三沢岳明は、古いアパートの部屋にいた。
夏の夕方だった。西日が射し込み、部屋の中は燃えているかのように赤い。あるいは、血に染まっているようにも見えた。窓も、ドアも、隙間なく閉ざされている。エアコンはついているが、吐き出されるのは冷風ではなく温風だった。その真下に、古いメカ式の扇風機が置かれ、強風で室内の空気をかきまわしていた。部屋の中央にはこたつが置かれている。布団は掛けられておらず、赤々と燃えるヒーターが丸見えだった。こたつの上には黒電話が置かれ、けたたましいベルの音を鳴り響かせている。三沢は、自衛隊支給の迷彩服を着て、黒電話の前に正座していた。全身から汗が噴き出すが、それは決して部屋の暑さによるものではない。三沢の目は、正面の電話ではなく、左手側の押し入れのふすまに向けられていた。ガタガタと激しく揺れている。エアコンや扇風機の風が当たっているわけではない。閉め切っていたふすまがわずかに開き、隙間から、小さな手が出てきた。子供の手だ。焼け焦げたかのように黒くくすんでいた。だが、それは焦げているのではなく、泥にまみれているのだということに、三沢は気付いていた。手はふすまのふちを持ち、開けようとしている。しかし、何かに引っかかっているのか、開かない。ふすまがガタガタと揺れる。三沢が見つめる。見ちゃだめ……。誰かに言われた気がした。少女の声だった。誰かは判らないが、その声に従うことにした。ふすまから目を逸らす。黒電話が鳴る。こたつが赤々と燃える。扇風機が空気をかきまわす。エアコンが熱風を吐き出す。西日が射し込む。夏の夕方。ふすまはガタガタ揺れている。横目で見た。ふすまはさっきよりわずかに開いていた。その隙間から見える押し入れの中は、底しれぬ深い闇だった。見ちゃだめ。また誰かに言われた。目を逸らす。ふすまがガタガタと揺れる。電話が鳴る。汗が噴き出す。電話が鳴る。電話が鳴る。汗が噴き出す。電話が鳴る。ふすまが揺れる。見ちゃだめ。電話が鳴る。ふすまがガタガタと揺れる。ふすまがガタガタと揺れる。ふすまがガタガタと揺れる。
耐えきれず。
三沢は立ち上がると、押し入れの前にしゃがみ、ふすまに手をかけた。
なににも引っかかることなく、ふすまは静かに開いた。
押し入れの中には、何もいなかった。ふすまに引っ掛かるものも、小さな黒い手の主も、底知れぬ闇も、なにも。
西日はいつの間にかやわらかな光へと変わっていた。エアコンからは涼風がそよぎ、扇風機も微風で部屋の空気を循環させる。こたつのヒーターは外され、電話も鳴りやんでいた。
三沢は安堵の息を吐いた。
その、背後で。
泥まみれの幼女が立ち、三沢を見つめていた。
幼女は、音もなく顔を近づけ、そして。
「……見ちゃだめって言ったのに。これで、おじさんも……になっちゃったね」
耳元でささやいた。
その瞬間。
何も無かった押し入れが、底知れぬ闇と化した。その闇の中から泥まみれの黒い手が伸びてきて、三沢の腕を掴んだ。それが、ものすごい力で引っ張る。押し入れの中に引きずり込もうとする。足を踏ん張り、抵抗する三沢。押し入れの中からもう一本手が伸びて来て、反対側の腕を掴んだ。引きずり込もうとする。抗う。さらに手が伸びてきて、三沢の足を掴んだ。さらに手が伸びてくる、今度は首を掴まれた。さらに手が伸びる、手が伸びる。手が、手が、手が……いくつもの手が三沢を掴む。闇に引きずり込まれる。
三沢は――。
絶叫と共に、三沢は跳ねるほどの勢いで起き上がった。
森の中だった。すぐに状況を思い出す。ここが夜見島だということを。ヘリのトラブルで不時着したことを。そして、自分と永井以外の隊員は死んだが、
三沢は周囲を見回した。森は荒れておらず、とても津波に襲われた後とは思えなかった。あの津波にはまるで現実味が無かった。幻の津波だということを、三沢は直感的に悟っていた。
時計を確認すると、一時を少し過ぎたところだった。一時間以上意識を失っていたことになる。そばに落ちていた小銃を取り、周囲を注意深く探る。ライトは点けていないにも関わらず、うっすらと明るかった。少し離れたところに永井が倒れていた。津波に襲われる直前に出会った若い男女の姿は無かった。
背後に、嫌な気配を感じた。
泥まみれの幼女のことが頭をよぎったが、振り返っても、そこには夜の森が広がるだけだ。
ただ。
森の向こうの空が、わずかに明るくなっていた。地上に何か光源があり、それが空を照らしているかのようだ。もちろん、夜見島への電力供給は断たれているため、空を照らすほどの明かりがあるはずもないのだが。
夢で見た少女のことを思い出した。この二年の間、毎日のように夢に現れる少女。三沢を闇に引きずり込もうとするいくつもの手。そして、少女がささやく言葉。これでおじさんも……になっちゃったね。
三沢は。
――異界、か。
直感的に、そう悟っていた。