夕方に降り始めた雨は、七時を過ぎた頃に激しさを増し、叩きつけるような雨音を響かせていた。
明日の保育園の支度を終え、お気に入りのロケット柄のパジャマに着替えた
「――脩、もう寝る時間だぞ?」
部屋に布団を敷いていたお父さんが優しい口調で言った。時刻は夜の八時十五分。八時には布団に入る約束だから、少し時間を過ぎていることになる。脩は、「はあい」と素直に返事をし、カーテンを閉め、布団の中に入った。お父さんは掛け布団を整えると、脩の頭を撫でた。脩は少しくすぐったげに目を閉じた後、「ねえ、お父さん」と言って、父の顔を見た。
「ん? なんだ?」
「お父さんのお仕事は、宝探しでしょ?」
お父さんはわずかに目を丸くした後、ははは、と笑った。「宝探しか。まあ、そうだな」
「僕も宝探し得意だよ? 今日も、いっぱい見つけたんだ」
「そうか。それはすごいな。じゃあ、今度の日曜に、お父さんと一緒に探そうか?」
「うん!」
元気よく返事をする脩の頭を、お父さんはもう一度撫でる。
脩はさらに言う。「お姉ちゃんも、一緒に宝探しできるといいね」
お父さんは、もう一度笑ってくれる――そう思っていたが。
お父さんの顔から、急に笑みが消えた。
「……ああ、そうだな……」
目を逸らし、声も暗くなる。
何か、いけないことを言っただろうか? 怒られるかもしれない。怒った時のお父さんは怖い。先に謝った方がいいのだろうか? 悪いことをしても、素直に謝ると、お父さんは許してくれる。でも、何が悪いのか判らないまま謝ったときは、許してくれない。残念ながら、今どうしてお父さんが怒っているのかは判らない。
だが、お父さんはすぐに元の笑顔に戻ると、「じゃあ、お休み」と言って、立ち上がった。良かった。お父さんは別に怒っていなかったんだ。そう思い、脩は、「うん、おやすみなさい」と、笑顔で答えた。
お父さんは明かりを消し、部屋を出た。足音が遠ざかり、やがて聞こえなくなる。部屋は、雨音が響くだけになった。
――あしたは、お姉ちゃんと一緒に、また宝探しできるといいな。
脩は明日も雨が降っていることを願いつつ、眠りについた。
日本近海にある小さな島・
――お姉ちゃんは、人魚姫。
脩は、そう信じている。
美しい人魚の少女が、人間の王子に恋をし、魔女から貰った薬で人間となって王子の元へ向かう、世界的に有名な童話だ。脩のお気に入りの絵本でもある。岩場の波打ち際に倒れていた少女は、海から来たに違いない。少女は生まれて一度も陽の光を浴びたことがないのではと思うほど、真っ白な肌をしていた。その肌を守るかのように、少女は陽の光にあたるのを嫌った。日中は家に閉じこもっており、外に出るのは夜や雨の日など、太陽が見えない時に限られた。家にいる時も、カーテンは閉め切り、電気さえ点けない暗い部屋で過ごしていた。そういう普通の人と違った行動をする点も、海の底に住んでいた人魚だから、と、脩は思っている。
脩はまだ四歳の子供だ。人魚が実在すると思っていても不思議はない。童話のような出来事が実際に起きると信じていても、子供ならごく普通のことだ。だから、行き倒れの少女を警察にも届けず一緒に暮らし始めたことにも、何の疑問も抱いていない。そういうものだと思っていたのだ。
そして。
なぜ、お姉ちゃんは雨の日や夜でないと外に出ないのか、なぜ、お姉ちゃんの話をすると父が渋い顔をするのか。
その理由を考えることもない。そういうものだと、なんとなく思っていた。
お父さんの悲鳴が聞こえた――ような気がした。
初めは、夢を見ていると思った。ぼんやりとした意識の中で、いろいろな音が聞こえてくる。玄関の戸を激しくたたく音。「開けろ!」「出てこい!」と数人の男が怒鳴る声。無理矢理戸をこじ開けるような音。驚く声。そして、がちゃん、と、ガラスが割れる音。
そこで、脩はようやく目を覚ました。いま聞いていた音や声は、夢だったのか、現実だったのか、すぐには判らなかった。
だが、部屋の外から、「奥だ!」「逃がすな!」「追え!」と、何人もの男の人の声が聞こえ、夢ではないと気がついた。
この部屋の下、一階の玄関だろう。男たちの怒声と共に、がたがたと荒々しく床を踏みしめる音がした。
だが、しばらくすると急に静かになった。屋根と窓に降る雨の音が響くのみである。さっきの声の人たちは、出ていったのだろうか?
脩は、ゆっくりと布団から出ると、襖を開けた。部屋を出てすぐに階段があり、下りた先が玄関だ。廊下に出て、一階の様子をそっとうかがう。玄関の明かりは点いている。人の気配は、ない。
「――お父さん? お姉ちゃん?」
一階にいるであろう二人を、恐る恐る呼んでみるが、返事は無かった。
どうしよう? と、脩は考えた。なんだかすごく怖い感じがする。脩はまだ四歳だが、一人で寝ることができるし、夜中に一人でトイレに行くこともできる。どちらも、お姉ちゃんと暮らしはじめてからできるようになった。それまではお父さんがそばにいないと眠れず、一緒でないとトイレにも行けなかったが、お姉ちゃんに、「男の子なら、それくらい一人でできなきゃダメよ?」と言われ、やらなきゃいけないと思った。お姉ちゃんに言われると、不思議と勇気が湧いてきた。もう、一人で眠るのも、一人でトイレに行くのも、怖くない。だが、いま階段を下りて行くことは、ものすごく怖いことのように思えた。このまま布団に戻り、眠ってしまえば、朝には何事もなく目が覚め、お父さんとお姉ちゃんと一緒に朝ごはんを食べ、保育園に行ってみんなと遊べるかもしれない。
いや。
なぜだろう? 脩は、もうそんないつもの一日は来ないんじゃないかという気がした。
――脩、勇気を出して。
お姉ちゃんの声が聞こえた気がした。
脩は、勇気を出して、階段を下りて行った。
普段から、階段を下りる時は急いではいけない、と、お父さんから言われている。急ぐと、転んで怪我をするから。だから、手すりをしっかりと持って、いつも以上に気を付けて、下りて行く。
――めいふくだり。
ふと、その言葉を思い出す。
少し前の雨の日、お姉ちゃんと外で宝探しをしていたとき、そう言っていた。宝物を全部見つけたら、めいふくだりをするの、と。意味は判らなかったけれど、なんだかすごく怖い言葉だった。きっと、今みたいに恐ろしい場所へ向かうことを、めいふくだりと言うのだろう。そんなことを思う。
脩は、一段一段しっかりと階段を踏みしめ、一階まで下りた。
そこに、お父さんがいた。
玄関に頭を向け、仰向けで、大きく目を見開いたとても怖い顔で、倒れていた。胸や腹が赤く染まっている。床には、同じ色の水溜りが広がっている。あれは、血だろうか? たくさん血が流れると死ぬ、ということを、脩はまだ知らない。ただ、転んだりして怪我をすると、血が出て、とても痛い、ということは知っていた。あんなにたくさん血が出たらものすごく痛い、ということは判った。
「お父さん。大丈夫?」
返事はない。だから、もう一度声をかけた。今度は腕を持って揺すってみた。それでも、お父さんは返事をしない。
「お父さん、起きてよ。お父さん」
何度も呼びかけ、何度も揺する。日曜の朝、お父さんはなかなか起きない。また、お酒をたくさん飲んだ日は、布団に入らずそのまま寝てしまうこともある。そんなときでも、お父さんを呼んで、腕を揺らせば、すぐに目を覚まして、返事をしてくれた。
でも、今は。
「お父さん! お父さん! お父さん!!」
どんなに声をかけても、どんなに腕を揺すっても、お父さんは怖い顔のまま返事をしない。たくさん血を流したまま動かない。それがとても恐ろしくて、怖くて、何度も何度もお父さんを呼び、腕を揺する。
ふと、玄関に、誰かいることに気がついた。
見ると、大きな犬を連れた知らない男の人が立っていた。
脩は――。
――お姉ちゃん! 助けて!
とっさに、お姉ちゃんがいる奥の部屋へ向かって逃げ出した。