩座の拳が徐々に鋭く、速くなっていることに!「…ヌゥーッ!」赤黒の拳が空を切り、返す拳がメンポを掠める!「無駄だ。貴様の攻撃は最早見切った」これはハッタリだろうか?デモンスレイヤーには分からぬ。分からぬなら拳を振るうほかない!
「イヤーッ!」「イヤーッ!…グワーッ!?」ナムサン!遂に猗窩座の拳が赤黒の影を捕らえ、岩壁へと強かに叩き付ける!「イヤーッ!」ウケミを取り、前転からのチョップ突き!しかし猗窩座の腕がそれを逸らし、デモンスレイヤーの顔面に一撃!「グワーッ!」悶絶!
猗窩座はあえて追撃の手を止めた。「勝負はついたな。大口を叩いた貴様も、杏寿郎も、結局俺には勝てない。人でいるとは、鬼にならぬとはそういうことだ」デモンスレイヤーを見下ろすその瞳には、僅かな憐憫すら浮かべている。「最後の慈悲をくれてやる。お前だけでも鬼にならないか」
「…否。オヌシは何にも勝てていない。私にも、炎柱にもだ」「…何?」猗窩座を見返す復讐者の瞳には、未だ変わらぬ殺意。「杏寿郎は死に体だった。目も骨も内臓も潰れて、万に一つ生き残っても最早剣は振れないだろう。これが負けでなくて何だ?」「炎柱は任を全うした。人を守る任を」
「お前は何の話をしている?」猗窩座の困惑にかまわず復讐者は続ける。「翻ってオヌシはどうだ?誰一人殺しきれず、何も成し遂げていない」デモンスレイヤーは立ち、カラテを構える。「そして、何も為せぬまま死ぬのだ。今、ここで!」「どこまで!減らず口を!」
怒りも露に、猗窩座が大きく腰を落とす。「もういい、終わりだ!死ね!」破壊殺・滅式。猗窩座の脚が丸太めいて膨れ上がり、大地を蹴り砕く!「イイィヤアァーッ!」猗窩座の拳が、デモンスレイヤーの背後にあった岩壁すらも砕き割ってようやく停止する!
…猗窩座が振りぬいた拳の先にデモンスレイヤーの姿はない。まさか、肉片一つ残さず四散してしまったとでもいうのか!?
…否。猗窩座の耳が呼吸音を捕えた。位置は…背後!「スゥーッ!ハァーッ!」デモンスレイヤーが呼吸を深めている!茶の呼吸は己の肉体によるカラテに特化した呼吸。故に他の呼吸とは一線を画した回復力をも併せ持つ。痛みは抑えた。カラテに支障無し!
復讐者に向き直り、術式を展開し直した猗窩座を違和感が襲う。構えが違う。闘気が違う。何より、呼吸が変わっていく。茶の呼吸から、ジゴクの底…ナラクから響くような呼吸音。すなわち、奈落の呼吸へ!そして見よ!デモンスレイヤーの、センコめいて細く、赤く燃える右瞳を!
((フジキド。あの小僧の血鬼術のカラクリは見えたぞ))デモンスレイヤー…フジキドのニューロンに響く声。これこそは、死の淵にあったフジキドの肉体に憑依した不可思議存在、ナラクの声だ!((奴の足元の紋様が殺意を感知する。故にオヌシの攻撃は見切られ、最早通じぬ))
(ならばどうする)((殺意無き攻撃で頸は斬れぬ。ならば殺意を増やせ!儂に身体を分けよ!))デモンスレイヤーは跳躍する!フジキドの意識、ナラクの意識が寸の間同調し、そしてぶれた!「イヤーッ!」「!?グワーッ!」猗窩座の頭部に強烈な蹴り!
(確かに見切ったはず!隠し玉があったところでこんなはずは!)歯を食いしばり耐える猗窩座のニューロンを疑問符が乱舞する。(闘気が読めない!一体…一体『何人いる』!?)「イヤーッ!」「グワーッ!」困惑する猗窩座の胴部に拳!「イヤーッ!」「グワーッ!」左手首がチョップにより切断!
(うろたえるな!予期せぬことでも対処せねばならない、それが戦いだ!)猗窩座は迷いを押し殺し、さらなる構えを取る。最早闘気を当てにはせぬ。再生できる程度の傷は捨て置き、目の前の敵を殺せる技を!「破壊殺・終式!青銀乱残光!イィィヤアァーッ!」
猗窩座の繰り出した技は全方位を覆う無数の拳打。逃れる先はない。こちらも大技で迎え撃つべきか?フジキドのニューロンを師のインストラクションが過る。敵が百発の拳を放つのならば、千発の拳で撃ち落とせばよい!カラテあるのみ!「イヤーッ!」「…アバーッ!」
おお…ゴウランガ!凄絶なる拳の打ち合いののち、立っていたのはデモンスレイヤーだ!無論無傷ではない。しかし全身に傷を刻みながらも、そのチョップはついに猗窩座の頸を捕らえ、刎ね飛ばした!
死を目前にして、猗窩座の心には未だ渇望が燻っていた。目の前の男が見せた絶技を越えて、己はさらなる高みへと至らなければならない。(まだだ。まだ戦える!俺はまだ強くなる!)猗窩座の腕が頸を掴み、切り口へと押し付ける。その頭部を、デモンスレイヤーは容赦なく蹴り飛ばした。
猗窩座の頭部が灰となって崩れ去る。まもなく身体も崩れ去るだろう。本来ならば。だが猗窩座の肉体はなお動き、立ち上がった。(まだだ!まだ終われぬ!)首の断面が再生してゆく。「イヤーッ!」デモンスレイヤーはその再生面に、間髪入れずカラテを叩き込んだ。猗窩座は再び膝をついた。
猗窩座の肉体が立ち上がる。「イヤーッ!」猗窩座の肉体が膝をついた。猗窩座の肉体が立ち上がる。「イヤーッ!」猗窩座の肉体が膝をついた。猗窩座の肉体が立ち上がる。「イヤーッ!」猗窩座の肉体が立ち上がる。「イヤーッ!」猗窩座の肉体が「イヤーッ!」猗窩座の肉「イヤーッ!」
◇◇◇◇
無限に繰り返す痛みの中で、猗窩座はソーマト・リコールめいた幻を見ていた。かつて人だった己の記憶。強くなって…そして、守るはずだった人の記憶。(親父。師範。…恋雪さん)最早何一つ残ってなどいない。強くなる意味など、とうに無かったのだ。
最後に猗窩座が思い出したのは、己の頸を断った殺戮者ではなく、列車の傍らで戦った炎のような男だった。(ああ…俺は既に負けていたのか。)煉獄杏寿郎は守り切った。猗窩座は守れなかった。そう思えば、その敗北はすんなりと猗窩座の胸に落ちてきた。
猗窩座の肉体が膝をついた。もう立ち上がることも、再生することもなかった。気管を通り抜ける空気が、微かに声のようなものを形作った。「恋雪さん」と。それを最後に、猗窩座の肉体は塵へと還った。フジキドは、静かに踵を返した。
誰もいない洞穴に、微かな光が差している。
(「ストレングス・オブ・ワクシング・ムーン、パワー・オブ・ハシラ」#2、おわり。エピローグにつづく)
◇◇◇◇
藤の家紋の屋敷は南向きに門を構えている。その門前を掃き清める千代子の上に影が落ちた。顔を上げてみれば、草色の洋装に身を包んだ六尺近い男がこちらを見下ろしている。「ドーモ」「…どうも」「この人を探しています。見覚えはありませんか?」男は小さな写真を差し出した。
それを見た千代子の身体が少しこわばる。差し出された写真には、特徴的な焔色の炎の男が映っていた。藤の家紋は鬼殺隊に救われた者の証、千代子とてその一人だ。無論見憶えているが、それを目の前の男に伝えてよいのか。日は高く昇っている。少なくとも、鬼ではない。
「すみません。名前をお伺いしても?」「…失礼しました。私立探偵の森田です」千代子は警戒を強める。おそらくは偽名だ。何らかの血鬼術か、あるいは狡猾な鬼の手先やもしれぬ。「残念ですが、私は知りません」「…そうでしたか。ありがとうございます。それでは、これで」
男は踵を返し、立ち去ろうとする。ひそかに胸をなでおろしたのも束の間、千代子の背後からいきなり声が投げられた。この屋敷の主人だ。「ああ、あんた、藤木戸さんじゃないか?」男は立ち止まると、ハンチング帽を深く被りなおした。「いいえ、私は森田です。人違いでしょう」
「そうかい」主人は気にした様子もなく言葉を続ける。「昨日ならね、四人来たよ。四人とも生きてたさ」森田と名乗った男の目が微かに揺らぐ。「まあ、蝶屋敷送りだったがね」「…そうですか。ありがとうございます」
結局、男はそれしか口を利かずに立ち去った。「旦那様、よかったんですか?」「ん?ああ、あの人はいいんだよ」主人は何か知っている風だったが、それ以上は何も言わなかった。人のいなくなった門前を、静かに陽が照らしていた。
「ストレングス・オブ・ワクシング・ムーン、パワー・オブ・ハシラ」、終